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いつでもそばにいるよ。  作者: 大和麻也
全部春のせいにできたなら
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「だから、見ないでって言ったのに」


 彼女の言う通りだった。

 俺は見てはいけないものを見てしまった。

 ちょっとやりすぎたくらいのイタズラでも、いつもなら、彼女は怒ることもなく、困ったように笑って渋々許してくれただろう。いまもそういう表情で俺を見る。しかし、それは許しを意味しない。彼女を見る目は決定的に変わってしまうし、彼女から向けられるまなざしもいままでと同じではありえないだろう。

 俺を責めた彼女の言葉には、一生の宝物を失ったのと同じ重みがある。

 心臓を吐き出してしまったのだろうか、自分の鼓動が感じられなくて、いまここにいるのが自分自身でないかのように思えてくる。他者の秘密に土足で踏み込んだことへの代償とは、信頼を失うことではなく、この深くて痛い、窒息してしまいそうになる苦しさなのだ。

 つぼみをたたえた桜の枝が揺れる向こう側に、信号の赤色が見える。

 それが青になった瞬間、俺は手にしていたそれを放り投げ、横断歩道を走った。



 後悔先に立たず、とはよく言ったものだと思う。

 とある外国の政情不安のあおりを受けて、原料や部品を調達できなくなり、急遽職場が二日連続で操業停止になった昼下がり。自分より「上」のスーツを着た人たちが新たなルートを大急ぎで探しているあいだ、手当の発生する自由な時間を持て余していた。

 手当を渋らない職場を選べたことは幸運だったが、生産ラインに慣れた身体は、ソファで横になっているだけで一日を終えることができなくなっていた。

 そうして俺は後悔している。開花が発表されたという報せをテレビで見ただけで、近場の桜はどうだろうかと、ふらりと家を出てしまったのだ。五分も歩いていれば、ろくなことがない。行き違う年寄りや子どもは穀潰しを見る目で俺をちらちらと見てくるし、花粉が目や鼻をくすぐって洪水を誘発するし、うっかり来たくもなかった交差点に来てしまい、赤信号にも止められる。

 しかも、この交差点を敬遠するきっかけを作った張本人と出くわすことになるとは。

「あの、もしかして……栃尾(とちお)くん?」

 背後から声をかけてきたのは、紫の振袖を身に纏った華美な装いの同級生。

「――やっぱりそうだ」俺の顔を覗きこむ顔は、人違いでないと気づくや否や、桃色に華やいだ。「久しぶりだね」

 彼女の言う通り、会うのは久しぶりだった。最後に顔を見たのは何年前だったか――でも、愛嬌以外に褒めるところがないのっぺりとした顔や、捨てられた子犬のような瞳は、その当時からさほど変わっていない。

「……久しぶりだな、赤松(あかまつ)

 ここで人違いのふりをしなかったことが吉と出るか凶と出るか。

 後悔は、先には立たない。



 入学式は退屈だった。ぶかぶかの制服に疲れたから、小さい机と椅子に座らせていないで、早く帰らせてほしい。

 田舎の学校だから、生徒の点呼には時間がかからないほうなのだろう。テレビで見る都会の学校の入学式には、何百人という制服の集団が映っているのを見たことがある。この中学校には二校の小学校を卒業した生徒が通うらしいが、俺の通っていなかったほうの小学校は、何年かすると俺の通った小学校に統合されて、廃校になると聞いている。

 そんな田舎の付き合いは、これからも小学校のころから続く関係が残っていくだろう。自己紹介をしたところで、一日二日で馴染めるわけがない。現に俺は、隣でプリントの枚数の確認に追われる女子生徒が何という名前だったか思い出せない。彼女の声が小さかったせいでもあるが、それ以上に興味がわかないからだ。

 少なくとも、黒板の前に緊張して立つ姿や伏し目がちで何を考えているのか一見わからない表情を見たところ、おとなしく物静かな女子なのだろうとはわかる。俺と仲良くしたり、反対に喧嘩したりするクチではなさそうだ。名前を覚えなくてもなんとかなる。

「では、またあした」

 ビール腹の担任教師がようやく入学式の一日を切り上げた。立ち上がって伸びをしていると、教員が「そうだ」と思い出す。

「赤松、ちょっとだけ一緒に職員室に来てほしい」

 初日から呼び出しか。

 俺もよく呼び出される側だから、職員室に、しかも初っ端から呼び出されるのがどういう人間なのかは容易に想像がつく。よっぽど悪い奴か、よっぽどのバカだ。

「あ、はい」

 返事をしたのは隣の席の女だった。

 なるほど、相当なバカのようだ。



「昔のままの顔だったから、すぐ気がついたよ」

 ころころと笑う赤松と向かい合って、場末の喫茶店の席に座ったのは、道端で出くわした翌日のことだった。会ったその日は二、三言葉を交わしたくらいですぐに別れたのだが、去り際、改めてお茶でもしながら話そうと提案され、再会した場所が場所だったものだから、無下にできず承諾していた。

 座席は窓際。手入れの荒い桜並木から、いくつかの桜色を咲かせた枝が垂れ下がって風に揺れるのを眺める席だ。

 俺が彼女に遅れて椅子を引いたとき、最初の話題はいかに俺が昔のままかという話だった。

「顔は変わっていると思うけど」

「そう? そんなことないよ。七年前もそのままだった」

 彼女は、七年前、という具体的な数字をすらりと述べた。それが初めピンと来なくて、指を折って数えてみる。中学二年を最後に会っていないのだから……うん、たぶん七年前で間違いない。

「私はどう? 変わった?」

 赤松はベージュのブラウスにオレンジ色の長いスカートを身に纏う。きのうの豪華な振袖姿とは打って変わって落ち着いた恰好に、垢抜けているな、と素直に感心してしまう。顔は昔と全然違わないというのに。

「俺としては変わっていないと言いたいが、変わったと言わせたいんだな?」

「あ、その通り。髪を染めたり、ピアスしたり、派手にしていた時期もあったから」

 俺は三日連続の休業手当を喜ぶ工場の従業員だが、彼女はつい先日まで東京で大学生をしていた。きのう振袖を着て歩いていたのは、母の振袖を着て、地元の写真館で卒業記念の写真を撮っていたのだそうだ。地元に戻ってきたのは先月とのことで、卒業式の日を除いてずっとこちらで過ごしていたという。

「振袖を着るために黒く染め直したのか」

「まあね、茶髪だと似合わないと思って。それに仕事のことを考えたら黒にしておかないと。ちょっと寂しかったけれどね、茶髪は東京で闘ってきた証みたいなものだから」

「そういうものか」

「そういうものだよ。大学って思っていたより男社会で、武装するくらいじゃないと舐められちゃうもん。男も女も計算高くて、油断ならない」

 東京を知っている俺ではないが、そういうものとは思えない。より正確にいえば、一般にそうだったとしても、彼女はそうではない、と半ば願うように思っていた。

 こんなに喋る彼女ではなかったはずだという違和感が胸の奥で渦巻く。

「いまだって厚化粧でしょ?」

「化粧して来てくれるとは思っていなかった」

 数秒の沈黙。

 視線を交わす不安に耐えかねて、何の気なく、というふうを装って窓の外で揺れる桜の枝を見つめる。



 赤松が気になる存在になるまでは、そう時間はかからなかった。

 入学式初日から頭の悪い奴なのだろうとアタリを付けてはいたが、それ以上だった。想像を絶していて、笑いを堪えるのが大変でさえあった。

「……とい、う……と、きに……ええと」

 漢字がまるで読めないのだ。

 何度も何度も引っかかる。

 国語の授業で音読をするよう指示されると、それは明らかになる。立ち上がって読みはじめようとするのだが、まず読みはじめるのに苦労する。どこを読めばいいのかわかっていないのだ。先生が歩み寄ってきて、教科書のここだと指し示すまで、彼女は全然違うところから読みはじめたり、意味不明なことを言いはじめたりする。読みはじめても、読めるのはひらがなだけで、漢字――それがたとえ、小学一年生でさえ読めるような文字であっても――に当たるたびに言葉が詰まってしまう。ひらがなだって、読み続けているうちに変な発音になって、最後には理解不能な文章になる。

 何度も何度も詰まるので、二、三分もかかって一行を読み切ったところで、先生は別の生徒を指名する。するとその生徒はこう言うのが決まりだった――「先生、どこまで読んだかわかりません」

 それだけでも教室のあちこちからクスクスと笑いが起きるのだが、隣の席の俺は、もうひとつ面白い光景を見ることができる。

 赤松が「やりきった」という顔でほっと息をつく瞬間だ。

 全然ダメじゃん、読めてないんだけど。

「壊れたラジオでももっと聞きやすいよ」

 隣の席のひとりにだけ聞こえるように呟くと、そいつは黙って困ったように笑うだけで、怒るどころか悲しむこともない。

 日本語もろくに読み書きできないバカだから、言い返す言葉も思い浮かばないのだろう。



 ちょうど、注文していたコーヒーが届けられて沈黙の理由を与えてくれる。店員が去れば、会話は仕切り直しだ。

「そういえば、仕事って何だ? こっちで働くのか?」

 先ほど彼女は、仕事も髪の色を黒くする理由のひとつだと言った。

 すると彼女は、照れた色と自慢げな色とが混じった声で答える。

「先生になるの、中学校の。母校ではないけれど、実家から通えるから」

「教員!」

 声が大きくなった。

 人格としては申し分ないかもしれないが、人前に立って勉強を教える仕事が赤松に向いているとは思えない。子ども相手でも注目を浴びることに耐えられる図太さはなさそうだし、激務と聞く仕事をこなす体力がその細い身体にはなさそうだ。それ以前に、彼女の中学生当時の成績からすれば、その職に就いたと聞いた者は誰だって仰天するに違いない。

「驚くよね。大学に通っていたことだって意外だったんじゃないかな」

 自然、背筋が伸びる。

「驚いたのは確かだが……いや、いい仕事だと思う。せっかく大学に行ったなら、そういう仕事に就くのが一番だ」

「……そうかもね」

 お茶を濁すのは、俺の言葉が彼女にとって不都合だったからなのか、俺自身にとって不都合だったからなのか。おそらくは両方だ。

 軽率な発言を詫びる代わりに、彼女に問う。

「どうして教師になろうと思ったんだ?」

「憧れている先生がいるから」

 ごくありふれた動機。かといって、それ以上のものは必要ないのだろう。俺だって、就職面接のときに志望動機を問われてどう答えたか、初任給をもらうときには忘れていた。

「それって、漆原(うるしはら)か?」

 一年のときに担任だった数学教師だ。中年太りの男で、数学の指導は熱が入りすぎて鬱陶しいこともあったが、時には俺の悪ふざけにも付き合ってくれる、気のいい奴だった。

 しかし、俺の予想は外れた。ううん、と彼女は首を横に振る。

楠本(くすもと)先生」

 耳を疑った。

 中学二年のクラスの担任だった。つい数か月前まで大学生だった新任教師で、授業もホームルームもたじたじ、失敗を繰り返しては、先輩教師からも小言を言われる有様。なよなよしていて危なっかしい彼は、応援してやろうという気にはなったかもしれないが、決して尊敬される教師ではなかったし、俺はあまり好かなかった。

 俺の表情に赤松も気がついた。

「これも意外な話だった? 憶えているでしょ?」

 言葉を返さない俺に対し赤松が念を押しすると、そのたった一言で俺は納得した。思い出す必要もない、憶えているのだから。そうだ、彼女は楠本を尊敬してもおかしくはない。俺はそれをわかっていて、忘れようと、忘れたことにしようとしていたのだ。

 そう思うと、途端に彼女の言葉が俺を叱責するものに感じられて、居心地が悪くなった。しかし、ここで席を立ってしまえば、俺は成長していないことになる。

「悪かった、俺は後悔するまでわからないバカだったんだ」

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