第九話 「赤黒い焔」
第九話 「赤黒い焔」
朝の祝詞を終えても、父は昨夜のことに一切触れなかった。
「……行ってまいります。」
「……気を付けなさい。」
いつもとは違う一言に、瑞稀は思わず振り返る。
けれど父は、すでに拝殿の奥へ戻っていた。
◇
石段の下では、旭が待っていた。
瑞稀の姿を見るなり、その表情が僅かに曇る。
「……顔色が悪い。」
瑞稀は少し間を置いてから、静かに答えた。
「大丈夫です。」
短いやり取りだけで、旭はそれ以上何も尋ねなかった。
ただ隣に並び、瑞稀の歩幅に合わせて歩き始める。
何も言わずにいてくれる、その距離が今はありがたかった。
◇
昼過ぎ、窓際の席にいた瑞稀は、ふと遠くから向けられるような気配を感じた。
窓の外、隣町の方角。
空の一点だけが、血を滲ませたような赤黒い色に染まっている。
やがて、その赤は地上へ向かって伸び、天を貫く一本の柱となった。
燃え上がる、赤黒い焔。
見つめているだけで、胸の奥がざわつく。
――あれは、普通ではない。
それでも、教室にいる誰も気づいていない。
周囲では、いつもと変わらない喧騒が続いていた。
「……旭。」
小さく名を呼ぶと、旭もすでに窓の外を見つめていた。
その表情は、硬く強張っている。
「……見えているのですね。」
「ああ。」
二人は、僅かに視線を交わした。
それだけで、何をすべきかは伝わっていた。
◇
二人は保健室で体調不良を訴え、学校を早退した。
芽衣には、後で連絡するとだけ伝えてある。
赤黒い柱が伸びていたのは、山際に建つ小さな神社だった。
普段は人の訪れることも少ない、鄙びた社。
長い石段を上りきり、旭が鳥居へ手をかけた、その瞬間だった。
――ふつり、と。
背後から、すべての音が消えた。
蝉の声も、風に揺れる葉の音も聞こえない。
まるで、この場所だけが世界から切り離されたようだった。
次の瞬間、焼け焦げた匂いが鼻を突いた。
瑞稀が顔を上げると、空は燃えるような赤に染まり、地面は黒く焼け、社殿は炭のように朽ち果てていた。
ここはもう、現世ではない。
息をするだけで、喉の奥まで焼けそうなほど熱かった。
「……酷いな。」
旭が刀の柄へ手をかける。
木々があったはずの場所には、焼け焦げた影だけが幾つも立ち並んでいた。
その中心に、それは立っていた。
◇
炎を纏う、巨大な人影。
猿田毘古の荒魂とは異なり、その身体ははっきりと人の形を保っている。
赤く爛れた肌に、燃え盛る髪。
纏う気配は明らかに人のものではなかったが、その瞳だけは奇妙なほど正気を宿していた。
『……客か。』
低く、はっきりとした声が響く。
言葉を話す荒魂を前に、瑞稀は息を呑んだ。
「……お話ができるのですか。」
『話せぬと、思ったか。』
荒魂は、口元を歪める。
『我は、ただ――止まらぬだけだ。』
愉快そうに笑っている。
けれど、その笑みに理性の欠片はなく、あるのは燃え続ける狂気だけだった。
「下がってろ。」
旭が瑞稀の前へ進み出る。
その身体を、青白い雷光が駆け抜けた。
「――行くぞ。」
旭が地を蹴る。
一閃。
雷を纏った刃が、荒魂の腕を鋭く斬り裂いた。
しかし傷口から噴き出したのは血ではなく、激しく燃え上がる炎だった。
『効かぬよ。』
『我は、燃え続けるために生まれた。』
荒魂の傷が、炎に包まれながら塞がっていく。
『炎は死なん。』
振り抜かれた拳が、旭を弾き飛ばした。
「ぐっ……!」
旭は体勢を崩しながらも空中で身を捻り、地面へ着地して踏み留まる。
「……負けるか。」
再び地を蹴り、一閃、二閃、三閃と刀を振るう。
青白い雷光が、幾度も炎の身体を斬り裂いた。
だが、切り離された箇所は炎となって揺らぎ、次の瞬間には元の姿へ戻ってしまう。
「……再生しています。」
瑞稀は、両手で槍を強く握り締めた。
けれど、猿田毘古の時のように、言葉が心へ浮かんでこない。
目の前の神が、何を思い、何に苦しんでいるのか。
自分が何を鎮めればよいのか、まだ分からなかった。
◇
荒魂が再び踏み込み、炎を纏った拳を旭へ振り下ろす。
「――ッ!」
旭は刀で受け止めた。
激しい衝撃とともに地面が抉れ、その足が少しずつ黒い大地へ沈んでいく。
「くそ……!」
歯を食いしばり、旭は刀へさらに強い雷を纏わせる。
それでも、荒魂を包む炎は少しも衰えなかった。
「旭!」
瑞稀が思わず名を呼ぶ。
荒魂の拳が旭の肩を掠め、制服の肩口が炎に焼かれた。
旭の身体が大きく揺らぐ。
「……このままでは。」
瑞稀の胸に、初めてはっきりとした恐怖が生まれた。
勝てない。
そう理解した瞬間、荒魂が低く嗤う。
『無駄だ。』
『我を止められる者など、どこにもいない。』
荒魂は両腕を広げた。
『見ろ。』
『これが、我を止められぬ理由だ。』
黒く焼けた大地が、大きく割れる。
幾筋もの亀裂から真紅の炎が噴き上がり、神社そのものを呑み込んでいく。
空も、大地も、社殿も、すべてが炎に包まれていた。
その光景を前にして、瑞稀は初めて悟った。
――これが、神の荒魂。
敵として立っているのではない。
存在そのものが、災害なのだ。
赤黒い炎はさらに大きく膨れ上がり、世界のすべてを焼き尽くすように、夕暮れの空を染めていった。
第九話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。




