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第九話 「赤黒い焔」

第九話 「赤黒い焔」


朝の祝詞を終えても、父は昨夜のことに一切触れなかった。


「……行ってまいります。」


「……気を付けなさい。」


いつもとは違う一言に、瑞稀は思わず振り返る。


けれど父は、すでに拝殿の奥へ戻っていた。



石段の下では、旭が待っていた。


瑞稀の姿を見るなり、その表情が僅かに曇る。


「……顔色が悪い。」


瑞稀は少し間を置いてから、静かに答えた。


「大丈夫です。」


短いやり取りだけで、旭はそれ以上何も尋ねなかった。


ただ隣に並び、瑞稀の歩幅に合わせて歩き始める。


何も言わずにいてくれる、その距離が今はありがたかった。



昼過ぎ、窓際の席にいた瑞稀は、ふと遠くから向けられるような気配を感じた。


窓の外、隣町の方角。


空の一点だけが、血を滲ませたような赤黒い色に染まっている。


やがて、その赤は地上へ向かって伸び、天を貫く一本の柱となった。


燃え上がる、赤黒い焔。


見つめているだけで、胸の奥がざわつく。


――あれは、普通ではない。


それでも、教室にいる誰も気づいていない。


周囲では、いつもと変わらない喧騒が続いていた。


「……旭。」


小さく名を呼ぶと、旭もすでに窓の外を見つめていた。


その表情は、硬く強張っている。


「……見えているのですね。」


「ああ。」


二人は、僅かに視線を交わした。


それだけで、何をすべきかは伝わっていた。



二人は保健室で体調不良を訴え、学校を早退した。


芽衣には、後で連絡するとだけ伝えてある。


赤黒い柱が伸びていたのは、山際に建つ小さな神社だった。


普段は人の訪れることも少ない、鄙びた社。


長い石段を上りきり、旭が鳥居へ手をかけた、その瞬間だった。


――ふつり、と。


背後から、すべての音が消えた。


蝉の声も、風に揺れる葉の音も聞こえない。


まるで、この場所だけが世界から切り離されたようだった。


次の瞬間、焼け焦げた匂いが鼻を突いた。


瑞稀が顔を上げると、空は燃えるような赤に染まり、地面は黒く焼け、社殿は炭のように朽ち果てていた。


ここはもう、現世ではない。


息をするだけで、喉の奥まで焼けそうなほど熱かった。


「……酷いな。」


旭が刀の柄へ手をかける。


木々があったはずの場所には、焼け焦げた影だけが幾つも立ち並んでいた。


その中心に、それは立っていた。



炎を纏う、巨大な人影。


猿田毘古の荒魂とは異なり、その身体ははっきりと人の形を保っている。


赤く爛れた肌に、燃え盛る髪。


纏う気配は明らかに人のものではなかったが、その瞳だけは奇妙なほど正気を宿していた。


『……客か。』


低く、はっきりとした声が響く。


言葉を話す荒魂を前に、瑞稀は息を呑んだ。


「……お話ができるのですか。」


『話せぬと、思ったか。』


荒魂は、口元を歪める。


『我は、ただ――止まらぬだけだ。』


愉快そうに笑っている。


けれど、その笑みに理性の欠片はなく、あるのは燃え続ける狂気だけだった。


「下がってろ。」


旭が瑞稀の前へ進み出る。


その身体を、青白い雷光が駆け抜けた。


「――行くぞ。」


旭が地を蹴る。


一閃。


雷を纏った刃が、荒魂の腕を鋭く斬り裂いた。


しかし傷口から噴き出したのは血ではなく、激しく燃え上がる炎だった。


『効かぬよ。』


『我は、燃え続けるために生まれた。』


荒魂の傷が、炎に包まれながら塞がっていく。


『炎は死なん。』


振り抜かれた拳が、旭を弾き飛ばした。


「ぐっ……!」


旭は体勢を崩しながらも空中で身を捻り、地面へ着地して踏み留まる。


「……負けるか。」


再び地を蹴り、一閃、二閃、三閃と刀を振るう。


青白い雷光が、幾度も炎の身体を斬り裂いた。


だが、切り離された箇所は炎となって揺らぎ、次の瞬間には元の姿へ戻ってしまう。


「……再生しています。」


瑞稀は、両手で槍を強く握り締めた。


けれど、猿田毘古(さるたひこ)の時のように、言葉が心へ浮かんでこない。


目の前の神が、何を思い、何に苦しんでいるのか。


自分が何を鎮めればよいのか、まだ分からなかった。



荒魂が再び踏み込み、炎を纏った拳を旭へ振り下ろす。


「――ッ!」


旭は刀で受け止めた。


激しい衝撃とともに地面が抉れ、その足が少しずつ黒い大地へ沈んでいく。


「くそ……!」


歯を食いしばり、旭は刀へさらに強い雷を纏わせる。


それでも、荒魂を包む炎は少しも衰えなかった。


「旭!」


瑞稀が思わず名を呼ぶ。


荒魂の拳が旭の肩を掠め、制服の肩口が炎に焼かれた。


旭の身体が大きく揺らぐ。


「……このままでは。」


瑞稀の胸に、初めてはっきりとした恐怖が生まれた。


勝てない。


そう理解した瞬間、荒魂が低く嗤う。


『無駄だ。』


『我を止められる者など、どこにもいない。』


荒魂は両腕を広げた。


『見ろ。』


『これが、我を止められぬ理由だ。』


黒く焼けた大地が、大きく割れる。


幾筋もの亀裂から真紅の炎が噴き上がり、神社そのものを呑み込んでいく。


空も、大地も、社殿も、すべてが炎に包まれていた。


その光景を前にして、瑞稀は初めて悟った。


――これが、神の荒魂。


敵として立っているのではない。


存在そのものが、災害なのだ。


赤黒い炎はさらに大きく膨れ上がり、世界のすべてを焼き尽くすように、夕暮れの空を染めていった。

第九話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

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