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第八話 「鏡の記憶」

第八話 「鏡の記憶」


その夜も、眠りは浅かった。


――誰かが、呼んでいる。



瑞稀は自然と目を覚ました。


まだ、夜明け前だった。


布団を抜け出して廊下へ出ると、冷たい板の間が足の裏に沁みる。


本殿は、いつも固く閉ざされていた。


父以外は、立ち入ることを許されていない場所。


けれど今夜は、御扉(みとびら)が僅かに開き、その隙間から淡い光が漏れていた。


瑞稀は、しばらくその光を見つめる。


行くべきではない。


父から、固く禁じられている。


それでも、足を止めることはできなかった。



御扉を開くと、社殿の奥に一枚の鏡が祀られていた。


花里家に代々伝わる、御神体。


高天原の八咫の鏡(やたのかがみ)とつながっているとされる、形代(かたしろ)だった。


その鏡が、今は淡い光を放っている。


瑞稀は吸い寄せられるように歩み寄った。


鏡面には、自分の姿ではない、別の光景が揺らめいている。


「……これは。」


瑞稀の指先が鏡へ触れた瞬間、視界が光に呑み込まれた。



気づくと、瑞稀は光に満ちた場所へ立っていた。


足元には、雲のような白い地面が広がり、遠くには大きな鳥居が見える。


高天原。


誰かに教えられたわけでもないのに、そう直感した。


少し離れた場所には、二つの人影があった。


一人は、白い衣を纏った女性。


もう一人は、光そのもののような神々しさを纏う女神――天照大神(あまてらすおおみかみ)


そして、白い衣を纏った女性の横顔を見た瞬間、瑞稀の胸が強く締め付けられた。


知っている。


そう思った。


けれど、どこで見たのかも、誰なのかも、すぐには思い出せない。


顔立ちは霞がかかったように曖昧なのに、その人を見つめているだけで、どうしようもなく懐かしかった。


やがて、女性が僅かに顔を上げる。


その声を聞いた瞬間、瑞稀の唇から、無意識に言葉が零れた。


「……母様。」


けれど、その声は届かない。


これは現実ではない。


誰かが過去に見た、記憶の中の光景だった。


『――このままでは、遅すぎます。』


母の声が、震えている。


『現世に、真実を伝えるべきです。』


『荒魂を、いつまで抑えられるか分かりません。』


天照大神は、静かに首を横へ振った。


『知れば、人は再び力を求め、争うでしょう。』


『同じ過ちを、繰り返すだけです。』


『それでも――』


母が、一歩前へ出る。


『それでも、知る権利があります。』


『特に、あの子には。』


瑞稀の胸が、大きく跳ねた。


あの子。


不思議と、その言葉が自分へ向けられたものだと分かった。


理由は分からない。


それでも、胸が強く締め付けられる。


天照大神は、しばらく沈黙していた。


やがて静かに目を伏せる。


『……あなたの気持ちは、よく分かります。』


『けれど、私にはまだ、決めることができません。』


天照大神は、静かに空を見上げた。


『時が満ちるまで。』


母が何かを言おうとした。


けれど天照大神は、その言葉を待たずに背を向ける。


『……少し、一人にしてください。』


『考える時間が、必要なのです。』


天照大神は、静かに岩戸へ向かって歩き始めた。


「……そんな。」


瑞稀は、思わず声を上げていた。


その時、天照大神が、ふとこちらを見たような気がした。


目が合った。


そんなはずはない。


これは、過去の記憶なのだから。


周囲を満たしていた光が、急速に翳っていく。


高天原全体が闇へ沈み、遠くから無数の悲鳴にも似た、神々の狼狽える声が響いてきた。


空間には、幾つもの亀裂が走っていく。


その隙間から黒い(もや)が噴き出し、獣のような、人のような、歪な影へと形を変えながら、次々と光の裂け目へ吸い込まれていった。


――それでも、現世を照らすただ一筋の光は消えない。


その光は、現世(うつしよ)へ向かって伸びている。


そう理解した瞬間、母の悲痛な声が響いた。


『天照様……!』


『まだ、封印が――』


景色が、大きく歪んだ。



「……っ!」


瑞稀は大きく息を吸い込み、我に返った。


目の前にあるのは、すでに光を失った、ただの銅鏡だった。


膝から力が抜け、冷たい床へ崩れ落ちる。


荒い呼吸だけが、静かな社殿へ響いた。


「今のは……。」


母の声。


天照大神の沈黙。


そして、溢れ出した無数の荒魂。


すべてが今起きたことのように、鮮明に胸の内へ残っている。


「……瑞稀?」


背後から声が聞こえた。


振り返ると、父が戸口に立っていた。


その顔からは、血の気が引いている。


「お前、何を……。」


父は、鏡と瑞稀を交互に見た。


「見たのか。」


短い問いだった。


瑞稀は、震える声で答える。


「母様と、天照様を。」


「天照様が、再びお隠れになった場面を見ました。」


父の顔が、大きく歪んだ。


それは瑞稀が初めて見る表情で、恐れにも、怒りにも見えた。


「……なぜだ。」


父は、誰にともなく呟く。


「なぜ今、それを見せた……。」


瑞稀は、苦しげな父の横顔を見つめた。


「父様は、知っていたのですか。」


「天照様が、再びお隠れになったことを。」


父は答えなかった。


ただ鏡を見つめたまま、長い間動かなかった。

第八話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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