第八話 「鏡の記憶」
第八話 「鏡の記憶」
その夜も、眠りは浅かった。
――誰かが、呼んでいる。
◇
瑞稀は自然と目を覚ました。
まだ、夜明け前だった。
布団を抜け出して廊下へ出ると、冷たい板の間が足の裏に沁みる。
本殿は、いつも固く閉ざされていた。
父以外は、立ち入ることを許されていない場所。
けれど今夜は、御扉が僅かに開き、その隙間から淡い光が漏れていた。
瑞稀は、しばらくその光を見つめる。
行くべきではない。
父から、固く禁じられている。
それでも、足を止めることはできなかった。
◇
御扉を開くと、社殿の奥に一枚の鏡が祀られていた。
花里家に代々伝わる、御神体。
高天原の八咫の鏡とつながっているとされる、形代だった。
その鏡が、今は淡い光を放っている。
瑞稀は吸い寄せられるように歩み寄った。
鏡面には、自分の姿ではない、別の光景が揺らめいている。
「……これは。」
瑞稀の指先が鏡へ触れた瞬間、視界が光に呑み込まれた。
◇
気づくと、瑞稀は光に満ちた場所へ立っていた。
足元には、雲のような白い地面が広がり、遠くには大きな鳥居が見える。
高天原。
誰かに教えられたわけでもないのに、そう直感した。
少し離れた場所には、二つの人影があった。
一人は、白い衣を纏った女性。
もう一人は、光そのもののような神々しさを纏う女神――天照大神。
そして、白い衣を纏った女性の横顔を見た瞬間、瑞稀の胸が強く締め付けられた。
知っている。
そう思った。
けれど、どこで見たのかも、誰なのかも、すぐには思い出せない。
顔立ちは霞がかかったように曖昧なのに、その人を見つめているだけで、どうしようもなく懐かしかった。
やがて、女性が僅かに顔を上げる。
その声を聞いた瞬間、瑞稀の唇から、無意識に言葉が零れた。
「……母様。」
けれど、その声は届かない。
これは現実ではない。
誰かが過去に見た、記憶の中の光景だった。
『――このままでは、遅すぎます。』
母の声が、震えている。
『現世に、真実を伝えるべきです。』
『荒魂を、いつまで抑えられるか分かりません。』
天照大神は、静かに首を横へ振った。
『知れば、人は再び力を求め、争うでしょう。』
『同じ過ちを、繰り返すだけです。』
『それでも――』
母が、一歩前へ出る。
『それでも、知る権利があります。』
『特に、あの子には。』
瑞稀の胸が、大きく跳ねた。
あの子。
不思議と、その言葉が自分へ向けられたものだと分かった。
理由は分からない。
それでも、胸が強く締め付けられる。
天照大神は、しばらく沈黙していた。
やがて静かに目を伏せる。
『……あなたの気持ちは、よく分かります。』
『けれど、私にはまだ、決めることができません。』
天照大神は、静かに空を見上げた。
『時が満ちるまで。』
母が何かを言おうとした。
けれど天照大神は、その言葉を待たずに背を向ける。
『……少し、一人にしてください。』
『考える時間が、必要なのです。』
天照大神は、静かに岩戸へ向かって歩き始めた。
「……そんな。」
瑞稀は、思わず声を上げていた。
その時、天照大神が、ふとこちらを見たような気がした。
目が合った。
そんなはずはない。
これは、過去の記憶なのだから。
周囲を満たしていた光が、急速に翳っていく。
高天原全体が闇へ沈み、遠くから無数の悲鳴にも似た、神々の狼狽える声が響いてきた。
空間には、幾つもの亀裂が走っていく。
その隙間から黒い靄が噴き出し、獣のような、人のような、歪な影へと形を変えながら、次々と光の裂け目へ吸い込まれていった。
――それでも、現世を照らすただ一筋の光は消えない。
その光は、現世へ向かって伸びている。
そう理解した瞬間、母の悲痛な声が響いた。
『天照様……!』
『まだ、封印が――』
景色が、大きく歪んだ。
◇
「……っ!」
瑞稀は大きく息を吸い込み、我に返った。
目の前にあるのは、すでに光を失った、ただの銅鏡だった。
膝から力が抜け、冷たい床へ崩れ落ちる。
荒い呼吸だけが、静かな社殿へ響いた。
「今のは……。」
母の声。
天照大神の沈黙。
そして、溢れ出した無数の荒魂。
すべてが今起きたことのように、鮮明に胸の内へ残っている。
「……瑞稀?」
背後から声が聞こえた。
振り返ると、父が戸口に立っていた。
その顔からは、血の気が引いている。
「お前、何を……。」
父は、鏡と瑞稀を交互に見た。
「見たのか。」
短い問いだった。
瑞稀は、震える声で答える。
「母様と、天照様を。」
「天照様が、再びお隠れになった場面を見ました。」
父の顔が、大きく歪んだ。
それは瑞稀が初めて見る表情で、恐れにも、怒りにも見えた。
「……なぜだ。」
父は、誰にともなく呟く。
「なぜ今、それを見せた……。」
瑞稀は、苦しげな父の横顔を見つめた。
「父様は、知っていたのですか。」
「天照様が、再びお隠れになったことを。」
父は答えなかった。
ただ鏡を見つめたまま、長い間動かなかった。
第八話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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