第七話 「宇迦之御魂」
第七話 「宇迦之御魂」
眠れないまま、朝を迎えた。
布団を畳む手は、いつもより重い。
鏡に映る顔は、昨日までと何も変わらない。
けれど、目の奥だけが妙に冴えていた。
◇
祝詞を奏上する声も、どこか上の空だった。
父は、昨夜のことには一切触れない。
「……行ってまいります。」
「ああ。」
交わした言葉は、それだけだった。
◇
石段の下では、旭が待っていた。
「……。」
「はよ。」
「……おはようございます。」
旭は、瑞稀の顔をじっと見つめた。
「……眠れなかったのか。」
「いえ。」
短く否定すると、旭は僅かに間を置いた。
「そうか。」
それ以上は尋ねず、ただ瑞稀の隣を歩き始める。
何も言わないその優しさが、今日は少しだけ胸に沁みた。
◇
「瑞稀ー!」
芽衣の呼ぶ声にも、瑞稀は反応しなかった。
「瑞稀。」
旭が顔の前で手を振る。
その声で、ようやく意識が戻った。
「……申し訳ありません。」
旭は何かを言いかけたが、やがて口を閉じた。
「……いや、何でもない。」
授業を進める教師の声も、芽衣の賑やかな笑い声も、どこか遠くから聞こえてくるようだった。
放課後になっても、瑞稀の中で答えは出ないままだった。
◇
夜の境内には、虫の音だけが響いていた。
瑞稀は縁側に座り、昨夜と同じ場所――鳥居を見つめている。
もう一度、あの声を聞きたい。
そう願った時だった。
――チリン。
澄んだ音が、すぐ近くで鳴った。
「……!」
振り返ると、いつの間にか隣に誰かが座っていた。
「あなたは……!」
月明かりに照らされた、白い狐のような耳と大きな尾。
長い袖を持つ、白と朱の装束。
人の姿をしているのに、纏う気配は明らかに人のものではなかった。
それが僅かに顔を傾けると、狐耳の根元に下がった鈴飾りが小さく揺れた。
――チリン。
「……あなたが、昨夜の。」
『ようやく、まともに顔を見ることができたのう。』
声は、鳥居で聞いたものと同じだった。
けれど今は頭の中へ直接響くのではなく、確かに耳へ届いている。
柔らかく、どこか呆れたような響きだった。
『こんなに顔色を悪くして。きちんと眠っておるのかい?』
「……申し訳ありません。」
『謝る必要はないよ。心配しておるだけさ。』
「……あなたは、どなたなのですか。」
狐の姿をした女神は、目を細めて微笑んだ。
『我が名は、宇迦之御魂。』
『稲荷と呼ぶ者もおるな。』
瑞稀は、その名を胸の内で繰り返した。
「昨夜から、私を見ていらしたのですか。」
『昨夜からではない。誰よりも近くで、ずっと見ておった。』
「私を……?」
『ああ。お主が生まれた日から、ずっとな。』
宇迦之御魂の表情に、僅かな寂しさが滲む。
『神は、人が自ら願うより先に、その歩む道へ手を出してはならぬ。』
『我らの力は、人の一生を容易に変えてしまう。』
『ゆえに、知っていても告げられぬことがあった。手を伸ばしたくとも、伸ばせぬ時があった。』
『それが、神々の掟だ。』
『けれど、もはや黙って見ているわけにはいかなくなった。』
宇迦之御魂は、静かに空を見上げる。
瑞稀も、その視線を追った。
夜空に、変わったところは何もない。
それでも、宇迦之御魂の表情は硬いままだった。
『封印の軋みは、お主が思うよりも早く広がっておる。』
『各地では、神々が今も封印を支え続けている。だが、その力も尽きようとしておる。』
宇迦之御魂は、一度言葉を切った。
『お主の母君も、その一人だ。』
『母君は今も、一柱の神を支えておる。』
「母は……。」
『まだ無事だ。』
その言葉に、瑞稀の胸が僅かに緩む。
けれど、宇迦之御魂の表情は変わらない。
『だが、このままでは――』
その先を告げることなく、宇迦之御魂は口を閉ざした。
瑞稀は、膝の上で両手を握り締める。
「私に、何かできることはありますか。」
『ある。』
宇迦之御魂は、迷わず答えた。
『お主が、より多くの神と契りを結ぶこと。』
『その歩みは、必ず母君へ届く。』
瑞稀は、静かにその言葉を受け止めた。
『怖くはないか。』
少し考えてから、瑞稀は首を横へ振る。
「分かりません。」
恐ろしいのか、そうではないのか、自分でもまだ理解できない。
それでも、心の内にある思いだけは、言葉にすることができた。
「ですが、何もしないでいる方が怖いです。」
僅かな沈黙の後、宇迦之御魂は小さく笑った。
『何もしないでいる方が怖い、か。』
その眼差しが、穏やかに細められる。
『……良い顔になったのう。』
「え……?」
『以前のお主なら、そのようには答えなかった。』
『少し、変わったな。』
瑞稀は、その言葉にどう答えればよいのか分からなかった。
ただ、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
『焦らずともよい。』
『お主の歩幅で、進めばよいのだ。』
宇迦之御魂は、瑞稀を見つめて微笑んだ。
『我は、いつでもお主の傍におる。』
そう告げると、宇迦之御魂は静かに立ち上がった。
狐耳の根元に下がった鈴飾りが、また小さく鳴る。
――チリン。
「……また。」
瑞稀は一度言葉を止め、それから宇迦之御魂を見上げた。
「また、お会いできますか。」
宇迦之御魂の耳が、僅かに垂れる。
ほんの一瞬、その表情へ寂しげな色が過ぎった。
『呼べば、参ろう。』
『お主が、心から望んだ時にな。』
その姿は白い光の粒となり、静かに夜の中へ溶けていった。
最後まで、鈴飾りの音だけが名残を惜しむように響いていた。
◇
一人になった縁側で、瑞稀はしばらく夜空を見上げていた。
母は、まだ無事。
その一言だけで、少しだけ息がしやすくなった気がする。
そして、もっと力が欲しいと思った。
それは誰かに与えられた言葉ではない。
初めて、自分の心から生まれた願いだった。
母を守りたい。
その思いが、胸の奥で静かに灯っている。
瑞稀は立ち上がり、自室へ戻った。
布団へ入ると、今夜は不思議なほど早く眠気が訪れた。
第七話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。




