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第七話 「宇迦之御魂」

第七話 「宇迦之御魂」


眠れないまま、朝を迎えた。


布団を畳む手は、いつもより重い。


鏡に映る顔は、昨日までと何も変わらない。


けれど、目の奥だけが妙に冴えていた。



祝詞を奏上する声も、どこか上の空だった。


父は、昨夜のことには一切触れない。


「……行ってまいります。」


「ああ。」


交わした言葉は、それだけだった。



石段の下では、旭が待っていた。


「……。」


「はよ。」


「……おはようございます。」


旭は、瑞稀の顔をじっと見つめた。


「……眠れなかったのか。」


「いえ。」


短く否定すると、旭は僅かに間を置いた。


「そうか。」


それ以上は尋ねず、ただ瑞稀の隣を歩き始める。


何も言わないその優しさが、今日は少しだけ胸に沁みた。



「瑞稀ー!」


芽衣の呼ぶ声にも、瑞稀は反応しなかった。


「瑞稀。」


旭が顔の前で手を振る。


その声で、ようやく意識が戻った。


「……申し訳ありません。」


旭は何かを言いかけたが、やがて口を閉じた。


「……いや、何でもない。」


授業を進める教師の声も、芽衣の賑やかな笑い声も、どこか遠くから聞こえてくるようだった。


放課後になっても、瑞稀の中で答えは出ないままだった。



夜の境内には、虫の音だけが響いていた。


瑞稀は縁側に座り、昨夜と同じ場所――鳥居を見つめている。


もう一度、あの声を聞きたい。


そう願った時だった。


――チリン。


澄んだ音が、すぐ近くで鳴った。


「……!」


振り返ると、いつの間にか隣に誰かが座っていた。


「あなたは……!」


月明かりに照らされた、白い狐のような耳と大きな尾。


長い袖を持つ、白と朱の装束。


人の姿をしているのに、纏う気配は明らかに人のものではなかった。


それが僅かに顔を傾けると、狐耳の根元に下がった鈴飾りが小さく揺れた。


――チリン。


「……あなたが、昨夜の。」


『ようやく、まともに顔を見ることができたのう。』


声は、鳥居で聞いたものと同じだった。


けれど今は頭の中へ直接響くのではなく、確かに耳へ届いている。


柔らかく、どこか呆れたような響きだった。


『こんなに顔色を悪くして。きちんと眠っておるのかい?』


「……申し訳ありません。」


『謝る必要はないよ。心配しておるだけさ。』


「……あなたは、どなたなのですか。」


狐の姿をした女神は、目を細めて微笑んだ。


『我が名は、宇迦之御魂(うかのみたま)。』


稲荷(いなり)と呼ぶ者もおるな。』


瑞稀は、その名を胸の内で繰り返した。


「昨夜から、私を見ていらしたのですか。」


『昨夜からではない。誰よりも近くで、ずっと見ておった。』


「私を……?」


『ああ。お主が生まれた日から、ずっとな。』


宇迦之御魂の表情に、僅かな寂しさが滲む。


『神は、人が自ら願うより先に、その歩む道へ手を出してはならぬ。』


『我らの力は、人の一生を容易に変えてしまう。』


『ゆえに、知っていても告げられぬことがあった。手を伸ばしたくとも、伸ばせぬ時があった。』


『それが、神々の掟だ。』


『けれど、もはや黙って見ているわけにはいかなくなった。』


宇迦之御魂は、静かに空を見上げる。


瑞稀も、その視線を追った。


夜空に、変わったところは何もない。


それでも、宇迦之御魂の表情は硬いままだった。


『封印の軋みは、お主が思うよりも早く広がっておる。』


『各地では、神々が今も封印を支え続けている。だが、その力も尽きようとしておる。』


宇迦之御魂は、一度言葉を切った。


『お主の母君も、その一人だ。』


『母君は今も、一柱の神を支えておる。』


「母は……。」


『まだ無事だ。』


その言葉に、瑞稀の胸が僅かに緩む。


けれど、宇迦之御魂の表情は変わらない。


『だが、このままでは――』


その先を告げることなく、宇迦之御魂は口を閉ざした。


瑞稀は、膝の上で両手を握り締める。


「私に、何かできることはありますか。」


『ある。』


宇迦之御魂は、迷わず答えた。


『お主が、より多くの神と契りを結ぶこと。』


『その歩みは、必ず母君へ届く。』


瑞稀は、静かにその言葉を受け止めた。


『怖くはないか。』


少し考えてから、瑞稀は首を横へ振る。


「分かりません。」


恐ろしいのか、そうではないのか、自分でもまだ理解できない。


それでも、心の内にある思いだけは、言葉にすることができた。


「ですが、何もしないでいる方が怖いです。」


僅かな沈黙の後、宇迦之御魂は小さく笑った。


『何もしないでいる方が怖い、か。』


その眼差しが、穏やかに細められる。


『……良い顔になったのう。』


「え……?」


『以前のお主なら、そのようには答えなかった。』


『少し、変わったな。』


瑞稀は、その言葉にどう答えればよいのか分からなかった。


ただ、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。


『焦らずともよい。』


『お主の歩幅で、進めばよいのだ。』


宇迦之御魂は、瑞稀を見つめて微笑んだ。


『我は、いつでもお主の傍におる。』


そう告げると、宇迦之御魂は静かに立ち上がった。


狐耳の根元に下がった鈴飾りが、また小さく鳴る。


――チリン。


「……また。」


瑞稀は一度言葉を止め、それから宇迦之御魂を見上げた。


「また、お会いできますか。」


宇迦之御魂の耳が、僅かに垂れる。


ほんの一瞬、その表情へ寂しげな色が過ぎった。


『呼べば、参ろう。』


『お主が、心から望んだ時にな。』


その姿は白い光の粒となり、静かに夜の中へ溶けていった。


最後まで、鈴飾りの音だけが名残を惜しむように響いていた。



一人になった縁側で、瑞稀はしばらく夜空を見上げていた。


母は、まだ無事。


その一言だけで、少しだけ息がしやすくなった気がする。


そして、もっと力が欲しいと思った。


それは誰かに与えられた言葉ではない。


初めて、自分の心から生まれた願いだった。


母を守りたい。


その思いが、胸の奥で静かに灯っている。


瑞稀は立ち上がり、自室へ戻った。


布団へ入ると、今夜は不思議なほど早く眠気が訪れた。

第七話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

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