第六話 「鳥居の影」
第六話 「鳥居の影」
祭りへ誘われてから、数日が過ぎた。
日常は変わらず続いている。
けれど瑞稀の中では、何かが少しずつ変わり始めていた。
◇
放課後、瑞稀は旭とともに拝殿へ向かった。
父――宮司は、祭壇の前で書き物をしていた。
二人の足音に気づき、筆を止める。
「どうした。」
「父様、お話があります。」
父は瑞稀を見たあと、その隣に立つ旭へ視線を移した。
「二人揃ってとは、珍しいな。」
瑞稀は、膝の上で指先を重ねる。
芽衣に誘われた時よりも、胸の内が僅かに落ち着かなかった。
「来週、隣町で祭りがあるそうです。」
「ああ。」
「芽衣に、三人で行かないかと誘われました。」
父は何も言わず、瑞稀の続きを待っている。
「……私も、行きたいと思っています。」
口にしてから、それが自分の中にあった感情なのだと、瑞稀は初めてはっきりと理解した。
父の目が、僅かに細められる。
「そうか。」
短い返事だった。
けれど、すぐに許しの言葉は返ってこない。
父は筆を置き、二人へ向き直った。
「祭りの夜は、神々の力が満ちる。荒魂も動きやすくなる。」
瑞稀が答えに詰まっていると、旭が一歩前へ出る。
「だからこそ、行くべきです。」
父の視線が旭へ向いた。
「祭りの夜に荒魂が現れる可能性があるなら、俺たちがその場にいた方が、異変にも早く気づけます。」
瑞稀も、旭に続いた。
「何かが起きたとしても、手遅れになる前に気づくことができます。」
「俺が、瑞稀の傍を離れません。」
父はしばらく旭を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……屁理屈だな。」
「ですが、間違ってはいません。」
父は再び瑞稀へ視線を移す。
「危険があると分かっていても、行きたいのか。」
瑞稀は、今度は迷わなかった。
「はい。」
短い、けれど初めて、自分の意思で出した答えだった。
父は一度目を閉じ、再び開く。
「……分かった。」
瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。
「行ってきなさい。ただし、何かあれば即座に退くこと。必ず旭とともに行動しなさい。」
「はい。」
瑞稀は深く頭を下げた。
隣で旭が、小さく息を吐くのが分かった。
◇
父への話を終え、瑞稀は旭とともに拝殿を出た。
二人は並んで、石段の下まで歩く。
「……ありがとうございます。」
「ああ。」
そっけない返事だった。
けれど瑞稀には、その声がいつもより僅かに柔らかく聞こえた。
石段の下で、旭とはいつものように別れる。
「また明日、学校で。」
「おう。」
旭の背中を見送ってから、瑞稀は再び石段を上り、鳥居をくぐった。
◇
夕餉を終えた後、瑞稀は一人で境内を掃いていた。
竹箒が石畳を擦る音だけが、静かな夜へ響いている。
ふと、その手が止まった。
誰かに見られている。
そう感じて顔を上げると、鳥居の下に一つの人影が立っていた。
逆光に紛れ、顔は見えない。
けれど、そこに纏う気配は人のものではなかった。
「……どなたですか。」
声をかけても、返事はない。
人影は、ただじっと瑞稀を見つめている。
瑞稀は竹箒を置き、一歩近づいた。
風もないのに、鳥居から下がる紙垂が静かに揺れる。
――チリン。
微かな音が、耳を掠めた。
さらに一歩近づくと、人影の輪郭が次第にはっきりしていく。
頭の両側に見える、獣の耳にも似た白い形。
それが揺れるたび、澄んだ音が小さく鳴っているようだった。
「……あなたは。」
その瞬間、低く静かな声が響いた。
耳から聞こえるというより、頭の中へ直接届くような声だった。
――急ぎなさい。
瑞稀は息を呑む。
「何を……。」
――母君が、危うい。
その一言に、心臓が大きく跳ねた。
「母が……? どういうことですか。」
問い返そうとした時には、もう遅かった。
人影は煙のように輪郭を失い、夜の中へ溶けていく。
最後に鈴の音だけが尾を引くように残り、やがて消えた。
「待ってください……!」
瑞稀は鳥居へ駆け寄る。
けれど、その下にはもう誰もいなかった。
ただ、紙垂だけが静かに揺れていた。
◇
瑞稀は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
母が危うい。
行方不明のはずの母。
顔さえ、はっきりとは思い出せない母。
それなのに、今の一言だけで、胸の奥が強く締め付けられた。
自分でも、その感覚の名が分からない。
ただ、放ってはおけない。
そう強く感じていた。
◇
拝殿には、まだ灯りが点いていた。
父は今夜も、祭壇の前にいる。
瑞稀は迷いながらも、静かに口を開いた。
「父様。」
「……どうした、こんな時間に。」
父が振り返る。
「母は、天照様とともにいるのですよね。」
父の手が止まった。
長い沈黙の後、父は静かに息を吐く。
「……何を見た。」
瑞稀は、鳥居での出来事を話すべきか迷った。
けれど父の表情は、すでに何かを察しているようだった。
「鳥居の下に、誰かが立っていました。」
「その方が、母が危ういと。」
父の目が、僅かに揺れる。
これまで、瑞稀が見たことのない表情だった。
「……そうか。」
父は低く呟いた。
「ついに、動き出したか。」
瑞稀は、父をまっすぐに見つめる。
「教えてください。母に、何が起きているのですか。」
父はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと祭壇へ向き直る。
「今夜は、もう休みなさい。」
「話すべき時が来れば、必ず話す。」
「父様。」
「今は、まだだ。」
父は、それ以上何も答えなかった。
瑞稀は静かに頭を下げ、拝殿を後にする。
戸口で振り返ると、父の背中はいつもよりずっと小さく見えた。
◇
布団へ入っても、眠気は訪れなかった。
鳥居に立っていた、あの気配。
獣の耳のように見えた、白い輪郭。
――母君が、危うい。
その声だけが、何度も胸の内で繰り返されている。
瑞稀は天井を見つめたまま、静かに呟いた。
「私に、何ができるのでしょうか。」
答える者は、誰もいなかった。
ただ遠くで一度だけ、鈴の音が鳴ったような気がした。
第六話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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