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第六話 「鳥居の影」

第六話 「鳥居の影」


祭りへ誘われてから、数日が過ぎた。


日常は変わらず続いている。


けれど瑞稀の中では、何かが少しずつ変わり始めていた。



放課後、瑞稀は旭とともに拝殿へ向かった。


父――宮司は、祭壇の前で書き物をしていた。


二人の足音に気づき、筆を止める。


「どうした。」


「父様、お話があります。」


父は瑞稀を見たあと、その隣に立つ旭へ視線を移した。


「二人揃ってとは、珍しいな。」


瑞稀は、膝の上で指先を重ねる。


芽衣に誘われた時よりも、胸の内が僅かに落ち着かなかった。


「来週、隣町で祭りがあるそうです。」


「ああ。」


「芽衣に、三人で行かないかと誘われました。」


父は何も言わず、瑞稀の続きを待っている。


「……私も、行きたいと思っています。」


口にしてから、それが自分の中にあった感情なのだと、瑞稀は初めてはっきりと理解した。


父の目が、僅かに細められる。


「そうか。」


短い返事だった。


けれど、すぐに許しの言葉は返ってこない。


父は筆を置き、二人へ向き直った。


「祭りの夜は、神々の力が満ちる。荒魂も動きやすくなる。」


瑞稀が答えに詰まっていると、旭が一歩前へ出る。


「だからこそ、行くべきです。」


父の視線が旭へ向いた。


「祭りの夜に荒魂が現れる可能性があるなら、俺たちがその場にいた方が、異変にも早く気づけます。」


瑞稀も、旭に続いた。


「何かが起きたとしても、手遅れになる前に気づくことができます。」


「俺が、瑞稀の傍を離れません。」


父はしばらく旭を見つめ、やがて小さく息を吐いた。


「……屁理屈だな。」


「ですが、間違ってはいません。」


父は再び瑞稀へ視線を移す。


「危険があると分かっていても、行きたいのか。」


瑞稀は、今度は迷わなかった。


「はい。」


短い、けれど初めて、自分の意思で出した答えだった。


父は一度目を閉じ、再び開く。


「……分かった。」


瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。


「行ってきなさい。ただし、何かあれば即座に退くこと。必ず旭とともに行動しなさい。」


「はい。」


瑞稀は深く頭を下げた。


隣で旭が、小さく息を吐くのが分かった。



父への話を終え、瑞稀は旭とともに拝殿を出た。


二人は並んで、石段の下まで歩く。


「……ありがとうございます。」


「ああ。」


そっけない返事だった。


けれど瑞稀には、その声がいつもより僅かに柔らかく聞こえた。


石段の下で、旭とはいつものように別れる。


「また明日、学校で。」


「おう。」


旭の背中を見送ってから、瑞稀は再び石段を上り、鳥居をくぐった。



夕餉を終えた後、瑞稀は一人で境内を掃いていた。


竹箒が石畳を擦る音だけが、静かな夜へ響いている。


ふと、その手が止まった。


誰かに見られている。


そう感じて顔を上げると、鳥居の下に一つの人影が立っていた。


逆光に紛れ、顔は見えない。


けれど、そこに纏う気配は人のものではなかった。


「……どなたですか。」


声をかけても、返事はない。


人影は、ただじっと瑞稀を見つめている。


瑞稀は竹箒を置き、一歩近づいた。


風もないのに、鳥居から下がる紙垂(しで)が静かに揺れる。


――チリン。


微かな音が、耳を掠めた。


さらに一歩近づくと、人影の輪郭が次第にはっきりしていく。


頭の両側に見える、獣の耳にも似た白い形。


それが揺れるたび、澄んだ音が小さく鳴っているようだった。


「……あなたは。」


その瞬間、低く静かな声が響いた。


耳から聞こえるというより、頭の中へ直接届くような声だった。


――急ぎなさい。


瑞稀は息を呑む。


「何を……。」


――母君が、危うい。


その一言に、心臓が大きく跳ねた。


「母が……? どういうことですか。」


問い返そうとした時には、もう遅かった。


人影は煙のように輪郭を失い、夜の中へ溶けていく。


最後に鈴の音だけが尾を引くように残り、やがて消えた。


「待ってください……!」


瑞稀は鳥居へ駆け寄る。


けれど、その下にはもう誰もいなかった。


ただ、紙垂だけが静かに揺れていた。



瑞稀は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


母が危うい。


行方不明のはずの母。


顔さえ、はっきりとは思い出せない母。


それなのに、今の一言だけで、胸の奥が強く締め付けられた。


自分でも、その感覚の名が分からない。


ただ、放ってはおけない。


そう強く感じていた。



拝殿には、まだ灯りが点いていた。


父は今夜も、祭壇の前にいる。


瑞稀は迷いながらも、静かに口を開いた。


「父様。」


「……どうした、こんな時間に。」


父が振り返る。


「母は、天照様とともにいるのですよね。」


父の手が止まった。


長い沈黙の後、父は静かに息を吐く。


「……何を見た。」


瑞稀は、鳥居での出来事を話すべきか迷った。


けれど父の表情は、すでに何かを察しているようだった。


「鳥居の下に、誰かが立っていました。」


「その方が、母が危ういと。」


父の目が、僅かに揺れる。


これまで、瑞稀が見たことのない表情だった。


「……そうか。」


父は低く呟いた。


「ついに、動き出したか。」


瑞稀は、父をまっすぐに見つめる。


「教えてください。母に、何が起きているのですか。」


父はしばらく黙っていた。


やがて、ゆっくりと祭壇へ向き直る。


「今夜は、もう休みなさい。」


「話すべき時が来れば、必ず話す。」


「父様。」


「今は、まだだ。」


父は、それ以上何も答えなかった。


瑞稀は静かに頭を下げ、拝殿を後にする。


戸口で振り返ると、父の背中はいつもよりずっと小さく見えた。



布団へ入っても、眠気は訪れなかった。


鳥居に立っていた、あの気配。


獣の耳のように見えた、白い輪郭。


――母君が、危うい。


その声だけが、何度も胸の内で繰り返されている。


瑞稀は天井を見つめたまま、静かに呟いた。


「私に、何ができるのでしょうか。」


答える者は、誰もいなかった。


ただ遠くで一度だけ、鈴の音が鳴ったような気がした。

第六話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

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