第五話 「日々の欠片」
第五話 「日々の欠片」
朝、瑞稀はいつもと同じ時刻に目を覚ました。
昨夜見た夢の断片が、まだ胸の奥に残っている。
夜空に走った亀裂。
軋み始めた封印。
そこから漏れ出す黒い霧。
そして――失う、という言葉。
それだけが、やけに鮮明だった。
瑞稀は布団を畳み、身支度を整える。
いつもと変わらない朝のはずなのに、目に映るものが、どこか昨日までとは違って見えた。
◇
拝殿で祝詞を終えると、父はいつものように背後に立っていた。
「帰り道に気を付けて、真っ直ぐ帰ってきなさい。」
「……はい。」
答えながら、瑞稀はふと思う。
真っ直ぐではない道を、自分はまだ知らない。
◇
神社を出ると、石段の下では旭が待っていた。
「おはようございます。」
「はよ。」
いつもと同じやり取り。
けれど今日は、ほんの少しだけ間が空いたように感じた。
旭は何も言わず、瑞稀の歩幅に合わせて歩き出す。
◇
昼休みになると、弾むような足音とともに、一人の少女がやってきた。
「瑞稀ー!お昼、一緒に食べよ!」
茶色いくせ毛を揺らしながら、瑞稀の机へ頬杖をつく。
彼女の名は、芽衣。
「……ええ。」
短い返事だけでも、芽衣は満足そうに笑った。
瑞稀の慣れない相槌にも、気にした様子はない。
「あ、たこさんウィンナーだ。このミートボールと交換しよ!」
「好きなだけどうぞ。」
「えー! じゃあ、全部――」
「食い意地を張るな。」
旭が、芽衣の頭を軽く小突いた。
「いたっ!叩くことないじゃん!もう!」
芽衣は頭をさすりながら、交換した、たこさんウィンナーを頬張る。
「あ、そうだ。ねぇねぇ、来週、隣町でお祭りあるじゃん!」
声を弾ませた芽衣が、二人の顔を交互に見る。
「行かない? 屋台もあるし、花火も上がるんだって!」
瑞稀は、箸を止めた。
祭り。
これまで、一度も行ったことがない。
「……祭りに行く、とは。」
「え、一緒に歩くだけだよ。浴衣を着てさ!」
瑞稀は、少し考える。
「私には、何かすることがあるのでしょうか。」
「何かって?」
「祭りでの、役目です。」
芽衣は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「そんなのないよ。」
「屋台見て、花火見て、一緒に歩くだけ。」
「私が、瑞稀と一緒に行きたいの。」
芽衣は、当然のことのように言う。
祭りに誘われるのは、初めてではなかった。
けれど、これまでは父に尋ねるまでもなく、行けないものだと思っていた。
父の言葉が、脳裏をよぎる。
――真っ直ぐ帰ってきなさい。
それが、これまでの日常だった。
「……父に、聞いてみないと分かりません。」
芽衣が、驚いたように目を瞬かせた。
「え。今回は聞いてくれるの?」
「……はい。」
「やった! じゃあ、ちゃんと聞いてみてよ!」
芽衣は、屈託なく笑った。
その笑顔を見つめながら、瑞稀は胸の内に小さな違和感を覚える。
断る理由なら、いくらでもある。
それなのに、断りたくないと思っている自分がいた。
「旭君も来るよね?」
「瑞稀が行くならな。」
迷う様子もなく答えた旭に、芽衣が呆れたように肩をすくめる。
「また過保護!」
旭は、眉一つ動かさなかった。
瑞稀は、そんな二人を静かに見比べた。
「……。」
「どうした。」
旭に尋ねられ、瑞稀は少しだけ考える。
「少しだけ、面白いと思いました。」
旭は一瞬だけ目を瞬かせ、その口元を、ごく僅かに緩めた。
「……そうか。」
◇
放課後、旭と並んで帰る道で、瑞稀は珍しく自分から口を開いた。
「旭。」
「何だ。」
「祭りへ誘われました。」
旭は、僅かに目を細める。
「行きたいのか?」
そう尋ねられ、瑞稀は言葉に詰まった。
自分の中にある感情へ、当てはまる答えが見つからない。
「……分かりません。」
少しだけ俯いてから、続ける。
「ですが、断りたくありません。」
それは、今の瑞稀に言える、精一杯の正直な言葉だった。
旭はしばらく黙っていたが、やがて短く答える。
「なら、行けばいい。」
「宮司様には、俺からも話す。」
瑞稀は、僅かに目を見開いた。
「……いいのですか。」
「お前が、初めて自分で選ぼうとしたことだろ。」
旭はそれだけ言うと、再び前を向いて歩き出す。
その横顔は、いつもより少しだけ柔らかく見えた。
瑞稀の胸の奥にも、これまで知らなかった温もりが、ほんの僅かに広がっていた。
◇
住宅街を抜け、神社の鳥居が見えてきた頃だった。
ふいに、風が止んだ。
――チリン。
どこからか、また鈴の音が聞こえる。
瑞稀は足を止め、空を見上げた。
目に見える異変は、何もない。
それでも、胸の奥が僅かに冷えるような感覚があった。
「……瑞稀?」
旭が振り返る。
「……いえ、何でもありません。」
そう答えたものの、瑞稀は空を見上げたまま、しばらく動くことができなかった。
夢で見た亀裂が、脳裏をよぎる。
あれを、ただの夢だと割り切ることはできない。
胸の奥に生まれたざわめきだけが、いつまでも消えずに残っていた。
第五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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