第四話 「神託」
第四話 「神託」
荒魂が還り、住宅街には静けさが戻っていた。
旭が刀を鞘へ納めると、その刀は淡い光となって空へ溶けていく。
「……歩けるか。」
瑞稀は、小さく頷いた。
二人は並んで、静かに帰路へつく。
しばらく歩いたところで、瑞稀がぽつりと口を開いた。
「旭。」
「何だ。」
「あなたは、あの存在を知っていたのですか。」
旭は、僅かに間を置いてから答えた。
「ああ。俺の家は代々、お前たち神卸の一族に仕えてきた。」
「一族を、そして、お前を守るためにな。」
旭は前を向いたまま、静かに続ける。
「そのために、雷神・建御雷神の加護を受ける者として育てられた。」
瑞稀は、黙って耳を傾けていた。
「……神卸については、どこまで知っているのですか。」
旭は首を横へ振る。
「宮司様ほどは知らない。俺が知っているのは、花里家の女子が代々、神を降ろす器として育てられることだけだ。」
それだけ言うと、旭は口を閉ざした。
瑞稀も、それ以上は尋ねなかった。
◇
神社へ戻ると、父は拝殿の前を静かに掃き清めていた。
竹箒が石畳を擦る音だけが、夕暮れの境内へ響いている。
瑞稀の姿を見ると、父は一瞬だけ目を細めた。
「……遅かったな。」
「はい。」
短い沈黙の後、瑞稀は父を見つめた。
「父様。神卸とは、何なのですか。」
父の手が止まる。
「今日、神を見ました。」
瑞稀は、静かに言葉を続けた。
「猿田毘古様と名乗られ、その導きで神卸を行い、荒魂を……御霊をお還ししました。」
再び、沈黙が落ちた。
父はゆっくりと息を吐き、竹箒を握る手に力を込める。
「……そうか。」
そして、低く呟いた。
「ついに、その時が来たか。」
瑞稀は、父から目を逸らさなかった。
「神卸とは、何なのですか。」
父は踵を返す。
「ついてきなさい。」
その後を追って入った先は、拝殿だった。
祭壇の前では、蝋燭の火だけが静かに揺れている。
父は御神体を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。
「これより話すことは、花里家の男児にのみ、代々受け継がれてきたものだ。」
一度言葉を切り、瑞稀へ目を向ける。
「――だが、お前に伝える。」
瑞稀は、静かに頷いた。
「神には、二つの御魂がある。」
「和魂と、荒魂。」
「どちらも、神そのものだ。」
父は、蝋燭の火を見つめながら続ける。
「荒魂は、怒り、力、闘争。」
「和魂は、慈愛、調和、導き。」
「本来は、一柱の神の中に共にあるものだ。」
「だから、討つのではない。」
瑞稀は、その意味を確かめるように呟いた。
「……還すのですね。」
「そうだ。」
父の声が、僅かに低くなる。
「その昔、神々は自らの力を制することができず、世界は崩れかけた。」
「天照大神は、これ以上を許せば、すべてが失われると恐れ、天岩戸へ姿を隠した。」
「光を失った世界は、闇と混乱に呑まれ、神々はようやく、自らの荒ぶる力が世界を傷つけていたことに気づいた。」
父は、静かに息を吐く。
「花里家に伝わる記録では、その後、世界の均衡を守るため、神々の荒魂は和魂から切り離され、各地へ封じられたとされている。」
「そうして、均衡は保たれたはずだった。」
「ですが、今、その封印が崩れ始めているのですね。」
「ああ。恐らくはな。」
瑞稀は、祭壇へ目を向けた。
蝋燭の火が、風もないのに僅かに揺れている。
「……だから、猿田毘古様も。」
「ああ。」
父は頷いた。
「お前が還したのは、敵ではない。」
「神から切り離された、神自身の一部だ。」
「御霊還し。それが、お前たちの役目だ。」
瑞稀は少し考えてから、もう一つ尋ねた。
「猿田毘古様は、私に力を貸してくださいました。」
父は、静かに頷く。
「契りを結んだからだ。」
「私だから、だったのでしょうか。」
父は、しばらく答えなかった。
やがて、静かに首を横へ振る。
「お前だけが、生まれながらに選ばれていたわけではない。」
瑞稀は、父の言葉を待った。
「花里家の女子は、代々、儀式を通して神を迎える器として育てられてきた。」
「祝詞を覚え、身を清め、神を迎えるための道を、その身へ整える。」
父は、祭壇へ目を向ける。
「だが、それだけで神が降りるわけではない。」
「神卸は、こちらが望めば成るものではない。神が人を必要とし、人もまた、その神を受け入れた時に初めて成る。」
瑞稀は、光の中で差し出された猿田毘古の手を思い出した。
「では、猿田毘古様は、今の私を必要とされたのですね。」
「ああ。」
父は静かに頷く。
「お前は花里家の器として育てられた。そして、花里家の娘として、天照大神へ続く縁も持っている。」
僅かに言葉を置き、瑞稀を見つめた。
「だが、それだけでは契りは結ばれない。」
「最後に猿田毘古様の手を取ったのは、お前自身だ。」
瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。
「私が、受け入れたから。」
「そうだ。」
父は、低く答えた。
「血筋も、これまで受けてきた教えも、神へ続く道を整えたにすぎない。」
「その道を歩くことを選んだのは、お前だ。」
◇
夜も更け、神社は虫の音だけに包まれていた。
瑞稀は、布団へ身を横たえる。
目を閉じても、今日見た光景が脳裏から離れない。
猿田毘古。
神卸。
御霊還し。
そして、父から聞かされた言葉。
知らなかったことばかりだった。
けれど、不思議と恐れはなかった。
胸の奥に残っているのは、ただ一つ。
「……まだ、知らなければなりません。」
その思いを抱いたまま、瑞稀の意識はゆっくりと眠りへ溶けていった。
どこからともなく、神楽鈴の音が響く。
瑞稀が振り返ると、白い鳥居の先へ、一本の光の道が伸びていた。
導かれるように歩いていくと、その先に誰かが佇んでいる。
猿田毘古だった。
『よく来た。』
けれど、その声には、これまでの穏やかさがなかった。
瑞稀は、僅かな違和感を覚える。
「何か、あったのですか。」
猿田毘古は答えず、静かに空を見上げた。
その表情は硬く、視線の先には、夜空を裂く一本の亀裂が走っている。
そこから、黒い霧がゆっくりと漏れ出していた。
『封印が軋み始めている。』
低く静かな声が、光の中へ響く。
『各地の神々が、今も抑えている。』
『だが、それも永遠ではない。』
瑞稀は、猿田毘古を見つめた。
「私に、何ができますか。」
瑞稀の問いに、猿田毘古はしばらく答えなかった。
やがて、瑞稀の胸元へ視線を向ける。
『我と契りを結んだことで、お前の中には一つの道が開いた。』
「道……。」
『人と神をつなぐ道だ。』
猿田毘古は、夜空を走る亀裂へ目を向けた。
『これまでは、花里家の儀式を通してのみ、神々の声は届いていた。』
『だが今は違う。』
『我と契りを結んだことで、お前の中には、これまでより深く神々の声へ触れる道が開いた。』
『だが、その道だけが、神と人をつなぐものではない。』
『人にはそれぞれ、結ばれる神との縁がある。』
瑞稀は、胸元へそっと手を添えた。
「では、猿田毘古様との契りによって開いたこの道も、私に結ばれた縁の一つなのでしょうか。」
『ああ。』
猿田毘古は、静かに頷く。
『道が開いたからといって、歩くことを定められたわけではない。』
『声に応えるか。』
『契りを結ぶか。』
『その力を受け入れるか。』
『選ぶのは、その都度お前自身だ。』
猿田毘古は、まっすぐに瑞稀を見つめた。
『これから先、お前のもとへ、幾柱もの神の声が届くだろう。』
『だが、すべてを迎える必要はない。』
『神が人を必要とするように、人にもまた、神を受け入れる意思が必要なのだ。』
瑞稀は、静かにその言葉を受け止めた。
「では、私は。」
「その都度、自分で選ばなければならないのですね。」
『ああ。』
猿田毘古は、穏やかに頷いた。
『それが、契りというものだ。』
『ただし、神を迎えることは、人の身に何も残さぬわけではない。』
瑞稀は、僅かに眉を寄せた。
「何が、起こるのですか。」
『我にも、すべては分からぬ。』
猿田毘古は、初めて苦しげに目を伏せた。
『神の力を人の器へ通せば、その身も、心も、少しずつ削られる。』
『何を失うのか。』
『どれほど失うのか。』
『それは、契りを重ねるまで誰にも分からぬ。』
瑞稀は、黙ってその言葉を聞いていた。
『それでも声へ応えるのか。』
瑞稀は、すぐには答えられなかった。
けれど、やがて静かに顔を上げる。
「今は、まだ分かりません。」
「ですが、知らないまま目を背けることは、したくありません。」
猿田毘古は、僅かに目を細めた。
『それでよい。』
『答えは、声を聞いてから選べばよい。』
風が吹き抜け、再び鈴の音が鳴る。
猿田毘古の姿が、白い光の中へ溶けていった。
景色は次第に霞み、やがて何も見えなくなる。
そのまま意識が浮かび上がり、瑞稀は静かに目を開けた。
まだ、夜明け前だった。
夢だった。
そう思った、その時。
――チリン。
襖の向こうから、小さな鈴の音が響いた。
瑞稀はゆっくりと身を起こし、静かに襖を開ける。
廊下に、人の姿はない。
ただ、軒先に吊るされた風鈴が一つ、僅かに揺れていた。
境内には、風一つ吹いていない。
瑞稀は、しばらく風鈴を見つめた。
やがて音は止み、静寂だけが残る。
瑞稀は布団へ戻ると、再び浅い眠りへと沈んでいった。
第四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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