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第四話 「神託」

第四話 「神託」


荒魂が還り、住宅街には静けさが戻っていた。


旭が刀を鞘へ納めると、その刀は淡い光となって空へ溶けていく。


「……歩けるか。」


瑞稀は、小さく頷いた。


二人は並んで、静かに帰路へつく。


しばらく歩いたところで、瑞稀がぽつりと口を開いた。


「旭。」


「何だ。」


「あなたは、あの存在を知っていたのですか。」


旭は、僅かに間を置いてから答えた。


「ああ。俺の家は代々、お前たち神卸の一族に仕えてきた。」


「一族を、そして、お前を守るためにな。」


旭は前を向いたまま、静かに続ける。


「そのために、雷神・建御雷神(たけみかづち)の加護を受ける者として育てられた。」


瑞稀は、黙って耳を傾けていた。


「……神卸については、どこまで知っているのですか。」


旭は首を横へ振る。


「宮司様ほどは知らない。俺が知っているのは、花里家の女子が代々、神を降ろす器として育てられることだけだ。」


それだけ言うと、旭は口を閉ざした。


瑞稀も、それ以上は尋ねなかった。



神社へ戻ると、父は拝殿の前を静かに掃き清めていた。


竹箒が石畳を擦る音だけが、夕暮れの境内へ響いている。


瑞稀の姿を見ると、父は一瞬だけ目を細めた。


「……遅かったな。」


「はい。」


短い沈黙の後、瑞稀は父を見つめた。


「父様。神卸とは、何なのですか。」


父の手が止まる。


「今日、神を見ました。」


瑞稀は、静かに言葉を続けた。


猿田毘古(さるたひこ)様と名乗られ、その導きで神卸を行い、荒魂を……御霊をお還ししました。」


再び、沈黙が落ちた。


父はゆっくりと息を吐き、竹箒を握る手に力を込める。


「……そうか。」


そして、低く呟いた。


「ついに、その時が来たか。」


瑞稀は、父から目を逸らさなかった。


「神卸とは、何なのですか。」


父は踵を返す。


「ついてきなさい。」


その後を追って入った先は、拝殿だった。


祭壇の前では、蝋燭の火だけが静かに揺れている。


父は御神体を見つめながら、ゆっくりと語り始めた。


「これより話すことは、花里家の男児にのみ、代々受け継がれてきたものだ。」


一度言葉を切り、瑞稀へ目を向ける。


「――だが、お前に伝える。」


瑞稀は、静かに頷いた。


「神には、二つの御魂がある。」


和魂(にぎみたま)と、荒魂(あらみたま)。」


「どちらも、神そのものだ。」


父は、蝋燭の火を見つめながら続ける。


「荒魂は、怒り、力、闘争。」


「和魂は、慈愛、調和、導き。」


「本来は、一柱の神の中に共にあるものだ。」


「だから、討つのではない。」


瑞稀は、その意味を確かめるように呟いた。


「……還すのですね。」


「そうだ。」


父の声が、僅かに低くなる。


「その昔、神々は自らの力を制することができず、世界は崩れかけた。」


天照大神(あまてらすおおみかみ)は、これ以上を許せば、すべてが失われると恐れ、天岩戸(あめのいわと)へ姿を隠した。」


「光を失った世界は、闇と混乱に呑まれ、神々はようやく、自らの荒ぶる力が世界を傷つけていたことに気づいた。」


父は、静かに息を吐く。


「花里家に伝わる記録では、その後、世界の均衡を守るため、神々の荒魂は和魂から切り離され、各地へ封じられたとされている。」


「そうして、均衡は保たれたはずだった。」


「ですが、今、その封印が崩れ始めているのですね。」


「ああ。恐らくはな。」


瑞稀は、祭壇へ目を向けた。


蝋燭の火が、風もないのに僅かに揺れている。


「……だから、猿田毘古様も。」


「ああ。」


父は頷いた。


「お前が還したのは、敵ではない。」


「神から切り離された、神自身の一部だ。」


御霊還し(みたまがえし)。それが、お前たちの役目だ。」


瑞稀は少し考えてから、もう一つ尋ねた。


「猿田毘古様は、私に力を貸してくださいました。」


父は、静かに頷く。


「契りを結んだからだ。」


「私だから、だったのでしょうか。」


父は、しばらく答えなかった。


やがて、静かに首を横へ振る。


「お前だけが、生まれながらに選ばれていたわけではない。」


瑞稀は、父の言葉を待った。


「花里家の女子は、代々、儀式を通して神を迎える器として育てられてきた。」


「祝詞を覚え、身を清め、神を迎えるための道を、その身へ整える。」


父は、祭壇へ目を向ける。


「だが、それだけで神が降りるわけではない。」


「神卸は、こちらが望めば成るものではない。神が人を必要とし、人もまた、その神を受け入れた時に初めて成る。」


瑞稀は、光の中で差し出された猿田毘古の手を思い出した。


「では、猿田毘古様は、今の私を必要とされたのですね。」


「ああ。」


父は静かに頷く。


「お前は花里家の器として育てられた。そして、花里家の娘として、天照大神へ続く縁も持っている。」


僅かに言葉を置き、瑞稀を見つめた。


「だが、それだけでは契りは結ばれない。」


「最後に猿田毘古様の手を取ったのは、お前自身だ。」


瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。


「私が、受け入れたから。」


「そうだ。」


父は、低く答えた。


「血筋も、これまで受けてきた教えも、神へ続く道を整えたにすぎない。」


「その道を歩くことを選んだのは、お前だ。」



夜も更け、神社は虫の音だけに包まれていた。


瑞稀は、布団へ身を横たえる。


目を閉じても、今日見た光景が脳裏から離れない。


猿田毘古。


神卸。


御霊還し。


そして、父から聞かされた言葉。


知らなかったことばかりだった。


けれど、不思議と恐れはなかった。


胸の奥に残っているのは、ただ一つ。


「……まだ、知らなければなりません。」


その思いを抱いたまま、瑞稀の意識はゆっくりと眠りへ溶けていった。


どこからともなく、神楽鈴の音が響く。


瑞稀が振り返ると、白い鳥居の先へ、一本の光の道が伸びていた。


導かれるように歩いていくと、その先に誰かが佇んでいる。


猿田毘古だった。


『よく来た。』


けれど、その声には、これまでの穏やかさがなかった。


瑞稀は、僅かな違和感を覚える。


「何か、あったのですか。」


猿田毘古は答えず、静かに空を見上げた。


その表情は硬く、視線の先には、夜空を裂く一本の亀裂が走っている。


そこから、黒い霧がゆっくりと漏れ出していた。


『封印が軋み始めている。』


低く静かな声が、光の中へ響く。


『各地の神々が、今も抑えている。』


『だが、それも永遠ではない。』


瑞稀は、猿田毘古を見つめた。


「私に、何ができますか。」


瑞稀の問いに、猿田毘古はしばらく答えなかった。


やがて、瑞稀の胸元へ視線を向ける。


『我と契りを結んだことで、お前の中には一つの道が開いた。』


「道……。」


『人と神をつなぐ道だ。』


猿田毘古は、夜空を走る亀裂へ目を向けた。


『これまでは、花里家の儀式を通してのみ、神々の声は届いていた。』


『だが今は違う。』


『我と契りを結んだことで、お前の中には、これまでより深く神々の声へ触れる道が開いた。』


『だが、その道だけが、神と人をつなぐものではない。』


『人にはそれぞれ、結ばれる神との縁がある。』


瑞稀は、胸元へそっと手を添えた。


「では、猿田毘古様との契りによって開いたこの道も、私に結ばれた縁の一つなのでしょうか。」


『ああ。』


猿田毘古は、静かに頷く。


『道が開いたからといって、歩くことを定められたわけではない。』


『声に応えるか。』


『契りを結ぶか。』


『その力を受け入れるか。』


『選ぶのは、その都度お前自身だ。』


猿田毘古は、まっすぐに瑞稀を見つめた。


『これから先、お前のもとへ、幾柱もの神の声が届くだろう。』


『だが、すべてを迎える必要はない。』


『神が人を必要とするように、人にもまた、神を受け入れる意思が必要なのだ。』


瑞稀は、静かにその言葉を受け止めた。


「では、私は。」


「その都度、自分で選ばなければならないのですね。」


『ああ。』


猿田毘古は、穏やかに頷いた。


『それが、契りというものだ。』


『ただし、神を迎えることは、人の身に何も残さぬわけではない。』


瑞稀は、僅かに眉を寄せた。


「何が、起こるのですか。」


『我にも、すべては分からぬ。』


猿田毘古は、初めて苦しげに目を伏せた。


『神の力を人の器へ通せば、その身も、心も、少しずつ削られる。』


『何を失うのか。』


『どれほど失うのか。』


『それは、契りを重ねるまで誰にも分からぬ。』


瑞稀は、黙ってその言葉を聞いていた。


『それでも声へ応えるのか。』


瑞稀は、すぐには答えられなかった。


けれど、やがて静かに顔を上げる。


「今は、まだ分かりません。」


「ですが、知らないまま目を背けることは、したくありません。」


猿田毘古は、僅かに目を細めた。


『それでよい。』


『答えは、声を聞いてから選べばよい。』


風が吹き抜け、再び鈴の音が鳴る。


猿田毘古の姿が、白い光の中へ溶けていった。


景色は次第に霞み、やがて何も見えなくなる。


そのまま意識が浮かび上がり、瑞稀は静かに目を開けた。


まだ、夜明け前だった。


夢だった。


そう思った、その時。


――チリン。


襖の向こうから、小さな鈴の音が響いた。


瑞稀はゆっくりと身を起こし、静かに襖を開ける。


廊下に、人の姿はない。


ただ、軒先に吊るされた風鈴が一つ、僅かに揺れていた。


境内には、風一つ吹いていない。


瑞稀は、しばらく風鈴を見つめた。


やがて音は止み、静寂だけが残る。


瑞稀は布団へ戻ると、再び浅い眠りへと沈んでいった。

第四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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