表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
3/42

第三話 「初めての御霊還し」

第三話 「初めての御霊還し」


夕闇の住宅街で、眩い光が静かに収束していく。


旭は、思わず息を呑んだ。


目の前に立つ瑞稀は、先ほどまでとは別人のようだった。


腰まで届く白銀の髪と、琥珀色に輝く瞳。


純白の巫女装束には、朝日を描くような金糸の文様が織り込まれ、その両手には一振りの長槍が握られている。


荒魂は、低い唸り声を上げた。


その身体は黒い霧に覆われ、白い狩衣は煤け、長い髪は乱れている。


赤黒く染まった瞳だけが異様な光を放ち、まるで神そのものが、怒りだけを残して立っているようだった。


旭は刀を構える。


「来るぞ!」


荒魂が地を蹴り、一瞬で距離を詰める。


振り下ろされた拳を旭が刀で受け止めた瞬間、轟音とともに足元の地面が大きく抉れた。


「ぐっ……!」


凄まじい力に押し込まれながら、旭は刀を強く握り締める。


刃から迸った青白い稲妻が荒魂の身体を貫いた。


しかし、黒い靄が激しく弾けるだけで、傷一つ付いていない。


「やはり、効かないか……!」


荒魂が再び旭へ迫る。


その時だった。


『旭。』


穏やかな声が響く。


『任せよ。』


猿田毘古(さるたひこ)だった。


『あれは我が荒魂。力で討つものではない。』


瑞稀は、荒魂を静かに見つめた。


その意識の中で、猿田毘古が優しく微笑む。


『我は、人を導く神。』


『導く者が、道を見失っている。』


『ならば、お前が道を示せ。』


その言葉を受け、瑞稀は手の中の槍へ目を落とした。


不思議と、何をすべきなのかが分かる。


この槍は、命を奪うための武器ではない。


還るべき道を切り開くための神具だった。


『瑞稀。』


『切るのは荒魂ではない。』


『その神具で、還るべき道を切り開くのだ。』


荒魂が、再び咆哮を上げる。


黒い靄が渦を巻きながら押し寄せ、旭が瑞稀を庇うために前へ出ようとした。


それを、瑞稀が静かに制する。


「瑞稀。」


「……お任せください。」


旭は、思わず動きを止めた。


瑞稀が、自らの意思で前へ出ようとしている。


それは、旭がこれまで一度も見たことのない姿だった。


瑞稀は槍を構え、その穂先を荒魂ではなく、夕闇の空へ向ける。


目を閉じ、深く息を吸った。


不思議と、恐怖はなかった。


――祈れ。


猿田毘古の声が、瑞稀の内部に静かに響く。


――願うのではない。


――還るべき道を信じよ。


瑞稀は、幼い頃から毎朝唱えてきた祝詞を思い出す。


意味も知らずに繰り返してきた言葉が、今は初めから知っていた祈りのように、自然と口をついて出た。


その声に応えるように、槍が淡い金色の光を帯びていく。


やがて瑞稀は、ゆっくりと目を開いた。


「――御霊よ。」


「畏み、畏み申し上げる。」


「御神の御許へ還り給え。」


荒魂が、足を止める。


「あなたは、人を阻むために在るのではありません。」


赤黒い瞳が、僅かに揺れた。


「あなたは、人を導く神です。」


瑞稀は槍を掲げ、静かに息を吸う。


「どうか――」


そして、金色に輝く槍を大きく振り下ろした。


「お還りください。」


刹那、空間そのものが音もなく裂けた。


――シャン。


澄み切った神楽鈴の音が、夕闇へ響き渡る。


続いて、どこからともなく笛と太鼓が重なり合い、微かな神楽囃子が流れ始めた。


夜空に生まれた黄金の裂け目が、光を零しながらゆっくりと広がっていく。


その向こうには、柔らかな光に満ちた世界があった。


黄金に輝く石畳が真っ直ぐに伸び、その先には巨大な鳥居が立っている。


さらに遠くには、朝焼けのように輝く空が、果てしなく広がっていた。


旭が目を見開く。


「……高天原(たかまがはら)。」


荒魂は動きを止め、赤黒い瞳で、その道を見つめていた。


身体を覆う黒い靄が、静かに揺れる。


『……道。』


初めて、その声から怒りが消えていた。


『我は……何故……。』


荒魂が、一歩前へ進む。


『道を……。』


その身体を覆っていた黒い穢れが、風に溶けるように剥がれ落ちていく。


もう一歩進むと、乱れていた白い狩衣が、本来の清らかな色を取り戻した。


そして最後の一歩を踏み出した時、そこに立っていたのは、穏やかな表情を浮かべる猿田毘古だった。


『……そうだ。』


猿田毘古は、光の道を見渡す。


『我は、人を導く神。』


やがて瑞稀へ目を向け、穏やかに微笑んだ。


『ありがとう。』


『よくぞ、我を導いてくれた。』


瑞稀は槍を胸元へ寄せ、静かに一礼する。


「謹んで、御霊をお還しいたします。」


猿田毘古は頷き、黄金の石畳をゆっくりと歩き始めた。


一歩、また一歩と進むたび、その背中は光の中へ溶けていく。


やがて鳥居の向こうへ姿が消えると、黄金の裂け目も静かに閉じていった。


夕闇を覆っていた重苦しい気配が消え、止まっていた風が戻ってくる。


木々の葉が揺れ、遠くでは蝉の声が聞こえ始めた。


止まっていた世界が、再び動き出す。


その瞬間、瑞稀の手から槍が光となって消えた。


純白の巫女装束は制服へ戻り、白銀の髪は黒へ、琥珀色の瞳も元の黒へと還っていく。


全身から力が抜け、瑞稀の身体が傾いた。


「瑞稀!」


旭が駆け寄り、その身体を支える。


瑞稀は彼の腕の中で、ぼんやりと夜空を見上げた。


いつの間にか夕闇は過ぎ、空には星が瞬き始めている。


「……終わったのでしょうか。」


旭は、静かに頷いた。


「多分な。」


瑞稀は胸元へ手を添える。


そこには、僅かな温もりが残っていた。


けれど、母の顔を思い浮かべようとすると、大切だったはずの景色が一つだけ、白い霞の向こうへ隠れている。


その感覚が何を意味するのかを、まだ瑞稀は知らなかった。



誰にも見ることのできない高天原。


黄金の鳥居をくぐった猿田毘古は、閉ざされた岩戸の前まで歩み、静かに頭を垂れた。


岩戸の隙間から、柔らかな光が漏れている。


『よく戻りました。』


姿は見えない。


それでも、その声が天照大神(あまてらすおおみかみ)のものだと、猿田毘古には分かっていた。


『長く、ご心配をおかけしました。』


猿田毘古が再び頭を下げると、岩戸の奥の光が、僅かに揺れた。


その傍らでは、一人の女性が涙を浮かべながら、下界を映す鏡を見つめていた。


「……瑞稀。」


母は、そっと鏡へ手を添える。


「私があなたに残せた、数少ない記憶まで……。」


岩戸の奥から漏れる光が、瑞稀を映す鏡へ静かに差し込んでいた。


天照大神は姿を見せることなく、それでも鏡を通して、下界の瑞稀を見守っている。


しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。


高天原の果てで、幾重にも張り巡らされた封印の一角に、小さな亀裂が走る。


その隙間から、黒い瘴気がゆっくりと滲み出した。


岩戸の奥から漏れていた光が、僅かに翳る。


『始まりましたか……。』


その声に、先ほどまでの穏やかさはなかった。


遥か下方。


光の届かぬ黄泉(よみ)の深奥で、何者かがゆっくりと目を開いた。

第三話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ