第二話 「導く神」
第二話 「導く神」
眩い白光が、夕闇を染めた。
世界から音が消えていく。
風も、鳥の声も、荒魂の唸りさえも。
瑞稀は、ただ一人、光の中に立っていた。
足元には、淡く輝く文字が幾重にも浮かび上がっている。
古びた筆で綴られた祝詞のような、流れる文字。
どの文字も読むことはできないはずなのに、不思議と、その意味だけが心へ流れ込んできた。
――迎えよ。
――契りを結べ。
――穢れを祓え。
――光を照らせ。
それは言葉でも、文字でもなかった。
祈りそのものが、静かに心へ響いている。
瑞稀がゆっくりと顔を上げると、光の向こうに一人の男が立っていた。
長身に、白い狩衣。
一つに結ばれた長い黒髪が、風もない空間で静かに揺れている。
その眼差しは穏やかだった。
けれど、その奥には、誰よりも永い時を歩いてきた者だけが持つ威厳が宿っていた。
「……あなたは。」
男は、小さく微笑む。
『我が名は、猿田毘古。』
その名は知っていた。
神話に語られる、導きの神。
けれど、目の前に立つその姿は、物語の中で知るよりも、ずっと穏やかだった。
「……本当に、神様なのですね。」
思わず漏れた言葉に、猿田毘古は静かに微笑んだ。
『驚くのも無理はない。神は、いつしか人の語る物語となった。それもまた、自然の流れだ。』
瑞稀は、猿田毘古を見つめる。
初めて会うはずなのに、不思議と恐ろしさはなかった。
むしろ、どこか懐かしい。
『まずは、一つ伝えることがある。』
猿田毘古は、穏やかな眼差しを瑞稀へ向けた。
『天照大神は、今も岩戸の内から、お前を見守っておられる。』
瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。
「……天照様が、私を?」
なぜ、その名が自分と結び付くのか分からない。
『あの方は、八咫の鏡を通して、お前が生まれた日から、その成長を見守ってこられた。』
「天照様は……私をご存じなのですか。」
猿田毘古は、静かに頷いた。
『ああ。』
『そして、お前の母もまた、高天原にて岩戸の傍に留まり、あの方を支えている。』
瑞稀は、息を呑んだ。
母。
その一言が、胸の奥へ深く沈む。
幼い頃から、父は母について何も語らなかった。
瑞稀もまた、母はもう、この世にはいないものだと思っていた。
「母は……。」
問いかけようとした瑞稀に、猿田毘古は静かに首を横へ振る。
『今はまだ、その時ではない。』
『知るべき時が来れば、お前自身の目で見ることになる。』
瑞稀は続きを尋ねることなく、そっと唇を閉じた。
『今日は、そのために来たのではない。』
猿田毘古が、一歩近づく。
『我は、お前を導くために参った。』
「導く……。」
『神は、人を選ぶのではない。』
猿田毘古の声が、光の中へ静かに響く。
『必要な時に、必要な者を求める。』
『だが、神が求めるだけでは契りは結ばれぬ。』
『人が自ら受け入れて初めて、神卸は成る。』
猿田毘古は、右手を差し出した。
『瑞稀。』
『我の手を取れ。』
瑞稀は、差し出された手を見つめた。
恐怖はなかった。
胸の奥にあるのは、言葉では説明できない、不思議な安心感だけだった。
けれど、手を取ることを強いられているわけではない。
選ぶのは、自分自身。
不思議と、それだけは理解できた。
瑞稀は、ゆっくりと自らの手を重ねる。
その瞬間、光が弾けた。
『契りは成った。』
世界が、眩い黄金色に染まる。
瑞稀の制服が光へ包まれ、純白の巫女装束へと姿を変えていく。
腰まで届く黒髪は白銀へ、黒い瞳は黄金を宿した琥珀色へと染まった。
そして、差し出した手の中に、一振りの長槍が静かに現れる。
『参ろう。』
猿田毘古の声と、瑞稀の声が重なった。
光は二人を包み、そのまま現実世界へと溢れ出していく。
◇
旭は、思わず息を呑んだ。
瑞稀が、ゆっくりと目を開く。
そこにあったのは、先ほどまでの感情を映さない瞳ではない。
神の光を宿した、琥珀色の瞳だった。
荒魂が、低い咆哮を上げる。
瑞稀はその姿を静かに見つめると、両手で長槍を構えた。
黒い霧の中で、荒魂は苦しげに周囲を見回している。
『……道。』
『還る場所が、分からぬ。』
猿田毘古の声が、穏やかに響いた。
『あの御霊は、道を失っている。』
『ならば我らが、あるべき場所へ続く道を示そう。』
第二話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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