第一話 「神を迎える器」
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この作品を読んでいただき、ありがとうございます。
神話と現代を題材にした和風ファンタジーです。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
第一話 「神を迎える器」
朝五時。
目覚ましが鳴る一分前に、今日も少女は静かに目を開けた。
毎朝、同じ時刻に起き、布団を畳み、顔を洗い、白い巫女装束へ袖を通す。
衣擦れの音だけが、まだ眠りの残る部屋へ小さく響いた。
鏡に映る黒髪は、腰まで届くほど長い。
感情を映さない黒い瞳が、静かにこちらを見返していた。
部屋を出て境内へ向かうと、朝の冷たい空気が頬を撫でる。
拝殿の扉を開けば、薄暗い社殿の奥に御神体が静かに祀られていた。
祭壇の前には、父が用意した一枚の和紙が置かれている。
少女はそれを両手で持ち、神前へ進むと、静かに正座した。
背筋を伸ばして一礼し、淀みなく祝詞を奏上する。
幼い頃から、毎日繰り返してきた祝詞。
その意味を知る必要はないと、父はそう教えていた。
奏上を終えて和紙を下ろすと、父はいつの間にか背後に立っていた。
「学校が終わったら、真っ直ぐ帰ってきなさい。」
「はい。」
ただ、それだけ。
それ以上の会話はない。
変わらない静かな朝が、彼女の日常だった。
◇
神社を出ると、石段の下には一人の少年が待っていた。
「おはようございます。」
「はよ。」
二人は並んで、学校へ向かう。
教室へ続く廊下を歩いていると、後ろから弾むような足音が近づいてきた。
「おはよー! 瑞稀!」
茶色いくせ毛を揺らしながら、一人の少女が顔を見せる。
「今日も早いね!」
「……ええ。」
「ねぇねぇ、昨日のドラマ見た? ……って、見てないよね。えへへ、あのね、まず俳優が格好よくてさ――」
少女は、一人で楽しそうに話し続ける。
元気よく笑う彼女を見ても、瑞稀にはどう返せばよいのか分からなかった。
父から教わったのは、礼儀と作法だけ。
友人との接し方など、誰も教えてくれなかった。
「相変わらず、うるさいやつだな。」
低い声が、横から聞こえる。
「うるさくないし! 旭君たちが静かすぎるだけ!」
黒髪の少年――旭が、自分の鞄を机へ置いた。
続いて、瑞稀が手にしていた鞄を受け取り、その机の横へ掛ける。
「相変わらず、保護者やってるねー!」
一部始終を見ていた少女が笑う。
旭は否定も肯定もしなかった。
ただ瑞稀を一瞥すると、静かに席へ着いた。
◇
放課後、空が赤く染まり始める頃。
瑞稀は父の言葉どおり、真っ直ぐ帰路についていた。
隣には、旭がいる。
二人が住宅街へ差しかかった時だった。
旭が、不意に足を止めた。
「……おかしい。」
瑞稀も、前方へ目を向ける。
先ほど通り過ぎたはずの小さな公園が、再び目の前にあった。
赤い滑り台。
色褪せたベンチ。
角に立つ、一本の電柱。
見間違えるはずがない。
「同じ道を、歩いています。」
瑞稀が呟く。
振り返れば、背後にも同じ路地が伸びている。
真っ直ぐ歩いていたはずなのに、いつの間にか、同じ場所へ戻されていた。
ぞわりと、空気が震える。
風が止まり、鳥の声も、遠くを走る車の音さえ聞こえなくなった。
周囲の家々が、夕闇の中で僅かに歪んで見える。
道の先が、どこへ続いているのか分からない。
まるで、この場所そのものが、進むべき方向を見失っているようだった。
旭が、警戒するように周囲を見渡す。
「瑞稀、離れるな。」
「はい。」
その時、瑞稀の胸の奥が僅かに熱を帯びた。
これまで、一度も感じたことのない感覚だった。
次の瞬間、路地の曲がり角から黒い霧が噴き出した。
よく見れば、それはただの霧ではない。
何かが、内側で蠢いている。
低い呻き声とともに、霧の中から歪で大きな人影が浮かび上がった。
赤黒い瞳だけが、ぎらりと二人を睨んでいる。
人影は周囲を見回すように、ゆっくりと首を動かした。
『……道。』
掠れた声が、黒い霧の奥から漏れる。
『どこだ。』
『どちらへ……行けばよい。』
その問いへ答える者はいない。
やがて人影の視線が、瑞稀へ止まった。
赤黒い瞳が、激しく揺れる。
次の瞬間、獣のような咆哮を上げ、こちらへ駆け出した。
「――ッ!」
旭が瑞稀の前へ飛び出す。
甲高い金属音が響き、人影の身体が数メートル先の壁へ弾き飛ばされた。
改めて見れば、それは穢れた狩衣を纏っている。
旭の手には、瑞稀の見覚えのない刀が握られていた。
「下がれ。」
「……はい。」
瑞稀が静かに後ずさる。
同時に、旭の身体を青白い稲光が駆け抜け、空気を震わせるほどの雷鳴が轟いた。
まるで、雷そのものを身に纏っているようだった。
人影は再び瑞稀へ飛びかかる。
旭は一歩踏み込み、刀を振るった。
雷光が、夕闇を鋭く切り裂く。
しかし、斬られたはずの人影は黒い霧となって崩れ、すぐさま再び姿を形作った。
「……倒せない。」
旭の声に、初めて焦りが滲む。
その瞬間だった。
瑞稀の耳元で、鈴の音のように澄んだ声が響いた。
聞いたことのない声。
それなのに、胸の奥がひどく懐かしい。
――迎えよ。
――道を失った我を。
そう感じた時、瑞稀の足元へ淡い光が広がった。
無数の文字が流れるように円を描き、瑞稀を包み込んでいく。
異変に気づいた旭が振り返った。
「瑞稀!」
瑞稀は、自分の口が勝手に動くのを感じた。
知らないはずの祝詞が、まるで昔から知っていた言葉のように、自然と紡がれていく。
「――謹んで、お迎えいたします。」
眩い白光が、夕闇を染めた。
第一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
執筆後、再編集をすることがあるので、少し内容が変わっていることがあります。
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