第五十五話 「選んだ先」
第五十五話 「選んだ先」
花里神社へ戻ってから、少し時間が経った。
忠司と朱莉には、まだ二人で話したいことがあるのだろう。
十年という時間を埋めるには、きっと朝のわずかな時間だけでは足りない。
瑞稀たちはいったん拝殿を離れ、境内へ出ていた。
朝日はすでに木々の間から差し込み、濡れた石畳の上へ細い光を落としている。
芽衣は大きく伸びをすると、空を見上げた。
「なんかさ。」
「はい。」
「本当に終わったんだね。」
その声には、安堵と、それだけではない何かが混じっていた。
瑞稀には、その理由が分かっている。
高天原で別れた、小さな神。
いつも芽衣の肩に座り、何かと口を挟んでは彼女と言い合っていた少彦名神は、もうそこにはいない。
芽衣自身も、それを意識しているのだろう。何度か無意識に肩へ手を伸ばしては、そのたびに何もないことを確かめるように手を下ろしていた。
その時だった。
――芽衣。
芽衣の足が止まる。
「……え?」
瑞稀と旭が振り返った。
「芽衣?」
「今……。」
芽衣は周囲を見回す。
誰もいない。
けれど、確かに聞こえた。
耳からではない。もっと内側、以前、神と繋がった時と同じ場所へ直接届くような声。
――芽衣。
今度は、はっきりと。
芽衣の目が大きく見開かれる。
「少彦名神様……?」
胸の奥が、大きく跳ねた。
「どうしましたか?」
「あの、ごめん。」
芽衣は境内の奥へ視線を向ける。
「ちょっとだけ待ってて。」
もう一度。
――こっちだ。
間違いない。
芽衣は二人を見る。
「ちょっと行ってくる。」
「……分かりました。」
「ありがと。」
芽衣は二人へ背を向け、声のする方へ走っていった。
◇
境内の裏手へ回る。
社殿から少し離れたそこには大きな木々が立ち並び、朝だというのにまだ薄暗い。
「少彦名神様?」
芽衣が呼ぶ。
返事はない。
代わりに、木の陰から一人の青年が姿を現した。
芽衣は足を止める。
年頃は、自分たちより少し上だろうか。背は旭ほど高くなく、整った顔立ちにはどこか幼さが残っているものの、当然、見覚えなどない。
青年は芽衣を見ると、何故か安心したように息を吐いた。
「……誰?」
青年の眉が、僅かに動く。
しばらく芽衣を見つめたあと、呆れたように口を開いた。
「何だ、忘れたのか。」
芽衣が目を瞬く。
その言い方、その少し偉そうな声。
「……え。」
青年は腕を組む。
「随分と薄情なものだな。つい先ほど、忘れるなと言ったばかりだというのに。」
「……もしかして。」
芽衣は青年の顔をまじまじと見つめた。
姿はまるで違う。声も、少し低い。
けれど、そこにあるものは知っている。
「少彦名神様……?」
「そうだ。」
「えええええっ!?」
芽衣の声が、境内の裏へ響いた。
青年――少彦名神が、思わず耳を塞ぐ。
「うるさい。」
「だって!え!?なんで!?大きい!」
「最初に出る言葉がそれか。」
「だって大きいじゃん!」
芽衣は少彦名神の周囲を回るように、その姿を確かめる。
以前なら自分の肩へ座れるほど小さかった身体が、今は同じ地面に立っていた。
「本当に少彦名神様?」
「先ほど答えた。」
「じゃあ、これ何!?」
「人の身体だ。」
芽衣の動きが止まる。
「……人の?」
「ああ。」
少彦名神は、自分の手を見下ろした。
「お前たちが高天原を去ったあと、大国主が来た。」
「……大国主?」
芽衣が首を傾げる。
「誰?」
少彦名神は、少しだけ呆れたように眉を寄せた。
「大国主神だ。我とともに国を造った神だ。」
「ああ……!」
芽衣は、そこでようやく思い当たったように目を見開く。
「その大国主神様が?」
「ああ。あやつは、最初から考えておったらしい。」
少彦名神は僅かに苦々しい顔をした。
「我らが人の世へ直接降り、神として傍に在り続けることは、もうない。だから我も、お前とはそこで別れるつもりだった。」
芽衣の表情が曇る。
あの時、『忘れるなよ』と告げた少彦名神の顔を思い出す。
本当に、あれが最後なのだと思った。
「……うん。」
「だが、大国主に言われた。」
少彦名神は芽衣を見る。
「神として傍にいられぬのなら、神であることを手放す道もある、と。」
芽衣の瞳が揺れた。
「それって……。」
「神の力の多くを失った。」
少彦名神は、自分自身で確かめるように静かに続ける。
「もう以前のようには力を振るえぬ。腹も減るらしい。眠りも必要になる。病にも罹るし、傷つけば痛む。」
「年も取る。」
芽衣は、何も言わずに聞いていた。
「そして、いずれ死ぬ。一度きりの命だ。」
少彦名神は、自分の胸元へ手を当てる。
「大国主に問われた。この命を選ぶのか、と。」
「それで……。」
芽衣は、恐る恐る尋ねた。
「選んだの?」
「ああ。」
答えは、迷いなく返ってきた。
芽衣の目に涙が浮かぶ。
「どうして。」
「それを聞くのか。」
「聞きたい。」
少彦名神は、少し困ったように視線を逸らした。
神として生きてきた年月からすれば、人の一生などほんの僅かな時間だ。
力も、知恵も、永い命も、その多くを手放した。
それでも。
「お前が言ったからだ。」
「私?」
「治っても忘れないと。」
芽衣の唇が、僅かに開く。
「知らぬなら、これから知ればよいとも言った。」
忘れられることを恐れ、誰かの傍にいることさえ諦めかけていた時、芽衣は、それでも自分を覚えていると言った。
「我は、忘れられることが怖かった。」
少彦名神は静かに言う。
「だが、それ以上に、今はお前を置いていく方が嫌だった。」
涙が、芽衣の頬を伝った。
「……ずるい。」
「何がだ。」
「そんなの言われたら、泣くじゃん。」
「泣けばよい。」
「誰のせいだと思ってるの。」
芽衣は涙を拭いながら笑い、一歩、少彦名神へ近づく。
以前なら肩へ乗せることができた小さな神が、今は同じ地面の上で、自分と向かい合って立っている。
芽衣は、そっと手を差し出した。
「じゃあ、これからもずっと傍にいてね。」
少彦名神は、その手を見つめたあと、静かに目を細める。
「ああ。」
差し出された手を取る。
神の光ではない、人の手の温もりが芽衣の指へ伝わった。
「……温かい。」
「人の身体だからな。」
「本当に人なんだ。」
「何度言わせる。」
芽衣は笑いながら、その手を少し強く握った。
「じゃあ、もう少彦名神様じゃなくなるの?」
「我が我であることは変わらぬ。」
「そっか。」
芽衣は少し考える。
「じゃあ、しばらく少彦名神様でいいや。」
「しばらくとは何だ。」
「そのうち考える。」
「勝手な娘だ。」
そう言いながらも、少彦名神は手を離さなかった。
◇
芽衣を見送ったあと、境内には瑞稀と旭だけが残された。
遠くから鳥の声が聞こえ、少しずつ強くなる朝の光が、瑞稀の黒髪を柔らかく照らしている。
旭が、芽衣の消えた方角を見る。
「大丈夫か。」
「芽衣ですから。」
「それもそうか。」
二人の間へ、静かな時間が流れた。
以前なら、この沈黙を瑞稀は何とも思わなかったかもしれない。
けれど今は、隣に旭がいることを、はっきりと意識していた。
瑞稀は、ふと口を開く。
「そういえば、私、まだ旭へお話ししていないことがありました。」
旭が瑞稀を見る。
「何だ。」
「思金神様と太玉命様を御霊還しした時のことです。」
旭の瞳が僅かに動く。
「ああ。」
「あの時、旭は、私が何を選んだのか聞いてくださいました。」
「そうだったな。」
「私は、いずれお話しすると答えました。」
瑞稀は、自分の胸元へ手を添える。
あの時、問われた。
もし誰からも役目を与えられなかったなら、何をしたいのか。
誰と歩きたいのか。
「今なら、お話しできると思います。」
旭は何も急かさず、ただ瑞稀の言葉を待っている。
「私は、神卸をするために生きることしか知りませんでした。」
瑞稀は、生まれ育った神社を見渡した。
朝ごとに祝詞を奏上し、神を迎えるために自らを整えてきた場所。
「ですから、何も決められていない自分の未来を考えることは、とても難しかったのです。」
「……ああ。」
「けれど、思金神様たちに問われた時、一つだけ分かったことがありました。」
「何だ。」
「一人では、歩きたくないと思いました。」
旭の表情が、僅かに変わる。
「父様や母様、芽衣。これからも、大切な方々と繋がっていたいと思いました。」
そして。
「旭とも。」
旭が息を止めたのが分かった。
瑞稀は少しだけ目を伏せる。
「ですが、あの時の私は、それがどういう気持ちなのか、まだ分かっていませんでした。」
旭は、すぐには答えなかった。
やがて、少しだけ笑う。
「お前らしいな。」
「そうでしょうか。」
「ああ。」
少しだけ空気が緩む。
今度は旭が前を向いた。
「俺も、話してなかったな。」
「建御雷神様とのことですか。」
「ああ。」
瑞稀は僅かに目を見開く。
「覚えていたのですね。」
「忘れるか。」
旭は、小さく息を吐いた。
「あの時、俺は建御雷神に言われた。守ることを、自分の価値にするなって。」
旭の手が、ゆっくりと握られる。
「俺はずっと、お前を守ればいいと思ってた。」
幼い頃から、母を失い、感情を表へ出さなくなった瑞稀の傍で、何かを聞けば傷つけるかもしれないと思いながら、それでも離れることができなかった。
「お前が何を望んでるのか聞かずに、俺が守ればいいって勝手に決めてた。」
「旭。」
「建御雷神の荒魂も、同じだった。」
守るために力を振るい、その思いが、いつしか相手の選択を奪うことへ変わっていた。
「だから。」
旭は瑞稀を見る。
「これからは、ちゃんと聞く。」
「私に?」
「ああ。お前が何をしたいのか。」
一拍置く。
「俺と、どうしたいのかも。」
瑞稀の胸が、大きく鳴った。
その音に、自分自身が驚く。
以前なら分からなかった、嬉しいという感情も、苦しいという感情も、誰かを失いたくないという恐怖も、今はすべて名前を持っている。
瑞稀は、静かに息を吸った。
「旭。」
「何だ。」
「黄泉で、あなたが私へ伝えてくださったことを思い出しました。」
旭の表情が強張る。
母がいなくなってから、瑞稀が感情を失ったように見えたこと。
何かあるたびに聞きたかったけれど、傷つけるのが怖くて何でもないふりをしていたこと。
瑞稀が何も話してくれないことが寂しかったこと。
最近、多くのことを忘れていく瑞稀が怖かったこと。
そして。
ずっと、好きだったこと。
「……そうか。」
旭の声が、僅かに低くなる。
「はい。」
瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。
「以前の私は、その言葉を嬉しいと思いながら、それが旭と同じ気持ちなのか分からないとお答えしました。」
「ああ。」
「ですが、今は分かります。」
瑞稀は旭から目を逸らさない。
「黄泉で、あなたのお名前を思い出せなかった時、息ができないほど怖いと思いました。」
一歩、旭へ近づく。
「あなたが黒い水へ呑まれた時、何を失っても構わないから、取り戻したいと思いました。」
「瑞稀。」
「父様も、母様も、芽衣も、私にとって大切な方々です。それは変わりません。」
けれど。
「旭へ向ける気持ちは、それとは少し違うのだと、今は分かります。」
もう一歩。
二人の間にあった距離が狭まる。
「あなたに、私の隣へいてほしい。」
旭は動かない。
ただ、その言葉を受け止めている。
「あなたの隣に、私がいたい。」
瑞稀は少しだけ頬を赤くした。
それでも、目は逸らさなかった。
「あなたが、他の誰かを好きになるのは嫌です。」
旭の唇が僅かに動く。
「……それは。」
「はい。」
瑞稀は、小さく頷いた。
「これが、好きということなのだと思います。」
旭は何も言わなかった。
一瞬。
二瞬。
やがて、全身から力が抜けるように肩を落とす。
「……遅い。」
「申し訳ありません。」
「謝るな。」
旭は笑った。
ほんの僅かに口元を緩めただけ。
それでも瑞稀には、今まで見た中で最も嬉しそうな笑顔に見えた。
瑞稀も、つられるように笑う。
「もう一度、言ってもよいですか。」
「何を。」
「旭が、好きです。」
旭は一度目を閉じ、それから再び瑞稀をまっすぐに見つめた。
「……ああ。俺も好きだ。」
それは、黄泉で感情を溢れさせながら告げられた時とは違う。
静かで、それでも何一つ迷いのない言葉だった。
旭が瑞稀へ手を伸ばす。
頬へ触れる直前で、その指が止まった。
「触れても、いいか。」
瑞稀は、僅かに目を瞬く。
少し前、父も母へ同じことを尋ねたのだろうか。
そんなことを、ふと思う。
そして今の自分には、その問いへの答えを、自分で選ぶことができる。
「はい。」
旭の手が、瑞稀の頬へ触れる。
温かい。
黄泉の冷気の中でも、名前を失った時にも、何度も自分を引き戻してくれた温もり。
瑞稀は、その手を失いたくないと思った。
自らの手を重ね、それから、ほんの少し背伸びをする。
旭が目を見開いた。
けれど、瑞稀は止まらなかった。
自分で選んだことだから。
その唇へ、自らの唇を重ねる。
触れたのは、ほんの一瞬だった。
離れると、旭は何も言わずに瑞稀を見つめている。
瑞稀は、少し不安になった。
「……間違っていましたか。」
「いや。」
旭の声が、少し掠れていた。
「間違ってない。」
「そうですか。」
瑞稀が安堵したように息を吐くと、旭は額へ手を当てた。
「お前、本当に……。」
「はい。」
「いや、何でもない。」
旭は顔を背ける。
耳まで赤く染まっていた。
瑞稀は、その色を見て小さく笑う。
「旭。」
「何だ。」
「私も、今度は忘れません。」
旭は一瞬黙ったあと、瑞稀の手を握った。
「忘れても、また言う。」
「はい。」
「何度でも言う。」
瑞稀は、その手を握り返す。
「それなら、安心です。」
朝の光の中。
今度こそ、二人の間にあった距離は、もうどこにもなかった。
第五十五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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