第五十六話 「神話を語る者」
第五十六話 「神話を語る者」
朝五時。
目覚ましが鳴る一分前に、瑞稀は静かに目を開けた。
長く繰り返してきた習慣は、すぐには変わらない。
布団を畳み、顔を洗い、白い巫女装束へ袖を通して、まだ薄暗い廊下を歩いていく。
けれど、以前とは違う。
家の中は、静まり返ってはいなかった。
台所からは包丁がまな板を叩く音が聞こえ、味噌汁の温かな香りも廊下まで漂っている。
「瑞稀。」
台所から、朱莉が顔を覗かせた。
「祝詞が終わったら、朝餉にしましょう。」
「はい、母様。」
朱莉は、穏やかに微笑んだ。
その後ろでは、忠司が黙って湯呑みを並べている。
あの日から、花里家の朝は随分と賑やかになった。
瑞稀は朱莉へ一礼すると、朝の拝殿へ向かった。
冷たい空気が頬を撫で、石畳には淡い朝露が残っている。
拝殿の扉を開くと、薄暗い社殿の奥へ、御神体の鏡が静かに祀られていた。
けれど、祭壇の前に和紙は置かれていない。
父が用意した祝詞を、その意味も知らないまま読み上げる日々は、もう終わった。
瑞稀は神前へ進み、静かに正座する。
背筋を伸ばし、深く一礼する。
そして、自ら選んだ言葉で祝詞を奏上した。
神をその身へ迎えるためではない。
神々へ、力を求めるためでもない。
遠くにいる友へ、朝が訪れたことを伝えるための祈りだった。
奏上を終え、瑞稀が深く頭を下げる。
その時。
――チリン。
澄んだ鈴の音が、拝殿へ響いた。
瑞稀が顔を上げる。
御神体の鏡へ柔らかな日の光が差し込み、その奥で白い衣が僅かに揺れたように見えた。
『おはようございます、瑞稀。』
懐かしい声。
瑞稀は、小さく微笑んだ。
「おはようございます、天照様。」
『朱莉は、もう起きていますか。』
「はい。朝餉の支度をしております。」
『そうですか。』
天照の声が、僅かに弾んだ。
『では、少しだけ顔を見に行ってもよいでしょうか。』
「もちろんです。母様も、きっとお喜びになります。」
鏡から溢れた光が細かな粒となり、そのまま拝殿を抜け、家の方角へ流れていった。
瑞稀が廊下へ戻ると、台所から朱莉の弾んだ声が聞こえてくる。
「天照様。今日は、随分とお早いのですね。」
『たまには、朝餉をご一緒したいと思いまして。』
「それでしたら、もう一品お作りいたします。」
「……神は、食べぬのではなかったか。」
忠司の低い声が聞こえた。
天照が、僅かに笑う。
『味わうことはできます。』
「そういうものなのか。」
『そういうものです。』
瑞稀は、戸口から二人と一柱のやり取りを見つめた。
花里家が神卸の器を育て、荒魂を還す役目は、あの日をもって終わった。
もう、神々の御魂が切り離されることはない。
神を迎えるために、自らの記憶を差し出す者も必要ない。
花里家は、役目を終えた。
けれど、この場所から神々の気配が消えたわけではなかった。
朱莉へ会うため、天照がふらりと訪れる日もある。
火之迦具土が、伊邪那美から預かった土産を抱え、騒がしく現れる日もあった。
猿田毘古が境内の道を眺めながら忠司と静かに茶を飲み、宇迦之御魂の狐たちが縁側で昼寝をしていることもある。
神社はもう、神と人の間へ立つ一族だけのための場所ではない。
人も、神も。
ただ、会いたい者を訪ねてくる場所になっていた。
石段の下から、聞き慣れた声が響く。
「おはよー!」
芽衣が、勢いよく鳥居をくぐってきた。
その少し後ろを、人の姿となった少彦名神が歩いている。
「芽衣。」
「朝から、大声を出すな。」
「いいじゃん、神社なんだから。」
「神社であれば、なおさら静かにせよ。」
「もう、神様じゃないくせに。」
「人となったからといって。」
少彦名神は、僅かに眉を寄せた。
「神であった頃の記憶まで、失ったわけではない。」
相変わらず言い合いながらも、二人の歩幅は自然と揃っている。
人の身体へ宿った少彦名神は、空腹にも眠気にも、季節ごとの寒暖にも、ようやく慣れ始めたらしい。
芽衣は、そんな少彦名神を連れ、町のあちこちを歩いていた。
薬草を見つければ少彦名神が足を止め、その説明が長くなれば芽衣が途中で飽きる。
最後には、二人で甘いものを買って帰ってくる。
特別なことのない毎日を、二人は楽しそうに重ねていた。
芽衣が瑞稀を見つけると、大きく手を振る。
「瑞稀、おはよう!」
「おはようございます、芽衣。」
「旭君は?」
「もうすぐ、来ると思います。」
瑞稀が答えた直後、鳥居の向こうから旭が姿を見せた。
以前と同じように、黒い髪を朝風へ揺らしながら石段を上ってくる。
「おはようございます、旭。」
「おはよ。」
いつもと変わらない、短いやり取り。
けれど旭は瑞稀の前へ立つと、ごく自然にその手を取った。
芽衣が、にやりと笑う。
「朝から、仲良しだねえ。」
「うるさい。」
「何も言ってないじゃん。」
「言ってるだろ。」
旭が不機嫌そうに返す。
その横で、瑞稀は繋がれた手を見つめた。
あの頃は、隣に立つだけで胸が揺れる理由さえ分からなかった。
今は、その温もりを嬉しいと思うことも、離したくないと願うことも、自分の言葉で伝えられる。
「朝餉が、できましたよ。」
朱莉の声が、家の中から届いた。
瑞稀たちは顔を見合わせ、揃って歩き出す。
神を迎えるためではない。
何かを救うためでもない。
同じ食卓を囲み、くだらないことで笑うために。
それが、あの日、瑞稀たちが取り戻した日常だった。
◇
学校へ着けば、そこにはいつもと変わらない朝が待っていた。
教室へ入るなり、芽衣は友人たちに囲まれ、冬休みの間のことをあれこれと尋ねられている。
瑞稀も席へ着き、机の中から教科書を取り出した。
神々の荒魂も、黄泉も、高天原も、この教室には何一つ関係がない。
それが、今は少し嬉しかった。
放課後。
「旭ー!」
廊下の向こうから、男子生徒の声が飛んでくる。
「今日、来るんだろ。早くしろよ。」
旭が振り返った。
「分かってる。」
肩へ部活用の鞄を掛ける。
瑞稀は、その姿を少し不思議な気持ちで見つめていた。
以前なら、旭が自分から離れていくことに、胸のどこかがざわついたかもしれない。
けれど、今は違う。
旭には旭の時間があり、自分にも自分の時間がある。
それでも、また明日会える。
「瑞稀。」
旭が振り返る。
「先に帰っててくれ。」
「はい。」
瑞稀は、僅かに微笑んだ。
「部活動、頑張ってください。」
「ああ。」
旭はクラスメイトのもとへ駆けていく。
芽衣がその背中を見送りながら、瑞稀の隣へ並んだ。
「なんか、普通だね。」
「はい。」
瑞稀も、遠ざかる旭の背中を見つめる。
「普通です。」
それが、何よりも嬉しかった。
◇
それから、幾年もの時が流れた。
朝の光が、町外れに建つ一軒の家へ差し込んでいる。
神社の社務所でも、古い日本家屋でもない。
小さな庭のある、ごく普通の家だった。
玄関では、旭が靴を履きながら鞄を手に取っている。
学生だった頃よりも背は僅かに伸び、顔立ちも大人びていた。
けれど、黒い髪と少し鋭い目元は、昔とほとんど変わっていない。
「忘れ物は、ありませんか。」
瑞稀が尋ねる。
「ない。」
「お弁当は。」
「持った。」
「資料は。」
「入れた。」
「本当に?」
旭が、僅かに眉を寄せた。
「お前は、俺を何だと思ってる。」
「以前、お弁当を玄関へ置いたまま出かけました。」
瑞稀は、静かな声で答える。
「あれは、一度だけだ。」
「資料を、机へ忘れたこともあります。」
「……二度だな。」
足元で、小さな笑い声が弾けた。
二歳ほどの子どもが、旭の脚へ両腕を回している。
「とうさま、わすれんぼ。」
旭は一瞬黙り、それから子どもを抱き上げた。
「誰に教わった。」
「かあさま。」
「瑞稀。」
「事実を、お伝えしただけです。」
瑞稀は、昔と変わらない静かな口調で答えた。
けれど、その口元には柔らかな笑みが浮かんでいる。
腰まで伸びていた髪は、少し短くなっていた。
旭は、抱き上げた子どもの額へ、自分の額を軽く触れさせる。
「行ってくる。」
「いってらっしゃい。」
子どもが、短い腕を旭の首へ回した。
旭はその身体を抱き締めたあと、ゆっくりと床へ下ろす。
「いってらっしゃい、旭。」
「ああ。」
旭は一歩外へ出る。
「行ってくる。」
そのまま歩き出そうとして、もう一度振り返った。
「瑞稀。」
「はい。」
「今日は、遅くならない。」
「分かりました。」
「……待っていてくれ。」
瑞稀は、僅かに目を細める。
「はい。」
一度、言葉を置いた。
「いつまでも。」
「そこまで、遅くならない。」
「そうですか。」
旭は、呆れたように息を吐いた。
けれど、その耳は昔と同じように僅かに赤くなっている。
瑞稀は、子どもと並んで手を振った。
旭の背中が、道の向こうへ消えるまで。
その後ろ姿を見つめていると、子どもが瑞稀の手を握った。
「とうさま、かえってくる?」
「はい。」
瑞稀は、小さな手を握り返す。
「必ず、帰ってきます。」
かつての瑞稀は、帰ってこない者を待つことしかできなかった。
けれど今は、帰ると言ってくれる人がいる。
自分もまた、その人のもとへ帰ることができる。
それは当たり前のようでいて、何よりも大切な約束だった。
◇
花里神社には、忠司と朱莉が今も暮らしている。
役目を終えた境内には、以前のような張り詰めた空気はない。
忠司は朝になると石畳を掃き、朱莉は縁側で茶を淹れながら、その姿を眺めていた。
時折、鏡の向こうから天照が姿を現し、朱莉の隣へ座ることもある。
『この菓子は、以前のものと少し違いますね。』
「最近、町に新しいお店ができたのです。」
『今度は、瑞稀たちにも持っていきましょう。』
「ええ。」
朱莉は、嬉しそうに微笑む。
「あの子も、きっと喜びます。」
少し離れた場所では、忠司が二人の会話を聞きながら、黙って湯呑みをもう一つ用意していた。
天照は、それを見て柔らかく微笑んだ。
かつて、神と人の間には深い隔たりがあった。
けれど今、女神は古い友を訪ねるように神社へ来る。
忠司の淹れた茶を飲み、朱莉と穏やかな時間を過ごす。
それでよいのだと、三人とも知っていた。
◇
芽衣と少彦名神も、変わらず町で暮らしていた。
少彦名神は人として医薬を学び直し、町の小さな診療所で働いている。
神であった頃の知識だけには頼らず、人の身体を、人の心を、一から知ろうとしていた。
芽衣は、そんな少彦名神の隣で、相変わらずよく笑っている。
「また、お昼食べてないでしょ。」
「患者が、途切れなかったのだ。」
「人間は、ご飯を食べないと倒れるんだからね。」
「分かっている。」
「全然、分かってない。」
芽衣が差し出した弁当を、少彦名神は文句を言いながらも受け取った。
「……ありがとう。」
「どういたしまして。」
二人は、いつか終わる一度きりの時間を惜しむのではなく、大切に重ねていた。
◇
夜。
瑞稀は、小さな寝室の明かりを落とした。
窓の外では、風に揺れる木々の葉が静かな音を立てている。
布団の中では、子どもが瑞稀の腕へ身を寄せていた。
旭は、まだ帰宅したばかりだった。
隣の部屋から、着替える音が聞こえてくる。
「かあさま。」
「何でしょうか。」
「おはなし。」
「どのようなお話が、よいですか。」
子どもは、少しだけ考えた。
「かみさまの、おはなし。」
瑞稀は、僅かに目を見開く。
その言葉を聞いた瞬間、胸の中へ数え切れないほどの景色が蘇った。
黄金の道。
赤く燃える炎。
桜の花びら。
風に揺れる稲穂。
白い波打ち際。
閉ざされた岩戸。
黄泉の暗闇。
そこで出会った、悲しみを抱えた神々。
怒りを抱えた神々。
迷い、傷つき、それでも誰かを思い続けた神々。
それは瑞稀にとって、遠い昔話ではない。
自分たちが歩き、触れ、言葉を交わした、大切な記憶だった。
けれど、この子にとっては、これから初めて知る物語になる。
花里家の役目は、もう終わった。
神を迎える器も、荒魂を還す巫女も、必要とされることはない。
それでも、神々が迷い、傷つき、誰かとともに歩くことを選んだ物語まで、失われる必要はなかった。
神話は、役目として受け継ぐものではない。
大切な人へ、言葉で語り継ぐものなのだ。
寝室の扉が、静かに開いた。
着替えを終えた旭が部屋へ入り、瑞稀と子どもの隣へ腰を下ろす。
「何の話をするんだ。」
「神様のお話を、聞きたいそうです。」
「そうか。」
旭は子どもの髪を撫で、それから瑞稀へ視線を向けた。
その瞳には、あの日から変わらない穏やかな光がある。
瑞稀は、旭の肩へ僅かに寄りかかった。
子どもは布団の中で目を輝かせ、二人の顔を交互に見つめている。
「こわい?」
「少しだけ、怖いお話もあります。」
「やさしい?」
「はい。」
瑞稀は、静かに微笑む。
「とても優しい神様も、大勢いらっしゃいます。」
「かあさま、あったことある?」
瑞稀は、一瞬だけ旭を見る。
旭は何も言わず、ただ僅かに口元を緩めた。
瑞稀もまた、静かに微笑む。
「それは。」
一度、言葉を置く。
「お話を聞いてからの、お楽しみです。」
子どもは、嬉しそうに頷き、瑞稀の腕へ顔を寄せた。
窓の外から、風が吹く。
――チリン。
どこからか、懐かしい鈴の音が聞こえた。
瑞稀は、窓へ目を向ける。
そこに神の姿は見えない。
それでも、きっと近くで聞いているのだろうと思った。
遠い高天原で。
静かな黄泉で。
あるいは、すぐそばの夜の中で。
瑞稀は子どもの髪を撫で、旭の温もりを肩へ感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「昔々。」
一度、柔らかく息を吸う。
「天照という神様が、いました。」
第五十六話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本話をもちまして、『御霊還しの巫女』は完結となります。
この物語は、これまでに何度か書き始めては途中で挫折し、形にできないまま、八年ほど心の中でくすぶり続けていました。
このたび、AI技術の発達にも助けられ、ようやく最後まで書き切ることができました。
物語の中盤以降は、一話一万文字を超える回も増え、読者の皆様のご負担になっていないか、不安に思うこともありました。
それでも、どうしても省くことのできない場面や、最後まで見届けていただきたい神々の思いが多く、結果として長い物語となりました。
できる限り読みやすい文章を意識してきましたが、瑞稀たちの歩みを少しでも楽しんでいただけていたなら、これ以上嬉しいことはありません。
さて、『御霊還しの巫女』としての物語は、ここで一度終わりとなります。
しかし、今後は外伝として、芽衣と少彦名神が少しずつ距離を縮めていった経緯や、本編に登場した神々の紹介なども、投稿できればと考えています。
第五十四話まで、瑞稀たちの物語にお付き合いいただきましたことを、心より感謝申し上げます。
本当に、ありがとうございました。




