第五十四話 「帰る場所」
第五十四話 「帰る場所」
高天原から現世へ続く光の道は、出口を目前にして二つへ分かれた。
一方は、花里神社へ。
もう一方は、伊勢へ。
天照は、朱莉を花里神社へ送り届けると告げた。
十年以上、帰ることのできなかった場所。
夫が待つ、自分の家へ。
瑞稀も一緒に帰りたい気持ちはあった。
けれど、現世へ帰る前に、自分自身の言葉で終わらせておきたいことが一つだけ残っていた。
荒木田家。
花里家とともに、長い間、神と人を繋ぐ役目を背負ってきた本家。
そして、瑞稀自身の婚姻まで、役目の中で決めようとしていた家。
だから瑞稀は、母とは別の道を選んだ。
「母様。」
光の中で朱莉の手を握る。
「あとで、必ず帰ります。」
朱莉は、少しだけ寂しそうに目を細めた。
けれど、瑞稀の選択を止めようとはしなかった。
「ええ。」
その手を、一度強く握り返す。
「待っています。」
「はい。」
朱莉を包む光が、ゆっくりと遠ざかっていく。
その姿が見えなくなるまで、瑞稀は見送った。
今度は、母が消えてしまったのではない。
帰る場所が、少し違うだけ。
あとで会える。
そう分かっているだけで、胸に残る感情はまるで違っていた。
瑞稀は前を向く。
隣には旭、少し後ろには芽衣と少彦名神がいる。
「参りましょう。」
「ああ。」
「少彦名神様は……?」
『我は、ここまでだ。』
「……え。」
『神卸は終わった。これからは、我らが人の世へ直接降り、誰かの傍に在り続けることもない。』
「じゃあ……もう、会えないの?」
少彦名神は少し困ったように笑う。
『祭りの声くらいは聞こえる。祈りもな。』
『だが、今までのようにはいかぬ。』
芽衣は何か言おうとして、結局言えない。
「……そっか。」
『芽衣。』
「うん。」
『忘れるなよ。』
芽衣は泣きながら笑う。
「そっちこそ。」
三人は、伊勢へ続く光の中へ歩き出した。
芽衣は一度だけ、先ほどまで少彦名神が座っていた肩へ手を添えた。
けれど、振り返らなかった。
◇
眩しさが収まる。
足の裏へ、冷たい石の感触が戻ってきた。
瑞稀が目を開けると、見覚えのある社の前に立っていた。
伊勢。
荒木田家の神域。
冬の朝の空気は澄み、木々の間を抜ける風には、高天原にはなかった現世の冷たさがある。
けれど、その冷たささえ今は懐かしかった。
芽衣が大きく息を吸う。
「……帰ってきた。」
「はい。」
旭は周囲へ視線を巡らせたあと、僅かに肩の力を抜いた。
その時、社の奥から足音が聞こえた。
瑞稀たちは、一斉にそちらへ顔を向ける。
廊下の向こうから現れたのは、公寛だった。
瑞稀たちの姿を認めた瞬間、その足が止まる。
いつもと変わらない、整えられた装い。
静かな表情。
けれど、僅かに見開かれた瞳だけが、驚きを隠せていなかった。
「……瑞稀さん。」
「公寛様。」
瑞稀が一礼する。
公寛の視線が、瑞稀の白銀の髪と琥珀色の瞳へ向かう。
それから、旭、芽衣へと、一人ずつ確かめるように見つめた。
「ご無事で。」
一度、言葉を切る。
「戻られたのですね。」
「はい。」
公寛は、目を閉じるように小さく息を吐いた。
「……よかった。」
その声は、本家の跡継ぎとしてではなく、ただ一人の人間として零れたものに聞こえた。
ほどなくして、瑞稀たちは座敷へ案内された。
公寛は向かい側へ座ると、しばらく瑞稀たちを見つめていた。
やがて、静かに口を開く。
「先ほど、天照様より神託を賜りました。」
「神々は、もう荒魂と和魂を切り離さないこと。」
「神卸も、これをもって終わること。」
「そして、神を迎える器を育てる必要も、そのために血筋を繋ぐ必要もなくなったこと。」
その一つひとつを、公寛は確かめるように口にした。
「伊勢の祭祀は、これまでどおり荒木田家が担ってよいとも伺いました。」
公寛はしばらく、その言葉が意味するものを自分の中へ落とし込むように目を伏せていた。
内容そのものは、すでに神託によって告げられている。
それでも瑞稀を前にして改めて口にすると、長く背負ってきた役目が本当に終わるのだという実感が、ようやく形を持ったのかもしれない。
やがて、公寛が静かに呟く。
「私たちが守ってきた役目も、ここで形を変えるのですね。」
「はい。」
「すべてなくなるのではなく。」
瑞稀は、少し考えてから続ける。
「祈りは、これからも届きます。祭りも、神事も、人が神様方へ願いを届けることも、なくなるわけではありません。」
一度、言葉を置く。
「ただ、誰か一人の身体へ神様を迎えなければならない時代が、終わったのだと思います。」
公寛は、ゆっくりと顔を上げた。
「……そのようですね。」
その表情からは、喜んでいるのか、寂しんでいるのか、瑞稀にはすぐには分からなかった。
瑞稀が神を迎える器として育てられたように、公寛はこの家の跡継ぎとして育った。
彼もまた、荒木田家を残し、血筋を守り、役目を次へ繋ぐ者として生きてきたのだろう。
「瑞稀さん。」
「はい。」
「以前のお話ですが。」
旭の気配が、僅かに変わった。
けれど何も言わない。
瑞稀自身の話だと分かっているように、黙って待っている。
「本家と花里家の婚姻ですね。」
公寛は、静かに頷いた。
「ええ。」
「ですが、その役目はもうありません。」
「そうですね。」
公寛は、僅かに目を伏せた。
「ならば。」
静かに、けれどはっきりと告げる。
「この婚姻の話も、ここで終わりにいたしましょう。」
瑞稀は、小さく息を吸った。
以前、自分が嫌だと伝えた時とは違う。
自分の気持ちだけで、無理に制度へ抗う必要もない。
制度そのものが、もう人の人生を決める理由を失った。
「ありがとうございます。」
瑞稀は、深く頭を下げた。
公寛は、ほんの僅かに困ったような笑みを浮かべる。
「礼を言われることでもないでしょう。」
「ですが。」
公寛は、そこで一度言葉を止めた。
「少し、残念ではあります。」
旭の眉が僅かに動き、芽衣も公寛を見る。
瑞稀も、目を瞬いた。
公寛は、その反応に気づいたのか、小さく笑った。
「瑞稀さんを妻として迎えられなくなることが、まったく残念でないと言えば、嘘になります。」
「あなたは、とても立派な方ですから。」
「けれど。」
視線が、瑞稀の隣へ向く。
旭。
それから、繋がれてはいない二人の手元へ。
「あなたが望んでいないことも、分かっていました。」
瑞稀は、何も言えなかった。
「ですから。」
公寛は、静かに息を吐く。
「少し、安心もしています。」
「公寛様も。」
瑞稀は、ゆっくりと尋ねる。
「望んでおられなかったのですか。」
公寛は、すぐには答えなかった。
やがて少しだけ視線を逸らす。
それは、これまで見てきた公寛には珍しい仕草だった。
「……私にも。」
「家のためではなく、私自身の気持ちで向き合いたい方がおります。」
瑞稀の瞳が、僅かに揺れた。
公寛は、それ以上は何も言わなかった。
相手が誰なのか、瑞稀も尋ねなかった。
「そうですか。」
瑞稀は、微笑んだ。
「では、公寛様も、ご自分でお選びください。」
公寛は、一瞬だけ目を見開く。
それから、これまでで最も柔らかな表情で笑った。
「はい。」
「そういたします。」
◇
話を終え、瑞稀たちは荒木田家を後にした。
冬の空は高く、陽は少しずつ昇り始めている。
旭が、隣を歩きながら口を開いた。
「終わったな。」
「はい。」
何が、とは聞かなかった。
神卸も、御霊還しも、婚姻の話も。
自分の人生を誰かに決められる日々も。
いろいろなものが、一つずつ終わっていく。
「旭。」
「何だ。」
「少し、不思議です。」
「何が。」
「何をすればよいのか、分からないことが。」
瑞稀は、前を向いたまま続ける。
「今までは、決められていましたから。」
朝起きて、祝詞を奏上して、神を迎える身体を整え、荒魂が現れれば御霊を還す。
それが、自分の生き方だった。
「これからは、自分で決めなければならないのですね。」
旭は、僅かに目を細めた。
「別に、今日決める必要はないだろ。」
「そうなのですか。」
「そうだ。明日でも、来年でも、何年後でもいい。」
旭は、前を向く。
「自分で決めればいい。」
瑞稀は、その言葉を胸の中で繰り返した。
「……はい。」
不思議と、怖くはなかった。
冬の風が、瑞稀の白銀の髪を揺らした。
ふと視界の端で、その色が変わる。
「……瑞稀。」
旭の声に、瑞稀は足を止めた。
一房の髪を指先で掬う。
白銀だった髪へ、ゆっくりと黒が戻っていた。
境目があるわけではない。
神の光が少しずつほどけていくように、淡い銀が本来の黒へ溶けていく。
「戻って……。」
瑞稀が顔を上げると、旭はその瞳を見つめていた。
「目もだ。」
「瞳も、ですか。」
「ああ。」
琥珀色だった瞳も、いつの間にか深い黒へ戻っている。
けれど、以前とまったく同じではなかった。
光を受けるたび、黒の奥に金が揺れ、角度を変えれば青や赤にも見える。
これまで触れてきた神々の光が、ほんの僅かに残っているようだった。
瑞稀は、自分の髪へ触れたまま小さく息を吐く。
「人に、戻れたのでしょうか。」
旭は少しだけ目を細めた。
「最初から人だろ。」
瑞稀は僅かに目を見開き、それから小さく笑った。
「……そうでした。」
◇
一方、その頃。 花里神社には、朝の光が差し込み始めていた。
拝殿の前で、忠司は立ち尽くしている。
その向かいには、朱莉。
十年という時間は、二人の間へあまりにも多くのものを積み重ねていた。
会えなかった日々も。 伝えられなかった言葉も。
互いが何を思っていたのかさえ分からないまま、過ぎていった時間も。
たった一言で、埋められるものではない。
それでも。
「……朱莉。」
忠司が、震える声で名を呼んだ。
朱莉の瞳から、堪えていた涙が零れ落ちる。
「はい。」
ただ、それだけだった。
それだけで、忠司の表情が大きく歪んだ。
いつも厳しく、何があっても感情を表へ出そうとしなかった忠司が、今は、泣くことさえ堪えられないように唇を震わせている。
忠司が、一歩前へ出る。
けれど、すぐには朱莉へ触れなかった。
本当にここにいるのか。 目の前の姿が、また消えてしまわないか。
確かめるように、何度もその顔を見つめている。
「……触れても、いいか。」
朱莉は涙を流したまま、小さく笑った。
「そのようなことまで、聞くようになったのですね。」
「聞かなかった結果が、これだからな。」
忠司の声には、深い悔いが滲んでいた。
朱莉は、静かに首を横へ振る。
「あなた一人のせいではありません。」
「だが、私は何も話さなかった。」
忠司は、僅かに目を伏せた。
「瑞稀にも。」
「お前にも。」
「守るためだと言いながら、何も選ばせなかった。」
握られた拳が、僅かに震える。
「結果として、二人とも失いかけた。」
「それでも。」
朱莉は、忠司へ一歩近づいた。
「守ろうとしてくれたのでしょう。」
「守れなかった。」
「いいえ。」
朱莉は、忠司の胸元へ額を寄せる。
「ずっと、待っていてくれました。」
忠司の両腕が、恐る恐る朱莉の背へ回る。
その手が衣へ触れた瞬間。 朱莉の肩が、大きく震えた。
「……ただいま、戻りました。」
「ああ。」
忠司は、妻を強く抱き締める。
「おかえり、朱莉。」
その言葉を聞いた朱莉は、声を押し殺すように忠司の胸へ顔を埋めた。
長い時間を隔てて、ようやく夫婦の間へ戻った、言葉だった。
◇
それから、しばらくして。
花里神社へ戻った瑞稀たちは、石段を上っていた。
石段を上がるにつれ、瑞稀の足が少しずつ速くなる。
見慣れた鳥居。
見慣れた石畳。
毎朝歩いていた境内。
けれど今日は、いつもとは違う。
拝殿の前には、並んで立つ父と母の姿があった。
二人の目元には、泣いた跡が残っている。
母は父のすぐ隣にいて、父もまた、もうその距離を空けようとはしていなかった。
瑞稀がここへ帰るまでの間に、二人の間でどんな言葉が交わされたのかは分からない。
けれど。
十年という時間を隔てても、母は父のもとへ帰り、父は母を迎えたのだ。
朱莉が、石段を上りきった瑞稀へ笑いかける。
「おかえりなさい、瑞稀。」
瑞稀も、父と母を見つめて微笑んだ。
「ただいま、帰りました。」
第五十四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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