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第五十三話 「神と人のあいだ」

第五十三話 「神と人のあいだ」


黄金の鳥居をくぐった瞬間、身体を包んでいた空気が変わった。


黄泉に満ちていた冷たさも、肌へ纏わりつくような重い気配も、もうない。


瑞稀がゆっくりと顔を上げると、白く霞んだ空の下、黄金の石畳が遠くまで続いていた。


その両側には、名も知らぬ草花が風に揺れ、さらに向こうには淡い光を宿した社が幾つも並んでいる。


高天原。


かつて、天照の岩戸を訪れた時にも足を踏み入れた神々の地。


けれど、あの時は岩戸へ向かうことだけで精一杯で、その全容を見渡す余裕などなかった。


今、改めて目の前に広がる高天原は、あの時とはまるで違って見えた。


「……ここが。」


隣で芽衣も辺りを見渡す。


「高天原なんだ。」


『そうじゃ。』


芽衣の肩にいた少彦名神(すくなびこな)が、小さく頷いた。


黄泉を抜けたからだろうか。その声にも、どこか安堵が滲んでいる。


少し後ろでは、朱莉が目を細めていた。


十年以上、この地で天照(あまてらす)の傍にいた人。


瑞稀にとっては二度目の場所でも、母にとっては長く暮らした場所でもある。


けれど朱莉は、懐かしむように辺りを見ることなく、瑞稀の横顔を見つめていた。


「母様。」


呼びかけると、朱莉は柔らかく微笑む。


「大丈夫です。」


その言葉が何を意味しているのか、瑞稀には何となく分かった。


ここへ残るつもりはない。


母はもう、現世へ帰ることを選んでいる。


その時、少し前を歩いていた旭が足を止めた。


瑞稀も、その視線の先を見る。


黄金の石畳の向こうに、一柱の女神が静かに立っていた。


天照。


その両側には、月読(つくよみ)須佐之男(すさのお)がいる。


さらにその後ろには、猿田毘古(さるたひこ)宇迦之御魂(うかのみたま)天鈿女命(あめのうずめのみこと)思金神(おもいかねのかみ)玉祖命(たまのおやのみこと)


これまで瑞稀が出会い、言葉を交わし、御霊を還してきた神々の姿があった。


瑞稀は足を止める。


自分がここまで歩いてこられたのは、この神々がいたからだ。


けれど今は、以前のように、ただ頭を垂れるだけではなかった。


瑞稀は天照の前まで進み、静かに一礼する。


「天照様。」


『よく、戻りました。』


「はい。」


天照は瑞稀だけではなく、旭、芽衣、朱莉、少彦名神へも、ゆっくりと視線を向けた。


『皆も、よく戻りました。』


旭は軽く頭を下げ、芽衣も慌てたようにそれに倣う。


朱莉だけは、天照を見つめたまま、少しだけ目を潤ませていた。


「天照様。」


『朱莉。』


長い間、二人は何も言わなかった。


けれど、その沈黙には、もう岩戸の前で感じたような苦しさはない。


やがて天照が、小さく微笑んだ。


『今度こそ、お帰りなさい。』


朱莉の瞳から、一筋の涙が零れる。


「……はい。ただいま、戻りました。」



しばらくして、一行は高天原の中ほどにある小さな社へ案内された。


戦いのための場所ではない。


祭壇も玉座もなく、庭へ面した広い板間を静かな風が通り抜けている。


瑞稀たちはそこへ腰を下ろし、神々も向かい側へ並んだ。


これほど多くの神を前にしているにもかかわらず、不思議と息苦しさはなかった。


瑞稀は膝の上へ手を重ねる。


聞かなければならないことがある。


黄泉へ入る前から。


いや、もっとずっと前から、自分の中にあった疑問。


瑞稀は、天照へ顔を上げた。


「天照様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」


『もちろんです。』


瑞稀は僅かに息を吸う。


「私は、なぜ御霊をお還しするたびに、記憶を失っていたのでしょうか。」


芽衣が僅かに表情を強張らせ、旭も天照へ視線を向ける。


朱莉は何かを知っているようにも見えたが、口を挟まなかった。


天照はすぐには答えず、代わりに猿田毘古へ目を向けた。


猿田毘古が、一歩前へ出る。


『瑞稀。以前、我は申したな。我らは、お前から大切なものを預かっていたと。』


瑞稀は静かに頷いた。


黄泉路で神々と再び出会い、一つずつ記憶を返してもらった。


猿田毘古も。


火之迦具土も。


木花咲耶姫も。


奇稲田姫も。


それぞれの神が、自分の中から失われた記憶を確かに持っていた。


「はい。皆様が、それぞれ預かってくださっていたことは分かりました。ですが、なぜ記憶だったのでしょうか。」


瑞稀が自分の手へ目を落とすと、思金神が静かに口を開いた。


『それを語るには、まず神卸そのものから話す必要があろう。』


瑞稀は顔を上げる。


『花里家に伝えられてきた神卸は、本来、御霊還しのために生まれたものではない。』


「……はい。」


父から聞いた話。


幼い頃から何度も教え込まれてきた神事。


けれど、その意味までは瑞稀も知らされていなかった。


思金神は、静かに続ける。


『人が雨を願い、実りを願い、荒れた土地が再び恵みを得ることを願う。その祈りへ、神が僅かに力を貸す。それが、本来の神卸だ。』


芽衣が首を傾げた。


「じゃあ、瑞稀が今までしてきたのとは、全然違うんですね。」


『そうじゃ。』


少彦名神が答える。


『本来ならば、神の力を僅かに借りるだけ。人の身を壊すほどの力を通すことなどない。』


瑞稀は、ゆっくりと瞬きをした。


「では、本来の神卸には……。」


天照が静かに頷く。


『代償など、ありません。』


瑞稀の瞳が揺れた。


芽衣も旭も、朱莉も、天照を見つめている。


『あなたが行ってきたことは、神卸と似ていても、本来の神卸とは大きく異なります。』


「御霊還し。」


『ええ。封じられていた荒魂は、僅かな神威ではありません。一柱の神から切り離された、膨大な御魂そのもの。それを、人の身を通して和魂へ繋ぎ直す。』


瑞稀は、これまでに出会った荒魂たちを思い浮かべた。


火之迦具土の炎。


木花咲耶姫の花。


奇稲田姫の稲穂。


海を覆った神々の力。


一つとして、人の手に収まるようなものではなかった。


「それほどの御魂を、私は自分の身体へ通していたのですね。」


『そうです。』


天照の声が、少しだけ沈む。


『本来であれば、人の器が耐えられるものではありません。』


朱莉の手が、静かに握られた。


十年以上、天照の荒魂をその身へ抱えていた人。


瑞稀が母へ目を向けると、朱莉は僅かに笑ってみせた。


けれど、その笑顔の奥にどれほどの苦しみがあったのか、今の瑞稀には分かる。


思金神が続けた。


『だからこそ、御霊を還すたび、お前の中にあるものを一時的に神へ預ける必要があった。』


「私の、記憶を。」


『ああ。御魂を迎えるための余地を作り、人の身へかかる負担を少しでも減らすために。』


瑞稀は、胸元へ手を添える。


一つ、また一つと失っていった記憶。


母との時間。


父との時間。


芽衣と。


旭と。


なぜ記憶なのか、考えたことはあった。


けれど、自分の中から何かを預けることで、神の御魂を通すための余地を作っていたのだと知ると、胸の奥に小さな痛みが走る。


「ですが、それだけではないのですね。」


瑞稀が顔を上げると、天照の瞳が僅かに揺れ、猿田毘古が穏やかに微笑んだ。


『ああ。それだけではない。』


瑞稀は、これまで返された記憶を思い返す。


神々は、ただ保管していただけではなかった。


自分がどのように泣き、どのように迷い、誰を大切にしていたのかを、神々は知っていた。


猿田毘古が、静かに告げる。


『御霊還しによって、お前の記憶は我らへ預けられた。そして、その記憶は荒魂へも届いていた。』


瑞稀は息を呑む。


「荒魂へ。」


『ああ。お前が見たもの、感じたもの。誰かを失う痛みも、誰かを信じることも、守られることも、自ら選ぶことも。御霊を還す道を通して、我らはそれを受け取っていた。』


木花咲耶姫が、静かに胸元へ手を添える。


『あなたの中にあった寂しさを、私は知りました。』


その隣で、奇稲田姫も頷いた。


『誰かに決められる苦しさも、それでも自分で隣へ立つことを選ぶ気持ちも。』


瑞稀の喉の奥が熱くなる。


自分は、神々の話を聞いていたのだと思っていた。


荒魂の怒りへ触れ、悲しみへ触れ、その言葉を聞いて、あるべき場所へ還してきた。


けれど、それは一方通行ではなかった。


神々もまた、自分の心へ触れていた。


「私の記憶が、皆様へ。」


『ええ。』


天照が静かに微笑む。


『だからこそ、あなたが一人で神々を変えたのではありません。神々も、あなたの中にあるものを受け取り、自らの荒ぶる心と向き合った。』


一度言葉を置き、天照は続けた。


『御霊還しとは、神を一方的に鎮める神事ではなかったのです。人と神が、互いの心へ触れるための道でもありました。』


瑞稀は、言葉を失った。


胸の奥へ、これまで出会った神々の姿が一柱ずつ浮かぶ。


自分が言葉を届けたつもりだった。


けれど、自分もまた彼らから幾つもの言葉を受け取り、彼らもまた自分から何かを受け取っていた。


それなら、あの道は最初から、一方へ続くものではなかったのだ。



旭が、静かに口を開いた。


「一つ、いいか。」


天照が頷く。


『どうぞ。』


「瑞稀が記憶を失うことを、お前たちは最初から知っていたのか。」


瑞稀が旭を見る。


怒鳴ってはいない。


けれど、その声の奥には、押し殺したものがあった。


天照は、その問いから目を逸らさなかった。


『すべてを知っていたわけではありません。』


「……どういう意味だ。」


思金神が答える。


『御霊還しは、長く行われていなかった。荒魂を封じたのは遥か昔。その後の花里家が行ってきたのは、僅かな神威を借りるための神卸のみだった。』


思金神は、一度瑞稀へ目を向ける。


『荒魂が現れ、人の身を通して御魂を還すことになった時、何が起こるのか。我らにも、すべてを予測することはできなかった。』


猿田毘古が、苦しげに目を伏せる。


『最初にお前の記憶が我へ流れ込んできた時、我もすぐには理解できなかった。』


瑞稀は、第一の御霊還しを思い返した。


母との記憶が、白い霞の向こうへ消えた日。


『だが、その記憶があったからこそ、荒魂であった我はお前の中にあるものを知った。そして、お前の身も壊れずに済んだ。』


旭は拳を握り締めた。


「なら、途中でやめさせることもできたんじゃないのか。」


静かな問いだった。


誰も、すぐには答えなかった。


瑞稀は旭の横顔を見る。


自分の代わりに怒っている。


ずっと、そうしてくれていた人。


瑞稀は、そっと旭の袖へ触れた。


旭が振り返る。


「旭。私は、知らされた上であれば、きっとそれでも同じ道を選んでいたと思います。」


旭の眉が、僅かに寄る。


「だからといって。」


「はい。知らせなくてよかったとは、思っていません。」


天照の瞳が揺れた。


瑞稀は天照へ向き直る。


「私は、知らないまま役目を与えられてきました。神卸も、御霊還しも、自分が何を失っているのかも。」


瑞稀は、静かに続ける。


「皆様が、すべてを知っていたわけではなかったことは分かります。ですが、これからは、人に選ばせてください。」


高天原の風が、静かに板間を通り抜けた。


天照は長い間、何も言わなかった。


やがて。


深く頭を下げる。


神が、人へ。


天照が、瑞稀へ。


「……天照様。」


『その通りです。』


静かな声だった。


『私たちは長い間、守るという言葉を理由に、人へ伝えないことを選び続けてきました。それが正しいと思って。』


天照は顔を上げる。


『ですが、選ぶためには、知ることが必要でした。』


瑞稀は、静かに頷いた。


「はい。」


しばらく、風の音だけが続いた。


やがて瑞稀は、もう一つの疑問を口にする。


「では、これからも神卸は続くのでしょうか。」


その言葉に朱莉が僅かに息を止め、旭も芽衣も天照を見つめた。


天照は、ゆっくりと首を横へ振る。


『いいえ。』


瑞稀の瞳が揺れた。


『神卸は、ここで終わりにします。』


静かな言葉だった。


けれど、それが意味するものはあまりにも大きい。


「終わりに。」


『ええ。』


天照は、遠く高天原の空へ目を向けた。


『遥か昔、荒魂を封じた後も、人々は神々との繋がりを必要としました。そして神々もまた、人の祈りへ応える道を完全に閉ざすことはできなかった。』


思金神が、静かに続ける。


『そこで、神をその身へ迎えることのできる花里家が、神と人を結ぶ特別な器として、その役目を残した。』


瑞稀は、自分の家を思う。


代々、娘を器として育て、祝詞を覚えさせ、神を迎えられる身体を作ってきた家。


『だが、それからあまりにも長い時が流れた。』


思金神は、穏やかに言葉を続ける。


『神を信じる形も、人が祈る形も、大きく変わった。』


天照が頷く。


『今の世で、神と人の間を結ぶために、花里家だけが必要なのではありません。荒木田家だけでもありません。』


瑞稀は、静かに天照を見つめていた。


『全国の社で。祭りの中で。舞の中で。人は今も、神へ祈っています。その声は、きちんとこちらへ届いています。』


芽衣が、少し驚いたように尋ねる。


「じゃあ、普通の人が神社でお願いしたことも?」


天鈿女命が、楽しそうに笑った。


『もちろん。全部叶えられるわけじゃないけれどね。』


芽衣が、少しだけ頬を膨らませる。


「そこは叶えてくれないんだ。」


『何でも叶えたら、人が歩く道まで私たちが決めることになるでしょう?』


芽衣は一瞬きょとんとして、それから納得したように笑った。


「そっか。」


宇迦之御魂も、穏やかに頷く。


『祭りの囃子も、稲の実りを願う声も、我らには聞こえておる。時には、雨くらい降らせることもあろう。』


女神の狐耳が、小さく揺れる。


「宇迦之御魂様なら、本当にやりそうですね。」


瑞稀が告げると、宇迦之御魂は目を細めて笑った。


『必要ならばな。』


そのやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。


天照は、再び瑞稀へ目を向ける。


『けれど、神が人の身体へ直接降り、その身を使って力を振るうことは、もう終わりにします。』


瑞稀は、静かにその言葉を聞いた。


『器を育てることも、神卸の儀を受け継ぐことも、そのために血筋を守ることも、必要ありません。』


朱莉が、膝の上で両手を強く握った。


瑞稀が母を見ると、その瞳には涙が浮かんでいた。


「母様。」


朱莉は何かを言おうとして、一度唇を閉じる。


やがて、震える声で告げた。


「……よかった。」


それだけだった。


けれど瑞稀には、その一言へどれほどの思いが込められているのか分かった。


自分と同じように神の器として育てられ、役目を背負い、十年以上、高天原へ留まり続けた母。


朱莉は涙を拭う。


「瑞稀。」


「はい。」


「あなたは、もう……器として、生きなくてよいのですね。」


その言葉が、瑞稀の胸の奥へゆっくりと沈んでいった。


器。


幼い頃から、何度も聞いた言葉。


花里家の娘。


神を迎える器。


自分の中を空にし、与えられた役目を果たすために生きる者。


それが、自分なのだとずっと思っていた。


瑞稀は、自分の両手を見る。


何もない。


槍も、神の光も、今はその手の中にない。


それでも、怖くはなかった。


父との記憶がある。


母との記憶がある。


芽衣と笑った時間がある。


旭から受け取った言葉がある。


神々と出会い、怒りも、悲しみも、寂しさも、愛しさも、たくさんの感情を知った。


空ではない。


自分の中には、もうたくさんのものがある。


「……はい。」


瑞稀は静かに頷き、胸元へ手を添えた。


「私はもう、神を迎えるために、自分を空にしなくてもよいのですね。」


天照の表情が、柔らかく緩んだ。


『ええ。あなたは、誰かを迎えるための器ではありません。』


そして、まっすぐに瑞稀を見つめる。


『花里瑞稀として、あなた自身の人生を歩いてください。』


瑞稀の瞳へ涙が浮かぶ。


けれど今度は、止めなかった。


一筋、頬を伝う。


「……はい。」


その声は少し震えていた。


けれど、確かに自分の声だった。



旭は、瑞稀の隣で何も言わず、ただその横顔を見つめていた。


瑞稀は涙を拭い、旭へ顔を向ける。


「旭。」


「何だ。」


「私は、これから考えてもよいのでしょうか。」


これから何をするのか。


どこへ行くのか。


まだ、決まっていない。


けれど、それでよいのだと思えた。


旭は、ほんの少しだけ眉を下げる。


「当たり前だろ。」


短い答えだった。


瑞稀は、僅かに目を細める。


「そうなのですね。」


「そうだ。何年かかっても、自分で決めればいい。」


瑞稀は、その言葉を静かに胸へ受け取った。


誰かが決めた道ではない。


父が。


本家が。


神が。


旭が。


誰かが示した場所ではなく、自分で考え、自分で選ぶ。


その時間が、今から始まるのだ。



天照は、朱莉へ視線を向ける。


『荒木田家にも、このことは私から伝えます。』


朱莉が、小さく頷いた。


『伊勢の祭祀は、これまでどおり荒木田家が担えばよい。花里家も、その地で人々の祈りを受ける社として残ればよいでしょう。』


一度言葉を置き、天照は続けた。


『ですが、どちらの家も、神へ近づくために誰かの人生を器として定める必要はありません。』


瑞稀は、公寛の顔を思い浮かべた。


本家を守るために。


血筋を残すために。


自分へ婚姻を申し込んだ人。


あの人もまた、役目の中に立っていた。


瑞稀は何も言わなかった。


けれど胸の奥で、何かが静かにほどけたような気がした。


天照は瑞稀の表情を見て、それ以上何も言わなかった。


今は、まだそれでよい。



遠くから、神楽鈴の音が聞こえた。


――シャン。


猿田毘古が立ち上がる。


『瑞稀。もう一つ、覚えておけ。』


「はい。」


『神卸がなくなっても、我らとお前たちの縁まで消えるわけではない。』


瑞稀の瞳が、僅かに揺れた。


宇迦之御魂が笑う。


『呼べば必ず姿を現すとは言わぬぞ。それでは、以前と同じになってしまうからのう。』


天鈿女命も、楽しそうに目を細める。


『でも、お祭りくらいはちゃんと見てるわ。』


少彦名神が腕を組んだ。


『病に苦しむ者が、薬の神へ祈ることもある。我も、たまには耳を貸そう。』


芽衣が、少彦名神を見る。


「たまに?」


『……できる限りだ。』


「そこはちゃんと聞いてあげてよ。」


『人には人の医者がおる。』


「そうだけど。」


二人のやり取りに、瑞稀の口元が僅かに緩んだ。


神が遠い存在になるわけではない。


けれど、人の人生へ大きな力で踏み込むこともしない。


祭りの音を聞き。


祈りへ耳を傾け。


時には風を吹かせ、雨を降らせる。


それくらいの距離で、神と人はこれからも共に在る。


瑞稀には、その形がとても自然なものに思えた。



やがて、高天原の空へ一本の光が伸びた。


黄金ではなく、朝の光に近い柔らかな色。


その先には、鳥居がある。


けれど今度の鳥居の向こうにあるのは、神の世界ではない。


瑞稀には分かった。


現世。


自分たちの帰る場所。


朱莉が僅かに息を呑み、芽衣も旭も、その道を見つめている。


少彦名神だけは、少しだけ複雑そうな顔をしていた。


瑞稀は、神々へ振り返る。


これまで何度も、光の向こうへ去っていく神々を見送ってきた。


けれど今度は、自分たちが見送られる側だった。


瑞稀は、深く頭を下げる。


「皆様。これまで、本当にありがとうございました。」


猿田毘古が、穏やかに笑う。


『礼を言うのは、我らも同じだ。』


火之迦具土が、大きく頷いた。


『うむ! お前がいなければ、我らも自分の荒ぶる心へ向き合うことはなかった!』


木花咲耶姫も。


奇稲田姫も。


それぞれ、静かに微笑んでいる。


天照は、瑞稀の前へ歩み寄った。


『瑞稀。』


「はい。」


『あなたは、私たちの御魂を還してくれました。』


瑞稀は首を横へ振ろうとした。


けれど、天照は続ける。


『そして私たちは、あなたの記憶を、あなた自身へ還しました。』


瑞稀は、静かに目を見開く。


天照が、柔らかく笑った。


『もう、何も預かってはいません。』


瑞稀は胸元へ手を添える。


母の顔も。


父の名前も。


芽衣も。


旭も。


大切だった時間も。


痛かった記憶も。


すべて、ここにある。


「……はい。」


瑞稀は、今度こそ迷わず答えた。


「すべて、受け取りました。」


天照が、静かに頷く。


『では、現世へお帰りなさい。』


瑞稀は、光の道へ向き直った。


その隣へ旭が並び、反対側には芽衣がいる。


朱莉も。


少彦名神も。


誰かに導かれて歩くのではない。


神に呼ばれて進むのでもない。


自分たちが、自分たちの意思で帰るための道。


瑞稀は、最初の一歩を踏み出した。


もう、神を迎えるための器ではない。


御霊を還すための巫女でもない。


ただ、花里瑞稀として。


自ら選んだ場所へ帰るために、光の道を歩き始めた。

第五十三話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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