第五十二話 「ひとつの御魂」
第五十二話 「ひとつの御魂」
黒い刃と、神々の光がぶつかった。
轟音とともに黄泉の海が大きく波打ち、黒い飛沫が天へ噴き上がる。
瑞稀は槍を握り締め、旭と並んで黒い水面を駆けていた。
足元には、猿田毘古が開いた黄金の道が伸びている。
押し寄せる波に何度も呑まれ、所々が崩れかけていたが、その先は確かに伊邪那美へ向かっていた。
『迷うな! 道は我が繋ぐ!』
猿田毘古が槍を振るうと、黄金の光が黒い波を左右へ切り開く。
開かれた道へ、無数の黒い刃が降り注いだ。
旭は須佐之男から預かった太刀を振り抜き、青白い雷と赤い炎で刃を打ち砕く。
「行け、瑞稀!」
「はい!」
瑞稀は、旭の横を駆け抜けた。
伊邪那美まで、あと僅か。
けれど、女神の身体を覆う無数の顔が一斉に口を開き、泣き声と恨みの声が黄泉全体を揺らした。
――なぜ、自分だけが。
――なぜ、置いていった。
――なぜ、誰も来なかった。
幾重にも重なった声が瑞稀の胸へ入り込み、冷たい指で心を掴むように、忘れていた恐れを呼び起こす。
また、失う。
また、忘れる。
この戦いが終われば、お前を必要とする者はいなくなる。
瑞稀の足が、止まりかけた。
「違う!」
芽衣の声が、闇を切り裂いた。
振り返ると、芽衣は薬玉を両手で抱え、押し寄せる黒い霧の前へ立っていた。
その肩には、少彦名神がいる。
『呑まれるな、芽衣!』
「分かってる!」
芽衣の足は震えていた。
それでも一歩も下がらず、瑞稀をまっすぐに見つめている。
「必要だから、一緒にいるんじゃない!」
薬玉から柔らかな光が溢れ、黒い霧を押し返していく。
「役に立つからでもない!」
「瑞稀だから、一緒にいたいの!」
胸へ入り込んでいた冷気が、僅かに薄れた。
芽衣。
その名も、声も、一緒に過ごした時間も、今はもう思い出せる。
「ありがとうございます、芽衣。」
「帰ったら、もう一回ちゃんと聞かせてよ!」
「はい。」
瑞稀が前へ向き直ると、旭が再び隣へ並んだ。
「走れるか。」
「はい。」
「なら、行くぞ。」
二人は、同時に地を蹴った。
◇
『来るな!』
伊邪那美の叫びとともに、黒い水が巨大な腕となって持ち上がった。
幾本もの腕が、瑞稀と旭だけではなく、集まった神々へ向かって一斉に振り下ろされる。
『させぬ!』
大綿津見が両手を掲げると、黒い水の中から青い波が立ち上がり、巨大な腕へ絡みついた。
続いて、三筋の光が波の中を駆け抜ける。
『父上、少々荒いぞ!』
『これでも娘たちには加減しておる!』
『相手は我らではない!』
『分かっておるわ!』
宗像三女神と大綿津見の声が重なる。
戦場には似つかわしくない、そのやり取りに、ほんの僅かだけ、これまでと変わらない神々の気配が黄泉へ戻った。
伊邪那美の瞳が揺れる。
『なぜ。』
巨大な腕が、僅かに震えた。
『なぜ、笑える。』
伊邪那美は、神々を見渡す。
『わらわの前で。』
『なぜ、お前たちは何事もなかったように立っておれる。』
神々の光が、静かに揺れた。
『苦しかったはずであろう。』
『憎かったはずであろう。』
『人も、他の神も。』
『己自身さえも。』
伊邪那美の身体を覆う黒い靄が、再び大きく膨れ上がる。
『それなのに、なぜ荒ぶる心を捨てた!』
神々の動きが、止まった。
最初に一歩前へ出たのは、木花咲耶姫だった。
『捨ててはおりません。』
その隣には、瓊瓊杵尊が立っている。
二柱の手は繋がれていない。
それでも、同じ場所へ並び、同じ女神を見つめていた。
『疑われた悲しみも、許せなかった怒りも、今も私の中にあります。』
木花咲耶姫は、自らの胸元へ手を添える。
続いて、奇稲田姫が黄金の櫛へ触れた。
『私も同じです。守られるだけの者にされた悔しさを、忘れたわけではありません。』
奇稲田姫の隣では、須佐之男が黙ってその言葉を聞いていた。
口を挟まず、否定もせず、ただ同じ場所へ立っている。
伊邪那美は、信じられないものを見るように神々を見つめた。
『ならば、なぜ荒魂へ戻らぬ。』
『なぜ、その怒りへ身を委ねぬ。』
黒い水が、神々の足元でざわめく。
『我慢しているだけであろう。いずれ、再び溢れ出す。』
『荒ぶる御魂など、封じなければならぬものであろう!』
その言葉に、天照が、ゆっくりと目を閉じた。
『……いいえ。』
日の光が、僅かに翳る。
『そう思い込んだのは、私です。』
伊邪那美の瞳が、天照へ向く。
天照は目を逸らさず、静かに言葉を続けた。
『私は、自らの荒ぶる心を恐れました。』
『怒りも、恐れも、弱さも、自分の中にあることを受け入れられず、私はそれを自ら切り離した。』
瑞稀は、僅かに目を見開いた。
『その後、神々の力が人の世を傷つけ始めた時、私は同じように荒魂を切り離し、封じることを選びました。』
『自らがそうしていたからこそ、それが正しいことなのだと信じて。』
天照の声が、僅かに震える。
『けれど、怒りも、悲しみも、恐れも、すべて神々の一部でした。』
天照の隣へ、月読と須佐之男が並んだ。
『切り離したところで、消えるものではありませんでした。』
月読が、静かに続ける。
須佐之男は拳を握り締め、苦しげに目を伏せた。
『捨てられた御魂は、帰る場所を失った。』
黄泉へ、静寂が落ちる。
戦いが始まってから、初めて訪れた静けさだった。
けれど。
伊邪那美は、天照を見つめたまま、やがて小さく笑った。
『ようやく、気づいたか。』
その声に、天照の瞳が揺れる。
『……母上。』
『そなたが岩戸へ隠れた時。』
伊邪那美の足元で、黒い水が静かに渦を巻き始めた。
『日の和魂が世から遠ざかり、そなたらが築いた封は、少しずつ均衡を失った。』
天照の顔から、血の気が引く。
『まさか。』
『そうじゃ。』
伊邪那美は、黒い水面を見下ろす。
『わらわが、手を貸した。』
黄泉の闇が、大きく脈打った。
『すでに生じていた綻びへ、黄泉から手を掛けた。』
『一つ。』
『また、一つと。』
『封じられた御魂が外へ出られるようにな。』
瑞稀は、槍を握る手へ力を込めた。
「なぜ、そのようなことを。」
伊邪那美の黒い瞳が、瑞稀へ向く。
『わらわだけが。』
声が、低く沈んだ。
『怒りも、悲しみも、恨みも、死も。』
『何一つ切り離すことを許されず、この黄泉へ置き去りにされた。』
『それなのに、あの者たちは、自らの荒ぶる心だけを切り離し、綺麗な顔をして高天原へ戻った。』
黒い水が、激しく波打つ。
『ならば、知ればよいと思った。』
『自ら捨てた心に、もう一度向き合えばよいと。』
『帰る場所を失った御魂が、どれほど苦しむのか。』
『そなたら自身が、思い知ればよいと!』
天照は、何も言い返さなかった。
瑞稀も、すぐには言葉を返せなかった。
伊邪那美のしたことによって、荒魂は現世へ溢れた。
人々は傷つき、神々も苦しんだ。
それを、正しかったとは言えない。
けれど。
その根にあったものが、世界を滅ぼしたいという願いではなかったことだけは、分かった。
伊邪那美は、誰かに同じ痛みを知ってほしかったのだ。
瑞稀は、槍を握る手から、ゆっくりと力を抜いた。
「伊邪那美様。」
『……何じゃ。』
「あなた様がおこなったことを、正しいとは申しません。」
黒い瞳が、細められる。
「ですが。」
瑞稀は、一歩前へ出る。
「なぜ、そのようなことをされたのか。」
「今は、分かります。」
伊邪那美の唇が、僅かに震えた。
「私は、あなた様の悲しみを消すことはできません。」
「怒りを捨てていただくことも、すべてを許していただくことも、私にはできません。」
黒い水が、大きく持ち上がる。
『ならば、何をしに来た!』
「その悲しみも、その怒りも。」
瑞稀は、女神をまっすぐに見つめた。
「あなた様の御魂です。」
黒い水が、空中で止まった。
「切り離す必要はありません。」
「なかったことにする必要も、ありません。」
「抱えたままでよいのです。」
伊邪那美の唇が震える。
『抱えたまま、この苦しみの中で永遠に生きろというのか。』
「いいえ。」
瑞稀は、静かに首を横へ振った。
「独りで抱えなくてよいのです。」
その言葉に、伊邪那美の身体を覆う無数の顔が一斉に歪み、泣き声と嘲笑う声を上げた。
『独りではないだと。』
伊邪那美の声が、激しく震える。
『誰が、わらわと共に抱える!』
『黄泉へ置き去りにされた、わらわの怒りを!』
『朽ち果てた、この身体を!』
『この身に纏わりついた、数え切れぬ死者の悲しみを!』
黒い水が、激しく渦を巻く。
その中を、一つの赤い炎が進んでいった。
『……母上。』
伊邪那美の動きが、止まる。
炎を纏いながら、一歩ずつ近づいていくのは、火之迦具土だった。
『来るな。』
火之迦具土は、止まらない。
『母上。』
『来るな!』
黒い刃が放たれ、火之迦具土の肩を掠めた。
赤い炎が大きく揺らいだが、それでも火之迦具土は、もう一歩進んだ。
『母上。』
火之迦具土の声から、いつもの勢いが消えている。
『我は、母上を覚えておりません。』
伊邪那美の瞳が、揺れた。
『生まれた時のことも、母上の腕に抱かれたことがあったのかも、何一つ覚えておらぬ。』
火之迦具土を包む赤い炎が、頼りなく揺れる。
『我が目を開いた時には、母上はもうおられなかった。』
炎を纏った両手が、強く握られた。
『それでも、ずっと母上に会いたかった。』
伊邪那美の顔から、怒りが抜け落ちる。
ほんの一瞬。
黄泉を支配する女神ではない。
一人の母の顔が、そこに現れた。
『……なぜ。』
伊邪那美の声が、掠れる。
『お前は、わらわを死へ追いやった子であろう。』
火之迦具土は、そこで初めて足を止めた。
『はい。』
『我が生まれたことで、母上は命を失った。』
『それを、なかったことにはできませぬ。』
赤い炎が、静かに燃えている。
『母上が我を憎むのなら、その憎しみも受け止めます。』
『許してほしいとは、申しませぬ。』
『母と呼ぶことを拒まれても、仕方がない。』
伊邪那美の頬を、黒い雫が伝った。
『それでも我は。』
火之迦具土は、泣きそうな顔で笑った。
『母上に、会いたかった。』
『ただ、久しぶりと。』
『そう、言いたかった。』
一度、息を吸う。
『……お久しぶりです、母上。』
伊邪那美の唇が開いた。
けれど、声は出なかった。
代わりに、女神を覆っていた無数の顔が、一つ、また一つと、泣き崩れるように目を閉じていった。
黒い水へ、大粒の雫が落ちる。
◇
その時。
黄泉の奥から、重い音が響いた。
巨大な岩が、地を擦りながら動く音。
須佐之男が振り返る。
月読が、息を呑む。
天照も、大きく目を見開いた。
暗闇の中から、一柱の男神が歩いてくる。
白い衣は、長い道を歩いてきたように汚れ、髪や肩には黄泉の黒い霧が纏わりついている。
それでも、その歩みは止まらなかった。
伊邪那美の表情が、凍りつく。
『……なぜ。』
男神は、伊邪那美の前で足を止めた。
『伊邪那美。』
その名を、静かに呼ぶ。
『来るな。』
伊邪那美の声が低くなり、黒い水が再び激しく波打ち始める。
『今さら、何をしに来た。』
伊邪那美は、その男神の名を吐き捨てるように呼んだ。
『伊邪那岐。』
伊邪那岐は、何も言い返さなかった。
言い訳も、慰めも口にはしない。
伊邪那美の朽ちた身体も、纏わりつく死者も、黒く濁った瞳も、決して目を逸らさずに見つめている。
『……すまなかった。』
その瞬間。
伊邪那美の身体から、凄まじい神気が噴き上がった。
黒い腕が伊邪那岐へ振り下ろされ、胸を打つ。
伊邪那岐の身体が、黒い水の上を転がった。
『その一言を!』
『わらわが、どれほど待ったと思っている!』
もう一本の腕が持ち上がり、再び伊邪那岐の身体を弾き飛ばす。
天照が動こうとしたが、須佐之男がその腕を掴んだ。
『待て。』
『ですが。』
『父上が、選んだことだ。』
伊邪那岐は黒い水へ手をつき、ゆっくりと立ち上がる。
口元から、光のような血が流れていた。
それでも、再び伊邪那美へ向き直った。
『私は、恐れた。』
『お前の変わり果てた姿を見て、愛した者であることさえ忘れ、ただ逃げた。』
伊邪那美の黒い瞳が、揺れる。
『黄泉の坂を塞いだのは、世界を守るためだけではない。』
伊邪那岐は両手を地へつき、深く頭を下げた。
『私が、お前と向き合うことから逃げるためだった。』
伊邪那美の身体が、震える。
『お前を黄泉へ置き去りにし、子らにも、神々にも、お前のことを語らなかった。』
『そうすれば、自らの過ちまで、なかったことにできると思った。』
『……許さぬ。』
『ああ。』
『決して、許さぬ。』
『分かっている。』
『お前を見れば、あの日逃げた背中を思い出す。』
『お前の声を聞けば、千引の岩が閉じた音を思い出す!』
伊邪那岐は、頭を下げたまま答えた。
『忘れなくてよい。』
伊邪那美の瞳から、黒い涙が溢れた。
『わらわは、ずっと一人であった。』
『誰も、来なかった。』
『子らの声も、お前の声も、何一つ届かなかった。』
『……ああ。』
伊邪那美は、両手で顔を覆う。
その身体を覆っていた無数の顔も、一斉に泣き始めた。
怒りでも。
恨みでもない。
永い年月、一度も外へ出すことのできなかった、悲しみそのものだった。
『寂しかった。』
伊邪那美の口から、小さな声が零れる。
その瞬間。
黄泉全体が、大きく震えた。
◇
瑞稀の胸元で、青緑の勾玉が強い光を放った。
玉祖命が、その光を見つめて顔を上げる。
『今だ。』
「……何をすればよいのでしょうか。」
『結ぶのだ。』
『これまで切り離されていた、神々の御魂を。』
玉祖命は、伊邪那美を見つめた。
『荒ぶる心を消すのではない。』
『和らぐ心と再び重ね、一つの御魂へ戻すのだ。』
『そして、伊邪那美へ示す。』
『悲しみも、怒りも、切り捨てるべきものではないと。』
思金神が、静かに続ける。
『だが、伊邪那美一柱の心を救うだけでは足りぬ。』
『一柱だけを救ったとしても、荒魂を恐れ、切り離す仕組みが残れば、いずれ同じことが起こる。』
太玉命が、集まった神々を見渡した。
『選ぶ時だ。』
『再び、荒魂を封じるか。』
『それとも、怒りも悲しみも、自らの御魂として受け入れるか。』
神々の間へ、僅かな沈黙が落ちる。
最初に前へ出たのは、猿田毘古だった。
『我は、受け入れよう。』
『迷いもまた、我が御魂だ。』
穏やかな瞳の奥へ、かつて道を見失った荒魂の面影が、一瞬だけ重なる。
次に、火之迦具土が赤い炎を掲げた。
『我もだ!』
『止まれぬ炎も、すべてを燃やす恐れも、我が背負おう!』
木花咲耶姫が。
奇稲田姫が。
大綿津見が。
これまで瑞稀が出会ってきた神々が、一柱ずつ自らの胸元へ手を添えていく。
恨みも。
悔しさも。
迷いも。
臆病さも。
言えなかった言葉も。
選ばれなかった悲しみも。
すべて。
自らの御魂として。
最後に、天照が前へ出た。
『私も。』
天照は、自らの胸へ両手を重ねた。
『私が自ら切り離した荒魂も。』
『逃げた弱さも。』
『残した者たちを傷つけた残酷さも。』
『すべて、私自身のものとして受け入れます。』
月読が、その隣へ立つ。
須佐之男も、反対側へ並んだ。
瑞稀の勾玉から幾筋もの光が伸び、一本ずつ神々の胸元へ繋がっていく。
和魂の、柔らかな光。
荒魂の、激しい光。
二つの光が、それぞれの神の中で重なっていく。
完全に同じ色にはならない。
怒りは、怒りのまま。
悲しみは、悲しみのまま。
それでも、もう切り離されてはいなかった。
玉祖命が、静かに両手を重ねる。
『今こそ。』
『御魂を、一つに。』
勾玉が、眩い光を放った。
神々の身体から溢れた力が、大きな環となって黄泉を巡る。
かつて生まれた環は、一か所だけ欠け、その欠けた場所を道として、すべての光を伊邪那美へ届けていた。
けれど、今は違う。
欠けた場所へ、伊邪那美自身の黒い光が流れ込んでいく。
周囲の光へ呑み込まれるのではない。
消されるのでもない。
黒いまま。
黄金の光と、結ばれていく。
環は、ゆっくりと一つに閉じた。
瑞稀は槍を両手で握り、その穂先を伊邪那美へ向けるのではなく、黒い水の中へ静かに差し入れた。
「伊邪那美様。」
泣き続ける女神が、僅かに顔を上げる。
「あなた様の怒りは、消えません。」
「悲しみも。」
「寂しかった年月も。」
「すべて、残ります。」
『……ならば。』
「ですが。」
瑞稀は、伊邪那美へ手を伸ばした。
「そのすべてを、あなた様だけで抱える必要はありません。」
火之迦具土が、伊邪那美の前へ立つ。
天照が。
月読が。
須佐之男が。
その隣へ、並んだ。
伊邪那岐は、手を伸ばさなかった。
許しを求めるように、触れようともしない。
少し離れた場所へ跪き、伊邪那美が自ら選ぶのを待っている。
『……わらわは。』
伊邪那美が、自らの身体を見下ろす。
朽ちた衣。
腐り落ちた肌。
纏わりつく、無数の死者。
『この姿のままでも。』
『怒りを抱いたままでも。』
『戻って、よいのか。』
「はい。」
瑞稀は、迷わず頷いた。
「還ることは、元どおりになることではありません。」
「傷つく前へ戻ることでも、何もなかったことにすることでもありません。」
「傷を抱えたまま。」
「それでも、独りではない場所へ進むことです。」
伊邪那美の唇が、震える。
火之迦具土も、恐る恐る手を差し出した。
『母上。』
伊邪那美は、その手を見つめる。
長い沈黙のあと。
朽ちた指先が、赤い炎へ触れた。
炎は、伊邪那美を焼かなかった。
冷え切った指を、ただ静かに温めた。
『……温かい。』
火之迦具土の顔が、歪んだ。
笑っているのか。
泣いているのか。
分からない表情で、それでも嬉しそうに頷く。
『はい、母上。』
伊邪那美は、火之迦具土の手を握った。
その瞬間。
瑞稀は、槍を大きく掲げた。
「――御霊よ。」
金色の光が、穂先へ集まる。
黄泉へ浮かぶ人魂たちも、一つずつ光を強めていった。
瑞稀は、静かに息を吸う。
「畏み、畏み申し上げる。」
「荒ぶる御心も、和らぐ御心も。」
「喜びも、悲しみも、憎しみも、慈しみも。」
「御身より分かたれし御魂、今ここに結び。」
「欠くことなく、捨つることなく。」
「ひとつの御魂として――」
瑞稀は、槍を振り下ろした。
「御神の御許へ、還り給え。」
光が、黄泉を貫いた。
◇
伊邪那美の身体を覆っていた黒い靄が、激しく渦を巻く。
無数の顔が泣き、叫び、伊邪那美から離れまいと、その身体へしがみついた。
けれど、伊邪那美は、その顔を振り払わなかった。
一つずつ。
自らの両腕で、抱き締めていく。
『そなたも。』
泣き叫んでいた顔が、光へ変わる。
『そなたも。』
恨みを訴えていた顔が、静かに目を閉じた。
『わらわの中に、おったのだな。』
黒い靄は、消えない。
伊邪那美の胸元へ、少しずつ吸い込まれていく。
同時に、朽ちていた身体が白い光へ包まれた。
腐り落ちた肌が、すべて元へ戻ることはない。
腕には黒い痕が残る。
頬にも、黄泉で過ごした永い年月を刻むような筋が残っていた。
それでも、その瞳には黒い濁りだけではなく、穏やかな光が戻っていた。
傷一つない女神ではない。
怒りも。
悲しみも。
死も。
そのすべてを抱いた、黄泉の女神の姿だった。
伊邪那美は、火之迦具土の手を握ったまま、伊邪那岐を見る。
伊邪那岐は、今も少し離れた場所へ跪いていた。
『伊邪那岐。』
『……ああ。』
『わらわは、そなたを許さぬ。』
『今日、顔を見たからとて、失われた年月が戻るわけでもない。』
『分かっている。』
伊邪那美は、しばらく伊邪那岐を見つめた。
『それでも。』
『もう一度、わらわの言葉を聞く気はあるか。』
伊邪那岐は、ゆっくりと顔を上げる。
『ああ。』
『今度こそ、逃げずに。』
『すべて、聞く。』
伊邪那美は、手を差し出さなかった。
伊邪那岐も、手を伸ばさない。
二柱の間には、まだ長い距離が残っている。
けれど。
閉ざしていた千引の岩は、もうそこにはなかった。
◇
静けさが戻った黄泉の水面へ、淡い光が一つ浮かび上がった。
瑞稀は、その光を見つめる。
赤黒い。
これまで何度も見てきた、荒魂の光に似ている。
けれど、一つではなかった。
遠く。
さらに遠く。
黄泉の果てさえ越えた場所から、一つ、また一つと赤黒い光が現れていく。
「……まだ。」
瑞稀が息を呑む。
「荒魂が、残っているのですか。」
天照が、静かに頷いた。
『あなたが出会った御魂だけではありません。』
『封の内に留まり続けたものも。』
『綻びから現世へ漏れながら、まだ形を得ていないものも。』
『数多く残されています。』
瑞稀は、無数の光を見渡した。
自分が一柱ずつ還していくには、あまりにも多い。
その時。
伊邪那美が、静かに水面へ目を向けた。
『これは、わらわが広げた道じゃ。』
その声に、天照が顔を上げる。
『ならば。』
伊邪那美は、隣にいる伊邪那岐へ視線を向けた。
『閉じるのも、わらわの役目であろう。』
伊邪那岐は、しばらく伊邪那美を見つめた。
『一人で行うつもりか。』
『そなたに手伝えとは申しておらぬ。』
『だが、私は手伝いたい。』
伊邪那美の眉が、僅かに動く。
『今さら、夫婦の真似事でもするつもりか。』
『違う。』
伊邪那岐は、静かに首を横へ振った。
『これは、我ら二柱が生み出した世界のことだ。』
『ならば、共に責を負いたい。』
伊邪那美は、長い間何も答えなかった。
やがて、小さく息を吐く。
『……勝手にせよ。』
伊邪那岐の表情が、僅かに緩んだ。
二柱は並んで、黒い水面へ向き直る。
手は、繋がない。
互いに触れることもない。
ただ。
同じ場所へ立った。
伊邪那美が、黒い水へ手を伸ばす。
伊邪那岐も、その隣で腕を掲げた。
水面が、ゆっくりと動き始める。
初めは、小さな波だった。
やがて波は大きな円を描き、黄泉の海全体を巡っていく。
瑞稀は、その光景を見つめながら、不思議な懐かしさを覚えた。
遠い神話。
まだ国すらなかった頃。
二柱の神が、共に海をかき回し。
そこから、大地を生んだという物語。
けれど今。
二柱が巡らせているのは、何もなかった海ではない。
一度、切り離されてしまった御魂だった。
伊邪那美の黒い水に導かれ、各地へ残されていた赤黒い光が、一つずつ浮かび上がる。
同時に。
天照が、空へ両手を掲げた。
黄金の光が、黄泉の天を突き抜ける。
その先。
高天原から。
柔らかな光が、幾筋も降りてきた。
「……和魂。」
瑞稀が、呟く。
荒魂と。
和魂。
遠く引き離されていた二つの光が、ゆっくりと互いへ近づいていく。
一つ。
また、一つ。
赤黒い光へ、柔らかな光が重なる。
黒が消えるわけではない。
黄金だけになるのでもない。
激しい光と、穏やかな光が、互いの色を残したまま、一つの輝きへ変わっていく。
『瑞稀。』
天照が、呼びかける。
『道を。』
瑞稀は、槍を握り直した。
伊邪那岐と伊邪那美が御魂を巡らせ。
天照が、高天原から和魂を導く。
ならば。
自分ができることは、一つだった。
瑞稀は、槍を高く掲げる。
「――御霊よ。」
穂先から、黄金の光が伸びる。
それは一柱の神へ向かう道ではない。
黄泉から。
現世から。
高天原へ。
分かたれた御魂すべてを結ぶ、大きな道。
「畏み、畏み申し上げる。」
「荒ぶる御心も、和らぐ御心も。」
「すべて、御神の御許へ。」
瑞稀は、槍を振り下ろした。
「お還りください。」
――シャン。
神楽鈴の音が、黄泉全体へ響き渡った。
無数の光が、一斉に動き始める。
伊邪那岐と伊邪那美が巡らせる大きな流れへ乗り、荒魂と和魂が次々と重なっていく。
一柱。
また、一柱。
長い間、半分だけで在り続けた神々の御魂が、本来の形へ戻っていく。
黄泉を覆っていた黒い空の向こうへ。
現世を越え。
高天原まで。
光の流れが、一本につながった。
伊邪那美は、その光を見上げている。
『……これで。』
声が、僅かに震えた。
『もう。』
天照が、静かに頷く。
『ええ。』
『もう、切り離しません。』
『二度と。』
伊邪那美は、目を閉じた。
黒い涙が一筋、頬を伝った。
けれど、それは先ほどまでとは違う。
長い間握り締めていたものを、ようやく手放したような涙だった。
◇
やがて。
黄泉を巡っていた大きな流れが、静かに収まった。
人魂たちが、一つずつ空へ浮かび上がる。
苦しげに揺れていた光は、今では夜空の星のように穏やかに輝いていた。
伊邪那美は、ゆっくりと両手を広げる。
『恐れるな。』
女神の声が、黄泉全体へ響き渡った。
『ここは、消えぬ。』
『死者が還る場所として。』
『わらわが、これからも守ろう。』
人魂たちが、伊邪那美の周囲へ集まっていく。
もはや女神へ縋りつく怨念ではない。
黄泉の女神を慕い、そのもとへ集う死者たちの魂だった。
伊邪那美は、瑞稀たちへ視線を向ける。
『そして、生者よ。』
『そなたらは、もう行け。』
『ここは、長く留まる場所ではない。』
猿田毘古が、槍を地面へ突き立てた。
『道を、開こう。』
黄金の光が、黒い水面をまっすぐに走る。
瑞稀は、その先を見つめた。
現世へ戻るのだと、そう思った。
けれど。
道の向こうから吹いてきた風は、花里神社で感じるものとは違っていた。
暖かな光を含み。
どこか懐かしい、清らかな気配を纏っている。
芽衣が、目を瞬かせる。
「……これ、現世じゃないよね。」
少彦名神が、光の向こうへ目を細めた。
『ああ。』
朱莉も、僅かに息を呑む。
「この光は……。」
天照が、瑞稀へ振り返った。
『高天原です。』
瑞稀は、目を見開いた。
「高天原へ。」
『ええ。』
天照は、穏やかに頷いた。
『現世へ帰る前に。』
一度、言葉を置く。
『あなたへ、お話ししなければならないことがあります。』
瑞稀は、胸元へ手を添えた。
そこには。
取り戻した記憶がある。
神々へ預けていたはずの、自分自身の時間。
なぜ、御霊還しをするたびに記憶を失ったのか。
なぜ、それが神々のもとへ残っていたのか。
そして。
そもそも。
花里家が受け継いできた神卸とは、何だったのか。
まだ、聞けていないことがある。
瑞稀は、天照を見つめた。
「……分かりました。」
その声に、もう迷いはなかった。
旭が、瑞稀の隣へ並ぶ。
芽衣も。
朱莉も。
少彦名神も。
高天原へ続く黄金の道を見つめている。
瑞稀は、一度だけ振り返った。
伊邪那美は、死者たちに囲まれながら、静かに立っている。
その隣には、火之迦具土がいる。
少し離れた場所には、伊邪那岐。
二柱の距離は、まだ遠い。
それでも。
もう、互いに背を向けてはいなかった。
瑞稀は、槍を胸元へ寄せ、深く頭を下げる。
「伊邪那美様。」
「また、お会いできますでしょうか。」
伊邪那美の瞳が、僅かに見開かれた。
やがて。
ほんの少しだけ、口元が緩む。
『黄泉へ来るには、まだ早い。』
瑞稀も、僅かに目を瞬かせた。
火之迦具土が声を上げて笑う。
『ははっ! 母上の言う通りだ!』
伊邪那美は、煩わしそうに火之迦具土を見る。
けれど、その手を離しはしなかった。
瑞稀の口元へ、小さな笑みが浮かぶ。
「では。」
「ずっと先に。」
『ああ。』
伊邪那美は、静かに頷いた。
『その時は。』
『そなたが歩いた道の話でも、聞かせよ。』
「はい。」
瑞稀は、もう一度深く頭を下げる。
そして。
高天原へ続く黄金の道へ、足を踏み出した。
旭が、その隣へ並ぶ。
芽衣と朱莉も続き。
少彦名神が、その後を追う。
一歩。
また、一歩。
進むほどに。
黄泉の冷たい闇が遠ざかり。
代わりに、暖かな光が身体を包んでいく。
やがて。
黄金の鳥居が、目の前に現れた。
瑞稀は、その向こうに広がる光を見つめる。
初めて御霊を還した日。
荒魂たちは、皆、この道を通っていった。
自分は。
その背中を、何度も見送ってきた。
けれど今。
初めて。
瑞稀自身が、その先へ向かう。
黄金の鳥居をくぐる直前。
瑞稀は、自分の胸元へそっと手を添えた。
荒ぶる心と。
和らぐ心。
そのどちらも。
切り離す必要などなかった。
神も。
人も。
きっと、同じなのだ。
一つの御魂として。
すべてを抱えて、生きていく。
瑞稀は顔を上げると。
仲間たちとともに。
高天原へ続く光の中へ、歩き出した。
第五十二話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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