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第五十一話 「呼べば、参ろう」

第五十一話 「呼べば、参ろう」


黄泉の最深部には、何もなかった。


社も、玉座も、死者を迎える門すらない。


ただ、果ての見えない黒い水が広がり、水面は鏡のように静まり返っていた。


その中央に、一柱の女神が立っている。


長く艶やかな黒髪に、穢れ一つない白い衣。


透き通るほど白い肌は、遠目に見れば生者と変わらぬほど美しい。


けれど、女神の周囲だけは、世界そのものが歪んでいた。


足元の水面から伸びる無数の黒い手が、白い衣へ縋りついている。


悲しみも、怒りも、妬みも、置き去りにされた者たちの執着も。


黄泉へ流れ着いたすべての感情が、絶えず女神の内へ流れ込んでいた。


瑞稀は、足を止めた。


隣にいる母の身体が、僅かに強張る。


伊邪那美(いざなみ)様……。」


その声へ応えるように、女神がゆっくりと顔を上げた。


瞳は、夜よりも深い黒に染まっている。


『ようやく、参ったか。』


静かな声だった。


怒鳴ってはいない。


威圧するような響きすらない。


それでも、その一言だけで黒い水面が大きく沈み、冷たい気配が瑞稀たちの足元から這い上がった。


少彦名神(すくなびこな)が少女の肩の上で身構え、少年も須佐之男(すさのお)から預かった太刀を抜く。


瑞稀は、一歩前へ出た。


「はい。」


「花里瑞稀(みずき)と申します。」


伊邪那美は、僅かに目を細めた。


『知っておる。』


『神々をその身へ迎え、荒ぶる心を、あるべき場所へ還してきた巫女。』


その視線が、瑞稀の背後にいる者たちへ向けられる。


母。


少女。


少年。


そして、少彦名神。


一人ずつ、その存在を確かめるように見つめたあと、伊邪那美は再び瑞稀へ目を戻した。


『失ったものを取り戻すため、わらわのもとまで参ったか。』


「はい。」


瑞稀は、もう一歩前へ出る。


「失った記憶を取り戻し、母様と共に現世へ帰るために参りました。」


伊邪那美の視線が、母へ移った。


『その者も、帰ると申すか。』


母は僅かに身体を強張らせたが、それでも瑞稀の隣から退かなかった。


「はい。」


『長きにわたり、人の世を離れ、神の器として生きた者が、今さら何事もなかったように戻れると思うておるのか。』


「何事も、なかったことにはいたしません。」


瑞稀は、母の手を取った。


「失った時間も、母様が背負われたものも、すべて抱えて、共に帰ります。」


伊邪那美の瞳が、冷たく細められる。


『帰る場所が、今も残っているとでも。』


黒い水面へ、一つの光景が浮かび上がった。


神社の拝殿。


一人の男が、閉ざされた御扉へ向かって静かに祝詞を奏上している。


背筋を伸ばし、誰もいない場所へ祈り続ける姿。


瑞稀には、その男が誰なのか分かった。


父。


厳しく、不器用で、それでも母を待ち続けている人。


顔も、声も、自分へ向けられた僅かな笑みも思い出せる。


それなのに、名だけが出てこない。


『名も思い出せぬ者を、帰る場所と申すのか。』


伊邪那美の言葉に、胸の奥が痛んだ。


母が、瑞稀の手を握り返す。


「大丈夫です。」


声は震えていた。


それでも母は、瑞稀へ微笑もうとしている。


「名前を思い出せなくても、あなたが父様を大切に思っていることは分かっています。」


伊邪那美は、そんな母を冷たく見つめた。


『そのように慰め続けた果てに、すべて忘れられた者を、わらわは幾人も見てきた。』


水面から黒い霧が立ち上り、瑞稀たちの周囲をゆっくりと覆っていく。


母の姿が霞み、少女も少年も、握っているはずの母の手の温もりさえ遠ざかっていった。


「離れないでください。」


瑞稀は、手へ力を込める。


けれど指先の感覚が薄れ、目の前にいるはずの母の顔が見えなくなっていく。


どのような人だったのかは分かる。


幼い自分を抱き締め、自分の代わりに長い間、天照の荒魂をその身へ迎えていた人。


それなのに、輪郭も、声も、存在そのものも、夜の闇へ溶けようとしていた。


『夜には、すべてが同じ闇へ沈む。』


男とも女とも、生者とも死者とも分からぬ、静かな声が響いた。


伊邪那美のものではない。


空のない黄泉へ、一筋の白い光が差す。


頭上に、細い月が浮かんでいた。


闇を押し退けるほど強い光ではない。


それでも足元を見失わず、そこにいる者の輪郭を確かめられる程度に、静かな光が瑞稀たちを照らしていく。


『姿が見えぬ夜にも、その者が消えたわけではない。』


瑞稀が顔を上げると、月の下に一柱の神が立っていた。


長い銀色の髪。


夜色の衣。


温度を感じさせぬほど、静かな眼差し。


月読(つくよみ)様。」


月読は、霧に包まれた瑞稀をまっすぐに見つめた。


『名を失ったのなら、その者がお前の中へ残したものを辿れ。』


瑞稀は目を閉じ、父の姿を思い浮かべた。


幼い頃、早朝の境内で何度も祝詞を間違えた。


父は簡単には褒めてくれず、やり直せと、もう一度と、何度も厳しく告げた。


けれど冬の朝には、冷え切った瑞稀の手へ黙って温かな湯呑みを差し出してくれた。


熱を出した夜には、襖の向こうで一晩中座っていた。


山道を登り切った時には、差し出した手を離さず、ただ一言、よく歩いたと褒めてくれた。


叱った声。


守ってくれた手。


母を待ち続けた背中。


月読の光が、散らばっていた記憶を一つずつ照らしていく。


その光の中へ、預けていた何かが静かに戻ってくるような感覚があった。


そして、それらすべてを結ぶ一つの名が、胸の奥へ浮かび上がる。


「……忠司(ただし)。」


その音が、胸の奥へ落ちた。


瑞稀は、目を開く。


「花里忠司。」


「私の、父様。」


名前を口にした瞬間、黒い霧の向こうへ、忠司の姿がはっきりと浮かび上がった。


閉ざされた御扉の前で、一人、待ち続ける背中。


もう、遠い誰かではない。


「父様。」


瑞稀は、もう一度呼ぶ。


「忠司、父様。」


胸の奥へ、確かな温もりが戻った。


続いて瑞稀は、手を握っている母へ向き直る。


長い黒髪。


柔らかな目。


涙を含んだ笑顔。


猿田毘古から返された記憶の中で、母の名を一度聞いている。


けれど、あの時はまだ、その名前と目の前の人が完全には結びついていなかった。


今は、違う。


幼い自分を抱き締め、鏡の向こうから何度も自分を見守り、長い時を奪われながらも、娘が生きる道を守ろうとした人。


朱莉(あかり)。」


朱莉の瞳が、揺れる。


「朱莉、母様。」


月明かりが二人の間へ降り注ぎ、朱莉の姿を覆っていた霧が消えた。


「瑞稀。」


朱莉は、確かな声で瑞稀の名を呼ぶ。


瑞稀は、その手を強く握り直した。


「思い出しました。」


「母様のお名前も、父様のお名前も。」


朱莉の瞳から、涙が零れた。


「はい。」


「私は、朱莉です。」


朱莉は、泣きながら微笑んだ。


「忠司さんの妻で、あなたの母です。」


その言葉を聞いた瞬間、黄泉の闇が大きく揺れた。


伊邪那美が、月読を見上げる。


『月読。』


『そなたまで、わらわへ刃向かうか。』


月読の表情は変わらなかった。


『刃向かっているのではない。』


『隠されたものを、照らしたのみ。』


そして、静かに呼びかける。


『母上。』


伊邪那美の瞳が、一瞬だけ揺れた。


けれど、次の瞬間。


黒い水が噴き上がり、巨大な波となって月明かりへ襲いかかった。


月読の姿が波へ呑まれ、白い光が無数の欠片となって砕け散る。


「月読様!」


――案ずるな。


――夜は、消えぬ。


――光が見えぬ時にも、月はそこにある。


声だけが、瑞稀の胸へ届いた。


最後の光が瑞稀の胸元へ吸い込まれる。


同時に、黒い波が少女へ向かった。


「危ない!」


少年が少女の前へ飛び込み、太刀を横へ振るう。


青い雷が、黒い波を切り裂いた。


しかし、切り裂かれた水は無数の蛇のように形を変え、少年の腕へ絡みつく。


「くっ……!」


刀身から、火之迦具土(ひのかぐつち)の赤い炎が噴き上がった。


炎に焼かれた黒い水が、霧へ変わる。


少年は、太刀を構え直した。


「下がってろ。」


少女は、首を横へ振る。


「嫌。」


「お前――」


「一人で、やろうとしないで。」


少女は、胸元の薬玉を握った。


少彦名神が、肩の上から声を上げる。


『無理をするな。』


「分かってる。」


『分かっておらぬ顔だ。』


「でも、今度は私も、一緒に立つって決めたから。」


薬玉から柔らかな緑の光が広がり、少年の腕へ絡みついていた黒い水が緩んだ。


少年は、一度だけ少女へ視線を向ける。


「無茶は、するな。」


「そっちもね。」


二人のやり取りを見つめていた伊邪那美が、ゆっくりと片手を上げた。


『繋がりとは、脆いもの。』


『名を一つ失うだけで、相手は誰でもない者へ変わる。』


少女の足元が崩れ、黒い水がその身体へ巻きついた。


「えっ――」


少年が、手を伸ばす。


「掴まれ!」


少女も必死に腕を伸ばしたが、指先が触れる直前、その姿が黒い波の中へ沈んだ。


瑞稀の喉から、声にならない息が漏れる。


名前を呼ぼうとした。


自分を祭りへ誘い、役目などなくても、一緒に行きたいと言ってくれた大切な友人。


名前を知っているはずなのに、思い出せない。


黒い水面の下から少女の手が見え、徐々に深く沈んでいく。


少年が水へ飛び込もうとした瞬間、その肩を巨大な黒い手が掴んだ。


「離せ!」


少年が太刀を振るう。


けれど、何度切っても黒い手はすぐに蘇る。


『失うがよい。』


『名も、声も、共に笑った記憶も。』


伊邪那美の声が響いた。


瑞稀は、胸元へ手を添える。


これまで幾度も道を切り開いてきた槍。


必要な時に瑞稀の手へ現れ、役目を終えるたび光へ還ってきた神具。


けれど今は、神に命じられたから呼ぶのではない。


自分の意思で、目の前の大切な人を呼び戻すために。


瑞稀は、静かに右手を前へ差し出した。


淡い黄金の光が、その掌へ集まり、細く伸びて柄となり、鋭い穂先を形作っていく。


やがて、猿田毘古(さるたひこ)から授かった槍が、再び瑞稀の手の中へ顕現した。


瑞稀は、その柄を強く握り締める。


「違います。」


『何が、違う。』


「名前を思い出せなくても、私は、あの方を大切に思っています。」


『ならば、そのままでよいではないか。』


伊邪那美は、静かに微笑んだ。


『名など、要らぬ。』


『失っても、忘れても、心へ残っていると申すのであろう。』


瑞稀は、言葉を失った。


確かに、名前がなくても大切だということは分かる。


そう、思っていた。


けれど、それだけでは足りない。


名は、誰でもないその人を呼び、自分がその人を選び、その人へ声を届けるためのもの。


「必要です。」


瑞稀は、黒い水面へ一歩踏み出した。


「私は、大切な親友の名を呼びたい。」


その時、少年の太刀が大きく震えた。


青い雷でも、赤い炎でもない。


荒々しい風が、刀身を包んでいる。


『ならば、呼べ。』


力強い声が響いた。


少年の背後に、乱れた黒髪と荒ぶる瞳を持つ神の影が立つ。


海と嵐を、その身へ宿した神。


「須佐之男様。」


須佐之男は、黒い水の中へ沈む少女を見つめた。


『我は、かつて、守るべき者を得て初めて、己の力の使い道を知った。』


黄金の櫛を胸元へ抱く、奇稲田姫(くしなだひめ)の姿が、その背後へ重なる。


穏やかな光が、荒々しい風の中へ宿った。


『あの娘は、我が妻の心へも、小さき薬神の心へも、確かに触れた。』


少彦名神が、黒い水へ向かって叫ぶ。


『聞こえるか!』


『お前は、治っても覚えていると申したな!』


水面の下で、少女の指先が僅かに動いた。


須佐之男の力が、少年の太刀へ流れ込む。


青い雷。


赤い炎。


荒れ狂う風。


三つの力が、一振りの太刀へ重なった。


『小僧。』


「聞こえてる。」


『守るために、閉じ込めるな。』


『あの娘も、巫女も、お前の後ろで守られるだけの者ではない。』


少年は、奥歯を噛み締めた。


「分かってる。」


『ならば、進む者のために道を開け。』


少年が地を蹴った。


一斉に襲いかかる黒い手を、太刀が切り裂く。


青い雷が闇を裂き、赤い炎が黒い水を焼き、須佐之男の風が再生しようとする穢れを吹き散らした。


少年は、前へ進む。


瑞稀を背へ隠すのではない。


瑞稀が進むための道を、自らの身体で切り開いていく。


「今だ!」


少年の声へ背を押され、瑞稀は走った。


水面の下に、少女の姿が見える。


手を伸ばす。


それでも、名が分からない。


須佐之男の声が、胸へ響く。


『我を受け入れた娘を、今度はお前が呼び戻せ。』


瑞稀は、自分の中にある記憶を辿った。


初めて話しかけられた日。


花冠を作ったこと。


一緒に帰った道。


祭りへ誘われたこと。


小さな神へ、これから知りたいと伝えたこと。


狐たちへ向けた、温かな笑顔。


双葉の血を引く少女。


二枚の葉が、胸の中で重なる。


「……芽衣(めい)。」


その音が、闇の中へ落ちた。


水面の下で、芽衣の瞳が開く。


瑞稀は、もう一度叫んだ。


「芽衣!」


黒い水が弾け、芽衣の身体が水面から飛び出した。


瑞稀は、その手を掴む。


「瑞稀……!」


「はい。」


瑞稀は、芽衣を引き寄せた。


「芽衣。」


「思い出しました。」


芽衣の瞳へ、涙が浮かぶ。


それでも、いつものように笑った。


「遅いよ。」


「申し訳ありません。」


「そこは、謝らなくていいの。」


二人の背後で、少年が黒い手を切り払う。


「話は、あとにしろ!」


「分かってる!」


芽衣は水面へ降り立つと、薬玉を握り直した。


少彦名神が、その肩へ戻る。


『よく、戻った。』


「ただいま。」


『……ああ。』


少彦名神は、どこか気まずそうに顔を背けた。


須佐之男の風が、少年の太刀へさらに強く宿る。


伊邪那美は、その姿を見つめていた。


『須佐之男。』


『そなたも、わらわへ抗うか。』


須佐之男の瞳へ、深い痛みが浮かぶ。


『母上。』


『我は、母上を討ちたいのではない。』


『だが、このまま悲しみへ沈み続けることを、望んでもおらぬ。』


伊邪那美の髪が、大きく揺れた。


『わらわの悲しみを、分かったように申すな!』


黄泉全体が震える。


黒い水が一斉に立ち上がり、天井のない闇を覆う巨大な壁となった。


須佐之男の姿が押し流され、少年の太刀から荒々しい風が消える。


「須佐之男!」


『小僧。』


『あとは、お前が選べ。』


遠ざかる声を受けながら、少年は太刀を握り直した。


黒い波が、瑞稀たちへ迫る。


少年が前へ出ようとする。


けれど今度は、瑞稀もその隣へ並んだ。


「共に。」


少年は、瑞稀を見た。


一瞬だけ、困ったように眉を寄せる。


それでも、小さく頷いた。


「ああ。」


二人は、同時に武器を構える。


瑞稀の槍へ宿る黄金の光と、少年の太刀を走る青い雷と赤い炎が、迫る黒い波へぶつかった。


凄まじい衝撃が、黄泉を揺らす。


瑞稀の足が水面を滑り、少年も押し戻された。


芽衣が、薬玉を掲げる。


「二人とも!」


緑の光が、二人の背を支えた。


朱莉も両手を組み、祈りを捧げる。


白い光が瑞稀の槍へ流れ込み、少彦名神が声を張り上げた。


『押し返せ!』


それでも、黒い波はさらに膨れ上がっていく。


伊邪那美は、荒魂と和魂へ分かれてはいない。


怒りも、悲しみも、愛情も、憎しみも、すべてを一柱の内へ抱えたまま、黄泉そのものと結びついている。


これまで還してきた神々とは、違う。


荒ぶる心だけを切り離すことはできず、槍で道を開こうとしても、その先にもまた伊邪那美の力がある。


『無駄じゃ。』


『そなたらが、いかに名を取り戻そうと、すべてはいずれ失われる。』


伊邪那美が、手を伸ばした。


黒い波から一本の腕が現れ、瑞稀ではなく少年へ向かう。


「避けてください!」


少年が、太刀で受け止める。


腕は霧となって刀身へ絡みつき、そのまま少年の身体を覆っていった。


「くっ……!」


瑞稀は、反射的に少年へ手を伸ばす。


けれど、呼び止めるための名が出てこない。


唇だけが動き、声にならない息が漏れた。


その様子に気づいた少年の顔が、僅かに強張る。


伊邪那美の声が、瑞稀の耳元で囁いた。


『最後の一人。』


『その者の名も、声も、そなたへ向けた思いも、すべてわらわが沈めよう。』


「やめてください!」


瑞稀は、少年へ手を伸ばす。


けれど黒い水が、二人の間を引き離していく。


少年の輪郭も、顔も、太刀の光も、存在そのものも闇へ呑まれていった。


芽衣が薬玉の光を放つが、黒い水へ弾かれる。


朱莉も瑞稀の背を支えようとしたが、その腕すら闇へ押し戻された。


瑞稀は、少年へ向かって走る。


足を取られ、何度も倒れそうになりながら、それでも進んだ。


少年は黒い霧の中で一人、太刀を杖のように水面へ突き立てている。


「来るな!」


「ですが!」


「お前は、伊邪那美のところへ行け。」


「お一人では――」


「いいから、行け!」


少年の声が、黒い水を震わせた。


それでも、瑞稀は足を止めない。


黒い霧が、少年の胸元まで昇っていく。


「思い出せなくても、いい。」


瑞稀の足が、止まった。


少年は、顔を上げる。


その瞳だけが、闇の中でもまっすぐに瑞稀を見つめていた。


「名前を忘れても、俺が何を言ったか忘れても、お前が忘れた分まで、俺が覚えてる。」


一度、言葉を詰まらせる。


それでも少年は、続けた。


「俺がお前と過ごしたことを、全部、覚えてる。」


「だから、お前は行け。」


以前なら、その言葉へ従っていたかもしれない。


守られるまま少年を残し、役目を果たすために進んでいたかもしれない。


けれど、今は違う。


「よくありません。」


少年の瞳が、揺れる。


「私が忘れても、あなたが覚えてくださる。」


「ですが、それだけでは、よくありません。」


瑞稀は黒い水を踏み越え、一歩ずつ少年へ近づいた。


「私は、あなたを忘れたくありません。」


「あなたのお名前を、呼びたい。」


さらに、一歩進む。


「あなたが私へ届けてくださった言葉を、今度こそ忘れずに、受け取りたいのです。」


伊邪那美が、冷たく告げた。


『ならば、思い出してみよ。』


『その者は、誰じゃ。』


瑞稀は、少年を見つめた。


幼い頃、境内で一人になった自分を見つけてくれた。


大丈夫だと、ずっとここにいると、泣き止むまで隣へ座ってくれた。


母がいなくなったあと、笑わなくなった自分を何も言わずに見守り、傷つけることが怖くて聞きたい言葉を呑み込みながら、それでも、忘れられたくないと、好きだと伝えてくれた。


耳元の黒い飾り。


少し鋭い目。


ぶっきらぼうな声。


自分より半歩前へ立つ癖。


けれど今は、自分と並んで歩こうとしてくれる人。


すると、闇の向こうから温かな光が差した。


月の光とは違う。


黄泉のすべてを焼き払うような激しさもない。


閉ざされた夜を終わらせる、最初の朝の光。


『瑞稀。』


優しい声が響いた。


光の中に、長い金色の髪を持つ女神が立っている。


天照(あまてらす)様。」


天照は、少年へ目を向けた。


『その者の名は、我が与えるものではない。』


『初めから、お前の心の中にある。』


光が、瑞稀の記憶を照らしていく。


朝の境内。


並んで歩いた通学路。


初めて荒魂と向き合った夜。


傷ついた身体で、それでも自分の前へ立った背中。


祭りの灯り。


少しだけ近づいた距離。


告げられた言葉。


そのすべての中心に、一つの名があった。


秋の葉。


朝の光。


何度も、呼んできた名。


「……(あさひ)。」


旭の瞳が、見開かれる。


瑞稀は、胸の奥からその名を呼んだ。


「旭!」


光が弾けた。


黒い霧が旭の身体から吹き飛び、青い雷と赤い炎が太刀へ戻っていく。


旭は、大きく息を吸った。


「遅い。」


声が、震えていた。


瑞稀の目にも、涙が滲む。


「申し訳ありません。」


「だから、謝るな。」


「はい。」


旭。


その名前を知っている。


口にできる。


目の前の人が、誰でもない旭だと分かる。


胸の中にあった最後の空白が、埋まった。


朱莉。


忠司。


芽衣。


旭。


残されていた四つの名前が、すべて瑞稀の中へ戻った。


天照の光が、旭の太刀へ降り注ぐ。


青い雷。


赤い炎。


須佐之男の風。


そこへ、朝日のような黄金の光が重なった。


旭は太刀を構え、迫る黒い波を見据える。


一度だけ、瑞稀へ振り返った。


「行け、瑞稀。」


太刀を両手で握る。


「お前が選んだ道を、俺が守る。」


太刀が振り下ろされた。


黄金の光と、青い雷、赤い炎、荒れ狂う風が、一つの刃となって黄泉の海を切り裂いた。


巨大な波の中央に、伊邪那美へ続く一本の道が生まれる。


瑞稀は、走った。


「瑞稀、行って!」


芽衣の声が、背中を押す。


朱莉も叫ぶ。


「私たちは、大丈夫です!」


『前だけを見よ!』


少彦名神の声を受け、瑞稀は前へ進んだ。


けれど、開かれた道はすぐに閉じ始める。


切り裂かれた黒い水が巨大な手となり、旭へ襲いかかった。


旭は太刀で受け止めたが、身体が大きく揺れ、片膝をつく。


「旭!」


「行け!」


旭は、吠えた。


「お前が行かなきゃ、意味がない!」


瑞稀は奥歯を噛み締め、前を向く。


伊邪那美は、まだ遠い。


黄泉全体が、瑞稀を拒むように波打っている。


天照の光が徐々に薄れ、須佐之男の風も、月読の光も弱くなっていった。


三柱の力だけでは、伊邪那美へ届かない。


『見よ。』


伊邪那美の声が響く。


『わらわは、黄泉そのもの。』


『一柱であろうと、三柱であろうと、生者が抗えるものではない。』


無数の黒い腕が、水面から伸びる。


旭へ。


芽衣へ。


朱莉へ。


少彦名神へ。


そして、瑞稀へ。


天照が、静かに呼びかけた。


『瑞稀。』


『お前はこれまで、多くの神々へ手を差し伸べた。』


これまで縁を結んできた神々の名と姿が、瑞稀の胸へ次々と浮かんでいく。


猿田毘古。


火之迦具土。


天鈿女命(あめのうずめのみこと)


宇迦之御魂(うかのみたま)


木花咲耶姫(このはなさくやひめ)


瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)


奇稲田姫。


宗像三女神(むなかたさんじょしん)


塩土老翁(しおつちのおじ)


大綿津見(おおわたつみ)


磐長姫(いわながひめ)


大山祇神(おおやまつみ)


豊受姫(とようけひめ)


天児屋根(あめのこやねのみこと)


玉祖命(たまのおやのみこと)


思金神(おもいかねのかみ)


太玉命(ふとだまのみこと)


そして、少彦名神。


『ならば今度は、お前が手を伸ばす時だ。』


瑞稀は、足を止めた。


振り返る。


旭が、芽衣が、朱莉が、迫る黒い腕を必死に食い止めている。


少彦名神も、小さな身体で薬玉の光を支えていた。


これまで神を迎えることは、自分の役目だと思っていた。


器であるから。


神々が必要とするから。


呼ばれれば迎え、求められれば戦う。


けれど、神々は言っていた。


呼べば、参ろうと。


心から望んだ時に、力を貸すと。


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


役目でも、命令でもない。


誰かに紡がされた祝詞でもない。


自分自身の願いを、初めて神々へ向ける。


「どうか。」


声が、震えた。


それでも目を逸らさず、伊邪那美を見たまま続ける。


「皆様。」


「私に、お力をお貸しください。」


黄泉の闇は、何も答えない。


黒い腕がさらに迫り、旭の膝が水面へつく。


芽衣の薬玉の光も消えかけ、朱莉の身体も黒い霧へ包まれていった。


瑞稀は、もう一度声を上げる。


「私は、母様と共に帰りたい。」


「芽衣と、旭と、皆と共に帰りたいのです。」


涙が、頬を伝う。


それでも、声を止めない。


怒りと悲しみと憎しみの奥に、誰かに振り返ってほしいと願い続けた、一柱の女神がいる。


「そして。」


「伊邪那美様を、お救いしたいのです。」


静寂が、落ちた。


その時。


『……ようやく、答えを見つけたようじゃな。』


聞き覚えのある声に、瑞稀が顔を上げる。


黒い水面の向こうに、塩土老翁が立っていた。


「塩土老翁様。」


老翁は、どこか満足そうに目を細める。


『あの時の渡し賃。』


『確かに、受け取ったぞ。』


瑞稀は、一瞬だけ目を見開いた。


――渡し賃は、答えを見つけてからでええ。


かつて告げられた言葉が、胸の奥へ蘇る。


瑞稀は、静かに頭を下げた。


「……はい。」


「お待たせいたしました。」


塩土老翁は、楽しそうに笑った。


『何、待つのは慣れておる。』


その直後。


――コン。


小さな鳴き声が、黒い水面の向こうから聞こえた。


白い前足が、水面へ下りる。


一匹。


続いて、もう一匹。


二匹の狐が黄泉の海を駆け、その足跡から黄金の稲穂が芽吹いていく。


黒一色だった黄泉へ、豊かな実りの色が広がった。


狐たちは瑞稀の前で足を止め、満足したように尾を一度だけ揺らす。


その後ろから、白い衣を纏い、金色の稲穂を手にした女神が歩いてきた。


「宇迦之御魂様。」


宇迦之御魂は、穏やかな眼差しで瑞稀を見つめる。


『呼べば、参ろう。』


かつて、聞いた言葉。


『お主が、心から望んだ時に。』


女神の口元へ、柔らかな笑みが浮かんだ。


『ようやく、呼んでくれたな。』


『待っておったぞ。』


瑞稀の胸が、熱くなる。


神は、人が自ら願うより先に、その道へ手を出してはならない。


宇迦之御魂は、ずっと瑞稀を見守りながら、それでも瑞稀自身が選び、呼ぶ時を待っていた。


『今度は、お主が呼んだ。』


『ならば我らも、迷う理由はない。』


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


「……ありがとうございます。」


宇迦之御魂は柔らかく笑い、芽衣へ視線を向ける。


『双葉の子よ。』


『よく、忘れぬと約した。』


芽衣の肩で、少彦名神が小さく鼻を鳴らした。


『こやつは、まだ忘れておらぬぞ。』


「忘れないよ。」


芽衣は涙を拭い、薬玉を握り直す。


「これからも。」


『ならば、最後まで傍におれ。』


宇迦之御魂が稲穂を掲げると、黄金の光が芽衣を包み、消えかけていた薬玉が再び強く輝いた。


二匹の狐が、一声鳴く。


その声へ応えるように、遠くから神楽鈴の音が響いた。


――シャン。


瑞稀の足元へ、黄金の石畳が伸びてくる。


道の先に、大きな槍を手にした猿田毘古が立っていた。


『道が、必要か。』


「猿田毘古様。」


『ならば、開こう。』


猿田毘古が槍を振るうと、黒い水面へまっすぐな光の道が生まれる。


その隣へ、軽やかな笑い声と共に天鈿女命が舞い降りた。


『随分と、遅かったわね。』


「申し訳ありません。」


『違うでしょう?』


『こういう時は、ありがとうと言うの。』


瑞稀は、僅かに目を見開いた。


それから、深く頭を下げる。


「ありがとうございます。」


『よろしい。』


神楽鈴の音が黄泉へ広がる。


その音に背を押されるように、旭が太刀を支えに立ち上がった。


続いて海鳴りが響き、黒い水の中から青く輝く巨大な波が立ち上がる。


けれど、その波は瑞稀たちへ襲いかからず、黄泉の穢れを押し返し、光の道の両側へ分かれていった。


大綿津見が姿を現す。


『水は、我に任せよ。』


その後ろへ、赤、藍、白銀の三つの光が並んだ。


宗像三女神。


『海の道は、我らが守ろう。』


崩れ始めた足元へ、大きな足音が響いた。


大山祇神が地へ手を触れると岩が隆起し、その隣で磐長姫が静かに腕を上げる。


『ここは、崩させません。』


黒い腕が岩へぶつかるが、足場は揺るがない。


岩の隙間から淡い花が咲き、木花咲耶姫が花びらと共に姿を現した。


その隣へ、瓊瓊杵尊が立つ。


二柱は言葉を交わさず、同じ道を見据えた。


黄金の櫛が光を放つ。


奇稲田姫が、旭へ向けて静かに櫛を掲げた。


『あなたがたの選んだ道を、他の誰にも奪わせはいたしません。』


櫛から零れた一筋の光が、旭の太刀へ宿る。


遠くで、須佐之男の笑い声が響いた。


『受け取れ、小僧。』


『我が妻からの力だ。』


「……借りる。」


『返さずともよい。』


「それは困る。」


『律儀な小僧だ。』


旭の太刀へ、黄金の光が重なった。


冷たい黄泉の風の中へ、温かな香りが広がる。


豊受姫が両手を差し出すと、柔らかな光が旭へ、芽衣へ、朱莉へ、そして瑞稀へと巡り、失われていた力を少しずつ満たしていった。


黄泉の岸辺には、塩土老翁が座っていた。


いつものように網を繕いながら、伊邪那美へ至る道を見つめる。


『潮は、満ちた。』


『あとは、渡るだけじゃ。』


白い文字が、宙へ浮かび上がる。


天児屋根の声が、神々の言葉を一つの祈りへ結んでいく。


『呼びかけよ。』


『今度こそ、届くまで。』


その光の傍らへ、静かに一柱の神が姿を現した。


深い思索を宿した瞳で黄泉全体を見渡し、押し寄せる黒い波と神々の位置を一度に捉えている。


「思金様。」


思金神(おもいかねのかみ)は、伊邪那美へ続く道を見つめた。


『力を重ねるだけでは、届かぬ。』


『黄泉は、一つの意志として動いている。』


その視線が、神々へ向けられる。


『それぞれの神威を正しく配し、一つの神事として結ぶ。』


『その場を整えるのは、太玉の役目だ。』


その声へ応えるように、一柱の神が姿を現した。


白い装束を纏い、手には白布を結んだ榊を携えている。


「太玉様。」


太玉命(ふとだまのみこと)は瑞稀へ穏やかに頷くと、手にした榊を水面へ立てた。


『ここを、神座と定める。』


榊から白い光が広がり、瑞稀たちと神々の足元へ大きな輪を描いていく。


黄泉の黒い腕が輪へ触れた瞬間、乾いた音と共に弾かれた。


思金神が、神々へ視線を巡らせる。


『大綿津見と宗像の娘たちは、水を。』


『大山祇神と磐長姫は、足場を。』


『猿田毘古は、道を。』


『天児屋根は、声を繋げ。』


太玉命が榊を振るうたび、白い光がそれぞれの神々の足元へ走り、黄泉の波へ乱されていた神威が静かに定まっていく。


『一柱ずつではない。』


『互いの役目を信じ、皆で一つの神事を成すのだ。』


瑞稀の手にある槍が、淡く震えた。


かつて二柱が、自らの神威を宿した槍。


その穂先へ、思金神の静かな光と、太玉命の白い光が宿る。


『あの時、我らが託したものを、今度はお前自身の願いで振るうがよい。』


瑞稀は槍を胸元へ引き寄せ、深く頷いた。


「はい。」


思金神は、再び黄泉全体を見渡す。


『天鈿女は、恐れを祓い、豊受は力を巡らせよ。』


『須佐之男と火之迦具土、建御雷神(たけみかづちのかみ)は、刃を一つに。』


旭の太刀へ、青い雷と赤い炎が強く巡る。


『玉祖。』


思金神の呼びかけへ応じ、淡い光の中から玉祖命(たまのおやのみこと)が現れた。


その手には、先端の一部が欠けた勾玉がある。


かつて砕かれ、完全には戻らなかった御魂の形。


『我が身は、今も欠けたまま。』


『されど、欠けたものにしか結べぬ光もある。』


不完全な勾玉が宙へ浮かび上がる。


黄金。


白銀。


青。


赤。


緑。


異なる色を持つ神威が、互いに押し合うことなく、欠けた勾玉の内側を巡り始めた。


勾玉は、失った部分を取り戻すように形を変えることはない。


欠けたまま、その身へすべての光を受け入れていく。


やがて、欠けた先端から一筋の光が溢れ、黒い水面をまっすぐに走って伊邪那美へ続く道へ重なった。


『失われた部分を、無理に埋める必要はない。』


玉祖命が、瑞稀へ告げた。


『欠けたままでも、繋がることはできる。』


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


「はい。」


失った時間が戻っても、起きたことすべてが消えるわけではない。


傷ついた心も、過ぎた年月も、なかったことにはならない。


それでも、再び繋がることはできる。


玉祖命の勾玉が強く輝き、ばらばらだった神々の力が、一つの大きな流れとなった。


その時。


黄泉の奥から、無数の淡い光が浮かび上がる。


人の頭ほどの、青白く揺れる人魂たち。


これまで黄泉路で瑞稀たちの行く先を見つめ、時に怯え、時に道を示してくれた死者たちの灯だった。


一つ、また一つと、黒い水面の上へ集まってくる。


伊邪那美が、目を見開いた。


『そなたらまで、わらわへ背くか。』


人魂たちは、言葉を持たない。


それでも逃げず、光の道の両側へ並んで黄泉の闇を柔らかく照らした。


彼らは、伊邪那美を討とうとしているのではない。


ただ、長い悲しみの中へ沈んだ女神に、もう一度誰かの声を聞いてほしいと願っている。


少彦名神が、静かに人魂たちを見つめた。


『死者まで、あの女神が救われることを望んでおる。』


芽衣は、薬玉を胸元へ抱き締める。


「伊邪那美様は、一人じゃなかったんだね。」


人魂たちの光が、返事をするように揺れた。


猿田毘古が、笑う。


『待っておったぞ。』


天鈿女命も、楽しげに目を細めた。


『本当に、随分待たされたわ。』


玉祖命が欠けた勾玉を掲げ、思金神が神々の力を導く。


月の光が戻り、月読が瑞稀の左側へ立った。


荒々しい風が巻き起こり、須佐之男が旭の背後へ現れる。


旭の太刀の炎が、人の形を結んだ。


火之迦具土の声が響く。


『今度は、焼き尽くすためではない!』


『道を塞ぐ穢れのみを、焼こう!』


太刀の奥で青い雷が応え、建御雷神もまた旭と共に立っている。


最後に、朝日の光が黄泉の最深部を照らした。


天照が、瑞稀の右側へ降り立つ。


三貴子。


瑞稀がこれまで縁を結んだ神々。


そして、黄泉の人魂たち。


すべてが、伊邪那美の前へ集っていた。


伊邪那美は、静かにその光景を見つめている。


怒りも、驚きも、その表情からは読み取れない。


やがて、僅かに唇を開いた。


『わらわ一柱を討つために、これほどの神々と死者を集めたか。』


「いいえ。」


瑞稀は、槍を構えた。


旭が、その隣へ並ぶ。


芽衣も薬玉を握り、朱莉も祈りの手を解かない。


「討つためでは、ありません。」


伊邪那美の黒い瞳が、瑞稀を捉える。


「あなたを、お救いするためです。」


一瞬。


伊邪那美の瞳へ、深い悲しみが浮かんだ。


けれど、すぐに黄泉の闇が噴き上がる。


『わらわを、救うと申すか。』


黒い水が、天へ昇った。


『見捨てられ、恐れられ、この地へ置き去りにされた、わらわを!』


無数の死者の声が重なり、黄泉の大地が砕ける。


伊邪那美の髪が舞い上がり、美しい姿へ黄泉のすべてが重なっていく。


黒い腕。


白い骨。


朽ちた衣。


泣き叫ぶ、無数の顔。


それでも、伊邪那美自身の姿は消えない。


すべてを、その身へ抱えたまま、女神は瑞稀たちを見下ろした。


『ならば、示してみよ。』


『わらわの悲しみを消さず、怒りを否定せず、それでもなお救えるというのなら。』


黒い水が、巨大な刃となって降り注ぐ。


思金神が、声を上げた。


『今だ。』


『すべての力を、開かれた道へ。』


猿田毘古が、槍を構える。


『道を、開くぞ。』


天鈿女命が、神楽鈴を掲げる。


『最後まで、下を向かないで。』


宇迦之御魂の狐たちが、黄金の稲穂の中を駆ける。


『参ろう。』


玉祖命の勾玉が、すべての神威を一つの環へ結ぶ。


人魂たちが道の両側で輝き、黄泉の闇を照らしていく。


須佐之男が、笑った。


『母上は、少々頑固でな。』


月読が、静かに光を放つ。


『それは、そなたも同じであろう。』


『違いない。』


天照が、瑞稀の肩へ手を添えた。


『行きなさい。』


『今度は、一人ではありません。』


瑞稀は、周囲にいるすべての者を見た。


朱莉。


旭。


芽衣。


少彦名神。


神々。


そして、黄泉の人魂たち。


「はい。」


瑞稀は、槍を握り直す。


「皆様。」


深く、息を吸った。


もう、声は震えていない。


「私と共に、戦ってください。」


神々の光が一斉に黄泉を照らし、人魂たちの灯がその光へ重なる。


黒い刃と無数の光がぶつかり、轟音と共に、黄泉の海が初めて大きく波打った。


瑞稀は旭と並び、伊邪那美へ向かって走り出した。

第五十一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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