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第五十話 「届かなかった言葉」

第五十話 「届かなかった言葉」


山の内側を抜けた先にも、黄泉路は続いていた。


けれど、これまでとは少し様子が違っている。


荒れ狂う水も、崩れ落ちる岩も、行く手を塞ぐ巨大な影もない。


細く長い道が、ただ闇の奥へ伸びていた。


瑞稀たちは、その道を静かに歩いていく。


どれほど進んだのかは、分からない。


黄泉には、時の流れを示すものがなかった。


それでも道を歩くたび、瑞稀の胸には一つずつ、大切なものが戻ってきた。


かつて御霊を還した神々が、黄泉路の途中で瑞稀へ力を貸してくれたのだ。


長い戦いはなかった。


試すような問いも、ほとんどなかった。


神々は、瑞稀がここまで歩いてきたことを確かめると、預かっていた記憶を静かに返していった。


豊受姫(とようけひめ)は、誰かと食卓を囲み、その笑顔を嬉しいと感じた記憶を。


塩土老翁(しおつちのおじ)は、答えを急がず、誰かの言葉を待った記憶を。


宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、迷いながらも、自ら進む道を選んだ記憶を。


天鈿女命(あめのうずめのみこと)は、少女と声を上げて笑った記憶を。


失われていた欠片が、一つずつ瑞稀の中へ戻っていった。


記憶を受け取るたび、胸へ戻るのは喜びだけではなかった。


忘れていたことや、忘れたまま相手の気持ちを知らずに過ごしていたこと、その事実に痛みを覚えることもあった。


それでも神々は、失われていた時間を責めなかった。


返すべきものを返し、再び歩き出す瑞稀の背を、静かに見送ってくれた。


そうして今、瑞稀の中には、かつて失った多くの記憶が戻っていた。


それでも、四人の名だけが戻らない。


母。


父。


少女。


そして、少年。


大切な人々だと分かる。


どのような声で笑うのかも、何を好み、何を恐れ、自分へどのような言葉をかけてくれたのかも知っている。


けれど、その人を呼ぶための音だけが、胸の中から抜け落ちていた。


名前を思い出そうとするたび、白い霧が記憶を覆い隠す。


瑞稀は、隣を歩く少年へ視線を向けた。


右手には、須佐之男(すさのお)から預かった太刀。


黄泉へ入ってから、何度も瑞稀たちを守ってきた背中。


あの背中を、何度も追いかけてきた。


時には守られ、時には隣へ並び、時には自分がその前へ立った。


大切な人。


自分の傍からいなくなることを考えるだけで、胸が苦しくなる人。


「……っ。」


名を呼ぼうとして、瑞稀は言葉を呑み込んだ。


少年が、振り返る。


「どうした。」


「いいえ。」


瑞稀は、小さく首を横へ振った。


「何でもありません。」


少年は僅かに眉を寄せ、何かを言いたそうにしたが、やがて前へ向き直った。


その横顔を見た瞬間、瑞稀の胸の奥へ温かな痛みが走る。


何か、とても大切な言葉を、この少年から伝えられたことがある。


少年の唇が動き、自分へ何かを告げた。


そこまでは分かる。


けれど、言葉だけがない。


音を失った記憶の中で、少年と自分は、互いを見つめたまま動かない。


その日を境に二人の距離が変わったことも覚えている。


けれど、何を伝えられ、何を返したのかだけが抜け落ちていた。


『随分と、もどかしそうだな。』


少彦名神(すくなびこな)の声に、瑞稀は顔を上げた。


少彦名神は、少女の肩の上から瑞稀を見ている。


「……分かりますか。」


『見れば、分かる。』


「何かを、思い出しかけているの?」


少女も、瑞稀の顔を覗き込む。


「はい。」


瑞稀は、正直に答えた。


「ですが、言葉だけが。」


そこまで口にした時だった。


不意に、少女の唇が動いた。


けれど、声が聞こえない。


瑞稀は、目を瞬く。


「今、何と。」


少女は首を傾げ、もう一度口を開いた。


やはり、声がない。


口は確かに動いているのに、そこから発せられるはずの音だけが、どこにも届かなかった。


「声が……。」


母が、少女へ駆け寄る。


「どうしたのですか。」


母の声は、聞こえている。


少女自身も戸惑ったように喉へ手を当て、何度か言葉を発しようとした。


それでも、息だけが漏れ、音にならない。


『口を、開け。』


少彦名神が、少女の肩から手のひらへ飛び降りる。


少女が、従う。


少彦名神は喉元を見て、目を閉じた。


『身体に、異常はない。』


「では、なぜ。」


母が尋ねる。


『声を、奪われたのではない。』


少彦名神は、周囲の闇へ目を向けた。


『言葉が、届かぬのだ。』


その瞬間、母の唇からも音が消えた。


「母様。」


瑞稀は、思わず手を伸ばす。


母は何かを伝えようとしているが、瑞稀には聞こえない。


次に、少彦名神の声が消えた。


少女の肩へ戻り、何かを叫んでいるように見える。


それでも、言葉は届かなかった。


静寂が、黄泉路を覆っていく。


少女。


母。


少彦名神。


一人ずつ、言葉だけが世界から切り離されていった。


少年が、太刀を抜く。


「何かいる。」


その声だけは、まだ聞こえた。


瑞稀は、少年の隣へ立つ。


「この気配は、天児屋根(あめのこやねのみこと)様の御力に似ています。」


「天児屋根。」


「祝詞と、言葉を司る神です。」


少年は、瑞稀へ視線を向けた。


「以前、還した神か。」


「はい。」


瑞稀は、胸元へ手を添える。


「おそらく、そのときに私が失った言葉が、この先にあります。」


瑞稀は、少年を見る。


少年の表情が、強張った。


「言葉以外は、覚えてるのか。」


「はい。」


少年は、僅かに顔を背けた。


その耳は、黄泉の暗がりでも分かるほど赤く染まっていく。


瑞稀は、思わずその横顔を見つめた。


「どうしました。」


「何でもない。」


「ですが。」


「見るな。」


「なぜですか。」


「今は、見るな。」


少年は、頑なに前を向いた。


そのやり取りに、瑞稀の胸の奥が強く脈打つ。


同じことが、以前にもあった気がする。


少年が顔を背け、自分へ、あまり見るなと告げた。


その時も、耳が赤かった。


そこまで思い出した瞬間、少年の声が消えた。


瑞稀は、息を呑む。


少年の唇が動いている。


けれど、何も聞こえない。


少年自身も、すぐに異変へ気づいた。


瑞稀は、少年へ近づく。


「私の声は、聞こえますか。」


少年が、頷いた。


この中で、言葉を発することができるのは、瑞稀だけになった。


静寂の中、足元から赤黒い文字が浮かび上がる。


古い祝詞のような文字が、瑞稀たちの周囲をゆっくりと巡っていた。


けれど、そのどれにも意味がない。


読もうとすれば形を変え、受け取ろうとすれば、音もなく崩れていく。


言葉でありながら、誰にも届くことのなかったもの。


『言えなかった。』


どこからか、微かな声がした。


『伝わらなかった。』


『違う意味に、受け取られた。』


一つだった声が二つに増え、やがて無数の囁きとなって、暗い道を満たしていく。


『謝りたかった。』


『あのようなことを、言いたかったのではない。』


『聞いてほしかった。』


『忘れないでほしかった。』


瑞稀は、周囲を漂う文字を見つめた。


天児屋根が、瑞稀たちの言葉を奪っているのではない。


けれど、ここへ沈んだ無数の言葉は、言霊を司る神の力と深く響き合っている。


少年が、何かを伝えようとしていた。


声は、届かない。


その姿へ、瑞稀の記憶に残る音のない光景が重なる。


少年が自分へ、大切な何かを伝えた夜。


自分も、確かに言葉を返した。


けれど、その言葉だけが抜け落ちている。


「私が失った言葉も。」


瑞稀は、少年を見つめた。


「この中へ、沈んでいるのですね。」


返事は、聞こえない。


それでも瑞稀は、胸の奥へ残る神の気配へ意識を向ける。


以前、御霊を還した時に結ばれた縁。


言葉に傷つき、言葉を信じられなくなり、それでも最後には、もう一度、誰かへ思いを届けることを選んだ神。


「天児屋根様。」


瑞稀は、自らその名を呼んだ。


胸元へ手を添え、静かに目を閉じる。


「――謹んで、お迎えいたします。」


白い光が、瑞稀の足元から立ち上った。


白銀の髪が静かに揺れ、瞳が澄んだ紫へ変わっていく。


瑞稀の右手へ、白木の笏が現れた。


それを握った瞬間、静かな声が響く。


『言葉を、取り戻したいか。』


「はい。」


瑞稀は、笏を握り直した。


『お前が失った言葉は。』


『聞けば、今までと同じようにはいられぬものだ。』


瑞稀は、少年へ視線を向ける。


「言葉を忘れても、心へ残ったものは消えませんでした。」


天児屋根の気配が、静かに揺れる。


『ならば、我に返せと求めるな。』


『それは、我の言葉ではない。』


瑞稀の視線の先で、少年が息を呑んだ。


『あの者が、お前へ届けた言葉。』


『そして、お前自身が返した言葉だ。』


笏を握る手へ、力がこもる。


『己の心へ入り、自ら受け取り直せ。』


瑞稀は、静かに目を閉じた。


すると、周囲を漂っていた赤黒い文字が淡い紫の光を帯び、ゆっくりと瑞稀の視界を覆っていく。


黄泉路の冷たい空気も、傍らにいる少年たちの気配も、次第に遠ざかっていった。


やがて足元の感触まで消え、瑞稀は白い霧に包まれた空間へ立っていた。


霧の向こうに、一つの人影が浮かび上がる。


少年だった。


夜の神社。


朽ちた鳥居。


墨を落としたような闇。


自分と少年は、天児屋根の荒魂と向き合っている。


言葉が歪められ、少年の心へしまわれていたものが、一つずつ暴かれていく。


そこまでは、覚えている。


瑞稀は、右手の笏を胸元へ当てた。


「聞かせてください。」


誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。


天児屋根へ。


過去の少年へ。


それとも、大切な言葉を失った自分自身へ。


「私が、受け取ることのできなかった言葉を。」


笏が、淡い紫の光を放つ。


白い霧へ一本の亀裂が走り、その向こうから少年の声が聞こえた。



「お前の母親がいた頃は、もっと明るかった。」


瑞稀は、夜の境内へ立っていた。


目の前にいる少年は、苦しげに顔を歪めている。


自分の意思に反して、胸の中へしまっていた言葉が、止めどなく零れていた。


「いなくなってから、お前は笑わなくなった。」


「泣かなくなった。」


「何を言われても、何でもないみたいな顔をするようになった。」


瑞稀は、何も言えずに少年を見つめていた。


覚えている。


この光景を。


けれど今までは、少年の口が動く姿だけが記憶へ残り、声は一つも聞こえなかった。


今は、失われていた言葉が、一つずつ胸の中へ入ってくる。


「俺は、ずっと分からなかった。」


「本当に、何も感じなくなったのか。」


「感じてるのに、出さなくなっただけなのか。」


少年の声が、震えている。


「聞きたかった。」


「何かあるたびに、何度も。」


「大丈夫かって。」


「苦しくないのかって。」


「一人で、抱えてないかって。」


責めているのではない。


長い間、触れれば壊れてしまうと思い、見ないふりをしてきた傷へ、ようやく手を伸ばしている。


「でも、聞いたらお前を傷つける気がした。」


「思い出したくないことを、無理に思い出させるかもしれないと思った。」


「俺が聞いたせいで、もっと苦しませるのが怖かった。」


少年は、自分の言葉に苦しむように顔を伏せた。


「だから、俺も何でもないふりをした。」


「ずっと。」


瑞稀の胸が、強く痛む。


少年は、何も聞かなかったのではない。


聞くことができなかったのだ。


瑞稀を傷つけることが怖くて、瑞稀が言葉を閉ざすたび、少年もまた、自分の言葉を呑み込んでいた。


「お前が何も言わないなら、俺も聞かない方がいいんだって。」


過去の少年が、自分の口元を押さえる。


それでも、言葉は止まらない。


「ずっと傍にいたのに、俺には何も話してくれない。」


「俺が知ってるのは、昔のお前ばっかりで。」


「今のお前が、何を考えてるのか。」


「何も、分からない。」


少年の声へ、明確な痛みが滲んだ。


「それが、ずっと寂しかった。」


瑞稀は、胸元を押さえる。


言葉を失っていた時にも、少年が悲しんでいたことは分かっていた。


けれど今、声として受け取ると、その痛みの深さがはっきりと伝わってくる。


少年は、自分のすぐ隣で、ずっと寂しさを抱えていた。


「最近は、お前が思い出せないことが増えて。」


「聞いたはずのことを、忘れて。」


「昔のことが、少しずつ抜けて。」


少年が、息を詰まらせる。


「そのたびに、不安になる。」


「次は、何を忘れるんだって。」


「お前が大事にしてたものまで、忘れるんじゃないかって。」


そして少年は、最も恐れていたことを口にした。


「そのうち、俺のことも忘れるんじゃないかって。」


瑞稀の胸が、強く締めつけられる。


少年が恐れていたことは、現実になっていた。


瑞稀は今、少年の名を思い出せない。


共に過ごした時間も、大切に思う気持ちも、この言葉も戻った。


それでも、彼を呼ぶための名だけがない。


「言いたくなかった。」


少年の声が、さらに震える。


「こんな言い方で、お前を責めてるみたいに。」


「違うんだ。」


「忘れたくて忘れてるんじゃないことくらい、分かってる。」


「お前が一番苦しいことも、分かってるつもりだった。」


「だから、何も言わない方がいいと思った。」


少年は、必死に言葉を止めようとしていた。


けれど、胸の奥へ隠していたものは、もう止まらない。


「でも、俺は、お前に忘れられたくない。」


瑞稀の瞳へ、涙が浮かぶ。


「忘れないでほしい。」


「昔、一緒に遊んだことも。」


「お前が、笑ってたことも。」


「俺がずっと、お前の傍にいたことも。」


少年の声が、掠れる。


「全部、忘れないでほしい。」


言葉が一つずつ、瑞稀の中へ戻ってくる。


忘れていたのではない。


言葉だけが、抜け落ちていた。


だから胸の奥には、少年を失いたくないという気持ちが、理由も分からぬまま、ずっと残っていた。


強く。


温かく。


「俺は。」


少年の声が、途切れる。


「ずっと、お前のために――」


その先にある言葉を、自分自身でも初めて理解したかのように、少年の顔が強張った。


「違う。」


「そこまでは。」


「それだけは、今は――」


『言え。』


天児屋根の声が、境内へ響いた。


『胸の奥へ隠した言葉を。』


『どうせ、いつか失われる。』


『ならば今ここで、すべて口にしてしまえ。』


少年は、拒んでいた。


こんなふうに言いたいのではないと。


自分の意思を奪われたまま、瑞稀の気持ちも聞かず、一方的に押しつけるような形で伝えたくはないと。


それでも、やがて少年の声へ、本人の意思が戻っていく。


少年が、ゆっくりと瑞稀を見る。


「これだけは、言わされた言葉にしたくない。」


その表情を、今の瑞稀なら理解できた。


拒まれることを恐れ、自分との関係が変わってしまうことを恐れ、それでも逃げないと決めた顔だった。


少年は、瑞稀の名を呼ぶ。


その音だけは、今も鮮明に聞こえる。


「瑞稀。」


一度、深く息を吸う。


そして、自らの意思で告げた。


「俺は、お前が好きだ。」


言葉が、瑞稀の胸の中へ落ちた。


失われていた言葉。


少年が、自らの意思で瑞稀へ届けた言葉。


好きだ。


その一言が、これほど大きなものだとは、当時の瑞稀には分かっていなかった。


少年がどれほど長い間、その思いを抱えていたのか。


どれほどの恐れを越え、伝えたのか。


今なら、分かる。


その言葉を聞いた瞬間、過去の瑞稀の胸へ、強い温もりが広がっていた。


驚き。


戸惑い。


申し訳なさ。


そして、少年にそのように思われていたことへの喜び。


少年は言葉を告げたあと、耳まで赤く染めて顔を背けた。


けれど、言葉を取り消そうとはしなかった。


「言い方は、最悪だった。」


「こんなふうに、言いたかったわけじゃない。」


「でも、言ったことまで、なかったことにはしたくない。」


少年は、恥じるように目を伏せながらも、言い切った。


「最後だけは、自分で言った。」


「俺が、自分で伝えたかったからだ。」


瑞稀の瞳から、一筋の涙が零れる。


自分は、この言葉を失った。


少年が、これほどまでに苦しみながら届けてくれた言葉を、覚えていることができなかった。


けれど、胸の温もりだけは消えなかった。


だから言葉を忘れたあとも、少年の傍から離れたくないと思い、以前よりも近く感じていた。


その理由が、今ようやく戻ってきた。


「……ごめんなさい。」


現在の瑞稀の声が、過去の景色へ重なる。


「忘れてしまって。」


返事はない。


これは記憶であり、過去へ届くはずのない言葉だ。


それでも瑞稀は、伝えずにはいられなかった。


「ですが、胸の中には、ずっと残っていました。」


記憶の中で、過去の瑞稀が少年へ呼びかける。


「私は……。」


黒い靄が、その唇へ絡みつく。


拒めと。


気味が悪いと。


重いと。


そのような目で見ていたのかと。


心にもない言葉を、吐かせようとする。


けれど過去の瑞稀は、胸元へ手を当て、自分の中にある本当の言葉を探していた。


「……嬉しいです。」


瑞稀は、息を呑んだ。


これが、自分が最初に返した言葉。


「あなたが、そんなふうに思っていたことには、気づきませんでした。」


「私が何も言わなかったことで、あなたを寂しくさせていたことにも。」


過去の瑞稀は、申し訳なさそうに目を伏せる。


「ごめんなさい。」


「謝るな。」


少年が、すぐに答えた。


「今のは、俺が勝手に言っただけだ。」


それでも過去の瑞稀は、首を横へ振る。


「伝えてくださって、嬉しいです。」


少年は、何も答えなかった。


ただ、信じられないものを見るように瑞稀を見つめている。


過去の瑞稀は、胸元の勾玉を強く握った。


「私はまだ、この気持ちが何なのか、分かりません。」


少年の目が、僅かに伏せられる。


その表情を見て、胸が痛んだ。


それでも、分からないものを、分かったふりはできない。


過去の瑞稀は、不器用ながらも、自分の中にあるものを一つずつ、言葉へ変えていった。


「けれど、あなたに忘れられることを想像すると、苦しいです。」


少年の顔が、上がる。


「あなたが、私の傍からいなくなることも。」


「他の誰かの隣へ立つことも……嫌だと思います。」


少年の瞳が、大きく揺れる。


現在の瑞稀は、胸元へ手を添えた。


この言葉を、自分は確かに口にしていた。


「好きだ」と、同じ言葉で返すことはできなかった。


けれど、少年を失いたくないと、他の誰かの隣へ行ってほしくないと、その時すでに、自分ははっきりと願っていた。


「それが、あなたと同じ気持ちなのかは、まだ分かりません。」


過去の瑞稀は、少年をまっすぐに見つめる。


「ですが、あなたが今、伝えてくださったことを、私は大切にしたいです。」


「忘れたくありません。」


自分が返した言葉が、胸の奥へ戻ってくる。


忘れたくないと、確かに願った言葉。


けれど、その後に自分は、その言葉を失った。


悲しさが、胸の中へ広がる。


それでも、言葉を失ったからといって、あの日の自分の気持ちまで嘘になるわけではない。


少年の告白を嬉しいと思い、大切にしたいと、傍にいてほしいと願った。


そのすべては、今の瑞稀の中にも残っている。


景色が、ゆっくりと光へ溶け始めた。


少年の姿が、遠ざかっていく。


瑞稀は、反射的に手を伸ばした。


「待ってください。」


過去の少年は、瑞稀へ向けて何かを言おうとした。


けれど、もう声は届かない。


その姿も、夜の神社も、淡い紫の光へ溶けていった。



足元を満たしていた光が薄れ、代わりに硬い岩の感触が戻ってくる。


遠くから、黄泉路を抜ける冷たい風の音が聞こえた。


頬へ、冷たい空気が触れる。


瑞稀は、ゆっくりと目を開いた。


目の前には、再び黄泉路が広がっている。


右手には白木の笏があり、瞳は澄んだ紫のままだった。


頬には、一筋の涙が残っている。


天児屋根の気配が、問いかけた。


『受け取ったか。』


「はい。」


瑞稀は、胸元へ手を添える。


「すべて。」


少年が、少し離れた場所から瑞稀を見つめていた。


声はまだ戻っていないが、その表情には、期待と恐れ、そして諦めようとする痛みが入り交じっている。


瑞稀は、少年へ一歩ずつ近づいていく。


少年は逃げることも、近づくこともせず、ただその場で瑞稀を待っていた。


「思い出しました。」


瑞稀は、少年をまっすぐに見つめた。


少年の瞳が、大きく揺れる。


「あなたが伝えてくださったことも、私が返した言葉も思い出しました。今は、すべて覚えています。」


少年の唇が動いたが、まだ声は聞こえない。


何を言ったのかは分からない。


それでも、その表情だけで、少年が息を止めたことが分かった。


少年の拳が、強く握られる。


瑞稀は、その手へ視線を落とした。


「ごめんなさい。」


少年が、すぐに首を横へ振る。


唇が動いた。


謝るな。


そう言っているように見えた。


以前と、同じだった。


瑞稀の胸へ、温かなものが広がる。


「それでも、お伝えさせてください。」


瑞稀は、少年の目を見る。


「あなたが伝えてくださった言葉を忘れてしまったことを、私は悲しいと思います。」


少年の瞳へ、僅かな痛みが浮かぶ。


「ですが、言葉を失っても、あなたが大切なことを伝えてくださったことは残っていました。」


「嬉しかったことも、あなたの傍から離れたくないと思ったことも、何一つ、消えてはいませんでした。」


少年の表情が、僅かに崩れた。


ずっと、その言葉を待っていたのかもしれない。


告白されたことすら忘れられ、それでももう一度同じことを伝えることはできず、瑞稀が思い出す日を、ただ待っていた。


瑞稀は、少年の名を呼ぼうとした。


けれど、喉の奥で言葉が止まる。


少年を呼ぶための音だけが、やはり戻らない。


これほどまでに大切な人なのに、告げられた言葉も、自分が返した言葉も、共に過ごした日々も思い出したのに、名だけがどうしても分からない。


胸が、痛んだ。


「……ですが。」


瑞稀は、胸元へ手を添える。


少年が、黙って待っていた。


「まだ、あなたのお名前だけが思い出せません。」


少年の瞳へ、一瞬だけ寂しさが浮かぶ。


けれど、すぐに隠すように目を伏せた。


瑞稀は、その表情から目を逸らさなかった。


「母様も、父様も、親友も、そして、あなたも。」


周囲にいる三人へ、視線を向ける。


「皆様との記憶は戻りました。」


「けれど、お名前だけが、まだ戻らないのです。」


天児屋根の声が、瑞稀の内側から静かに響いた。


『名とは、その者をこの世へ結び留める、最も短い言葉だ。』


『ゆえに最後まで、深く隠されている。』


瑞稀は、少年へ向き直った。


「あなたのお気持ちを、私はもう一度受け取りました。」


「私がお返しした言葉も、覚えています。」


一度、深く息を吸う。


「ですが、過去の私が返した言葉をそのまま繰り返すだけではなく、今の私から、もう一度、あなたへお伝えしたいのです。」


少年が、ゆっくりと顔を上げる。


「ですから、そのお返事は。」


瑞稀は、胸の奥にある願いを確かめた。


「あなたのお名前を取り戻してからでも、よろしいでしょうか。」


少年の瞳が、大きく揺れる。


一瞬、傷つけてしまったのではないかと不安になった。


過去の自分は、少年の気持ちが分からないと答えた。


そして今も、すぐに同じ言葉を返すことはできない。


けれど、曖昧なまま伝えたくはなかった。


名前を取り戻し、その人が誰なのかを、記憶だけではなく心のすべてで受け取った時、今の自分の言葉で、もう一度返したい。


少年は、瑞稀を見つめていた。


やがて、声のないまま口を開き、ゆっくりと言葉を形作る。


分かった。


そう言ったように見えた。


けれど、瑞稀には、その声を聞きたかった。


少年の口から、自分へ届けられる言葉として。


瑞稀は、少年から目を逸らさずに呼びかける。


「天児屋根様。」


「この方の言葉を、もう一度聞きたいのです。」


胸の奥で、天児屋根の気配が静かに揺れた。


『ならば、届かぬまま沈んだ言葉へ、道を開け。』


瑞稀は、周囲を漂う赤黒い文字へ目を向ける。


「私に、できるでしょうか。」


『すでに、お前は一つの言葉を受け取り直した。』


『今度は、お前だけではない。』


『ここにいる者たちが、自らの言葉を取り戻すための道を示せ。』


瑞稀は、白木の笏を両手で握った。


「声を返すのではなく、届くべき場所へ導くのですね。」


『ああ。』


『言葉は、我のものではない。』


『発した者と、受け取る者のものだ。』


少年の唇が、もう一度動く。


口の形から、伝えようとしていることは分かる。


それでも瑞稀は、静かに首を横へ振った。


「分かるだけでは、足りません。」


「同じ言葉でも、誰が、どのような声で、どのような思いで伝えるのかによって、受け取るものは違います。」


瑞稀は、少年をまっすぐに見つめる。


「私は、この方の声で、この方の言葉を受け取りたいのです。」


『ならば、その願いを道標とせよ。』


天児屋根の声に導かれ、瑞稀は笏を掲げた。


周囲を漂っていた意味のない文字が、一斉に揺れる。


瑞稀は、胸の中にある少年の声を思い浮かべた。


ぶっきらぼうな声。


自分を案じる声。


名前を呼ぶ、優しい声。


「どうか。」


「皆様の言葉が、再び届きますように。」


白木の笏が、強い光を放った。


光は文字の間を巡り、一つずつ、あるべき場所へ道を結んでいく。


母へ。


少女へ。


少彦名神へ。


そして、少年へ。


誰かに奪われていた言葉が返されたのではない。


行き先を失っていた言葉が、発した者のもとへ、そして受け取る者のもとへ、再び届き始めた。


一文字ずつ、言葉がそれぞれの胸へ還っていく。


最初に、少女の声が戻った。


「……聞こえる?」


少女は、自分の喉へ手を当てる。


「聞こえます。」


瑞稀が答えると、少女は安堵したように息を吐いた。


「よかったあ……。もう二度と喋れないのかと思った。」


『お前は、少しくらい静かな方がよい。』


少彦名神の声も、戻っている。


「心配してたくせに。」


『しておらぬ。』


「嘘つき。」


『神を、嘘つき呼ばわりするでない。』


二人の言い合いが、黄泉路へ響いた。


母も、自分の声を確かめるように瑞稀を呼ぶ。


「瑞稀。」


「はい、母様。」


最後に、少年がゆっくりと息を吸った。


瑞稀は、その言葉を待つ。


少年は、瑞稀の目をまっすぐに見た。


「待つ。」


少年は、静かに続けた。


「お前が、俺の名前を思い出すまで。」


瑞稀の胸が、強く脈打つ。


「何度でも、待つ。」


少年は、僅かに視線を逸らした。


「だから、今度は忘れるな。」


最後の言葉だけ、少し乱暴に聞こえた。


けれど、その声の奥にある悲しさも、恐れも、それでも信じて待とうとする気持ちも、もう分かる。


瑞稀は、静かに頷いた。


「はい。」


胸元へ手を添える。


「今度は、忘れません。」


少年は何も答えず、ただ僅かに口元を緩める。


瑞稀もそれを見て、ほんの少し微笑んだ。


瑞稀の手にあった笏が、細かな文字となって宙へ溶けていく。


『瑞稀。』


天児屋根が、呼びかけた。


『言葉は、失われる。』


『忘れられることも、違う意味へ受け取られることもある。』


『それでも、伝えようとすることを恐れるな。届かなければ、届くまで、己の口で伝えよ。』


瑞稀は、深く頭を下げた。


「はい。必ず。」


天児屋根の意識が、少年へ向けられる。


『お前もだ。』


少年が、僅かに眉を寄せた。


「俺も?」


『言わずとも、分かると思うな。』


『黙って傍にいることも、確かに一つの愛情であろう。』


『されど、沈黙だけでは届かぬ思いもある。』


少年は、しばらく黙っていた。


やがて、小さく答える。


「……分かってる。」


『ならば、よい。』


天児屋根の気配が、薄れていく。


完全に離れる前、その声へ僅かな笑みが混じった。


『次に伝える時は、もう少し落ち着いて伝えることだ。』


少年の顔が、一瞬で赤くなる。


「余計なこと言うな。」


『言葉を司る神へ、黙れと申すか。』


「今だけは、黙れ。」


少女が、堪えきれないように笑い出した。


「何の話?」


「何でもない。」


少年が、即座に答える。


「でも、顔赤いよ?」


「黄泉が暑い。」


『先ほどまで、寒いと申しておったではないか。』


少彦名神が、口を挟む。


「うるさい。」


母は事情を察したのか、口元へ手を当て、静かに微笑んでいる。


瑞稀は、少年の横顔を見つめた。


以前、同じように顔を赤くした少年を見つめ続け、見るなと言われた。


今は、その理由も分かる。


「……あまり、見るな。」


少年が、低く告げる。


「なぜですか。」


「分かってるだろ。」


「はい。」


瑞稀は、素直に答えた。


「分かっています。」


少年が、一瞬、言葉を失う。


少女が、さらに笑った。


瑞稀の胸の奥で、天児屋根の残した光も、どこか楽しげに揺れている。


やがて神の気配は、完全に瑞稀の中へ還っていった。


黄泉路へ、静けさが戻る。


けれど今度の静けさは、言葉を奪われたものではない。


互いの声が、いつでも届くと知った上での、穏やかな沈黙だった。


瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。


これで、失っていた記憶は戻った。


母が、どのように自分を抱き締めてくれたのか。


父が、どのように不器用な愛情を残してくれたのか。


少女が、何の役目も求めず、自分を誘ってくれたこと。


少年が、どれほど長い間、自分を想い続けてくれたのか。


そして自分が、少年を失いたくないと願ったことも。


もう、すべて覚えている。


残された空白は、四つの名前だけだった。


それらだけが、まだ深い場所へ隠されている。


けれど瑞稀は、以前ほど不安ではなかった。


名前を思い出せなくても、この人たちが大切だということは分かる。


そして、必ず取り戻すと決めている。


「参りましょう。」


瑞稀は、黄泉路の先を見つめた。


その先の闇は、これまでよりも深く、冷たく、重く、長い間、誰も足を踏み入れていない場所のように見える。


少彦名神が、険しい表情で奥を見据えた。


『近いぞ。』


少女の笑顔が、消える。


「伊邪那美様が?」


『ああ。この先だ。』


母が、僅かに身体を強張らせる。


少年は、太刀へ手をかけた。


瑞稀も、その隣へ並ぶ。


少年が、視線を向ける。


「行けるか。」


「はい。」


瑞稀は、答えた。


「あなたも、無理をなさらないでください。」


少年が、僅かに目を見開く。


「それ、俺が言う台詞じゃないのか。」


「いつも言われていますので、私から申し上げました。」


少年は、小さく息を吐く。


「分かった。」


短い答え。


けれど以前のように、瑞稀だけを後ろへ下がらせようとはしなかった。


二人は並んで、闇の奥を見つめる。


瑞稀は、まだ少年の名を呼ぶことができない。


少年へ返したい言葉も、胸の中へ置いたまま。


けれど、いつか必ずその名を取り戻し、今の自分の言葉で伝える。


そう、決めていた。


「行きましょう。」


四人と一柱は、ついに伊邪那美の待つ黄泉の最深部へ歩みを進めた。

第五十話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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