第四十九話 「ただ、一緒に」
第四十九話 「ただ、一緒に」
山の内側へ開かれた道は、緩やかに下っていた。
淡い緑の光が岩壁を照らし、四人の足音だけが細い通路へ静かに響いている。
先ほどまで聞こえていた黒い水の音も、今はもう遠い。
瑞稀は先頭を歩きながら、自分の胸元へ手を添えた。
母と手水舎を掃除した記憶。
父が一晩中、襖の向こうにいてくれた記憶。
父の手を取り、裏山を登った記憶。
失ったものが戻るたび、空白だった場所へ新たな重みが生まれていく。
嬉しいだけではなく、思い出したからこそ苦しくなることもある。
それでも、もう、知らなかった頃へ戻りたいとは思わなかった。
「……ねえ。」
後ろから、少女の声がした。
瑞稀は足を止め、振り返る。
少女は、いつものように笑おうとしていた。
けれど、その顔色は青白い。
肩に乗った少彦名神も、険しい表情で少女を見下ろしていた。
「どうしました。」
「何でもないよ。」
少女は、明るく答える。
「ちょっと、疲れただけ。」
そう言って一歩踏み出した足が、僅かに揺れた。
瑞稀が手を伸ばすより早く、少年が少女の腕を掴む。
「何でもなくないだろ。」
「大丈夫だって。」
「立ててない。」
「今、立ってるじゃん。」
言い返した直後、少女の膝から力が抜けた。
少年がその身体を支え、瑞稀もすぐに駆け寄った。
「座ってください。」
「でも、先に行かないと。」
「休む方が先です。」
瑞稀は、はっきりと告げた。
少女は、困ったように笑う。
「私、そんなに役に立ってないし。」
「せめて、足は引っ張りたくないんだよね。」
その言葉に、少彦名神の眉が吊り上がった。
『役に立たねば、ここにいてはならぬのか。』
少女が、目を瞬く。
「え?」
『お前は先ほどから、そればかりだ。』
少彦名神は少女の肩から飛び降り、正面へ立った。
『薬玉を使い、瑞稀を支え、疲れても黙って歩き、それで倒れれば、足を引っ張ると申す。』
「だって。」
少女は、視線を伏せた。
「みんな、すごいことしてるから。」
「私も、何かしないと。」
『何かをせねば、共にいてはならぬと、誰が決めた。』
「誰も決めてないけど……。」
少彦名神は、深く息を吐く。
『ならば、勝手に決めるでない。』
少女は、不満そうに頬を膨らませた。
「少彦名様、ちょっと厳しくない?」
『お前が、聞き分けぬからだ。』
少年が少女を岩壁の傍へ座らせる。
母も隣へ膝をつき、少女の額へ手を当てた。
「熱は、ないようですが。」
『黄泉の気に当てられたのだろう。』
少彦名神が答える。
『薬玉を使い続けたことで、心身も消耗しておる。』
「少し休めば、動ける?」
『休まねば、動けぬ。』
少女は、口を尖らせた。
「同じ意味じゃん。」
『言い方の問題だ。』
二人のやり取りを聞きながら、瑞稀は少女を見つめていた。
役に立たなければならない。
足を引っ張ってはいけない。
何かをしなければ、ここにいる理由がない。
どこかで聞いた言葉のように思えたが、実際に誰かから聞いたわけではない。
自分自身が、長い間そう考えていたのだ。
役目を果たすこと。
神卸の器として、相応しくあること。
誰かに必要とされるには、理由がなければならないと思っていた。
胸の奥で、小さな気配が動いた。
少女の傍らにいる少彦名神と同じ、温かな光。
『瑞稀。』
少彦名神が、瑞稀を見上げる。
『お前は、まだ知らぬようだな。』
「何を、でしょうか。」
『こやつが、初めからお前に役目など求めておらぬことを。』
少女が、首を傾げた。
「私?」
少彦名神は少女へ答えず、瑞稀をまっすぐに見つめる。
『我も返そう。』
『何の役目もなく、ただ共にいることを望まれた記憶を。』
瑞稀の胸が、僅かに痛んだ。
何の役目もなく、ただ共にいること。
「少彦名神様。」
『うむ。』
「その記憶を、お預かりくださっているのですね。」
『ああ。』
少彦名神は、静かに頷いた。
『今のお前ならば、受け取れるであろう。』
瑞稀は、目を閉じる。
「――謹んで、お迎えいたします。」
淡い翡翠色の光が、瑞稀の身体を包んだ。
白銀の髪が柔らかく揺れ、瞳が透き通るような緑へ変わっていく。
やがて、瑞稀の掌へ丸い薬玉が現れた。
少女が、僅かに目を見開く。
「私のと、似てる。」
『似ているのではない。』
少彦名神が、得意げに胸を張る。
『同じ、我の力だ。』
「そういうところは、いつもどおりなんだね。」
少女が笑った。
その声を聞いた瞬間、瑞稀の視界が淡い翡翠色へ染まった。
少女たちの姿も次第に遠ざかり、瑞稀の足元へ柔らかな光が広がっていく。
気づけば、先ほどまでの山道は消えていた。
淡い翡翠色の光の中に、遠い日の景色が浮かび上がる。
◇
まだ、幼い頃。
瑞稀は、神社の縁側へ座っていた。
膝の上には、父から渡された和紙がある。
覚えなければならない祝詞の一節を、何度も声に出し、間違えないように繰り返していた。
その時。
「瑞稀ちゃーん!」
境内の向こうから、明るい声が飛んできた。
幼い少女が、小さな籠を抱えて駆けてくる。
中には、白や黄色の小さな花がたくさん入っていた。
「一緒に遊ぼ!」
瑞稀は、手元の和紙と少女を交互に見る。
「ですが、私は今、覚えなければならないことが。」
「終わったらでいいよ。」
少女は、瑞稀の隣へ腰を下ろした。
「待ってる。」
「何をするのですか。」
「花冠作るの。」
少女は籠を瑞稀へ見せる。
「私も、作るのですか。」
「うん!」
瑞稀は、少し考えた。
「上手に作らなければなりませんか。」
「別に?」
「私でも良いのですか。」
その言葉に、少女はますます不思議そうな顔をした。
「瑞稀ちゃんだから一緒に作りたいんだよ。」
瑞稀は、言葉を失った。
上手だからでも、役に立つからでもない。
ただ、一緒にいたい。
幼い瑞稀には、その理由がまだよく分からなかったが、それでも胸の奥へ、柔らかな温もりが広がった。
しばらくして祝詞を終えると、少女は本当に同じ場所で待っていた。
「終わった?」
「はい。」
「じゃあ作ろ!」
差し出された花を、瑞稀は受け取った。
出来上がった花冠は少し歪んでいて、少女のものと比べても、決して上手とは言えない。
けれど少女は、それを瑞稀の頭へ乗せて笑った。
「似合う!」
瑞稀は、おそるおそる花冠へ触れた。
「……そうでしょうか。」
「うん!」
少女は、何の迷いもなく頷いた。
瑞稀の口元が、ほんの僅かに緩んだ。
◇
景色が揺らぎ、見慣れた教室へ変わっていく。
「あ、そうだ。ねぇねぇ、来週、隣町でお祭りあるじゃん!」
少女が、机へ身を乗り出す。
「行かない? 屋台もあるし、花火も上がるんだって!」
瑞稀は、箸を止めた。
祭り。
神事として立ち会ったことはある。
けれど、誰かと遊びに行ったことはなかった。
「私は。」
瑞稀は、言葉を探す。
「私には、何かすることがあるのでしょうか。」
少女が、目を瞬いた。
「何かって?」
「祭りでの、役目です。」
数秒の沈黙のあと、少女は声を上げて笑った。
「そんなのないよ。」
少女は、当たり前のことのように笑う。
「屋台見て、花火見て、一緒に歩くだけ。」
「私が、瑞稀と一緒に行きたいの。」
瑞稀は、少女を見つめた。
何かを任せたいわけではなく、神社の娘だからでも、神卸の一族だからでもない。
ただ、自分と祭りへ行きたい。
それだけの理由で、少女は声をかけてくれた。
胸の奥へ、名前の分からない温かさが広がる。
父の言葉が、胸をよぎる。
――まっすぐ、帰ってきなさい。
それが、瑞稀の日常だった。
断る理由は、いくらでもある。
それでも。
「……父に、聞いてみないと分かりません。」
少女が、驚いたように目を瞬かせた。
「え。今回は聞いてくれるの?」
「……はい。」
「やった! じゃあ、ちゃんと聞いてみてよ!」
少女は、嬉しそうに笑った。
瑞稀が行くと答えたことで、少女がこんなにも喜んでいる。
そのことが、瑞稀には何より嬉しかった。
◇
教室の景色が、翡翠色の光へ溶けていく。
『我が預かっていたのは、その喜びだ。』
少彦名神の声が、翡翠色の空間へ静かに響く。
『何かを為したからではなく、ただ、お前と共にいたいと望まれた記憶。』
『そして、それを、お前自身も嬉しいと思った心だ。』
瑞稀の中に、二つの光景が重なった。
花冠を差し出して笑う、幼い少女。
祭りへ誘い、瑞稀の返事を聞いて喜ぶ少女。
幼い頃から、ずっと同じだった。
『返すぞ。』
少彦名神の声とともに、翡翠色の光が瑞稀の胸へ流れ込む。
幼い日の花の感触や少女の笑い声、祭りへ誘われた時の、名前の分からなかった喜びが、空白だった場所へ戻っていく。
やがて、空間を満たしていた光が薄れていった。
遠くから、岩壁を伝う冷たい風の音が聞こえ、足元へ硬い岩の感触が戻る。
瑞稀は、ゆっくりと目を開いた。
黄泉の山道。
すぐ傍には母と少年がいて、その向こうには、岩壁へ身体を預けた少女が座っている。
掌には、少彦名神の薬玉が淡く輝いている。
瑞稀は、少女へ視線を向けた。
祭りへ行ったことや、幼い頃に一緒に遊んでいたことは、断片的には記憶に残っていた。
けれど、少女が昔から自分へ何の役目も求めず、ただ「一緒にいたい」と手を伸ばしてくれていたことや、
それを自分が嬉しいと思っていたこと、その意味と温もりを、今、ようやく思い出した。
「私は。」
瑞稀は、静かに呟いた。
「何の役にも立たなくても、一緒にいたいと、思っていただけたのですね。」
少女が、困ったように瑞稀を見上げる。
「何か、思い出したの?」
「はい。」
瑞稀は、少女の前へ膝をついた。
「幼い頃、私と一緒に花冠を作ってくださったことを。」
少女の目が、大きくなる。
「あ……。」
瑞稀は続ける。
「そして、祭りへ誘ってくださった時のことも。」
「あなたは、ずっと、私に何かをしてほしかったわけではなかったのですね。」
「そうだよ。」
瑞稀は、少女の手を優しく取った。
「ですから、あなたも、無理に役へ立とうとしなくてよいのです。」
少女の笑顔が、僅かに揺れる。
「でも。」
「私は。」
瑞稀は、まっすぐに少女を見つめた。
「あなたが、ここにいてくださることを望んでいます。」
「何かをしていただくためではありません。」
一度、言葉を置く。
「ただ、一緒にいていただきたいのです。」
少女の瞳へ、涙が浮かんだ。
「……それ、ずるい。」
「ずるい、ですか。」
「そんな顔で言われたら、泣くじゃん。」
少女は、笑いながら目元を拭う。
「名前、まだ思い出してないくせに。」
「申し訳ありません。」
「謝らないでよ。」
少女は、瑞稀の手を握り返した。
「思い出すまで、何回でも一緒にいるから。」
瑞稀の瞳が、揺れる。
少女の名前は、まだ白い霧の向こうにある。
けれど、名前を失っても、この温もりはもう分かる。
「はい。」
瑞稀は、僅かに微笑んだ。
「お願いいたします。」
少彦名神が、満足そうに頷く。
『ようやく、分かったか。』
少女が、顔を向けた。
「少彦名様も、もっと早く言ってくれればよかったのに。」
『何度も言った。』
「いつ?」
『お前が、聞いておらぬ時に。』
「それ、言ってないのと同じじゃない?」
『細かいことを申すな。』
少女が笑い、その声が閉ざされた山道へ明るく響いた。
瑞稀は、掌の薬玉へ祈りを込める。
淡い緑色の光が四人を包み込み、傷と疲労をゆっくりと癒やしていった。
やがて薬玉は淡い光へ変わり、最後に残った光が、少女とつないだ手の間へ溶けていく。
『瑞稀。』
少彦名神の声が、胸の奥へ届いた。
『誰かと共にいたいと望むなら、その心は言葉にせよ。』
瑞稀は、少女の手を握ったまま頷く。
「はい。」
少女は、先ほどとは打って変わって、顔色を取り戻していた。
「もう、歩けるよ。」
立ち上がろうとする少女を、少年が止める。
「もう少し、休め。」
「大丈夫だって。」
「さっきも、聞いた。」
「今度は、本当に大丈夫。」
少年は疑うように少女を見つめ、少女も負けずに睨み返した。
瑞稀は二人の様子を見つめ、それから静かに告げる。
「もう少し、休みましょう。」
「この先を急ぐことも大切ですが、共に進む方が、もっと大切です。」
少女は、一瞬目を丸くしたあと、諦めたように座り直す。
「瑞稀に言われたら、断れないなあ。」
少年も、少女の隣へ腰を下ろした。
母は、そんな三人を穏やかな目で見つめている。
黄泉の深い場所で、瑞稀たちはしばらく足を止めた。
何かを成し遂げるためでも、誰かの役に立つためでもない。
ただ、共にいるために。
第四十九話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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