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第四十八話 「山が抱くもの」

第四十八話 「山が抱くもの」


遠くから聞こえていた水音は、進むほどに大きくなっていった。


初めは、岩の隙間を流れる細い水のようだった。


けれど今は、幾つもの波が岩壁へ打ちつけるような、重く激しい音へ変わっている。


「黄泉にも、川があるのでしょうか。」


瑞稀が尋ねる。


『川であれば、よいがな。』


少彦名神(すくなびこな)は、少女の肩から暗闇の先を睨んだ。


『この音は、流れているというよりも、押し寄せておる。』


道の先が、突然途切れた。


瑞稀たちは、足を止める。


そこには、巨大な地下空間が広がっていた。


天井は闇へ溶け、どこまで続いているのか分からない。


足元から遥か下には、黒い水が満ちている。


波は静まることなく岩壁へ打ち寄せ、砕けた飛沫さえ闇と同じ色をしていた。


正面には、切り立った山がある。


山肌には細い道が刻まれ、その先は暗闇の奥へ続いていた。


けれど、瑞稀たちが立つ岸と山との間には、黒い水しかない。


「また、渡るのか。」


少年が、うんざりしたように低く呟く。


少女が、水面を覗き込んだ。


「猿田毘古様の道は、もう出せないのかな。」


「槍は、すでに光へ還りました。」


瑞稀は、自分の右手を見る。


黄金の道を渡り終えた時、猿田毘古の槍は役目を終えたように淡い光へ変わり、瑞稀の手を離れていた。


今も胸の奥には、猿田毘古の気配がある。


けれど、同じ力へ何度も頼ることが正しいとは思えなかった。


「別の方法を、探しましょう。」


瑞稀がそう告げた直後、黒い水面が大きく盛り上がった。


「下がれ!」


少年が、瑞稀の腕を引く。


次の瞬間、巨大な波が岸へ叩きつけられた。


黒い飛沫が、岩を打つ。


瑞稀たちは寸前で後方へ退いたが、水が触れた場所は白い煙を上げ、見る間に崩れていった。


「触れた岩が……。」


母が、息を呑む。


『削っておるのではない。』


少彦名神が、低く告げた。


『あれは、形そのものを奪う。』


黒い波が、再び大きくうねる。


岸が少しずつ削られ、瑞稀たちの立つ場所が狭くなっていった。


少年が、太刀を抜く。


「斬る。」


『やめておけ。』


「なぜだ。」


『刃で、流れを止められると思うな。』


少年が、眉を寄せる。


その間にも、次の波が迫っていた。


瑞稀は、押し寄せる黒い水を見つめる。


波は、無秩序に見える。


けれど、すべてが同じ方向から来ているわけではない。


右から。


左から。


正面から。


幾つもの流れが重なり、ぶつかり合っている。


その中に、一瞬だけ波の低くなる場所があった。


「流れが。」


瑞稀が、呟く。


胸の奥へ、深い青の光が広がった。


遠い海の底から響くような声が届く。


――水を、止めようとするな。


静かで。


大きく。


身体の内側へ、直接響く声。


――海は、誰かに従うものではない。


瑞稀は、目を閉じた。


大綿津見(おおわたつみ)様。」


波音の中で、その名を呼ぶ。


――流れを知れ。


――流れが向かう先を、見極めよ。


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


「――謹んで、お迎えいたします。」


深い青の光が、瑞稀の足元から立ち上った。


白銀の髪が、水中にいるようにゆっくりと揺れる。


瞳は、夜の海を思わせる濃い青へ変わった。


純白の巫女装束にも、変化が現れる。


袖口から裾へ向かって、青い刺繍が静かに広がっていった。


波と。


渦と。


幾重にも重なる、水の流れ。


それは、布へ縫いつけられた模様ではない。


青い糸が、まるで生きた海のように形を変え続けている。


少女が、目を見開いた。


「綺麗……。」


瑞稀の足元へ、青い水の輪が広がる。


黒い波へ触れても、消えることはなかった。


青い光は、水面の流れをなぞるように伸び、幾つもの筋となって地下空間を巡っていく。


『目で、見るな。』


大綿津見の声が、響いた。


『押し寄せるものだけを、海と思うな。』


瑞稀は、静かに息を整える。


荒れる波の下。


さらに深い場所へ、意識を向けた。


表面では、水が激しくぶつかり合っている。


けれど、その下には、比較的穏やかな流れがあった。


山の手前へ向かい、ゆっくりと巡る一本の水路。


「見えます。」


瑞稀は、青い瞳を開いた。


「波の下に、道があります。」


少年が、水面へ視線を向ける。


「水の中を、行くのか。」


『違う。』


大綿津見が、答えた。


『流れと、流れの間を通る。』


瑞稀は、両手を黒い水へ向けた。


足元の水の輪が、大きく広がる。


青い光が、水面へ走った。


波を、押し返すのではない。


流れの向きを、ほんの僅かにずらしていく。


右から来る波を、左へ。


左から来る波を、奥へ。


互いにぶつかっていた流れが、瑞稀たちの前だけを避けるように分かれていった。


黒い水の中から、細い岩の道が姿を現す。


完全に乾いてはいない。


水面すれすれの、不安定な足場。


それでも、山へ続く道は確かにそこにあった。


『海を、従わせたと思うな。』


大綿津見が、静かに告げる。


『海が、通ることを許しただけだ。』


「はい。」


瑞稀は、深く頷いた。


「参りましょう。」


四人と一柱は、細い岩道へ足を踏み出した。


黒い水は、左右で激しくうねっている。


少しでも足を滑らせれば、すぐに呑み込まれる。


瑞稀は、先頭を歩いた。


深い青の瞳には、水の流れが光の筋として見えている。


「次は、右へ寄ってください。」


少年たちへ、声をかける。


直後、左側から大きな波が押し寄せた。


全員が右へ寄ると、波は寸前で進路を変え、道の横を通り過ぎていく。


「次は、その場で止まってください。」


足を、止める。


目の前を、二つの流れが交差した。


少し待つと水が引き、再び道が現れる。


一歩ずつ。


慎重に、進んでいく。


やがて、山の麓が近づいてきた。


最後の波をやり過ごし、全員が岩道から山の麓へ足を移す。


その瞬間、瑞稀の装束を彩っていた青い刺繍が、柔らかく揺れた。


水の音が、遠ざかっていく。


黄泉の闇が深い青の光へ溶け、瑞稀の足元には静かな水面が広がった。


その水面へ、一枚の木の葉が落ちる。


波紋が広がった瞬間、景色が変わった。



まだ、幼い頃。


瑞稀は、母と二人で手水舎の掃除をしていた。


雨の翌日だった。


水盤の中には、風に落とされた木の葉が幾つも浮かんでいる。


幼い瑞稀は、小さな手を水へ入れ、葉を一枚ずつ拾っていた。


一枚。


また一枚。


けれど、細い水の流れに乗って、新しい葉が次々と水盤へ入ってくる。


瑞稀は、次第に焦り始めた。


「母様。」


「取り除いても、また入ってまいります。」


「ええ。」


母は、柄杓を洗いながら穏やかに答えた。


「すべて、取らなくては。」


瑞稀は、流れてくる葉へ手を伸ばす。


けれど、水に押されて指先から逃げていった。


眉を寄せる瑞稀を見て、母は隣へ膝をつく。


「すべてを、止めようとしなくてもよいのですよ。」


「ですが、綺麗にしなければ。」


「水は、流れるものですから。」


母は、水盤の端へ溜まっていた葉を一枚だけ持ち上げた。


そして、水の流れへ戻す。


葉はゆっくりと水面を進み、排水口の向こうへ消えていった。


「今、手の届くものを整えればよいのです。」


「流れていくものまで、無理に掴まなくてもよいのですよ。」


幼い瑞稀は、流れていく葉を見つめた。


母の真似をするように、手の中にあった葉を一枚、水へ浮かべる。


葉は小さく揺れながら、流れへ乗って進んでいった。


追いかけなくても。


掴み続けなくても。


それは、それ自身の行く先へ流れていく。


母と二人で、しばらく水面を眺めた。


ただ、それだけの静かな時間だった。



景色が、淡い水の光へ溶けていく。


瑞稀は、自分の指先を見つめた。


『我が、預かっていたのは。』


大綿津見の声が、響く。


『変わりゆくものを、無理に留めずともよいと知った記憶。』


『流れ去るものを見送ることは、捨てることではない。』


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


母が、いなくなったあと。


自分は、失われていくものを留めようとしていたのかもしれない。


父の期待も。


神卸の一族としての役目も。


母がいた頃の、家の形も。


変わってしまったと認めることが怖くて、何も変わっていないように振る舞っていた。


「私は。」


瑞稀は、静かに呟く。


「流れていくことを、怖がっていたのですね。」


青い光が、瑞稀の胸へ流れ込む。


水面を流れる葉。


隣に座っていた、母の温もり。


すべてを自分で止めなくてもよいと教えられた、穏やかな安心。


「ありがとうございます。」


瑞稀が、頭を下げる。


大綿津見の気配が、静かな波のように揺れた。


『もとより、お前のものだ。』


『今度こそ、自らの中で流し続けよ。』


大綿津見の声が遠ざかる。


足元に広がっていた静かな水面が、淡い青の光へ溶けていった。


次第に、遠くから激しい水音が戻ってくる。


黄泉の冷たい空気が頬へ触れた。



瑞稀は、ゆっくりと目を開いた。


装束の青い刺繍は、今も淡く輝いている。


目の前には、先ほど黒い水を渡って辿り着いた山が、暗闇の中へ高くそびえていた。


「ここから、山道へ入ればいいのかな。」


少女が、細い道を指差した。


「そのようです。」


瑞稀が答えた、その時だった。


腹の底へ響くような音がした。


ごご、と。


山全体が、低く唸る。


目の前の岩壁へ、太い亀裂が走った。


「崩れるぞ!」


少年が、叫ぶ。


山肌から、巨大な岩が幾つも剥がれ落ちた。


岩道の先へ降り注ぎ、出口を塞ぐ。


さらに、瑞稀たちが渡ってきた道も黒い水へ削られ、崩れ始めていた。


前にも進めず。


後ろにも戻れない。


頭上では、次の岩塊が今にも落ちようとしている。


母が、瑞稀の腕を掴んだ。


「危ない!」


瑞稀は反射的に、崩れかけた岩壁へ手を伸ばした。


掌が、冷たい岩肌へ触れる。


その瞬間、灰白色の光が腕を這った。


青かった瞳が、淡い灰紫へ変わっていく。


両腕へ石の文様が浮かび上がり、肘から手首までを覆う腕当てへ姿を変えた。


岩肌のような、鈍い灰色。


表面には、細かな亀裂が幾つも走っている。


けれど、壊れかけているわけではない。


長い時を耐え。


傷を抱えながら。


なお形を保ち続けた、岩の姿だった。


――手を、離してはなりません。


静かな女性の声が、瑞稀の内側から響く。


――あなたが、支えると決めたのなら。


磐長姫(いわながひめ)様。」


瑞稀は、崩れゆく岩へ両手を押し当てたまま、その名を呼ぶ。


「――謹んで、お迎えいたします。」


腕当てが、強く輝いた。


岩壁を走っていた亀裂の動きが、止まる。


落ちかけていた岩も、空中で震えながら、その場へ留まった。


瑞稀の腕へ、凄まじい重みがかかる。


身体が、押し潰されそうになる。


足が、濡れた岩へ沈んだ。


「瑞稀!」


少年が、駆け寄ろうとする。


「来ないでください!」


瑞稀は、声を上げた。


「今、動けば、すべて崩れます。」


少年が、歯を食いしばる。


少女が、瑞稀の背へ手を添えた。


「私に、何かできる?」


「……今は、支えてください。」


瑞稀は、震える腕へ力を込める。


少女は、迷わず頷いた。


「分かった。」


薬玉から淡い光が広がり、瑞稀の背を包む。


母も少女の隣へ立ち、瑞稀の肩へ手を置いた。


温かな光が、身体へ流れ込む。


それでも、岩の重みは消えない。


腕当ての亀裂が、一つずつ淡く輝き始めた。


『恐ろしいですか。』


磐長姫が、尋ねる。


「はい。」


瑞稀は、正直に答えた。


「壊れてしまいそうです。」


『何が。』


「腕当ても。」


瑞稀は、息を詰める。


「私も。」


磐長姫は、すぐには答えなかった。


やがて、岩の奥から響くような声で告げる。


『岩とは、傷つかぬものではありません。』


腕当ての亀裂へ、さらに光が走った。


『雨に削られ。』


『風に穿たれ。』


『時に、砕ける。』


『それでも、残ったものが岩なのです。』


瑞稀は、腕当てを見つめた。


傷があるから、弱いのではない。


亀裂があるから、価値を失うのでもない。


傷ついたままでも、誰かを支えることができる。


『ただし。』


磐長姫の声が、僅かに厳しくなる。


『一人で、すべてを支えようとしてはなりません。』


瑞稀の瞳が、揺れた。


『岩もまた、大地に支えられているのです。』


少年が、瑞稀の隣へ立つ。


「俺は、何をすればいい。」


「岩の下へ、太刀を差し入れてください。」


瑞稀は、息を整えながら答えた。


「支えになります。」


少年は、すぐに動いた。


崩れかけた岩の隙間へ太刀を差し込み、柄を両手で支える。


青白い神気が、刃から岩へ流れ込んだ。


「これで、いいか。」


「はい。」


重みが、僅かに軽くなる。


瑞稀は、小さく息を吐いた。


支えているのは、自分だけではない。


少女も。


母も。


少年も。


共に、同じ岩を支えている。


腕当ての光が、岩壁全体へ広がった。


亀裂が、塞がるのではない。


今ある形のまま、その動きを止めていく。


やがて、落ちかけていた岩がゆっくりと山肌へ戻った。


塞がれていた道だけが、まだ大きな岩塊に覆われている。


瑞稀は、岩壁から手を離した。


腕が、鉛のように重い。


けれど、腕当てはまだ消えていなかった。


その表面には、新しい亀裂が増えている。


「磐長姫様。」


瑞稀は、傷だらけの腕当てを見つめた。


「お力が、壊れてしまったのでは。」


『いいえ。』


磐長姫は、静かに答えた。


『これは、耐えた証です。』


腕当ての亀裂から、淡い光が零れる。


『傷を負わずに残ることだけが、強さではありません。』


『傷ついたあとも、自らの形を失わずにいること。』


『それもまた、強さです。』


瑞稀は、自分の胸元へ視線を落とした。


失った記憶。


傷ついた心。


父に、言葉を奪われた日々。


それらが、なかったことにはならない。


けれど、傷があるままでも、自分は自分でいられる。


その時、腕当ての亀裂から溢れた光が、瑞稀の視界を包んだ。


気づけば、瑞稀はひび割れた大岩の上に立っていた。


亀裂の奥からは、壊れることなく残り続けたもののように、柔らかな光が漏れている。


磐長姫の声が、静かに響いた。


『お返しするものがあります。』


光が大きく揺れ、景色が変わった。



夜だった。


幼い瑞稀は、布団の中で浅い息を繰り返している。


額には汗が浮かび、頬は熱で赤く染まっていた。


部屋の隅には、水を張った桶と濡れた手拭いが置かれている。


母は、いなかった。


すでに、天照(あまてらす)の荒魂を抱え、遠い場所へ姿を消したあとだった。


襖の向こうから、足音が聞こえる。


幼い瑞稀は、重い瞼を開いた。


「父様……。」


返事はない。


やがて襖が細く開き、父が部屋へ入ってきた。


手には、新しい水と薬がある。


父は何も言わずに枕元へ座り、濡れた手拭いを絞ると、瑞稀の額へ乗せた。


冷たい感触に、幼い瑞稀が僅かに顔をしかめる。


父の手が、止まった。


「冷たかったか。」


「……いいえ。」


幼い瑞稀は、そう答えた。


熱があることを理由に、父へ甘えてはいけないと思っていた。


神事の稽古を休んだこと。


祝詞を唱えられなかったこと。


役目を果たせない自分を、父はきっと心配している。


そう、思っていた。


「明日は。」


掠れた声で、尋ねる。


「稽古を、いたします。」


父の眉が、僅かに動いた。


「休め。」


「ですが。」


「今は、休むことがお前の役目だ。」


声は、いつもと同じように硬い。


幼い瑞稀は、目を伏せた。


やはり、早く治らなければならない。


役目を、果たせるようにならなければ。


父が心配しているのは、自分ではなく、神卸の器としての身体なのだと。


そう、思った。


父は薬を飲ませると、部屋を出ていった。


襖が、閉まる。


幼い瑞稀は、再び目を閉じた。


次に目を覚ました時、外は僅かに明るくなっていた。


熱は、まだ残っている。


けれど、身体は少しだけ軽くなっていた。


枕元には、新しい水。


乾いた手拭い。


そして、食べやすいように細かく切られた果物が置かれている。


「父様。」


返事は、なかった。


瑞稀は、ゆっくりと身体を起こし、襖へ手を伸ばす。


僅かに、開けた。


廊下に、父が座っていた。


柱へ背を預け、腕を組んだまま眠っている。


一晩中、襖の向こうにいたのだと分かった。


幼い瑞稀は、父を見つめた。


起こしてはいけないと思い、静かに襖を閉じる。


胸の中に、今まで知らなかった温かさが広がっていた。


けれど、その気持ちを何と呼ぶのか分からない。


父に愛されていると考えることは、どこか間違っているような気もしていた。


だから、その記憶を心の奥へそっとしまった。



景色が、消える。


瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。


「父様が。」


声が、僅かに震える。


「一晩中、傍にいてくださった。」


『ええ。』


磐長姫が、静かに答えた。


『我が預かっていたのは、言葉にならずとも、そこへ残っていた愛情です。』


瑞稀は、目を閉じた。


父は、自分を愛していなかったわけではない。


けれど、愛していたからといって、厳しすぎた言葉が消えるわけでもない。


選ぶことを許されなかった日々が、正しくなるわけでもない。


胸の中へ、相反する感情が広がる。


嬉しい。


悲しい。


愛されていたと、知りたい。


それでも、なぜ言葉にしてくれなかったのかと責めたい。


「私は、父様に愛されていたのだと思います。」


一度、息を吸う。


「ですが、それでも寂しかった。」


胸の奥で、長い間言葉にならなかった思いが震えた。


「もっと、言葉にしてほしかった。」


磐長姫は、否定しなかった。


『当然の願いです。』


『思っているだけでは、届かぬこともあります。』


その時、さらに低く大きな声が重なった。


――あれは父として、言葉を惜しみすぎた。


瑞稀が顔を上げる。


空間を満たしていた灰白色の光の向こうで、別の景色が揺らいだ。


黄泉の山。


先ほどまで瑞稀たちが立っていた岩壁が、薄い膜を隔てた向こう側のように見えている。


その山全体が、低く唸った。


塞がれた道のさらに奥。


地の底から、何かが目覚めるような気配が広がっていく。


磐長姫の気配が、僅かに揺れた。


『父上。』


その声とともに、灰白色の世界が静かにほどけていく。


岩の光が遠ざかり、代わりに冷たい空気が頬へ触れた。


瑞稀は、ゆっくりと目を開く。


目の前には、再び黄泉の山がそびえていた。


その瞬間。


山全体が、低く唸る。


地面の遥か下から、巨大な力が目覚めるように流れ込んできた。


大山祇神(おおやまつみ)様。」


――うむ。


力強い声が、答えた。


――我が娘の力を借り、よくぞここまで支えた。


瑞稀は、地面へ片膝をつく。


腕当ては、まだ両腕を覆っていた。


けれど今度は、岩を支えるためではない。


山そのものへ、自分の意思を伝えるために。


瑞稀は、片手を地面へ当てた。


「お力を、お貸しください。」


――何のために。


大山祇神が、問う。


瑞稀は、塞がれた道を見つめた。


「この先へ、進むためです。」


「母様をお連れして。」


「皆様と共に、伊邪那美様へお会いするために。」


――山を動かせば、眠っているものも目覚める。


――この先に何が待つか、我にもすべては分からぬぞ。


「はい。」


瑞稀は、迷わず答えた。


「それでも、進むと決めました。」


一瞬、山の唸りが止まる。


やがて、大山祇神の声が満足そうに響いた。


――ならば、その決意を山へ示せ。


瑞稀は、目を閉じる。


「大山祇神様。」


「――謹んで、お迎えいたします。」


深い緑の光が、地面から立ち上った。


瞳が、山の木々を思わせる濃い緑へ染まる。


巫女装束の裾には、青い波の刺繍へ重なるように、山並みの文様が浮かび上がった。


一つの装束の中に。


海と。


岩と。


山。


異なる三つの力が、重なっている。


瑞稀が地面へ当てた手から、緑の光が広がった。


岩の隙間へ。


地中の深い場所へ。


山を形作る、すべての石と土へ。


力が、走っていく。


瑞稀の意識へ、山の内側が流れ込んだ。


硬い岩。


崩れやすい土。


地下を流れる水。


長い時間をかけて、積み重なった層。


どれか一つだけでは、山にはならない。


異なるものが重なり。


互いを支え。


一つの大きな形を保っている。


『水も。』


『岩も。』


『すべて、山の一部よ。』


大山祇神が、告げる。


『変わり続けるものも。』


『変わらず残ろうとするものも。』


『その両方を抱くからこそ、山は山として立つ。』


瑞稀は、自分の中へ戻った記憶を思い浮かべた。


変わったもの。


失ったもの。


今も、残っているもの。


母を求める心。


父へ抱く、愛情と寂しさ。


少年や少女の名前を失っても、なお胸へ残る温もり。


どれか一つだけが、自分なのではない。


そのすべてを抱えたものが、花里瑞稀という一人の人間なのだ。


「私は。」


瑞稀は、地面へ手を当てたまま呟く。


「すべてを抱えたまま、人へ還りたい。」


緑の光が、強く輝いた。


山全体が、震える。


少年が、母と少女を庇うように腕を広げた。


けれど、崩落は起きなかった。


塞がれていた巨大な岩塊が、ゆっくりと左右へ分かれていく。


無理に、砕くのではない。


山が自ら形を変え、瑞稀たちへ道を譲るように。


岩と岩の間へ、一本の通路が現れた。


壁には淡い緑の光が灯り、奥まで続いている。


黒い水も、先ほどまでの激しさを失い、静かに山の下を流れていた。


道が完全に開いた時、瑞稀の手へ別の温もりが重なった。


緑の光が視界を満たし、黄泉の山が遠ざかっていく。


気づけば、瑞稀は高い山の頂に立っていた。


足元には岩と土、その奥には水の流れがあり、それらすべてが一つの山を形作っている。


大山祇神の声が響いた。


『我にも、返すものがある。』


山を渡る風が吹き、景色が揺らいだ。



幼い頃。


瑞稀は、父と二人で神社の裏山を登っていた。


母が、いなくなるよりも少し前のことだった。


木々の間から差し込む光が、地面へ細かな模様を落としている。


道は次第に険しくなり、幼い瑞稀の足では登りにくい斜面へ変わっていった。


濡れた土へ、足を置く。


けれど、踏み込んだ瞬間に靴が滑った。


幼い瑞稀は、慌てて近くの木の根へ手を伸ばす。


その前に、父が振り返った。


何も言わず、片手を差し出す。


大きな手だった。


幼い瑞稀は、その手を取った。


父は、強く引き上げなかった。


ただ、瑞稀が自分の足で登れるように、手を離さずにいてくれた。


滑りそうになるたび、父の手へ力がこもる。


その手があるだけで、怖さが少しずつ薄れていった。


やがて、二人は山の上へ辿り着いた。


眼下には、神社の屋根と町並みが広がっている。


幼い瑞稀は、息を切らしながら、その景色を見つめた。


父は、隣へ立ち、短く告げる。


「よく歩いた。」


それだけだった。


けれど、幼い瑞稀には、その言葉が何より嬉しかった。


父の手を取ったことも。


最後まで、自分の足で登れたことも。


父に、認めてもらえたことも。


すべてが、誇らしかった。


幼い瑞稀は、父に見られぬよう、小さく笑った。



記憶が、山の光へ溶けていく。


『我が預かっていたのは、父の手を信じた記憶。』


大山祇神の声が、響いた。


『そして、あの者に認められたことを、素直に喜んだ心だ。』


瑞稀は、自分の手を見つめる。


父の手は、厳しい言葉を突きつけるためだけのものではなかった。


かつては、自分が転ばぬように差し出されたこともあった。


それでも、後に、その手で道を決められたことも事実だった。


優しかった記憶があるからといって、苦しめられた時間が消えるわけではない。


けれど、苦しかったからといって、幼い自分が父を信じていたことまで、否定する必要もない。


「父様のことを。」


瑞稀は、静かに呟く。


「私は、信じていたのですね。」


『ああ。』


大山祇神が、答えた。


『それゆえに、届かぬ言葉へ傷ついた。』


『信じていなければ、寂しいと思うこともなかったであろう。』


瑞稀の胸へ、幼い頃の喜びが戻ってくる。


差し出された手の温かさ。


山頂へ辿り着いた時の達成感。


父に認められたという、素直な嬉しさ。


瑞稀は、目を閉じた。


「ありがとうございます。」


『礼を受けるほどのことではない。』


大山祇神の声は、どこか磐長姫に似ている。


『されど。』


少しだけ、間を置く。


『返せる時が来たことは、喜ばしく思う。』


緑の光が、ゆっくりと薄れていく。


山の気配が遠ざかり、代わりに黄泉の冷たい空気が戻ってきた。


瑞稀は、静かに目を開く。


目の前には、開かれた山道が続いている。


そっと地面から手を離すと、巫女装束へ浮かんでいた海と山の文様が、淡い光へ変わっていった。


最後まで残っていた腕当てへ、新しい亀裂が一つ走った。


けれど、砕けることはない。


やがて腕当ても光へ変わり、瑞稀の胸元へ溶けていった。


『瑞稀。』


磐長姫の声がした。


『傷は、消えません。』


『けれど、その傷があなたのすべてになるわけでもありません。』


大綿津見の声も、重なる。


『流れは、止まらぬ。』


『変わることを、恐れるな。』


最後に、大山祇神が道の先へ視線を向ける気配がした。


『あの御方もまた。』


声が、少しだけ重くなる。


『失ったものを、あまりに長く抱えておられる。』


瑞稀は、開かれた山道の奥を見つめた。


伊邪那美(いざなみ)


黄泉へ留まり。


愛する者を失い。


怒りも、悲しみも捨てられぬまま、長い時を過ごした神。


「私に、その御心をほどくことができるでしょうか。」


瑞稀は、静かに尋ねる。


『できるとは、言わぬ。』


大山祇神は、正直に答えた。


『山とて、すべてを抱えれば崩れることもある。』


『されど、抱えているものを、誰かと分けることはできる。』


瑞稀は、隣に立つ者たちを見る。


少年。


少女。


母。


少彦名神。


一人では、ここまで来ることはできなかった。


「分ける。」


瑞稀は、その言葉を胸の中で繰り返す。


苦しみを、消すのではない。


忘れさせるのでもない。


抱えているものを、共に持つ。


それなら、自分にもできるかもしれない。


「参りましょう。」


瑞稀は、山の中へ開かれた道を見つめた。


少年が、隣へ並ぶ。


「腕は、大丈夫か。」


「少し重いですが、歩けます。」


瑞稀は、自分の腕を動かしてみる。


「無理なら、言え。」


「はい。」


以前なら、大丈夫だとだけ答えていたかもしれない。


けれど今は、本当に苦しくなれば、言葉にしてもよいと分かっている。


少女も、瑞稀の反対側へ並んだ。


「今度は私も、もっと早く助けるからね。」


『十分、早かったであろう。』


少彦名神が言う。


「そう思うなら、もっと褒めてよ。」


『……頑張ったな。』


「雑!」


少女の声が、山道へ明るく響いた。


母は、少し離れた場所から瑞稀を見つめている。


その表情には、嬉しさと、どこか寂しそうな色があった。


瑞稀は、母へ手を伸ばした。


「母様。」


母が、目を瞬く。


「ご一緒に。」


瑞稀の言葉に、母はゆっくりと微笑んだ。


「はい。」


そして、瑞稀の手を取る。


四人と一柱は、海と岩と山が開いた道へ足を踏み入れた。


背後では、黒い水が再び静かに流れ始めている。


崩れかけた岩壁も、深い亀裂を残したまま山を支えていた。


傷は、消えない。


流れも、止まらない。


それでも、異なるものを抱えながら。


山は、そこへ立ち続けていた。

第四十八話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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