第四十七話 「選び取る道」
第四十七話 「選び取る道」
桜の花びらが見えなくなってからも、甘い香りだけは、しばらく黄泉路へ残っていた。
やがて、それも冷たい闇へ溶けていく。
瑞稀たちは再び、光のない道を歩いていた。
猿田毘古が示してくれた道。
火之迦具土の温もり。
木花咲耶姫と瓊瓊杵尊が咲かせた花。
神々から返された記憶は、どれも瑞稀の胸の中へ確かに残っている。
けれど、空白がすべて埋まったわけではない。
隣を歩く少年のことも。
反対側で少彦名神と言葉を交わす少女のことも。
大切な者だと分かるのに、まだ、その名を自分の記憶として呼ぶことはできなかった。
それでも、以前とは違う。
分からないからといって、何も感じないわけではない。
名前を失っても、共に歩いてきた温もりまで消えるわけではなかった。
「道が、広くなってきたね。」
少女の声に、瑞稀は前を見る。
細かった黄泉路は、いつの間にか大きく開けていた。
足元の土も、それまでの乾いた黒ではない。
湿り気を帯びた泥が、歩くたびに草履の裏へ纏わりつく。
道の両側には、背丈ほどの枯れ草が生い茂っていた。
風はない。
それなのに、穂先だけがざわざわと揺れている。
少年が、太刀へ手をかけた。
「何かいる。」
『一つではないな。』
少彦名神が、少女の肩の上で目を細める。
枯れ草の奥から、重いものが地面を擦る音がした。
ずるり。
一度。
少し離れた場所から、もう一度。
ずるり。
音は、次第に増えていった。
右から。
左から。
前方からも。
瑞稀たちを取り囲むように、幾つもの気配が動いている。
母が、瑞稀の傍らへ寄った。
「瑞稀。」
「はい。」
瑞稀は母を背後へ庇いながら、周囲を見渡す。
その瞬間。
目の前の枯れ草が、左右へ大きく倒れた。
地面から現れたのは、巨大な蛇の頭だった。
目も。
鼻も。
口さえもない。
黒い泥だけで形作られた、のっぺりとした頭。
それでも、蛇であることは分かった。
長い身体が枯れ草の中を這い、瑞稀たちの周囲を取り巻いている。
一体ではない。
別の場所からも、同じ頭が持ち上がった。
二つ。
三つ。
闇の中へ次々と姿を現し、ついには八つの頭が瑞稀たちを囲んだ。
少女が、息を呑む。
「八つ……。」
『大蛇の影か。』
少彦名神が、低く呟いた。
少年が、太刀を抜く。
青白い光が刃を走り、周囲の闇を照らした。
「本物じゃないんだな。」
『八岐大蛇そのものではあるまい。』
『だが、この形を取った理由はある。』
八つの頭が、一斉に瑞稀へ向いた。
顔はない。
それなのに、見られている。
その感覚だけが、肌を刺すように伝わってきた。
やがて、一つ目の頭から低い声が響く。
――戻れ。
二つ目の頭が、続いた。
――この先へ進む必要はない。
三つ目。
――母を連れ帰れ。
四つ目。
――少女を守れ。
五つ目。
――少年に任せよ。
六つ目。
――お前は、何も選ばなくてよい。
七つ目。
――言われたとおりにすればよい。
最後の頭が、瑞稀のすぐ傍まで顔を近づける。
――それが、最も傷つかぬ道だ。
声は、すべて違っていた。
父に似た声。
母に似た声。
少年や少女に似た声。
神々の声にさえ聞こえるものもある。
瑞稀は、思わず一歩下がった。
どの言葉も、自分を案じているように聞こえた。
戻れば、危険は減る。
母を連れ帰ることも。
仲間を守ることも。
少年へ戦いを任せることも。
間違いとは、言い切れない。
だからこそ、厄介だった。
「聞くな。」
少年が、瑞稀の前へ出る。
「全部、黄泉が見せてるものだ。」
その言葉を聞いた瞬間、八つの頭が少年へ向いた。
――そうだ。
――この者に任せよ。
――お前を守ると言っている。
――後ろにいればよい。
少年の表情が、険しくなる。
「違う。」
低い声だった。
けれど、八つの声は止まらない。
――何が違う。
――お前は、いつもそうしてきた。
――危険から遠ざけ。
――何も知らせず。
――自分の目が届く場所へ、置いてきた。
少年の手が、太刀の柄を強く握った。
瑞稀の胸の奥へ、痛みが走る。
知らされなかったこと。
守られるという名のもとに、選ぶ機会を与えられなかったこと。
自分にも、覚えがある。
けれど、少年がそうした理由も、今は少しだけ分かる。
失うことが、怖かったのだ。
守りたかった。
それでも。
守りたいという願いが、相手の意思を奪ってよい理由にはならない。
八つの大蛇が、ゆっくりと身体を持ち上げた。
黒い胴が幾重にも重なり、瑞稀たちの前へ八本の道を作り出す。
どの道も、同じ闇の奥へ続いていた。
――選べ。
声が、重なる。
――母を取るか。
――仲間を取るか。
――己を取るか。
――神を取るか。
――正しい道を、選べ。
「正しい道……。」
瑞稀が、呟く。
八つの道は、どれも同じに見える。
けれど、一つを選べば、他の何かを失う。
そのように、迫られている気がした。
少女が、瑞稀の袖を掴む。
「瑞稀。」
その名だけが、八つの声の中でも、はっきりと聞こえた。
「無理に、一人で決めなくてもいいからね。」
瑞稀は、少女を見る。
少年も、瑞稀の前から半歩退いた。
完全に道を譲るのではない。
隣に立つための、距離だった。
「俺も、考える。」
少年は、八つの道へ視線を向けた。
「お前が決めたことに従うって意味じゃない。」
「俺の考えも言う。」
「だから、お前も言え。」
瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。
すべてを任されるのではない。
すべてを決められるのでもない。
互いの考えを言葉にし、その上で共に選ぶ。
胸の奥で、淡い光が灯った。
黄金色。
稲穂を思わせる、温かな光。
同時に、女性の声が響く。
――選ぶということは。
静かで。
けれど、決して揺らがない声。
――すべてを、一人で背負うことではありません。
瑞稀は、胸元へ手を添える。
「奇稲田姫様。」
八つの大蛇が、一斉に身を震わせた。
枯れ草の間から、黒い泥が噴き上がる。
まるで、その名を拒むように。
――我を、お迎えください。
――今度は、あなた自身が守るために。
瑞稀は、目を閉じた。
何を選べば正しいのかは、まだ分からない。
けれど、誰かに答えを決めてもらうつもりはなかった。
「奇稲田姫様。」
静かに、その名を呼ぶ。
「――謹んで、お迎えいたします。」
黄金の光が、瑞稀の足元から立ち上った。
白銀の髪が高く舞い、琥珀色の瞳が深い黄金色へ変わっていく。
瑞稀の髪へ、柔らかな重みが加わった。
頭へ手を伸ばす。
指先に触れたのは、一本の櫛だった。
滑らかな、黄金の背。
細く整った歯。
かつて荒魂となった奇稲田姫が握っていたものと、同じ黄金の櫛。
けれど今は、刃のような鋭さを感じない。
髪を整え。
絡まったものを解くための、穏やかな力が宿っていた。
八つの大蛇が、大きく口を開いた。
顔のなかった頭へ亀裂が走り、その奥から黒い泥が溢れ出す。
少年が、太刀を構えた。
「来るぞ。」
「はい。」
瑞稀は、少年の隣へ並ぶ。
後ろではない。
前でもない。
互いの肩が、僅かに触れる距離。
少年が、一瞬だけ瑞稀を見る。
「何をすればいい。」
「まだ、分かりません。」
瑞稀は、正直に答えた。
「ですが、共に探してください。」
「ああ。」
八つの頭が、襲いかかった。
少年が、最初の一体を迎え撃つ。
青白い太刀が、黒い頭を斬り裂いた。
泥が、飛び散る。
けれど、斬り裂かれた頭は黒い泥となって大きく膨れ、次の瞬間には元の形へ戻っていた。
「斬るだけじゃ、駄目か。」
『あれらは、八つで一つです。』
奇稲田姫の声が、瑞稀の内側から聞こえる。
『一つを退ければ、残るものへ力が流れます。』
「では、八つを同時に。」
『いいえ。』
奇稲田姫は、静かに否定した。
『八つすべてを、倒す必要はありません。』
瑞稀の髪へ挿された櫛が、淡い光を放つ。
櫛の歯から、細い黄金の糸が伸びた。
一本。
二本。
やがて八本の糸となり、それぞれが大蛇の頭へ向かっていく。
糸は、大蛇を縛らなかった。
黒い身体の中へ入り込み、内側を流れるものを瑞稀の瞳へ映し出す。
恐れ。
後悔。
義務。
期待。
愛情。
執着。
諦め。
そして。
自分の意思。
八つの道は、それぞれ別の答えではなかった。
すべてが絡み合い、一つの選択を覆い隠している。
「これは……。」
『心は、一つの思いだけで決まるものではありません。』
奇稲田姫の声が、響く。
『誰かを愛しているから、共に行きたい。』
『傷つけたくないから、離れたい。』
『怖いから、守られたい。』
『それでも、自分の足で立ちたい。』
『相反する思いがあることは、弱さではありません。』
黄金の糸が、瑞稀の前で複雑に絡み合っている。
どれか一つだけを切り捨てれば、答えは簡単になる。
母を助けるため。
仲間を守るため。
神々の願いを果たすため。
どれも、嘘ではない。
けれど、それだけでもない。
「私は。」
瑞稀は、八つの道を見つめた。
「母様を、お連れして帰りたい。」
「この方たちも、無事に現世へお返ししたい。」
少年と少女へ、視線を向ける。
「伊邪那美様を、苦しみの中へ置いたままにもしたくありません。」
さらに、自分の胸へ手を当てた。
「そして、私自身が、この先にあるものを知りたい。」
「誰かに望まれたからではなく。」
「私が、そうしたいのです。」
黄金の櫛が、強く輝く。
八本の糸のうち、一本だけが他の糸を拒まず、すべてを束ねながら先へ伸びていた。
正しいから選ぶ道ではない。
何も失わない道でもない。
幾つもの願いを抱えたまま、瑞稀自身が進みたいと望んだ道。
「見つけました。」
瑞稀は、髪から黄金の櫛を抜いた。
正面へ向けると、櫛の歯を結ぶ光が扇のように広がる。
「……お願いします。」
瑞稀は、少年を見つめた。
まだ、その名を自分の記憶として呼ぶことはできない。
それでも、少年はすぐに瑞稀の意図を察した。
「どこを斬る。」
瑞稀は、八つの大蛇を結ぶ黒い塊を指し示す。
「大蛇ではありません。」
「八つの道を、無理に一つの正解へ縛っているものを。」
少年が、太刀を構えた。
「分かった。」
黒い大蛇が、再び動く。
八つの頭が、少年と瑞稀へ一斉に迫った。
瑞稀は、黄金の櫛を振るう。
櫛の歯から伸びた八本の糸が、大蛇の動きを食い止めた。
強い。
腕が、引き裂かれそうになる。
一人では、支えきれない。
その時、少女が瑞稀の背へ手を添えた。
「私もいるから!」
薬玉から淡い光が広がり、黄金の糸を包み込む。
母も、瑞稀の肩へ手を置いた。
「私の力も、お使いください。」
温かな日の光が、瑞稀の中へ流れ込む。
少彦名神が、黄金の糸の結び目を見据えた。
『三つ、数えるぞ。』
『一。』
大蛇が暴れ、枯れ草が黒い泥へ沈んでいく。
『二。』
少年の太刀へ、青白い雷が集まった。
その光の端へ、赤い炎が灯る。
少年の内へ宿る、火之迦具土の神威。
『三!』
「今です!」
瑞稀が、叫ぶ。
少年が、太刀を振り下ろした。
青と赤の光が、黄泉の闇を一直線に駆け抜ける。
刃は大蛇の頭ではなく、八つの身体を結びつけていた黒い塊を断ち切った。
耳を塞ぎたくなるような叫びが、響く。
八つの大蛇が、別々の方向へ大きく仰け反った。
黒い泥の身体へ、黄金の亀裂が走る。
一体ずつ。
頭から尾まで、光の粒となって崩れていった。
大蛇が消えるたび、塞がれていた道も一つずつ闇へ沈んでいく。
最後に残ったのは、瑞稀が見つけた一本の道だけだった。
まっすぐではない。
細く曲がり、先には深い闇が待っている。
安全だという保証もない。
それでも、その道だけは、誰かの声に選ばされたものではなかった。
瑞稀たちが共に考え、選び取った道だった。
少女が、大きく息を吐く。
「怖かった……。」
『お前は、後ろから光を支えただけであろう。』
少彦名神が言った。
「すっごく、頑張ったんだけど!」
『そうかそうか。偉かったぞ。』
「子ども扱いしないで!」
二人の声を聞きながら、瑞稀は少年へ顔を向ける。
少年は太刀を下ろし、瑞稀を見ていた。
「怪我は。」
「ありません。」
「そうか。」
少年は、短く答えた。
けれど、以前のように「下がっていろ」とは言わなかった。
瑞稀も、守られたことを拒まなかった。
共に戦った。
必要な時には支えられ、自分も、少年が刃を届かせるための道を作った。
そのことが、不思議なほど嬉しかった。
胸の内側で、奇稲田姫が静かに微笑んだ気がした。
『隣へ立つことを。』
『あなたは、もう恐れなくなったのですね。』
「はい。」
瑞稀は、小さく頷いた。
「守られることも。」
「誰かを頼ることも。」
「以前ほど、弱いことだとは思いません。」
『ええ。』
『守られることと、選ぶ権利を奪われることは違います。』
『誰かと共に立つことと、その者へすべてを委ねることも。』
黄金の櫛から、柔らかな光が溢れた。
その光が瑞稀の視界を覆い、黄泉の闇が遠ざかっていく。
◇
幼い瑞稀は、神社の裏手へ続く坂道に膝をついていた。
雨上がりだった。
土はまだ湿っており、石段の端には小さな水溜まりが残っている。
父に頼まれたものを運ぶ途中で、小石へ足を取られたのだ。
手のひらが、じんじんと痛んだ。
膝にも、泥がついている。
けれど、瑞稀は泣かなかった。
泣いているところを誰かに見つかれば、何があったのか尋ねられる。
自分の不注意で転んだのだから、誰かの手を煩わせてはいけない。
瑞稀は唇を強く結び、地面へ手をついた。
自分で、立たなければ。
そう思って身体を起こそうとした時、目の前へ小さな手が差し出された。
「掴まれ。」
顔を上げると、幼い少年が立っていた。
少しだけ息を切らしている。
瑞稀が戻ってこないことへ気づき、探しに来たのかもしれない。
瑞稀は、差し出された手を見つめた。
「一人で、立てます。」
「知ってる。」
少年は、手を引かなかった。
無理に腕を掴むこともない。
ただ、瑞稀が自ら手を伸ばすのを待っている。
「でも、使えばいいだろ。」
瑞稀は、戸惑った。
自分で立てるのに。
助けを借りても、よいのだろうか。
少年は、何も言わずに待っている。
その手を取らなくても、怒ることはないのだろう。
けれど、手を伸ばせば、きっと握り返してくれる。
瑞稀は、おそるおそる指を伸ばした。
小さな手へ、自分の手を重ねる。
少年は、その手を強く引かなかった。
瑞稀が自分の足で立ち上がるのを、転ばないように支えただけだった。
「立てたな。」
「はい。」
「痛いか。」
瑞稀は、一度、自分の擦りむいた手のひらを見た。
以前なら、痛くないと答えていただろう。
けれど、少年は心配そうに傷を見つめている。
「……少し、痛いです。」
「そうか。」
少年は、それ以上何も言わなかった。
ただ、瑞稀が落とした荷物を拾い上げる。
「半分、持つ。」
「ですが、私が頼まれたものです。」
「全部取るとは言ってない。」
少年は、荷物の半分だけを抱えた。
残りは、瑞稀の腕へ残している。
「行くぞ。」
「……はい。」
二人は並んで、坂道を上った。
少年は、瑞稀の前を歩かなかった。
後ろから急かすこともなかった。
瑞稀が自分で歩ける速さに合わせ、隣を歩いていた。
◇
景色が、夜の境内へ変わった。
月のない夜だった。
幼い瑞稀は、境内の隅にある大きな木の根元へ座っていた。
膝を抱え。
俯いたまま。
声を押し殺すように、泣いている。
母が、いなくなったばかりの頃だった。
父に泣いているところを見られたくなかった。
泣いたところで、母が戻るわけではない。
神卸の器として育つのなら、寂しいなどと思ってはいけない。
そう、自分へ言い聞かせた。
けれど、涙は止まらなかった。
拭っても。
息を止めても。
次から次へと、頬を伝っていく。
やがて、暗闇の向こうから、枯れ葉を踏む音が聞こえた。
瑞稀は、慌てて顔を伏せる。
「瑞稀。」
聞き慣れた声だった。
幼い少年が、木々の間から姿を現す。
長い間探していたのか、その呼吸は少し乱れていた。
少年は瑞稀の前へ立ち、赤くなった目元を見つめる。
「泣いてたのか。」
「泣いていません。」
「そうか。」
少年は、嘘だとは言わなかった。
何があったのかも。
なぜここにいるのかも。
どうして泣いているのかも。
何一つ、尋ねなかった。
ただ、瑞稀の隣へ腰を下ろす。
肩が触れないほどの、僅かな距離を空けて。
幼い瑞稀は、顔を上げた。
「あなたは、なぜここに。」
「お前がいなかったから。」
「父様には、何も言わずに出てきました。」
「知ってる。」
「戻らなければ、叱られます。」
「それも知ってる。」
「では、なぜ。」
少年は、暗い境内を見つめたまま答えた。
「お前が一人だったから。」
瑞稀は、言葉を失った。
少年は、慰めようとはしなかった。
泣き止めとも。
帰ろうとも。
強くなれとも、言わなかった。
ただ、隣へ座っている。
その存在だけが、暗闇の中へ小さな温もりを作っていた。
「大丈夫だ。」
少年が、低く告げる。
「俺が、ずっとここにいる。」
その言葉を聞いた瞬間。
瑞稀の手が、無意識に少年の袖を掴んだ。
少年は、驚いたように瑞稀を見る。
それでも、その手を外そうとはしなかった。
幼い瑞稀は俯いたまま、もう一度涙を零す。
けれど今度は。
泣いていることを、隠さなくてもよい気がした。
怖さが、消えたわけではない。
母がいない寂しさも、少しも薄れてはいない。
それでも。
少年が隣にいるだけで。
暗い境内は、先ほどよりも少しだけ広く。
夜は、少しだけ短く感じられた。
少年は、本当にそこにいた。
幼い瑞稀が泣き止むまで。
そして、自ら立ち上がるまで。
少年は一度も急かすことなく、隣へ座り続けていた。
やがて、幼い二人の姿が黄金の光へ滲んでいく。
その向こうから、奇稲田姫の声が静かに響いた。
『我が預かっていたものを返しましょう。』
『手を取ることも。』
『その手を離すことも。』
『最後に選ぶのは、あなたです。』
景色が、柔らかな黄金の光へ包まれていった。
◇
瑞稀は、ゆっくりと目を開いた。
黄泉の暗闇。
黒い泥の残る道。
その中で、少年はいつものように、瑞稀から半歩前へ立っていた。
けれど今は、その姿が以前とは違って見える。
転んだ時に、差し出された手。
泣いていた夜に、何も聞かず隣へ座ってくれたこと。
どちらも、本当にあったことだった。
誰かから聞かされ、出来事だけを知っていたのではない。
差し出された手の温かさも。
隣へ座った少年の息遣いも。
袖を掴んだ自分の指先も。
瑞稀は、確かに覚えていた。
少年の隣が、なぜこれほど安心するのか。
失われていた理由が、ようやく胸の中へ戻ってくる。
けれど。
名だけは、まだ届かない。
少年が、瑞稀の視線に気づく。
「どうした。」
瑞稀は少し迷ったあと、静かに口を開いた。
「以前。」
「私が転んだ時に、手を差し出してくださったことがありましたか。」
少年の瞳が、僅かに揺れる。
「ああ。」
「母様がいなくなったあと。」
「境内で泣いていた私の隣へ、座ってくださったことも。」
少年は、しばらく何も答えなかった。
やがて、僅かに目を伏せる。
「……思い出したのか。」
「はい。」
瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。
「今、思い出しました。」
少年は何かを言おうとして、けれど口を閉じる。
瑞稀は、その横顔を見つめた。
「私は、あなたの隣へいると、なぜ安心するのか分からなくなっていました。」
少年の表情が僅かに強張る。
「ですが。」
瑞稀は、静かに続けた。
「あなたは、私を無理に立たせたのではありません。」
「泣き止ませようとしたのでもありません。」
「ただ、私が自分で立つまで。」
「泣き止むまで。」
「隣へ、いてくださったのですね。」
少年は、僅かに顔を背けた。
「大したことじゃない。」
「いいえ。」
瑞稀は、静かに首を横へ振る。
「あの頃の私には、とても大切なことでした。」
少年は、それ以上何も言わなかった。
けれど、太刀を握っていた手から僅かに力が抜けた。
瑞稀は、幼い頃に差し出された手を思い出す。
少年は、無理に掴まなかった。
立たせようともせず。
ただ、そこへ手を差し出していた。
取るかどうかを決めたのは、自分だった。
泣いていた夜も、同じだった。
少年は、帰れとは言わなかった。
泣き止めとも言わなかった。
ただ、瑞稀が自ら立ち上がるまで、隣にいた。
誰かの手を借りても、自分で立ったことは変わらない。
誰かに傍へいてもらっても、自分の意思まで預ける必要はない。
瑞稀は、ようやくそのことを理解した。
「私は。」
瑞稀は、小さく呟く。
「誰かの手を借りても、よいのですね。」
胸の内で、奇稲田姫の気配が柔らかく揺れた。
『ええ。』
短い返事だった。
それだけで、十分だった。
『その手を取ると決めるのも、あなたなのですから。』
瑞稀は、僅かに目を伏せた。
「はい。」
髪へ挿されていた黄金の櫛が、柔らかな光を放つ。
その光は瑞稀の身体を包み、やがて細かな粒となって消えていった。
最後に残った一筋の光が、瑞稀と少年の間へ伸びた。
二人を縛るものではない。
どちらかを引き寄せるものでもない。
ただ、それぞれの足で立つ二人の間に、細い道を描くように一度だけ輝いた。
そして、瑞稀の胸の中へ静かに溶けていく。
「奇稲田姫様。」
瑞稀は、胸元へ手を添えた。
「ありがとうございました。」
『礼を言う必要はありません。』
奇稲田姫の声には、僅かな笑みが含まれていた。
『これは、もともとあなたのものです。』
「それでも。」
瑞稀は、首を横へ振る。
「失わないよう、守ってくださったことへ。」
「お礼を申し上げたいのです。」
少しの沈黙。
やがて、奇稲田姫の気配が穏やかに揺れた。
『……そうですか。』
『では、受け取っておきましょう。』
その声は、次第に遠ざかっていった。
道の先から、冷たい風が吹く。
八岐大蛇が消えた場所には、黒い泥だけが残っていた。
少年が、唯一残された道へ目を向ける。
「これで、合ってるのか。」
瑞稀も、同じ先を見つめた。
細く曲がった道。
先には、まだ深い闇が続いている。
安全だという保証はない。
それでも。
「分かりません。」
瑞稀は、正直に答えた。
「正しい道であるという確証は、ありません。」
少女が、不安そうに眉を下げる。
「え、大丈夫なの?」
「はい。」
瑞稀は、静かに頷いた。
「私たちで選んだ道です。」
「もし間違っていたのなら。」
一度、暗い道の先を見つめる。
「その時は、また考えます。」
少女は、一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「そっか。」
「そうだよね。」
少年も、小さく頷く。
「間違えたら、戻ればいい。」
『黄泉で、容易に戻れると思うな。』
少彦名神が呆れたように言う。
少年は、当然のように答えた。
「じゃあ、別の道を作る。」
少女が吹き出す。
「無茶苦茶。」
「何とかする。」
「そこは相変わらずなんだ。」
二人の声を聞きながら、瑞稀は少年へ視線を向けた。
転んだ時。
少年は、手を差し出してくれた。
泣いていた夜。
自分が立ち上がるまで、隣にいた。
そして今も。
瑞稀の前へ立ち、進む道を決めようとはしていない。
自ら選んだ道を、隣で共に歩こうとしている。
胸の奥へ、温かなものが広がった。
道は、初めから決められているものではない。
いつも正しい答えを選ばなければならないわけでもない。
迷い。
考え。
時には間違いながら。
それでも、共に歩く者と言葉を交わし、何度でも選び直せばよい。
瑞稀は、唯一残された道へ足を踏み出した。
少年が、その隣へ並ぶ。
少女と母も、あとへ続いた。
誰かの後ろを歩くのではない。
誰かを従わせるのでもない。
それぞれが、自分の足で立ちながら。
同じ道を選び。
共に進んでいく。
遠くから、水が流れるような音が聞こえ始めた。
黄泉には似つかわしくない、激しい水音。
少彦名神が、顔を上げる。
『次のものが、待っておるようだな。』
瑞稀も、闇の先を見る。
何が待っているのかは分からない。
それでも。
もう、分からないということだけを恐れはしなかった。
必要な時には、手を伸ばせばよい。
差し出された手を取ることもできる。
そして、その手を取るかどうかは。
自分で選べる。
瑞稀は、自ら選び取った道を。
仲間たちと共に、歩いていった。
第四十七話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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