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第四十六話 「黄泉に咲く花」

第四十六話 「黄泉に咲く花」


黄金の道を渡り終えた時、猿田毘古(さるたひこ)の槍は淡い光となって瑞稀の手を離れていた。


火之迦具土(ひのかぐつち)を迎えた時は、両手を包むように灯った炎が、冷え固まった岩へ温もりを戻し、閉ざされた道を開いた。


役目を終えた火は、今も瑞稀の胸の内で小さく揺れている。


燃やすためではない。


暗い道を見失わないための、ささやかな灯として。


『寒くなったら、呼べ!』


火之迦具土の声が、胸の奥で明るく響いた。


『いつでも、温めてやるぞ!』


「ありがとうございます。」


一拍置いて、火之迦具土が続ける。


『ただし、芋を焼く時だけは我に任せるな!』


瑞稀は、先ほど取り戻した記憶を思い出した。


真っ黒に焦げた焼き芋。


少し気まずそうな父と、笑っていた母。


「……確かに、その方がよいかもしれません。」


『であろう!』


少女が、不思議そうに瑞稀を見る。


「何の話?」


「焼き芋のお話です。」


「いや、それは聞けば分かるけど。」


少女が、怪訝そうに首を傾げる。


瑞稀は少し考えてから、先ほど取り戻した記憶について簡単に話した。


幼い頃、冬の境内で、父と母と三人で焼き芋を食べたこと。


そして、それを少し焦がしてしまったこと。


「……そんなことも、ありましたね。」


母が、懐かしそうに微笑む。


「父様は、火が強かったと仰っていました。」


「ええ。ずいぶん真剣なお顔で。」


少女が、堪えきれないように吹き出した。


「それで火の神様まで焼き芋焦がす話になったんだ。」


『我まで一緒にするでない!』


「ですが、火之迦具土様ご自身が、焦がすと。」


『それはそれだ!』


母の口元にも、小さな笑みが浮かぶ。


胸の奥で響く火之迦具土の騒がしい声と、隣から聞こえる笑い声に、黄泉の重い空気がほんの僅かに和らいだ。


やがて瑞稀たちは、岩壁の向こうへ続く道を歩き始めた。



しばらく進むと、道の両側へ黒い影が見え始めた。


最初は、遠くに立つ木のように見えた。


けれど近づくにつれ、それが人の形をしていることに気づく。


俯いた者。


膝を抱えて座る者。


地面へ横たわり、動かない者。


男なのか。


女なのか。


若いのか。


老いているのか。


何一つ、分からない。


その姿は薄い闇に覆われ、顔には何もなかった。


「黄泉の住人……。」


母が、声を落とす。


瑞稀は、歩みを止めた。


道の両側だけではない。


前方にも、無数の影が立っている。


行く手を塞ぐように、隙間なく。


少女が、瑞稀の背へ近づいた。


「この人たち、死者なの?」


『そうであった者も、いるだろう。』


少彦名神(すくなびこな)が、少女の肩から周囲を見渡す。


『だが、すでに誰であったかを失った者も多い。』


伊邪那美(いざなみ)様の命令で、私たちを止めているのでしょうか。」


瑞稀が尋ねると、少彦名神は首を横へ振った。


『分からぬ。』


『黄泉へ長く留まった者は、生者の熱へ自然と引かれる。』


『命令などなくともな。』


影の一つが、ゆっくりと顔を上げる。


目のあるべき場所には、暗い窪みだけがあった。


その奥に、赤黒い光が灯る。


続いて、一つ。


また一つ。


道を塞ぐ影たちの中へ、同じ光が浮かび始めた。


少年が、太刀を抜く。


「来るぞ。」


影たちが、一斉に動いた。


地を這うように腕を伸ばし、瑞稀たちへ押し寄せてくる。


少年が、前へ出る。


青白い斬撃が、最初の影を横薙ぎにした。


けれど、刃が触れた瞬間、影の身体は霧のように崩れ、すぐに元の形へ戻ってしまう。


「斬れない。」


『死者へ刃を向けても、命を断つことはできぬ。』


少彦名神が、告げる。


「なら、どうすればいい。」


返事を待つ間にも、影は迫ってくる。


少女が、薬玉を掲げた。


緑色の淡い光が広がり、先頭の影たちを押し返す。


けれど、後ろから次々と別の影が押し寄せてくる。


数が、多すぎる。


母が、瑞稀の腕を掴んだ。


「瑞稀、下がって。」


「いいえ。」


瑞稀は、母の前へ出る。


影たちの身体を、黒い糸のようなものが這っていた。


首へ。


腕へ。


胸元へ。


幾重にも巻きつき、黄泉の奥へ伸びている。


影が動くたび、糸もまた生き物のように脈打っていた。


「少彦名神様。」


瑞稀は、影の一体を見つめた。


「あの黒いものは。」


少彦名神も、目を凝らす。


『……黄泉へ留める執着か。』


「執着。」


『死してなお、手放せぬ思い。』


『あるいは、手放してもらえなかった思いだ。』


瑞稀は、迫る影たちを見つめる。


彼らが、自ら襲っているのではない。


あの黒い糸へ引かれ、生者へ手を伸ばさせられている。


少年が、瑞稀の前で太刀を構えた。


「糸を斬ればいいのか。」


『お前の刃では、触れることも難しかろう。』


「じゃあ、誰ならできる。」


その時。


黄泉には存在しないはずの香りが、瑞稀の鼻先を掠めた。


甘く、柔らかな花の香り。


黒い土の上へ、一枚の花びらが落ちる。


薄紅色の桜。


少女が、目を見開いた。


「桜……?」


もう一枚。


また一枚。


何もない闇の上から、桜の花びらが静かに舞い落ちてくる。


瑞稀の胸の奥へ、穏やかな声が届いた。


――花は、死の傍らにも咲きます。


優しく。


けれど、芯のある女性の声。


その後ろから、もう一つの声が重なる。


――咲く場所を選べぬ花であろうと。


――咲いたことまで、否定されるものではない。


瑞稀は、静かに二柱の名を呼んだ。


木花咲耶姫(このはなさくやひめ)様。」


瓊瓊杵(ににぎ)様。」


胸元へ、手を添える。


以前。


互いの思いを言葉にできず、すれ違っていた二柱。


傷つけたことも。


疑われたことも。


なかったことにはせず。


それでも、隣に立つことを選んだ神々。


瑞稀は、目を閉じた。


「――謹んで、お迎えいたします。」


桜の花びらが、一斉に舞い上がった。


瑞稀の白銀の髪が、柔らかな風へ揺れる。


赤く染まっていた瞳は、次第に淡い桜色へ変わっていった。


右手へ、一本の桜の枝が現れる。


細く。


まだ、蕾の多い若い枝。


「枝……。」


少女が、呟いた。


少年は、押し寄せる影を太刀で押し返しながら、瑞稀を振り返る。


「どうする。」


『慌てるでない。』


瓊瓊杵尊の声が、静かに響いた。


『花は、咲かせるだけでは届かぬこともある。』


瑞稀の左手へ、淡い光が集まる。


瓊瓊杵尊の神気が、桜の枝へ触れた。


枝が、緩やかにしなる。


両端を結ぶように、細い光の弦が張られていく。


桜の枝は、一本の弓へ姿を変えた。


瑞稀が弓を握ると、木花咲耶姫の声が優しく告げる。


『あの者たちを、傷つける必要はありません。』


『縛っているものだけを。』


瓊瓊杵尊が、続ける。


『見定めよ。』


『そして、射抜け。』


瑞稀は、弓を構えた。


矢はない。


けれど、弦へ指をかけると、一枚の花びらが光を纏い、細長い矢へ姿を変える。


目の前には、無数の影がいる。


身体を覆う黒い糸が複雑に絡まり、黄泉の闇へ続いていた。


一本の矢で、すべてを断つことはできない。


そう思った瞬間。


『一人で、すべてを狙う必要はない。』


瓊瓊杵尊の声がした。


『我が、道を示す。』


瑞稀の桜色の瞳へ、黄金の光が重なる。


黒い糸の中に、一筋だけ淡く輝く道が見えた。


影から、影へ。


糸から、糸へ。


すべての執着をつなぐ、一本の流れ。


「見えます。」


『ならば、放て。』


瑞稀は、弦を引いた。


押し寄せる影の腕が、目前まで迫っている。


それでも、瑞稀は目を逸らさなかった。


「お還りください。」


指を、離す。


桜の矢が放たれた。


一本の光は、最初の黒い糸へ触れた瞬間、無数の花びらへ弾けた。


花びらは風へ乗り、次の糸へ。


さらに、その先へ。


瓊瓊杵尊が示した道を辿り、黄泉の住人たちの間を駆け抜けていく。


黒い糸が、次々と薄紅色へ染まった。


影たちの動きが、止まる。


伸ばされていた腕が、ゆっくりと下ろされた。


赤黒く光っていた顔の奥から、光が消えていく。


黒い糸は、千切れなかった。


代わりに、その表面から小さな蕾が生まれる。


一つ。


また一つ。


蕾が膨らみ、やがて静かに花開いた。


黒い執着を、覆うように。


淡い桜が、咲いていく。


「花に……。」


少女が、息を呑んだ。


影たちは、花へ変わったのではない。


その身体は、そこへ残っている。


けれど、彼らを縛っていた黒い糸だけが、桜の枝へ姿を変えていた。


影の一人が、自分の胸元へ咲いた花へ触れる。


顔は、見えない。


声も、聞こえない。


それでも、何かを思い出したように、その影は小さく微笑んだ。


やがて、地面へ座り込む。


別の影も。


その隣の影も。


生者へ伸ばしていた手を下ろし、静かに道の脇へ退いていった。


瑞稀たちの前に、細い道が現れる。


その両側には、無数の桜が咲いていた。


空も。


日の光もない、黄泉の国で。


花びらだけが、雪のように舞っている。


木花咲耶姫の声が、瑞稀の中へ静かに響いた。


『花は、永遠には咲きません。』


『だからこそ。』


『咲いていた時の美しさは、消えないのです。』


瑞稀は、桜色の瞳で花を見つめる。


『死者も、同じだ。』


瓊瓊杵尊が、続けた。


『命は、終わる。』


『だが、生きたことまで失われるわけではない。』


道の脇へ座った影の一人が、瑞稀へ顔を向ける。


暗い顔の奥に、ほんの一瞬だけ、誰かの笑顔が見えた気がした。


瑞稀の胸が、僅かに痛む。


「この方々にも。」


「大切な方が、いらっしゃったのでしょうか。」


『ええ。』


木花咲耶姫が、答える。


『愛した者も。』


『愛された記憶も。』


『きっと、あったのでしょう。』


木花咲耶姫の声が、静かに途切れた。


その瞬間、瑞稀の肩へ落ちていた桜の花びらが、淡い光を帯びる。


一枚。


また一枚。


道の両側に咲いていた花々が風もないのに舞い上がり、瑞稀の周囲を包み込んだ。


「……。」


黄泉の闇が、薄紅色の光へ溶けていく。


少年たちの姿も、道の脇へ座る影たちも、次第に遠ざかっていった。


やがて、瑞稀の足元へ柔らかな土の感触が戻る。


目を開く。


そこには、黄泉にはない春の空が広がっていた。


淡い光の下、一本の大きな桜が枝を伸ばしている。


咲いている花もあれば、まだ固く閉じた蕾もある。


その木の下に、二柱の神が並んで立っていた。


木花咲耶姫と、瓊瓊杵尊。


二柱の間には僅かな距離がある。


それでも、同じ桜を見上げていた。


「木花咲耶姫様。瓊瓊杵様。」


瑞稀が頭を下げる。


木花咲耶姫は、舞い落ちる花びらを一枚、掌へ受け止めた。


『お返しするものがあります。』


その言葉とともに、一枚の花びらが瑞稀の前へ舞う。


触れた瞬間、周囲の景色が静かに揺らいだ。


春の境内。


桜の花が、風へ舞っている。


幼い瑞稀は、一人で石段の上に立っていた。


その日は、初めて祭事の一部を任された日だった。


手順を、間違えないように。


父から教えられたとおりに。


何度も、心の中で祝詞を繰り返している。


石段の下には、母がいた。


少し離れたところには、父もいる。


そして。


桜の木の傍らには、一人の少年が立っていた。


今、黄泉路を共に歩いている少年よりも小さい。


けれど、その目だけは変わらない。


静かに。


ただ、幼い瑞稀を見つめている。


祭事が、始まった。


瑞稀の手が、僅かに震える。


祝詞の一節が、頭から消えた。


何を言えばよいのか、分からない。


父の厳しい視線を感じる。


周囲の大人たちが、僅かにざわめいた。


幼い瑞稀は、俯きそうになる。


その時。


桜の木の下にいた少年が、小さく頷いた。


声は、聞こえない。


何も、言っていない。


それでも。


大丈夫だと。


待っていると。


そう、伝えられた気がした。


幼い瑞稀は、もう一度息を吸う。


消えたはずの祝詞が、ゆっくりと戻ってきた。


最後まで唱え終えた時。


風が、吹いた。


桜の花びらが舞い、境内全体を包み込む。


祭事のあと。


父は、短く言った。


「よく、立て直した。」


母は、嬉しそうに笑っている。


そして、少年は。


瑞稀のもとへ駆け寄ると、当然のように告げた。


「できると思ってた。」


幼い瑞稀は、その言葉を聞いて、ほんの少しだけ笑った。


景色が、桜の花びらへ溶けていく。


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


「今の記憶は……。」


『我らが、預かっていたものです。』


木花咲耶姫の声は、優しかった。


『誰かに、信じてもらった記憶。』


瓊瓊杵尊が、静かに続ける。


『そして。』


『信じられたからこそ、もう一度立ち上がれた心だ。』


瑞稀の胸の奥へ、柔らかな光が流れ込む。


春の風。


桜の香り。


祭事を最後までやり遂げた時の安堵。


そして。


――できると思ってた。


幼い少年の声。


そのすべてが、失われていた場所へ静かに戻ってきた。


やがて、空間を満たしていた桜の花びらが一斉に舞い上がる。


木花咲耶姫と瓊瓊杵尊の姿も、薄紅色の光の向こうへ遠ざかっていった。


『また、歩みなさい。』


木花咲耶姫の声が、優しく響く。


『今度は、お前自身が信じたい者と共に。』


白い光が、瑞稀の視界を包み込んだ。



目を開くと、黄泉の闇が戻っていた。


道の両側には、先ほど咲いた桜が今も静かに揺れている。


少女も、母も、少彦名神も、その場にいる。


そして、すぐ隣には少年が立っていた。


瑞稀は、その横顔を見つめる。


あの幼い少年が、目の前にいる者と同じなのだと分かる。


けれど、やはり名は思い出せない。


胸の奥へ手を伸ばしても、そこだけが白く霞んでいた。


少年が、瑞稀の視線へ気づく。


「どうした。」


「……いいえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振った。


「以前にも、あなたに助けていただいたことがあるようです。」


少年の瞳が、僅かに揺れる。


「思い出したのか。」


「すべてではありません。」


瑞稀は、正直に答えた。


「ですが、あなたが私を信じてくださったことを、少しだけ。」


少年は、しばらく黙っていた。


やがて、視線を逸らす。


「そうか。」


短い返事。


けれど、その声には僅かな安堵が滲んでいた。


木花咲耶姫の力が、瑞稀の胸へ流れ込む。


桜の香り。


春の風。


失敗しても、もう一度言葉を紡ぐことができた時の安堵。


少年の、できると思っていた、という声。


それらが、失われていた場所へ静かに戻ってくる。


瑞稀の手にあった弓が、短い一本の桜の枝へ戻った。


枝の先には、満開の花が咲いている。


――瑞稀。


木花咲耶姫が、呼びかけた。


――信じることは、疑わないことではありません。


瑞稀は、静かに耳を傾ける。


――疑い。


――傷つき。


――それでもなお。もう一度、その者の言葉を聞こうとすることです。


瓊瓊杵尊の声が、続く。


――我は、かつてそれができなかった。


――疑いを抱き。


――言葉を聞く前に、咲耶を傷つけた。


木花咲耶姫は、何も否定しなかった。


――その傷は、消えてはおりません。


――ああ。


瓊瓊杵尊は、静かに答えた。


――だからこそ、我は忘れぬ。


――信じるということが、どれほど難しいものかを。


二柱の声は、互いを責めるものではなかった。


過去を、美しく塗り替えるものでもない。


傷があったことを認めたまま。


それでも、同じ道を歩こうとしている。


瑞稀は、桜の枝を胸元へ寄せた。


「私も、忘れないようにいたします。」


「信じていただいたことも。」


「私が、誰かを信じたいと思ったことも。」


桜の枝が、淡い光へ変わる。


花びらが瑞稀の周囲を一度だけ巡り、黄泉の闇へ溶けていった。


桜色だった瞳も、ゆっくりと元の琥珀色へ戻っていく。


道の両側では、黄泉の住人たちが静かに座っていた。


彼らを縛っていた黒い糸には、今も桜が咲いている。


花は、いずれ散るだろう。


その時、再び黒い執着へ戻るのかもしれない。


それでも、一度咲いたことまで、消えるわけではない。


瑞稀は、彼らへ深く頭を下げた。


「道をお通しくださり、ありがとうございます。」


返事はない。


けれど、桜の花びらが一枚。


瑞稀の肩へ、そっと落ちた。


「行きましょう。」


瑞稀は、先へ続く道を見る。


少年が太刀を納め、その隣へ並んだ。


少女も、少彦名神を肩へ乗せ、瑞稀の反対側へ立つ。


母は、道の両側へ咲く花を見つめていた。


「黄泉にも。」


母が、静かに呟く。


「花は、咲くのですね。」


「はい。」


瑞稀は、頷いた。


「きっと。」


「咲かせたいと願う者がいる限り。」


四人と一柱は、桜の舞う黄泉路を再び歩き始めた。


その背後で。


道の脇へ座っていた影の一人が、胸元へ咲いた花を、大切そうに両手で包んでいた。

第四十六話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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