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第四十五話 「消えない火」

第四十五話 「消えない火」


黄金の道を渡り終えると、背後の光は静かに薄れていった。


瑞稀たちの前には、再び暗い黄泉路が続いている。


けれど、先ほどまでとは違う。


瑞稀の胸には、母に抱き締められた温もりが残っていた。


失われた記憶が一つ戻っただけで、黄泉の冷気が少し遠ざかったように感じられる。


「行きましょう。」


瑞稀は、先頭を歩き始めた。


しばらく進むと、道を満たす空気が変わった。


冷たい。


ただ、冷えているのではない。


触れたものの熱を、根こそぎ奪うような冷気だった。


吐いた息が、白く凍りつく。


少女が、自分の肩を抱いた。


「急に、寒くなってきたね……。」


『ただの冷気ではないな。』


少彦名神が、少女の肩の上で顔をしかめる。


『生きるものの熱そのものを、奪おうとしておる。』


母の歩みも、次第に遅くなっていった。


瑞稀は足を止め、周囲を見渡す。


道の先を、黒い岩壁が塞いでいた。


天井まで届く、巨大な壁。


表面は厚い霜に覆われ、所々へ青白い氷が張りついている。


少年が、太刀の柄へ手をかけた。


「斬る。」


『待て。』


少彦名神が、すぐに制する。


『あれは、ただの岩ではない。』


「……では、何なのですか。」


『黄泉へ沈んだ熱だ。』


少彦名神は、岩壁を見上げた。


『生きていた頃の怒りも。』


『願いも。』


『愛しさも。』


『すべてを失い、冷え固まったものだ。』


少年が、眉を寄せる。


「余計に分からない。」


『要するに、斬れば崩れるようなものではないということだ。』


「最初から、そう言え。」


『お前が短気なのだ。』


少年と少彦名神が、睨み合った。


その時。


瑞稀の胸の奥で、何かが弾けた。


ぱちり。


小さな火の粉が散るような音。


続いて、聞き覚えのある声が響いた。


――寒い!


瑞稀は、目を瞬く。


――何だ、ここは!


――寒すぎるぞ!


先ほどまでの厳かな猿田毘古の声とは、まるで違う。


声の主は、瑞稀の心の中で大きく騒いでいた。


――瑞稀!


「はい。」


――呼べ!


「……先ほどから、いらっしゃるのでは。」


――いるが、まだ迎えられてはおらぬ!


瑞稀は、僅かに困ったように目を伏せた。


少女が、首を傾げる。


「どうしたの?」


「いえ。」


瑞稀は、黒い岩壁を見つめる。


「とても、お元気な御方が。」


――元気ではない!


――凍えそうだ!


その声に、少女の口元が少し緩んだ。


瑞稀は、静かに息を吸う。


火之迦具土(ひのかぐつち)様。」


胸元へ手を添え、自らの意思で告げる。


「――謹んで、お迎えいたします。」


赤い光が、瑞稀の足元から立ち上った。


白銀の髪が炎の風へ揺れ、琥珀色だった瞳が鮮やかな赤へ染まる。


その耳元には、火の雫を思わせる赤金の耳飾りが現れ、揺れるたびに小さな火の粉を零した。


巫女装束の袖口には、燃え広がる炎を象った赤い文様が淡く浮かび上がる。


少女が、歓声を上げた。


「目、真っ赤!」


『おお!』


火之迦具土の声も、嬉しそうに弾む。


『よく似合っておるぞ、瑞稀!』


「火之迦具土様のお力ではないのですか。」


『我の火だからこそ、似合うのだ!』


「……ありがとうございます。」


何と答えるのが正しいのか分からず、瑞稀はひとまず礼を述べた。


少年が、僅かに口元を緩める。


「相変わらずだな。」


『何だ、その言い方は!』


「褒めてる。」


『ならば、よし!』


瑞稀は、炎に包まれた両手を見つめた。


「この岩を、焼けばよいのでしょうか。」


『待て待て!』


火之迦具土が、慌てて止める。


『何でも燃やせばよいと思っておらぬか。』


「火の神でいらっしゃいますので。」


『我の扱いが、雑ではないか?』


「では、どのように。」


『火は、燃やすためだけにあるのではない。』


火之迦具土の声から、少しだけ軽さが消えた。


『冷えたものを、温める。』


『固く閉じたものを、緩める。』


『暗い場所で、誰かの帰りを待つ灯にもなる。』


瑞稀は、目の前の岩壁へ手を伸ばす。


触れる前から、指先が痛むほどの冷気が伝わってきた。


「この中には。」


『消えきれなかった熱がある。』


『ならば、新たに焼く必要はない。』


『思い出させてやればよい。』


「かつて、温かかったことを。」


『そうだ!』


再び、明るい声が響く。


『我は、賢いであろう!』


「はい。」


『もう少し、驚いてもよいぞ。』


「では、次は努力いたします。」


『そういうものではない!』


瑞稀は、僅かに口元を緩めると、両手を岩壁へ添えた。


激しい炎は、上がらなかった。


代わりに、掌から柔らかな赤い光が染み込んでいく。


黒い岩の奥深くへ。


凍りついた亀裂を辿るように。


赤い光が、ゆっくりと広がっていった。


ぱきり。


氷の割れる音がした。


岩壁を覆っていた霜が溶け、雫となって地面へ落ちる。


一滴。


また一滴。


やがて岩壁全体が、内側から橙色に輝き始めた。


冷え固まっていたものが、長い眠りから目覚めるように軋む。


岩壁の中央へ、細い隙間が生まれた。


それは少しずつ左右へ広がり、人が通れるほどの道となっていく。


向こう側から、僅かに温かな風が吹いた。


少女が、手を伸ばす。


「暖かい。」


『当然だ!』


『我の火だからな!』


火之迦具土が、得意げに胸を張った気配がした。


その瞬間。


瑞稀の両手に灯っていた炎が、ふっと大きく揺れた。


視界の端から、黄泉の闇が赤い光へ溶けていく。


「……。」


足元の感覚が消えた。


次に瑞稀が目を開いた時、そこに黒い岩壁はなかった。


赤く染まった空の下。


幾つもの小さな火が、夜の篝火のように静かに灯っている。


激しく燃え盛る炎ではない。


人が傍へ寄り、手を翳せるほどの、柔らかな火だった。


その向こうに、一人の青年が立っている。


「火之迦具土様。」


瑞稀が頭を下げると、火之迦具土は満足そうに笑った。


『うむ!』


その声に呼応するように、周囲の炎が一斉に揺れる。


『我からも返そう。』


やがて、一つの火が瑞稀の前へ浮かび上がった。


赤い炎の中に、ぼんやりと別の景色が映り始める。


冬の境内。


幼い瑞稀が、火鉢の前へ座っている。


隣には、母がいた。


向かい側では、父が火箸を握っている。


火鉢の灰の中から取り出されたのは、真っ黒に焦げた焼き芋だった。


母が、堪えきれないように笑っている。


「随分、立派に焼けましたね。」


父は、焦げた焼き芋を無言で見つめたあと、


「……火が強かった。」


短く答えた。


母が、さらに笑う。


幼い瑞稀も、つられるように笑っていた。


まだ、声を立てて笑うことを我慢していなかった頃の自分。


三人で、一つの焼き芋を分けた。


焦げた皮の内側は、驚くほど甘く、温かかった。


景色が、炎の中へ消えていく。


瑞稀は、胸元を押さえた。


「今のは……。」


『我が、預かっていたものだ。』


火之迦具土の声が、穏やかになる。


『火を囲み、家族と笑った記憶。』


『温かいものを、温かいと感じた心。』


瑞稀の瞳へ、赤い光が揺れた。


父が、失敗することもあった。


母が、声を立てて笑うこともあった。


自分も、二人の前であのように笑っていた。


知らなかった。


忘れていた。


あの家にも、確かに温かな時間があった。


『返すぞ。』


火之迦具土は、いつもの軽い調子で告げた。


『焦げた芋の味ごとな!』


瑞稀の胸の中へ、温かなものが流れ込む。


甘い香り。


火鉢の熱。


母の笑い声。


少し気まずそうに、焦げた焼き芋を口へ運ぶ父の姿。


瑞稀の唇から、小さな笑みが零れた。


「……少し、苦かったです。」


『焦げていたからな!』


「ですが、甘かった。」


『そうであろう!』


火之迦具土の声も、笑っていた。


けれど。


開かれた道の先を前に、その声がふと止まる。


この奥には、伊邪那美(いざなみ)がいる。


自らを産み、そのために命を落とした母が。


長い沈黙のあと。


火之迦具土が、ぽつりと尋ねた。


『母上は。』


いつもの勢いは、なかった。


『我を、見てくださるであろうか。』


瑞稀は、すぐには答えなかった。


大丈夫だと、無責任に言うことはできない。


伊邪那美が何を思うのか。


火之迦具土を前にして、どのような顔をするのか。


誰にも、分からない。


「分かりません。」


瑞稀は、正直に答えた。


赤い炎が、僅かに揺れる。


「ですが。」


瑞稀は、両手に灯る炎を見つめた。


「私も、共に参ります。」


「もし、火之迦具土様がお一人で向き合うことが怖いのであれば。」


「その時は、隣におります。」


しばらく、返事はなかった。


やがて。


『そうか!』


火之迦具土の声が、再び明るく響く。


『ならば、何も恐れることはないな!』


無理に明るく振る舞っているのだと、今の瑞稀には分かった。


それでも、その明るさは逃げるためのものではない。


前へ進むために、自ら灯した火なのだ。


『行くぞ、瑞稀!』


「はい。」


『母上に会ったら、まず何と言えばよいと思う?』


「お詫びではないでしょうか。」


『いきなり重い!』


「では、ご挨拶を。」


『久しぶり、でよいのか?』


「よいと思います。」


『よし!』


『久しぶりでいこう!』


火之迦具土の明るい声に、瑞稀の口元が僅かに緩んだ。


その瞬間、周囲を満たしていた赤い光が大きく揺れる。


幾つもの灯火が、一つずつ遠ざかるように霞んでいった。


「火之迦具土様。」


『何だ。』


「参りましょう。」


『ああ!』


赤い光が、瑞稀の視界を包み込んだ。



再び目を開くと、そこには黄泉の暗い道が続いていた。


黒い岩壁はすでに左右へ開き、その向こうから僅かに温かな風が吹いている。


瑞稀は、開かれた道へ足を踏み出した。


白銀の髪。


赤く染まった瞳。


その手に灯る、温かな炎。


黄泉の冷気の中で、火之迦具土の火は消えることなく、瑞稀たちの進む先を明るく照らしていた。

第四十五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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