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第四十四話 「最初の道」

第四十四話 「最初の道」


黄泉へ続く裂け目を前に、天照が静かに口を開いた。


『そなたたちは、先に行け。』


瑞稀は、振り返る。


「天照様方は。」


『我らも、後から参る。』


天照は、開かれた天岩戸と、高天原へ満ち始めた光を見渡した。


『長く御魂が分かたれていたことで、この地の神威も大きく乱れておる。』


『このまま黄泉へ下れば、せっかく戻り始めた均衡を、再び崩しかねぬ。』


月読が、静かに頷く。


『ここを整え次第、我らも後を追います。』


須佐之男は、黄泉へ続く裂け目を見つめたあと、瑞稀へ視線を向けた。


『先に行っていろ。』


『母上のところまでは、必ず追いつく。』


瑞稀は、三柱を見つめた。


「分かりました。」


深く頭を下げる。


「お待ちしております。」


『ああ。』


天照が、穏やかに頷いた。


『また、向こうで会おう。』



裂け目をくぐった先にあったのは、冷たく、重い闇だった。


天岩戸を閉ざしていた闇とも違う。


あの場所には、まだ光を拒む者の心があった。


悲しみも。


恐れも。


誰かに気づいてほしいという、かすかな願いも。


けれど、ここには何もない。


生きているものの息遣いも。


風が木々を揺らす音も。


土の下を這う、小さな虫の気配さえなかった。


「……ここが。」


瑞稀は、静かに辺りを見渡す。


「黄泉なのですね。」


足元には、乾ききった土が続いていた。


見上げても、空はない。


頭上にも、左右にも、果ての見えない暗闇が広がっているだけだった。


遠くで、何かが滴るような音がした。


一度。


それきり、再び深い静寂が戻る。


「気をつけろ。」


少年が、低い声で告げた。


須佐之男(すさのお)から預かった太刀を手に、瑞稀より半歩前へ出る。


以前なら、その背に守られるまま、後ろへ下がっていたかもしれない。


けれど瑞稀は、少年の隣へ並んだ。


「私も、周囲を見ます。」


少年が、僅かに視線を向ける。


何か言おうとしたようだったが、結局何も言わずに前へ向き直った。


母が、瑞稀の手をそっと握る。


「この先に。」


母は、暗闇の奥を見つめた。


伊邪那美(いざなみ)様が、いらっしゃいます。」


「どれほど先におられるのでしょうか。」


「分かりません。」


母は、静かに首を横へ振る。


「黄泉は、生者のために作られた場所ではありません。」


「道が、私たちの知る形をしているとも限りません。」


少女の肩へ立った少彦名神(すくなびこな)が、鋭い目で周囲を見渡した。


『朱莉の言うとおりだ。』


少彦名神は少女の肩から飛び降りると、乾いた土を小さな足で踏み締める。


『黄泉の気配が、揺れておる。』


「揺れているって?」


少女が、不安そうに聞き返した。


『我らがここへ入ったことで、眠っていたものが目を覚まし始めている。』


少年が、太刀を握る手へ力を込める。


「敵が来るのか。」


『分からぬ。』


少彦名神は、暗闇の奥へ目を細めた。


『ここで形を得るものが、必ずしも神や死者とは限らぬ。』


『黄泉へ沈んだ悲しみ。』


『果たされなかった願い。』


『忘れ去られた声。』


『そのようなものが、道を阻むこともあろう。』


瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。


そこには、天照(あまてらす)から預かった日の光が、今も静かに宿っている。


けれど、この闇の中では、その温もりさえ遠く感じられた。


「進みましょう。」


瑞稀が、告げる。


母が、僅かに目を見開いた。


「瑞稀。」


「ここで立ち止まっていても、伊邪那美様へはお会いできません。」


瑞稀は、闇の先を見つめる。


少年が瑞稀の横顔を見て、少女も小さく息を吸った。


やがて少女が、いつもの明るさを取り戻そうとするように頷く。


「うん。」


「行こう。」


「一人じゃないんだから。」


その言葉に、瑞稀の胸の奥が僅かに温かくなった。


名は、失った。


それでも、少女が自分を一人にしないために笑っていることは分かる。


四人と一柱は、光のない黄泉路をゆっくりと歩き始めた。



どれほど進んだのか、瑞稀には分からなかった。


黄泉には、時を測るものがない。


空の色は変わらず。


風も吹かず。


足元の景色さえ、ほとんど変わらない。


ただ、歩くほどに身体へ纏わりつく冷気が、少しずつ重くなっていった。


「……まだ、続くのか。」


少年が、低く呟く。


疲労を口にしたわけではない。


それでも、その呼吸が僅かに深くなっている。


母の足取りも、最初より少し重くなっていた。


十年もの間、天照の荒魂を抱えていた身体だ。


解放されたとはいえ、すぐにすべてが元へ戻るわけではない。


瑞稀は、母の歩調へ合わせるように足を緩めた。


母が、それに気づいて微笑む。


「大丈夫ですよ。」


「ですが。」


「今度は、私があなたについていく番です。」


母は、瑞稀の手を握り直した。


瑞稀は、その横顔を見つめる。


遠い記憶の中でも、この人は同じように笑っていた気がする。


けれど、どのような場所だったのか。


何を言われたのか。


何も、思い出せない。


その時だった。


先頭を歩いていた少年が、突然足を止めた。


瑞稀も、すぐに歩みを止める。


「どうしました。」


少年は、答えなかった。


ただ、目の前を険しい顔で見つめている。


瑞稀も、その視線を追った。


道が、途切れていた。


断崖。


足元の土は、まるで大きな刃で切り落とされたように、そこで終わっている。


崖の下には、底の見えない闇が広がっていた。


覗き込んでも、何も見えない。


石を落とせば、音さえ返ってこないだろう。


遥か向こう側には、こちらと同じような崖が続いている。


道は、そこから先へ伸びていた。


けれど、二つの崖をつなぐものは何もない。


橋も。


足場も。


飛び移れるほどの距離でもなかった。


「……こんなの。」


少女が、崖の向こうを見つめる。


「どうやって渡るの。」


少年は、周囲へ視線を巡らせた。


「別の道を探す。」


「そうですね。」


瑞稀も、頷く。


「一度、戻りましょう。」


けれど、振り返った瞬間、全員の足が止まった。


今まで歩いてきたはずの道が、消えている。


背後にあるのは、崖と同じ、果てのない闇だけだった。


「閉じ込められたのか。」


少年が、太刀を構える。


青白い神気が、刃を伝った。


「下がってろ。」


少年は一歩前へ出ると、太刀を大きく振り下ろした。


青白い斬撃が、闇を切り裂く。


一瞬、暗闇の中へ細い亀裂が走った。


けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように闇が閉じてしまう。


「駄目か。」


少年が、僅かに舌打ちした。


『黄泉そのものを斬ろうとしても、無駄だ。』


少彦名神が、低く告げる。


『これは、壁ではない。』


『理そのものだ。』


「理。」


瑞稀は、崖の向こうを見つめた。


道がない。


だから、渡れない。


それだけのことが、絶対に覆せない決まりとして黄泉の中へ存在している。


「飛ぶことは。」


少女が、薬玉へ触れた。


『無理だ。』


少彦名神は、すぐに答える。


『生者の身体で、この闇の上へ身を晒せば、下へ引かれる。』


『もし、一度落ちれば――』


言葉が途切れた。


その続きを、誰も尋ねなかった。


母は、崖の端へ近づきすぎないよう、瑞稀の腕を引く。


「何か、方法があるはずです。」


けれど、周囲には何もない。


道を作るための材料も。


橋を架けられるほど長い木もない。


少年が持つ太刀も。


少女の薬玉も。


少彦名神の力も。


この場では、答えにならなかった。


沈黙が落ちる。


黄泉の闇は、まるで彼らが諦めるのを待っているようだった。


その時、瑞稀の胸の奥で、何かが微かに揺れた。


温かい。


けれど、天照から預かった日の光とは違う。


もっと古く。


もっと懐かしい。


初めて神の力を迎えた時に感じたもの。


耳の奥で、澄んだ鈴の音が鳴った。


――シャン。


瑞稀は、顔を上げる。


「……今。」


「瑞稀?」


母が、瑞稀を見つめた。


もう一度、鈴の音が響く。


――シャン。


今度は、その音へ重なるように、穏やかな声が瑞稀の心へ届いた。


――我を呼べ。


瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。


聞き覚えのある声。


穏やかで。


どこか懐かしく。


最初に、自分へ道を示してくれた神。


猿田毘古(さるたひこ)様。」


瑞稀が、静かにその名を呼ぶ。


少年が、瑞稀へ振り返った。


母も、少女も、少彦名神も、黙って瑞稀を見つめている。


――我を呼べ。


声が、もう一度響いた。


――今度は。


――お前自身の意思で。


瑞稀は、自分の胸元へ手を添える。


初めて神を迎えた日。


あの時の自分は、何が起きているのかさえ分かっていなかった。


足元へ浮かんだ文字も。


心へ響いた祈りも。


差し出された手の意味も知らないまま。


ただ、自分の口が勝手に動くのを感じていた。


――謹んで、お迎えいたします。


あれは、本当に自分の言葉だったのだろうか。


神に呼ばれ。


神に導かれ。


意味を知らぬまま、紡がされた言葉。


けれど、今は違う。


この先へ進むために、猿田毘古の力が必要だと分かっている。


その神がどのような役目を持ち、どのような心で自分へ力を貸してくれたのかも知っている。


そして、迎えるということは、身体を明け渡すことではない。


自分の意思を失うことでもない。


神と共に立ち、同じ道を、互いの意思で歩くこと。


瑞稀は、静かに息を吸った。


そして、もう一度、その名を呼ぶ。


「猿田毘古様。」


胸の奥で、懐かしい気配が静かに応えた。


瑞稀は、崖の向こうをまっすぐに見つめる。


今度は、誰かに導かれたからではない。


何も知らぬまま、言葉を紡ぐのでもない。


自らの意思で、その御魂を迎えるために。


瑞稀は、静かに目を閉じた。


「――謹んで、お迎えいたします。」


その瞬間、足元へ淡い光が広がった。


幾重にも重なる、古い文字。


流れる筆で綴られた祝詞のような文字が、瑞稀を囲むように静かに巡り始める。


初めて見た時と、同じ光景。


けれど、あの時とは違う。


今の瑞稀には、そこへ込められた意味が分かった。


――迎えよ。


神を、その力だけではなく、その心ごと。


自らの意思で、迎え入れよ。


――穢れを祓え。


誰かを傷つけるためではない。


道を阻むものへ、本来あるべき姿を思い出させるために。


――光を照らせ。


暗闇を消し去るためではない。


進むべき道を、見失わぬために。


言葉ではない。


文字でもない。


祈りそのものが、今度は瑞稀の心から神へ向けて流れていく。


足元の光が、大きく広がった。


白銀の髪が、黄泉の闇の中で柔らかく揺れる。


琥珀色の瞳の奥へ、懐かしい黄金の光が灯った。


世界から、音が消えた。



気づくと、瑞稀は白い鳥居の前へ立っていた。


黄泉の闇は、どこにもない。


足元には、黄金色に輝く石畳が、まっすぐに伸びている。


周囲には、白い霧のような光が静かに漂っていた。


遠くから、神楽鈴の音が聞こえる。


見覚えがある。


初めて神を迎えた時、何も分からぬまま、猿田毘古と向き合った場所。


神と人との境。


猿田毘古の和魂が待つ、心の内側の世界。


「……あの時の場所。」


瑞稀が、呟く。


『ああ。』


穏やかな声が、前方から響いた。


石畳の先に、一柱の神が立っている。


白い狩衣。


一つに結ばれた、長い黒髪。


永い時を歩いてきた者だけが持つ、静かな眼差し。


猿田毘古は、初めてこの場所で出会った時と変わらぬ姿で、瑞稀を見つめていた。


『よく来た。』


「はい。」


瑞稀は、深く頭を下げる。


「猿田毘古様。」


『顔を上げよ。』


瑞稀は、静かに顔を上げた。


猿田毘古は、どこか眩しいものを見るように目を細めている。


『随分と、遠くまで歩いたものだ。』


「皆様が、お力を貸してくださいました。」


『それだけか。』


猿田毘古の問いに、瑞稀は一瞬、言葉を止めた。


『我らが力を貸したから、お前はここまで来られたのか。』


「……いいえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振る。


「力を貸していただいたことは、確かです。」


「ですが、何を見るのか。」


「誰の言葉を聞くのか。」


「どの道を選ぶのか。」


瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。


「それを決めてきたのは、私自身です。」


猿田毘古は、しばらく瑞稀を見つめていた。


やがて、満足そうに頷く。


『よくぞ、そう申した。』


石畳の脇を流れる光が、喜ぶように柔らかく揺れた。


『初めて会った時、お前は我が何者かも、なぜ神を迎えるのかも、何一つ知らなかった。』


「はい。」


『それでも、我の手を取った。』


「不思議と、怖くはありませんでした。」


瑞稀は、あの日の感覚を思い返す。


「なぜか、信じてもよいと思えたのです。」


猿田毘古は、穏やかに微笑んだ。


『我は、導きの神。』


『だが、導くことと、代わりに歩くことは違う。』


瑞稀は、静かにその言葉を聞く。


『我が示せるのは、道の在り処だけだ。』


『その道へ足を踏み出すか。』


『途中で立ち止まるか。』


『別の道を選ぶか。』


猿田毘古は、瑞稀をまっすぐに見つめる。


『それを決めるのは、いつでもお前自身だ。』


「はい。」


瑞稀は、迷わず頷いた。


「今なら、その意味が分かります。」


『ならば。』


猿田毘古は、静かに問いかける。


『お前自身は、何を望んで我を迎えた。』


瑞稀は、黄泉の崖を思い浮かべた。


向こう岸へ続く道。


けれど、そこへ渡るための道はどこにもなかった。


「黄泉路を、先へ進むためです。」


一度、言葉を置く。


「そして。」


瑞稀は、猿田毘古をまっすぐに見つめた。


「自分の意思で、あなたの力をお借りしたいと思ったからです。」


猿田毘古の瞳が、僅かに揺れる。


その表情には、驚きと喜びが静かに滲んでいた。


『……そうか。』


短い言葉だった。


けれど、その声は、初めて会った時よりもずっと近く感じられた。


猿田毘古は瑞稀の前へ立つと、静かに片手を差し出す。


最初に契りを結んだ時と、同じように。


けれど今回は、神の力を受け取るためではない。


『瑞稀。』


「はい。」


『我は、お前から預かっていたものがある。』


瑞稀の胸が、微かに痛んだ。


知っていた。


神を迎えるたび。


御霊を還すたび。


自分は、大切な何かを神々へ預けてきた。


けれど、最初に猿田毘古へ何を預けたのか。


それだけは、今も分からない。


瑞稀は、静かに尋ねた。


「あなたは何を預かっているのでしょうか。」


猿田毘古は、すぐには答えなかった。


差し出した手を下ろさぬまま、どこか遠くを見るように目を細める。


『お前が、まだ幼かった頃。』


辺りの光が、静かに形を変え始めた。


白い霧が集まり、黄金の石畳が薄れていく。


代わりに現れたのは、見覚えのある境内だった。


今よりも、少し新しい社殿。


夏の終わりを告げるような、蝉の声。


祭事のあとらしく、境内の隅には、片づけられていない神具が並んでいる。


その中に、一人の小さな少女がいた。


白い装束。


長い黒髪。


膝を抱え、社殿の裏へ隠れるように座っている。


肩が、小さく震えていた。


「……この子は。」


瑞稀が、息を呑む。


顔は見えない。


けれど、分かる。


あれは、幼い頃の自分だ。


少女の袖には、僅かに泥がついていた。


神事で使う器の一つが、足元へ転がっている。


ひびが、入っていた。


『神事の最中、お前は一つの器を落とした。』


猿田毘古の声が、隣から響く。


『忠司は、人前でこそ声を荒らげはしなかったが。』


『二度と同じ過ちをせぬようにと、厳しくお前を叱った。』


小さな少女は、声を出さずに泣いている。


誰にも見つからぬように、袖で何度も目元を拭っていた。


泣いてはいけないと。


叱られたことを、さらに叱られないようにと。


必死に、涙を隠している。


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


苦しい。


見ているだけなのに、まるで今の自分が叱られたように、胸の奥へ悔しさが込み上げてくる。


「私は。」


瑞稀の声が、震える。


「泣いていたのですね。」


『ああ。』


猿田毘古は、静かに答えた。


『悔しかった。』


『失敗したことも。』


『父に、認めてもらえなかったと思ったことも。』


『何より、泣いてしまう自分が、役目へ相応しくないと思ったことも。』


足音が、聞こえた。


幼い瑞稀が、慌てて顔を上げる。


社殿の陰から、一人の女性が現れた。


長い黒髪。


白い衣。


柔らかな眼差し。


瑞稀の隣にいる母よりも、少し若い。


それでも、一目で分かった。


「母様。」


母は、泣いている少女を見つけると、何も言わずに、その前へ膝をついた。


少女は、泣いていることを知られたくないように顔を背ける。


けれど母は、その小さな身体をそっと抱き締めた。


幼い瑞稀の身体が、大きく震える。


「申し訳、ありません。」


小さな声。


「失敗して。」


「父様にも、叱られて。」


「泣いてしまって。」


「申し訳、ありません。」


母は、少女の背をゆっくりと撫でた。


「どうして、謝るの。」


幼い瑞稀は、答えられない。


「泣いてもいいのよ。」


母の声が、境内へ優しく落ちる。


「頑張った証拠なんだから。」


瑞稀の胸の奥で、何かが弾けた。


知っている。


この声を。


この温もりを。


母の腕へ包まれた時の、安心を。


けれど今まで、思い出すことができなかった。


幼い瑞稀は、母の胸元へ顔を埋める。


それまで必死に堪えていた泣き声が、ようやく小さく零れた。


「悔しかったね。」


母は、何度も少女の背を撫でる。


「失敗したくなかったのよね。」


「父様に、褒めてほしかったのよね。」


幼い瑞稀が、母の衣を強く掴んだ。


「はい。」


「はい……。」


母は、少女が泣き止むまで、ずっとその身体を抱き締めていた。


景色が、少しずつ白い光へ溶けていく。


「待ってください。」


瑞稀は、反射的に手を伸ばす。


「もう少し。」


「もう少しだけ。」


けれど、幼い自分も。


母の姿も。


夏の境内も。


光の中へ消えていった。


再び、白い鳥居と黄金の石畳が戻ってくる。


瑞稀は、伸ばした手を下ろすことができなかった。


胸の奥が、苦しい。


けれど、その苦しさが、どこか懐かしかった。


「これが。」


瑞稀は、掠れた声で尋ねる。


「これが預けられた記憶なのですね。」


『ああ。』


猿田毘古が、静かに頷いた。


『悔しいという心。』


『泣いてもよいと、母に教えられた記憶。』


『抱き締められた温もり。』


『我は、それらを預かっていた。』


瑞稀は、自分の両手を見つめる。


失ったのではない。


夢で、猿田毘古が告げた言葉。


――案ずるな。


――失われるのではない。


――我らが、預かるだけだ。


当時は、その意味が分からなかった。


何を預けるのかも。


なぜ、預けなければならないのかも。


けれど猿田毘古は、あの日からずっと、この記憶を守っていた。


「……なぜ。」


瑞稀の口から、かすかな声が零れる。


猿田毘古は、黙ってその続きを待っていた。


「なぜ、預けなければならなかったのですか。」


声は、静かだった。


けれど、胸の奥には、先ほど戻り始めた悔しさが確かにあった。


「この記憶を失わなければ。」


「私は、母様に抱き締めていただいたことを、ずっと覚えていられたのではないですか。」


猿田毘古は、すぐには答えなかった。


やがて、穏やかな眼差しのまま告げる。


『ああ。』


『預からなければ、お前は覚えていたであろう。』


猿田毘古は、静かに続ける。


『だが、あの頃のお前は。』


『すでに、その記憶を心の奥深くへしまい込んでいたのではないか。』


瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。


『泣かぬように。』


『甘えぬように。』


『役目を果たす者であろうとして。』


『母に抱き締められた温もりさえ。』


『思い出せぬほど、深く。』


瑞稀は、何も答えられなかった。


思い当たるものがあった。


失敗しても。


苦しくても。


悲しくても。


それを口にすることは、弱さだと思っていた。


父に認められるために。


器として、相応しくあるために。


自分の中にある柔らかなものを、少しずつ見えない場所へ押し込めてきた。


『我が預からずとも。』


猿田毘古は、瑞稀をまっすぐに見つめる。


『お前は、あの温もりを思い出せぬまま歩いていたかもしれぬ。』


「では。」


瑞稀は、掠れた声で尋ねた。


「あなたは。」


「消えてしまわないように、預かってくださったのですか。」


『ああ。』


『差し出されたものを、失われたままにせぬために。』


『いつか、お前自身が、それを受け取れる時が来るまで。』


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


忘れたことが正しかったとは、思えない。


母の温もりを知らずに過ごした年月が、なくなるわけでもない。


けれど、あの記憶は奪われたのではなかった。


自分でも届かない場所へ閉じ込めていたものを、猿田毘古は消えぬように守っていた。


「……私は。」


瑞稀は、静かに息を吐く。


「まだ、よかったとは思えません。」


『それでよい。』


猿田毘古は、穏やかに答えた。


『失った年月まで、肯定する必要はない。』


『ただ。』


『今はもう。』


『お前が自ら、その記憶へ手を伸ばせる。』


瑞稀は、しばらく俯いていた。


やがて、ゆっくりと顔を上げる。


「では。」


「お返しください。」


「私が、失ったままにしないために。」


猿田毘古の瞳が、優しく細められた。


『ああ。』


『確かに、お返ししよう。』


光が、弾けた。


胸の奥へ、温かなものが流れ込んでくる。


最初に戻ったのは、悔しさだった。


失敗したくなかった。


もっと、上手にできると思っていた。


父に、褒めてほしかった。


よくできたと、一言言ってほしかった。


その願いが叶わなかったことが、幼い自分は、こんなにも悲しかった。


次に、母の温もりが戻る。


背へ回された腕。


頭を撫でる手。


衣越しに聞こえた、静かな鼓動。


泣いてもよいと。


頑張ったことは、失敗したからといって消えないのだと、教えてくれた声。


瑞稀は、胸元を押さえた。


喉の奥が、熱い。


目の奥が、痛む。


これまで何度も、悲しいと思った。


苦しいと思った。


けれど、その感情を、どう表せばよいのか分からなかった。


今は、分かる。


泣きたい。


そう思った。


瑞稀の瞳へ、涙が浮かぶ。


一筋、頬を伝った。


瑞稀は、その涙を拭わなかった。


まだ、すべてを取り戻したわけではない。


心の中には、多くの空白が残っている。


それでも、泣いてもよいのだと知った記憶は、確かに瑞稀のもとへ戻っていた。


「母様は。」


瑞稀は、静かに呟く。


「私を、このように抱き締めてくださったのですね。」


『ああ。』


猿田毘古が、頷いた。


『何度も。』


瑞稀は、顔を上げる。


「何度も。」


『お前が覚えておらぬだけで、母はいつもお前を見ていた。』


その名が、胸の奥へ落ちる。


母。


今度は先ほどよりも、少しだけ目の前にいる母へ近い音として感じられた。


完全に思い出したわけではない。


けれど、あの温もりをくれた人の名。


そう思うだけで、胸の奥が温かくなる。


「母。」


瑞稀は、その名を静かに繰り返した。


「母様。」


猿田毘古は、何も言わず、穏やかに微笑んでいる。


やがて、周囲の光がゆっくりと揺れ始めた。


黄泉へ戻る時が近い。


瑞稀は、猿田毘古を見つめる。


「猿田毘古様。」


『何だ。』


「一つ、教えてください。」


「この先にも、神々へ預けた記憶が待っているのでしょうか。」


猿田毘古は、一度目を閉じる。


『ああ。』


『お前が歩いてきた道の先に、我らはそれぞれ待っている。』


「では、この黄泉路は。」


瑞稀は、黄金の石畳を見る。


「私が歩いてきた道を、もう一度辿るためのものなのですね。」


『同じ道ではない。』


猿田毘古が、静かに告げた。


『かつて、お前は神へ近づくために歩いた。』


『今度は、人へ還るために歩くのだ。』


瑞稀の瞳が、僅かに揺れた。


神へ近づくための道。


人へ還るための道。


同じ神々と、同じ契りを辿りながら。


進む方向は、まるで反対だった。


「私は。」


瑞稀は、胸へ手を添える。


「人へ、還ることができるのでしょうか。」


猿田毘古は、すぐには答えなかった。


やがて、静かに手を伸ばし、瑞稀の頭へ触れる。


神の手は、温かかった。


『その答えも、我が決めるものではない。』


「……はい。」


『だが。』


猿田毘古は、瑞稀の瞳をまっすぐに見る。


『お前はすでに、自らの意思でその道を選び始めている。』


『ならば、我は導こう。』


『お前が選んだ道を。』


猿田毘古が、瑞稀の頭から手を離す。


その瞬間、瑞稀の右手へ懐かしい重みが現れた。


一振りの長槍。


幾度も握り。


幾度も道を切り開いてきた、猿田毘古の槍。


けれど今、その槍から感じる力は、以前とは違っていた。


神から、ただ借りたものではない。


神と共に歩むために、瑞稀自身が選び取ったもの。


そのように感じられた。


『行け。』


猿田毘古が、石畳の先を示す。


『道は、最初からあるものではない。』


『必要とする者が、自ら開くものだ。』


瑞稀は、槍を胸元へ抱き、深く頭を下げた。


「ありがとうございます。」


「行って参ります。」


『ああ。』


猿田毘古は、穏やかに微笑む。


『今度は、お前が皆を導け。』


白い光が、視界を包み込んだ。



「瑞稀!」


声が、聞こえる。


瑞稀は、ゆっくりと目を開いた。


目の前には、黄泉の断崖。


隣には、心配そうに自分を見つめる少年と少女。


母。


そして、少彦名神。


ほんの一瞬だったのか。


それとも、長い時間が流れていたのか。


分からない。


けれど瑞稀の右手には、確かに槍が握られていた。


穂先から、淡い黄金の光が零れている。


「その槍。」


少女が、目を見開いた。


「猿田毘古様の。」


「はい。」


瑞稀は、静かに頷いた。


少年が、瑞稀の顔を見つめる。


「お前、泣いてたのか。」


瑞稀は、自分の目元へ触れた。


指先が、僅かに濡れる。


「……はい。」


今までなら、咄嗟に否定していたかもしれない。


けれど瑞稀は、その涙を隠さなかった。


「大切なことを、思い出しました。」


母が、瑞稀を見つめている。


その瞳が、僅かに揺れていた。


瑞稀は、母の顔をまっすぐに見る。


「母様。」


母の唇が、小さく開いた。


「瑞稀。」


「私。」


瑞稀は、胸元へ手を添える。


「母様に、幼い頃抱き締めていただいたことがあったのですね。」


母の瞳から、涙が零れた。


それでも、母は笑っている。


「はい。」


「ありました。」


「何度も。」


猿田毘古と、同じ言葉。


それが、瑞稀の胸へ優しく届いた。


母は瑞稀へ手を伸ばしかけたが、一瞬、迷うように止める。


瑞稀はその手を取り、自分から母の胸元へ僅かに身体を寄せた。


驚いたように、母の腕が止まる。


やがて、その腕が瑞稀の背へ回された。


記憶の中と同じ、温かな腕。


瑞稀は、目を閉じた。


「……温かいです。」


母の肩が、震える。


「はい。」


「ずっと、こうして差し上げたかった。」


長い時間ではなかった。


瑞稀は、ゆっくりと母から離れる。


胸の奥には、確かな温もりが残っていた。


少年と少女は、何も言わずにその様子を見守っている。


少彦名神も、いつものような軽口を挟まなかった。


瑞稀は、再び崖へ向き直る。


向こう岸は、遠い。


道はない。


けれど、もうどうすればよいのか分かっていた。


瑞稀は槍を両手で持ち、石突きを乾いた地面へ向ける。


猿田毘古の声が、胸の奥で響いた。


――道は、必要とする者が自ら開くもの。


瑞稀は、槍を地面へ立てた。


――コン。


決して、大きな音ではなかった。


けれどその音は、黄泉の底まで届いたように、深く、静かに響いた。


槍の石突きから、黄金の光が広がる。


足元へ、再び淡く輝く文字が浮かび上がった。


――迎えよ。


――穢れを祓え。


――光を照らせ。


文字は、瑞稀の周囲を巡るだけではなかった。


一文字ずつ、崖の先へ流れていく。


闇の上へ、光の文字が浮かぶ。


一つ。


また一つ。


祈りが重なり、文字が石畳へ形を変えていった。


黄金の道。


かつて、荒魂を高天原へ還すために開いた道。


今は、神を救うため、黄泉の奥へ進む道として、瑞稀たちの前へ現れていた。


少女が、息を呑む。


「道が。」


少年も、黄金の石畳を黙って見つめている。


少彦名神が、満足そうに小さく頷いた。


『導きの神らしい。』


瑞稀は、槍を地面から抜く。


すると、役目を終えたかのように、槍が光へ還った。


けれど、黄金の道は消えない。


崖の向こうへ、まっすぐに続いている。


「参りましょう。」


瑞稀は、振り返った。


母へ。


少女へ。


少年へ。


少彦名神へ。


「今度は、私が先を歩きます。」


黄金の道へ、最初の一歩を踏み出す。


少年が、僅かに目を見開いた。


それから、何かを受け入れるように小さく息を吐く。


「ああ。」


少女も、明るく頷いた。


「頼りにしてる。」


母は涙を拭い、穏やかに微笑む。


「はい。」


「お願いいたします。」


瑞稀は、黄金の道を歩き始めた。


足元の光が、一歩ごとに静かに揺れる。


かつて、猿田毘古に導かれ、初めて神の世界へ踏み込んだ少女は。


今、自らの意思で神を迎え。


自ら道を開き。


大切な者たちを導いている。


黄泉の闇の中を。


最初の記憶と。


最初の涙を、取り戻しながら。


瑞稀は、さらに深い場所へ静かに歩みを進めた。

第四十四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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