第四十四話 「最初の道」
第四十四話 「最初の道」
黄泉へ続く裂け目を前に、天照が静かに口を開いた。
『そなたたちは、先に行け。』
瑞稀は、振り返る。
「天照様方は。」
『我らも、後から参る。』
天照は、開かれた天岩戸と、高天原へ満ち始めた光を見渡した。
『長く御魂が分かたれていたことで、この地の神威も大きく乱れておる。』
『このまま黄泉へ下れば、せっかく戻り始めた均衡を、再び崩しかねぬ。』
月読が、静かに頷く。
『ここを整え次第、我らも後を追います。』
須佐之男は、黄泉へ続く裂け目を見つめたあと、瑞稀へ視線を向けた。
『先に行っていろ。』
『母上のところまでは、必ず追いつく。』
瑞稀は、三柱を見つめた。
「分かりました。」
深く頭を下げる。
「お待ちしております。」
『ああ。』
天照が、穏やかに頷いた。
『また、向こうで会おう。』
◇
裂け目をくぐった先にあったのは、冷たく、重い闇だった。
天岩戸を閉ざしていた闇とも違う。
あの場所には、まだ光を拒む者の心があった。
悲しみも。
恐れも。
誰かに気づいてほしいという、かすかな願いも。
けれど、ここには何もない。
生きているものの息遣いも。
風が木々を揺らす音も。
土の下を這う、小さな虫の気配さえなかった。
「……ここが。」
瑞稀は、静かに辺りを見渡す。
「黄泉なのですね。」
足元には、乾ききった土が続いていた。
見上げても、空はない。
頭上にも、左右にも、果ての見えない暗闇が広がっているだけだった。
遠くで、何かが滴るような音がした。
一度。
それきり、再び深い静寂が戻る。
「気をつけろ。」
少年が、低い声で告げた。
須佐之男から預かった太刀を手に、瑞稀より半歩前へ出る。
以前なら、その背に守られるまま、後ろへ下がっていたかもしれない。
けれど瑞稀は、少年の隣へ並んだ。
「私も、周囲を見ます。」
少年が、僅かに視線を向ける。
何か言おうとしたようだったが、結局何も言わずに前へ向き直った。
母が、瑞稀の手をそっと握る。
「この先に。」
母は、暗闇の奥を見つめた。
「伊邪那美様が、いらっしゃいます。」
「どれほど先におられるのでしょうか。」
「分かりません。」
母は、静かに首を横へ振る。
「黄泉は、生者のために作られた場所ではありません。」
「道が、私たちの知る形をしているとも限りません。」
少女の肩へ立った少彦名神が、鋭い目で周囲を見渡した。
『朱莉の言うとおりだ。』
少彦名神は少女の肩から飛び降りると、乾いた土を小さな足で踏み締める。
『黄泉の気配が、揺れておる。』
「揺れているって?」
少女が、不安そうに聞き返した。
『我らがここへ入ったことで、眠っていたものが目を覚まし始めている。』
少年が、太刀を握る手へ力を込める。
「敵が来るのか。」
『分からぬ。』
少彦名神は、暗闇の奥へ目を細めた。
『ここで形を得るものが、必ずしも神や死者とは限らぬ。』
『黄泉へ沈んだ悲しみ。』
『果たされなかった願い。』
『忘れ去られた声。』
『そのようなものが、道を阻むこともあろう。』
瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。
そこには、天照から預かった日の光が、今も静かに宿っている。
けれど、この闇の中では、その温もりさえ遠く感じられた。
「進みましょう。」
瑞稀が、告げる。
母が、僅かに目を見開いた。
「瑞稀。」
「ここで立ち止まっていても、伊邪那美様へはお会いできません。」
瑞稀は、闇の先を見つめる。
少年が瑞稀の横顔を見て、少女も小さく息を吸った。
やがて少女が、いつもの明るさを取り戻そうとするように頷く。
「うん。」
「行こう。」
「一人じゃないんだから。」
その言葉に、瑞稀の胸の奥が僅かに温かくなった。
名は、失った。
それでも、少女が自分を一人にしないために笑っていることは分かる。
四人と一柱は、光のない黄泉路をゆっくりと歩き始めた。
◇
どれほど進んだのか、瑞稀には分からなかった。
黄泉には、時を測るものがない。
空の色は変わらず。
風も吹かず。
足元の景色さえ、ほとんど変わらない。
ただ、歩くほどに身体へ纏わりつく冷気が、少しずつ重くなっていった。
「……まだ、続くのか。」
少年が、低く呟く。
疲労を口にしたわけではない。
それでも、その呼吸が僅かに深くなっている。
母の足取りも、最初より少し重くなっていた。
十年もの間、天照の荒魂を抱えていた身体だ。
解放されたとはいえ、すぐにすべてが元へ戻るわけではない。
瑞稀は、母の歩調へ合わせるように足を緩めた。
母が、それに気づいて微笑む。
「大丈夫ですよ。」
「ですが。」
「今度は、私があなたについていく番です。」
母は、瑞稀の手を握り直した。
瑞稀は、その横顔を見つめる。
遠い記憶の中でも、この人は同じように笑っていた気がする。
けれど、どのような場所だったのか。
何を言われたのか。
何も、思い出せない。
その時だった。
先頭を歩いていた少年が、突然足を止めた。
瑞稀も、すぐに歩みを止める。
「どうしました。」
少年は、答えなかった。
ただ、目の前を険しい顔で見つめている。
瑞稀も、その視線を追った。
道が、途切れていた。
断崖。
足元の土は、まるで大きな刃で切り落とされたように、そこで終わっている。
崖の下には、底の見えない闇が広がっていた。
覗き込んでも、何も見えない。
石を落とせば、音さえ返ってこないだろう。
遥か向こう側には、こちらと同じような崖が続いている。
道は、そこから先へ伸びていた。
けれど、二つの崖をつなぐものは何もない。
橋も。
足場も。
飛び移れるほどの距離でもなかった。
「……こんなの。」
少女が、崖の向こうを見つめる。
「どうやって渡るの。」
少年は、周囲へ視線を巡らせた。
「別の道を探す。」
「そうですね。」
瑞稀も、頷く。
「一度、戻りましょう。」
けれど、振り返った瞬間、全員の足が止まった。
今まで歩いてきたはずの道が、消えている。
背後にあるのは、崖と同じ、果てのない闇だけだった。
「閉じ込められたのか。」
少年が、太刀を構える。
青白い神気が、刃を伝った。
「下がってろ。」
少年は一歩前へ出ると、太刀を大きく振り下ろした。
青白い斬撃が、闇を切り裂く。
一瞬、暗闇の中へ細い亀裂が走った。
けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように闇が閉じてしまう。
「駄目か。」
少年が、僅かに舌打ちした。
『黄泉そのものを斬ろうとしても、無駄だ。』
少彦名神が、低く告げる。
『これは、壁ではない。』
『理そのものだ。』
「理。」
瑞稀は、崖の向こうを見つめた。
道がない。
だから、渡れない。
それだけのことが、絶対に覆せない決まりとして黄泉の中へ存在している。
「飛ぶことは。」
少女が、薬玉へ触れた。
『無理だ。』
少彦名神は、すぐに答える。
『生者の身体で、この闇の上へ身を晒せば、下へ引かれる。』
『もし、一度落ちれば――』
言葉が途切れた。
その続きを、誰も尋ねなかった。
母は、崖の端へ近づきすぎないよう、瑞稀の腕を引く。
「何か、方法があるはずです。」
けれど、周囲には何もない。
道を作るための材料も。
橋を架けられるほど長い木もない。
少年が持つ太刀も。
少女の薬玉も。
少彦名神の力も。
この場では、答えにならなかった。
沈黙が落ちる。
黄泉の闇は、まるで彼らが諦めるのを待っているようだった。
その時、瑞稀の胸の奥で、何かが微かに揺れた。
温かい。
けれど、天照から預かった日の光とは違う。
もっと古く。
もっと懐かしい。
初めて神の力を迎えた時に感じたもの。
耳の奥で、澄んだ鈴の音が鳴った。
――シャン。
瑞稀は、顔を上げる。
「……今。」
「瑞稀?」
母が、瑞稀を見つめた。
もう一度、鈴の音が響く。
――シャン。
今度は、その音へ重なるように、穏やかな声が瑞稀の心へ届いた。
――我を呼べ。
瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。
聞き覚えのある声。
穏やかで。
どこか懐かしく。
最初に、自分へ道を示してくれた神。
「猿田毘古様。」
瑞稀が、静かにその名を呼ぶ。
少年が、瑞稀へ振り返った。
母も、少女も、少彦名神も、黙って瑞稀を見つめている。
――我を呼べ。
声が、もう一度響いた。
――今度は。
――お前自身の意思で。
瑞稀は、自分の胸元へ手を添える。
初めて神を迎えた日。
あの時の自分は、何が起きているのかさえ分かっていなかった。
足元へ浮かんだ文字も。
心へ響いた祈りも。
差し出された手の意味も知らないまま。
ただ、自分の口が勝手に動くのを感じていた。
――謹んで、お迎えいたします。
あれは、本当に自分の言葉だったのだろうか。
神に呼ばれ。
神に導かれ。
意味を知らぬまま、紡がされた言葉。
けれど、今は違う。
この先へ進むために、猿田毘古の力が必要だと分かっている。
その神がどのような役目を持ち、どのような心で自分へ力を貸してくれたのかも知っている。
そして、迎えるということは、身体を明け渡すことではない。
自分の意思を失うことでもない。
神と共に立ち、同じ道を、互いの意思で歩くこと。
瑞稀は、静かに息を吸った。
そして、もう一度、その名を呼ぶ。
「猿田毘古様。」
胸の奥で、懐かしい気配が静かに応えた。
瑞稀は、崖の向こうをまっすぐに見つめる。
今度は、誰かに導かれたからではない。
何も知らぬまま、言葉を紡ぐのでもない。
自らの意思で、その御魂を迎えるために。
瑞稀は、静かに目を閉じた。
「――謹んで、お迎えいたします。」
その瞬間、足元へ淡い光が広がった。
幾重にも重なる、古い文字。
流れる筆で綴られた祝詞のような文字が、瑞稀を囲むように静かに巡り始める。
初めて見た時と、同じ光景。
けれど、あの時とは違う。
今の瑞稀には、そこへ込められた意味が分かった。
――迎えよ。
神を、その力だけではなく、その心ごと。
自らの意思で、迎え入れよ。
――穢れを祓え。
誰かを傷つけるためではない。
道を阻むものへ、本来あるべき姿を思い出させるために。
――光を照らせ。
暗闇を消し去るためではない。
進むべき道を、見失わぬために。
言葉ではない。
文字でもない。
祈りそのものが、今度は瑞稀の心から神へ向けて流れていく。
足元の光が、大きく広がった。
白銀の髪が、黄泉の闇の中で柔らかく揺れる。
琥珀色の瞳の奥へ、懐かしい黄金の光が灯った。
世界から、音が消えた。
◇
気づくと、瑞稀は白い鳥居の前へ立っていた。
黄泉の闇は、どこにもない。
足元には、黄金色に輝く石畳が、まっすぐに伸びている。
周囲には、白い霧のような光が静かに漂っていた。
遠くから、神楽鈴の音が聞こえる。
見覚えがある。
初めて神を迎えた時、何も分からぬまま、猿田毘古と向き合った場所。
神と人との境。
猿田毘古の和魂が待つ、心の内側の世界。
「……あの時の場所。」
瑞稀が、呟く。
『ああ。』
穏やかな声が、前方から響いた。
石畳の先に、一柱の神が立っている。
白い狩衣。
一つに結ばれた、長い黒髪。
永い時を歩いてきた者だけが持つ、静かな眼差し。
猿田毘古は、初めてこの場所で出会った時と変わらぬ姿で、瑞稀を見つめていた。
『よく来た。』
「はい。」
瑞稀は、深く頭を下げる。
「猿田毘古様。」
『顔を上げよ。』
瑞稀は、静かに顔を上げた。
猿田毘古は、どこか眩しいものを見るように目を細めている。
『随分と、遠くまで歩いたものだ。』
「皆様が、お力を貸してくださいました。」
『それだけか。』
猿田毘古の問いに、瑞稀は一瞬、言葉を止めた。
『我らが力を貸したから、お前はここまで来られたのか。』
「……いいえ。」
瑞稀は、静かに首を横へ振る。
「力を貸していただいたことは、確かです。」
「ですが、何を見るのか。」
「誰の言葉を聞くのか。」
「どの道を選ぶのか。」
瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。
「それを決めてきたのは、私自身です。」
猿田毘古は、しばらく瑞稀を見つめていた。
やがて、満足そうに頷く。
『よくぞ、そう申した。』
石畳の脇を流れる光が、喜ぶように柔らかく揺れた。
『初めて会った時、お前は我が何者かも、なぜ神を迎えるのかも、何一つ知らなかった。』
「はい。」
『それでも、我の手を取った。』
「不思議と、怖くはありませんでした。」
瑞稀は、あの日の感覚を思い返す。
「なぜか、信じてもよいと思えたのです。」
猿田毘古は、穏やかに微笑んだ。
『我は、導きの神。』
『だが、導くことと、代わりに歩くことは違う。』
瑞稀は、静かにその言葉を聞く。
『我が示せるのは、道の在り処だけだ。』
『その道へ足を踏み出すか。』
『途中で立ち止まるか。』
『別の道を選ぶか。』
猿田毘古は、瑞稀をまっすぐに見つめる。
『それを決めるのは、いつでもお前自身だ。』
「はい。」
瑞稀は、迷わず頷いた。
「今なら、その意味が分かります。」
『ならば。』
猿田毘古は、静かに問いかける。
『お前自身は、何を望んで我を迎えた。』
瑞稀は、黄泉の崖を思い浮かべた。
向こう岸へ続く道。
けれど、そこへ渡るための道はどこにもなかった。
「黄泉路を、先へ進むためです。」
一度、言葉を置く。
「そして。」
瑞稀は、猿田毘古をまっすぐに見つめた。
「自分の意思で、あなたの力をお借りしたいと思ったからです。」
猿田毘古の瞳が、僅かに揺れる。
その表情には、驚きと喜びが静かに滲んでいた。
『……そうか。』
短い言葉だった。
けれど、その声は、初めて会った時よりもずっと近く感じられた。
猿田毘古は瑞稀の前へ立つと、静かに片手を差し出す。
最初に契りを結んだ時と、同じように。
けれど今回は、神の力を受け取るためではない。
『瑞稀。』
「はい。」
『我は、お前から預かっていたものがある。』
瑞稀の胸が、微かに痛んだ。
知っていた。
神を迎えるたび。
御霊を還すたび。
自分は、大切な何かを神々へ預けてきた。
けれど、最初に猿田毘古へ何を預けたのか。
それだけは、今も分からない。
瑞稀は、静かに尋ねた。
「あなたは何を預かっているのでしょうか。」
猿田毘古は、すぐには答えなかった。
差し出した手を下ろさぬまま、どこか遠くを見るように目を細める。
『お前が、まだ幼かった頃。』
辺りの光が、静かに形を変え始めた。
白い霧が集まり、黄金の石畳が薄れていく。
代わりに現れたのは、見覚えのある境内だった。
今よりも、少し新しい社殿。
夏の終わりを告げるような、蝉の声。
祭事のあとらしく、境内の隅には、片づけられていない神具が並んでいる。
その中に、一人の小さな少女がいた。
白い装束。
長い黒髪。
膝を抱え、社殿の裏へ隠れるように座っている。
肩が、小さく震えていた。
「……この子は。」
瑞稀が、息を呑む。
顔は見えない。
けれど、分かる。
あれは、幼い頃の自分だ。
少女の袖には、僅かに泥がついていた。
神事で使う器の一つが、足元へ転がっている。
ひびが、入っていた。
『神事の最中、お前は一つの器を落とした。』
猿田毘古の声が、隣から響く。
『忠司は、人前でこそ声を荒らげはしなかったが。』
『二度と同じ過ちをせぬようにと、厳しくお前を叱った。』
小さな少女は、声を出さずに泣いている。
誰にも見つからぬように、袖で何度も目元を拭っていた。
泣いてはいけないと。
叱られたことを、さらに叱られないようにと。
必死に、涙を隠している。
瑞稀は、胸元へ手を添えた。
苦しい。
見ているだけなのに、まるで今の自分が叱られたように、胸の奥へ悔しさが込み上げてくる。
「私は。」
瑞稀の声が、震える。
「泣いていたのですね。」
『ああ。』
猿田毘古は、静かに答えた。
『悔しかった。』
『失敗したことも。』
『父に、認めてもらえなかったと思ったことも。』
『何より、泣いてしまう自分が、役目へ相応しくないと思ったことも。』
足音が、聞こえた。
幼い瑞稀が、慌てて顔を上げる。
社殿の陰から、一人の女性が現れた。
長い黒髪。
白い衣。
柔らかな眼差し。
瑞稀の隣にいる母よりも、少し若い。
それでも、一目で分かった。
「母様。」
母は、泣いている少女を見つけると、何も言わずに、その前へ膝をついた。
少女は、泣いていることを知られたくないように顔を背ける。
けれど母は、その小さな身体をそっと抱き締めた。
幼い瑞稀の身体が、大きく震える。
「申し訳、ありません。」
小さな声。
「失敗して。」
「父様にも、叱られて。」
「泣いてしまって。」
「申し訳、ありません。」
母は、少女の背をゆっくりと撫でた。
「どうして、謝るの。」
幼い瑞稀は、答えられない。
「泣いてもいいのよ。」
母の声が、境内へ優しく落ちる。
「頑張った証拠なんだから。」
瑞稀の胸の奥で、何かが弾けた。
知っている。
この声を。
この温もりを。
母の腕へ包まれた時の、安心を。
けれど今まで、思い出すことができなかった。
幼い瑞稀は、母の胸元へ顔を埋める。
それまで必死に堪えていた泣き声が、ようやく小さく零れた。
「悔しかったね。」
母は、何度も少女の背を撫でる。
「失敗したくなかったのよね。」
「父様に、褒めてほしかったのよね。」
幼い瑞稀が、母の衣を強く掴んだ。
「はい。」
「はい……。」
母は、少女が泣き止むまで、ずっとその身体を抱き締めていた。
景色が、少しずつ白い光へ溶けていく。
「待ってください。」
瑞稀は、反射的に手を伸ばす。
「もう少し。」
「もう少しだけ。」
けれど、幼い自分も。
母の姿も。
夏の境内も。
光の中へ消えていった。
再び、白い鳥居と黄金の石畳が戻ってくる。
瑞稀は、伸ばした手を下ろすことができなかった。
胸の奥が、苦しい。
けれど、その苦しさが、どこか懐かしかった。
「これが。」
瑞稀は、掠れた声で尋ねる。
「これが預けられた記憶なのですね。」
『ああ。』
猿田毘古が、静かに頷いた。
『悔しいという心。』
『泣いてもよいと、母に教えられた記憶。』
『抱き締められた温もり。』
『我は、それらを預かっていた。』
瑞稀は、自分の両手を見つめる。
失ったのではない。
夢で、猿田毘古が告げた言葉。
――案ずるな。
――失われるのではない。
――我らが、預かるだけだ。
当時は、その意味が分からなかった。
何を預けるのかも。
なぜ、預けなければならないのかも。
けれど猿田毘古は、あの日からずっと、この記憶を守っていた。
「……なぜ。」
瑞稀の口から、かすかな声が零れる。
猿田毘古は、黙ってその続きを待っていた。
「なぜ、預けなければならなかったのですか。」
声は、静かだった。
けれど、胸の奥には、先ほど戻り始めた悔しさが確かにあった。
「この記憶を失わなければ。」
「私は、母様に抱き締めていただいたことを、ずっと覚えていられたのではないですか。」
猿田毘古は、すぐには答えなかった。
やがて、穏やかな眼差しのまま告げる。
『ああ。』
『預からなければ、お前は覚えていたであろう。』
猿田毘古は、静かに続ける。
『だが、あの頃のお前は。』
『すでに、その記憶を心の奥深くへしまい込んでいたのではないか。』
瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。
『泣かぬように。』
『甘えぬように。』
『役目を果たす者であろうとして。』
『母に抱き締められた温もりさえ。』
『思い出せぬほど、深く。』
瑞稀は、何も答えられなかった。
思い当たるものがあった。
失敗しても。
苦しくても。
悲しくても。
それを口にすることは、弱さだと思っていた。
父に認められるために。
器として、相応しくあるために。
自分の中にある柔らかなものを、少しずつ見えない場所へ押し込めてきた。
『我が預からずとも。』
猿田毘古は、瑞稀をまっすぐに見つめる。
『お前は、あの温もりを思い出せぬまま歩いていたかもしれぬ。』
「では。」
瑞稀は、掠れた声で尋ねた。
「あなたは。」
「消えてしまわないように、預かってくださったのですか。」
『ああ。』
『差し出されたものを、失われたままにせぬために。』
『いつか、お前自身が、それを受け取れる時が来るまで。』
瑞稀は、胸元へ手を添えた。
忘れたことが正しかったとは、思えない。
母の温もりを知らずに過ごした年月が、なくなるわけでもない。
けれど、あの記憶は奪われたのではなかった。
自分でも届かない場所へ閉じ込めていたものを、猿田毘古は消えぬように守っていた。
「……私は。」
瑞稀は、静かに息を吐く。
「まだ、よかったとは思えません。」
『それでよい。』
猿田毘古は、穏やかに答えた。
『失った年月まで、肯定する必要はない。』
『ただ。』
『今はもう。』
『お前が自ら、その記憶へ手を伸ばせる。』
瑞稀は、しばらく俯いていた。
やがて、ゆっくりと顔を上げる。
「では。」
「お返しください。」
「私が、失ったままにしないために。」
猿田毘古の瞳が、優しく細められた。
『ああ。』
『確かに、お返ししよう。』
光が、弾けた。
胸の奥へ、温かなものが流れ込んでくる。
最初に戻ったのは、悔しさだった。
失敗したくなかった。
もっと、上手にできると思っていた。
父に、褒めてほしかった。
よくできたと、一言言ってほしかった。
その願いが叶わなかったことが、幼い自分は、こんなにも悲しかった。
次に、母の温もりが戻る。
背へ回された腕。
頭を撫でる手。
衣越しに聞こえた、静かな鼓動。
泣いてもよいと。
頑張ったことは、失敗したからといって消えないのだと、教えてくれた声。
瑞稀は、胸元を押さえた。
喉の奥が、熱い。
目の奥が、痛む。
これまで何度も、悲しいと思った。
苦しいと思った。
けれど、その感情を、どう表せばよいのか分からなかった。
今は、分かる。
泣きたい。
そう思った。
瑞稀の瞳へ、涙が浮かぶ。
一筋、頬を伝った。
瑞稀は、その涙を拭わなかった。
まだ、すべてを取り戻したわけではない。
心の中には、多くの空白が残っている。
それでも、泣いてもよいのだと知った記憶は、確かに瑞稀のもとへ戻っていた。
「母様は。」
瑞稀は、静かに呟く。
「私を、このように抱き締めてくださったのですね。」
『ああ。』
猿田毘古が、頷いた。
『何度も。』
瑞稀は、顔を上げる。
「何度も。」
『お前が覚えておらぬだけで、母はいつもお前を見ていた。』
その名が、胸の奥へ落ちる。
母。
今度は先ほどよりも、少しだけ目の前にいる母へ近い音として感じられた。
完全に思い出したわけではない。
けれど、あの温もりをくれた人の名。
そう思うだけで、胸の奥が温かくなる。
「母。」
瑞稀は、その名を静かに繰り返した。
「母様。」
猿田毘古は、何も言わず、穏やかに微笑んでいる。
やがて、周囲の光がゆっくりと揺れ始めた。
黄泉へ戻る時が近い。
瑞稀は、猿田毘古を見つめる。
「猿田毘古様。」
『何だ。』
「一つ、教えてください。」
「この先にも、神々へ預けた記憶が待っているのでしょうか。」
猿田毘古は、一度目を閉じる。
『ああ。』
『お前が歩いてきた道の先に、我らはそれぞれ待っている。』
「では、この黄泉路は。」
瑞稀は、黄金の石畳を見る。
「私が歩いてきた道を、もう一度辿るためのものなのですね。」
『同じ道ではない。』
猿田毘古が、静かに告げた。
『かつて、お前は神へ近づくために歩いた。』
『今度は、人へ還るために歩くのだ。』
瑞稀の瞳が、僅かに揺れた。
神へ近づくための道。
人へ還るための道。
同じ神々と、同じ契りを辿りながら。
進む方向は、まるで反対だった。
「私は。」
瑞稀は、胸へ手を添える。
「人へ、還ることができるのでしょうか。」
猿田毘古は、すぐには答えなかった。
やがて、静かに手を伸ばし、瑞稀の頭へ触れる。
神の手は、温かかった。
『その答えも、我が決めるものではない。』
「……はい。」
『だが。』
猿田毘古は、瑞稀の瞳をまっすぐに見る。
『お前はすでに、自らの意思でその道を選び始めている。』
『ならば、我は導こう。』
『お前が選んだ道を。』
猿田毘古が、瑞稀の頭から手を離す。
その瞬間、瑞稀の右手へ懐かしい重みが現れた。
一振りの長槍。
幾度も握り。
幾度も道を切り開いてきた、猿田毘古の槍。
けれど今、その槍から感じる力は、以前とは違っていた。
神から、ただ借りたものではない。
神と共に歩むために、瑞稀自身が選び取ったもの。
そのように感じられた。
『行け。』
猿田毘古が、石畳の先を示す。
『道は、最初からあるものではない。』
『必要とする者が、自ら開くものだ。』
瑞稀は、槍を胸元へ抱き、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
「行って参ります。」
『ああ。』
猿田毘古は、穏やかに微笑む。
『今度は、お前が皆を導け。』
白い光が、視界を包み込んだ。
◇
「瑞稀!」
声が、聞こえる。
瑞稀は、ゆっくりと目を開いた。
目の前には、黄泉の断崖。
隣には、心配そうに自分を見つめる少年と少女。
母。
そして、少彦名神。
ほんの一瞬だったのか。
それとも、長い時間が流れていたのか。
分からない。
けれど瑞稀の右手には、確かに槍が握られていた。
穂先から、淡い黄金の光が零れている。
「その槍。」
少女が、目を見開いた。
「猿田毘古様の。」
「はい。」
瑞稀は、静かに頷いた。
少年が、瑞稀の顔を見つめる。
「お前、泣いてたのか。」
瑞稀は、自分の目元へ触れた。
指先が、僅かに濡れる。
「……はい。」
今までなら、咄嗟に否定していたかもしれない。
けれど瑞稀は、その涙を隠さなかった。
「大切なことを、思い出しました。」
母が、瑞稀を見つめている。
その瞳が、僅かに揺れていた。
瑞稀は、母の顔をまっすぐに見る。
「母様。」
母の唇が、小さく開いた。
「瑞稀。」
「私。」
瑞稀は、胸元へ手を添える。
「母様に、幼い頃抱き締めていただいたことがあったのですね。」
母の瞳から、涙が零れた。
それでも、母は笑っている。
「はい。」
「ありました。」
「何度も。」
猿田毘古と、同じ言葉。
それが、瑞稀の胸へ優しく届いた。
母は瑞稀へ手を伸ばしかけたが、一瞬、迷うように止める。
瑞稀はその手を取り、自分から母の胸元へ僅かに身体を寄せた。
驚いたように、母の腕が止まる。
やがて、その腕が瑞稀の背へ回された。
記憶の中と同じ、温かな腕。
瑞稀は、目を閉じた。
「……温かいです。」
母の肩が、震える。
「はい。」
「ずっと、こうして差し上げたかった。」
長い時間ではなかった。
瑞稀は、ゆっくりと母から離れる。
胸の奥には、確かな温もりが残っていた。
少年と少女は、何も言わずにその様子を見守っている。
少彦名神も、いつものような軽口を挟まなかった。
瑞稀は、再び崖へ向き直る。
向こう岸は、遠い。
道はない。
けれど、もうどうすればよいのか分かっていた。
瑞稀は槍を両手で持ち、石突きを乾いた地面へ向ける。
猿田毘古の声が、胸の奥で響いた。
――道は、必要とする者が自ら開くもの。
瑞稀は、槍を地面へ立てた。
――コン。
決して、大きな音ではなかった。
けれどその音は、黄泉の底まで届いたように、深く、静かに響いた。
槍の石突きから、黄金の光が広がる。
足元へ、再び淡く輝く文字が浮かび上がった。
――迎えよ。
――穢れを祓え。
――光を照らせ。
文字は、瑞稀の周囲を巡るだけではなかった。
一文字ずつ、崖の先へ流れていく。
闇の上へ、光の文字が浮かぶ。
一つ。
また一つ。
祈りが重なり、文字が石畳へ形を変えていった。
黄金の道。
かつて、荒魂を高天原へ還すために開いた道。
今は、神を救うため、黄泉の奥へ進む道として、瑞稀たちの前へ現れていた。
少女が、息を呑む。
「道が。」
少年も、黄金の石畳を黙って見つめている。
少彦名神が、満足そうに小さく頷いた。
『導きの神らしい。』
瑞稀は、槍を地面から抜く。
すると、役目を終えたかのように、槍が光へ還った。
けれど、黄金の道は消えない。
崖の向こうへ、まっすぐに続いている。
「参りましょう。」
瑞稀は、振り返った。
母へ。
少女へ。
少年へ。
少彦名神へ。
「今度は、私が先を歩きます。」
黄金の道へ、最初の一歩を踏み出す。
少年が、僅かに目を見開いた。
それから、何かを受け入れるように小さく息を吐く。
「ああ。」
少女も、明るく頷いた。
「頼りにしてる。」
母は涙を拭い、穏やかに微笑む。
「はい。」
「お願いいたします。」
瑞稀は、黄金の道を歩き始めた。
足元の光が、一歩ごとに静かに揺れる。
かつて、猿田毘古に導かれ、初めて神の世界へ踏み込んだ少女は。
今、自らの意思で神を迎え。
自ら道を開き。
大切な者たちを導いている。
黄泉の闇の中を。
最初の記憶と。
最初の涙を、取り戻しながら。
瑞稀は、さらに深い場所へ静かに歩みを進めた。
第四十四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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