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第四十三話 「岩戸の向こう」

第四十三話 「岩戸の向こう」


天岩戸は、今も固く閉ざされていた。


けれど、先ほどまでとは明らかに違う。


岩戸の隙間から漏れる光が、僅かに強くなっている。


細く、頼りない。


それでも確かに、闇の中へ届こうとしていた。


瑞稀は、母の手を握ったまま岩戸を見上げる。


白銀の髪が、隙間から漏れる光を受けて淡く輝いた。


その髪も、琥珀色へ変わった瞳も、もう元の姿へ戻る気配はなかった。


岩戸の前には、天照の荒魂が立っている。


母の身体から離れ、一柱の神として姿を取り戻した荒魂は、先ほどから一度もその場を動いていなかった。


ただ、岩戸の隙間から漏れる細い光を見つめている。


その時、光が僅かに揺れた。


荒魂の瞳が動く。


けれど、岩戸の向こうから声は聞こえない。


荒魂もまた、何も言わなかった。


同じ神の二つの御魂が、僅かな岩戸一枚を隔てたまま、互いへ声をかけることさえできずにいる。


『どちらも、恐れておられるのであろう。』


少女の肩に立った少彦名神(すくなびこな)が、静かに告げる。


「どちらも、ですか。」


『ああ。』


少彦名神は、岩戸の前に立つ荒魂へ視線を向けた。


『荒魂は、再び拒まれることを。』


そして、その視線を閉ざされた岩戸へ移す。


『和魂は、自らが切り離した御心を、もう一度受け入れることを。』


瑞稀は、荒魂を見る。


先ほどまで、母を手放せば何も残らないと訴えていた御魂。


和魂のもとへ戻りたいと、涙を流した御魂。


ここまで来ても、その足は岩戸へ向かわない。


「荒魂は、あの方が切り離した怒りや悲しみです。」


母が、静かに口を開いた。


「照らせなかった者たちへの後悔も、ご自分を責め続けた心も。」


母は、胸元へ手を添える。


そこにはもう、天照の荒魂の気配はない。


けれど、十年もの間その御魂を抱えていた痕跡は、頬へ残る一本の傷とともに、その身体へ刻まれている。


「和魂が荒魂を受け入れるということは、それらをもう一度、ご自分の心として受け止めるということです。」


「それだけではありません。」


母は、岩戸の隙間から漏れる光へ目を細めた。


「再び外へ出れば、また皆を照らさなければならないと、そう思っておられるのでしょう。」


「もう一度。」


「今度こそ、誰も取りこぼさぬようにと。」


瑞稀は、閉ざされた岩戸を見つめた。


天照(あまてらす)の和魂は、光である責任から逃げようとしているのではない。


むしろ、もう二度と、誰かを照らせない自分でありたくないからこそ、外へ出ることを恐れている。


「力ずくで開けることは、できないのですか。」


少年が、低い声で尋ねた。


母は、静かに首を横へ振る。


「たとえ戸を開けられたとしても、あの方ご自身が外へ出ることを望まれなければ、意味がありません。」


少年は、それ以上何も言わなかった。


ただ、閉ざされた岩戸を険しい目で見つめている。


その傍らで、荒魂もまた黙って岩戸を見上げていた。


少しして、隣にいた少女が、小さく息を吸った。


「……ねえ、瑞稀。」


呼びかける声は、いつもと同じだった。


けれど、次の瞬間。


少女の口元へ、悪戯を思いついた子どものような笑みが浮かぶ。


その髪が、淡い桜色を帯びていった。


『そんなに深刻な顔で戸の前へ並ばれても、天照様だって、ますます出てきづらくなるでしょう?』


瑞稀は、僅かに目を見開いた。


天鈿女命(あめのうずめのみこと)様。」


『正解。』


天鈿女命は、少女の身体を借りたまま楽しそうに笑った。


『久しぶりね、巫女さん。』


「お久しぶりでございます。」


瑞稀が頭を下げると、天鈿女命は大げさに肩を落とした。


『もう。相変わらず堅いんだから。』


『せっかく会えたのに、頭を下げて終わりだなんて寂しいじゃない。』


その明るい声が、重く沈んでいた闇へ広がっていく。


岩戸の隙間から漏れる光が、ほんの僅かに揺れた。


同時に、その前に立つ荒魂も僅かに顔を上げる。


天鈿女命は、それを見逃さなかった。


『ほら。』


『ちゃんと、聞いておられる。』


「天照様が……。」


『ええ。』


天鈿女命は、閉ざされた岩戸を見上げた。


その表情へ、懐かしむような色が浮かぶ。


『昔も、こうして岩戸の前へ集まったものよ。』


『力自慢の神々が戸を叩き、知恵のある神が策を練り、皆でどうすれば天照様に戻ってきていただけるのか考えた。』


天鈿女命は、少女の両腕をゆっくりと広げる。


『けれど、暗い顔を並べて、戻ってきてくださいと泣いてばかりでは、戸の中にいる方まで悲しくなってしまうでしょう?』


「それで、舞を。」


『そう。』


天鈿女命は、にこりと笑う。


『光が消えたのなら、こちらから楽しそうな音を届ければいい。』


『戸の向こうで、少しだけ外を見てみたいと思っていただけるように。』


少女の手元へ、淡い光が集まった。


光は神楽鈴となり、掌の中へ収まる。


天鈿女命が、手首を返した。


――シャン。


澄んだ音が、闇の奥まで広がる。


重く澱んでいた空気が、音に押されるように揺れた。


天鈿女命は、一歩、岩戸の前へ進み出る。


『さあ。』


少女の身体が、軽やかに翻った。


『今度は、隠れた光を無理に連れ出すためではなく。』


『帰りたいと思える場所が、まだここにあると伝えるために。』


もう一度、鈴が鳴る。


――シャン。


その音を合図に、天鈿女命は舞い始めた。


しなやかに伸びる腕。


軽やかに運ばれる足。


優雅でありながら、どこか自由で。


決められた型の中にも、今にも笑い出しそうな明るさがある。


少女自身の快活さと、天鈿女命の華やかさが重なり、その舞は神へ捧げるものというよりも、共に楽しもうと手を差し出すような舞に見えた。


母が、静かに息を吸う。


「私も。」


瑞稀が振り返る。


母は、少し照れたように笑った。


「昔、あなたへ歌って聞かせた神楽歌があります。」


「私に……。」


「ええ。」


「まだ、あなたがとても幼かった頃に。」


瑞稀には、その光景を思い出すことができなかった。


母の腕に抱かれたことも。


その歌声を聞きながら眠りへ落ちた夜も。


形のある記憶としては、何も残っていない。


けれど、母が歌い始めると、胸の奥へ温かなものが広がった。


言葉の意味は分からない。


旋律を覚えているわけでもない。


それでも、身体のどこかが、その声を知っていた。


瑞稀は、思わず胸元へ手を添える。


隣では、少年が黙って舞を見つめていた。


こうした賑やかな場へ、自分から加わる姿は想像しにくい。


それでも少年は、しばらく舞と歌へ耳を傾けたあと、一度だけ両手を打ち鳴らした。


乾いた音が、闇へ響く。


もう一度。


今度は、天鈿女命の足運びへ合わせて。


決して器用ではない。


僅かに拍子もずれている。


けれど少年は、眉間へ皺を寄せたまま、真剣に手を打ち続けた。


その不器用な手拍子が、母の歌声と天鈿女命の鈴へ重なっていく。


「……ふふっ。」


瑞稀の口から、思わず笑いが漏れた。


少年が、手を止める。


「何だ。」


「いえ。」


瑞稀は、口元へ手を添えた。


「申し訳ありません。」


「謝るなら、笑うな。」


そう言いながらも、少年の表情も僅かに緩んでいた。


『よいではないか。』


少彦名神が、少女の肩から飛び降りる。


『宴に、上手いも下手もあるまい。』


小さな身体が、ふらりと揺れた。


『それに、薬より笑いが効く時もある。』


天鈿女命が、舞いながら声を弾ませる。


『それ、私が言おうと思っていたのに。』


『先に言った者勝ちだ。』


『なら、言った責任を取って、あなたも踊ってくださる?』


『なぜ、そうなる。』


『ほら、早く。』


『断る。』


そう言いながら、少彦名神は歌声へ合わせるように、小さな足を動かした。


右へ一歩。


左へ一歩。


やがて、くるりと一回転する。


その動きは、舞というにはあまりに不格好だった。


少女の身体を借りた天鈿女命が、声を上げて笑う。


母の歌声にも、笑いが混じった。


少年の手拍子も、先ほどより少しだけ軽くなる。


瑞稀も、もう笑いを堪えなかった。


闇の中へ、歌が、鈴が、手拍子が、そして笑い声が広がっていく。


荒魂は、その輪へ加わることなく、少し離れた場所から静かに見つめていた。


けれど、その表情からは、先ほどまでの刺すような険しさが消えている。


閉ざされた岩戸の隙間から漏れる光が、大きく揺れた。


やがて、戸の向こうから微かな声が響く。


『……何を。』


それは、とても小さな声だった。


けれど確かに、岩戸の内側から届いている。


『何を、騒いでいる。』


天鈿女命は、舞を止めなかった。


『聞こえていらっしゃるのでしょう?』


『でしたら、少しくらい覗いてくださってもよいではありませんか。』


『……その手には乗らぬ。』


『あら。昔は、見事に乗ってくださったのに。』


『昔とは違う。』


声へ、僅かな苛立ちが混じった。


けれど、その苛立ちは拒絶というよりも、久しぶりに親しい者から揶揄われた者のようにも聞こえた。


天鈿女命は、満足そうに笑う。


『そうですか。』


『昔とは、違うのですね。』


鈴を鳴らしながら、静かに舞を収める。


『ならば、昔と同じように騙して、戸を開けさせる必要もありません。』


『今の天照様には、今の天照様ご自身に、外へ出ることを選んでいただけばよい。』


歌が止まった。


手拍子も止む。


静寂が戻る。


けれど、先ほどまでの重い沈黙とは違う。


今そこにあるのは、戸の内と外が、互いの言葉を待つための静けさだった。


瑞稀は、一歩、岩戸へ近づく。


「天照様。」


『……。』


「あなたの荒魂は、ここにおられます。」


岩戸の向こうで、光が揺れる。


荒魂は、僅かに顔を上げた。


『……あれは。』


声が、微かに震える。


『我が、捨てたものだ。』


「いいえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振る。


「捨てられたのではありません。」


「あなたが、抱えきれなかった御心です。」


『同じことだ。』


『我は、自らの怒りも、悲しみも、誰かを憎む心さえも、光には相応しくないと切り離した。』


一度、声が途切れる。


『その御魂は、長く封じられていた。』


『だが、封印はやがて綻び。』


岩戸の向こうの光が、僅かに翳る。


『現世へ溢れた我が荒魂は、神卸の器として生まれたそなたへ流れ込もうとした。』


瑞稀の瞳が揺れる。


『それを。』


天照の声が、苦しげに沈んだ。


『そなたの母が、自らの身へ引き受けた。』


母の指が、僅かに震える。


けれど、何も言わない。


ただ、瑞稀の隣へ立っている。


『我が御心でありながら、それを受け入れることができず、切り離したことが。』


『一人の人間へ十年もの苦しみを背負わせ。』


『その娘にまで、役目と代償を負わせた。』


瑞稀の白銀の髪が、岩戸の隙間から漏れる光を受けて揺れる。


『そなたの姿も。』


『失われた記憶も。』


『すべて、その果てにある。』


『……我が始めたことだ。』


瑞稀は、すぐには答えなかった。


天照へ、罪ではないと告げることは簡単だった。


誰も恨んでいないと。


すべて仕方のないことだったと。


けれど、それでは母が耐えた十年も、自分が失った記憶も、月読と須佐之男が抱えてきた痛みも、なかったことになってしまう。


瑞稀は、静かに息を吸った。


「あなたによって、傷ついたものは確かにあります。」


岩戸の向こうが、静まり返る。


「母様も。」


月読(つくよみ)様も。」


須佐之男(すさのお)様も。」


「そして、私も。」


瑞稀は、自分の白銀の髪へ触れた。


母が、瑞稀を見つめる。


少年と少女も、黙ってその言葉を聞いていた。


「失ったものは、戻りません。」


「苦しかった時間も、なかったことにはできません。」


『ならば。』


天照の声が、苦しげに歪む。


『やはり、我が戻るべき場所など。』


「ですが。」


瑞稀は、はっきりと言葉を重ねた。


「傷ついたことと、もう一度あなたに会いたいと思うことは、同時にあってもよいのだと思います。」


長い沈黙が落ちた。


岩戸の隙間から漏れる光が、微かに震えている。


瑞稀は、一度荒魂を見る。


そして、静かに一歩退いた。


「荒魂様は――」


言いかけて、言葉を止める。


これは、自分が代わりに伝えることではない。


荒魂自身が、伝えなければならない。


瑞稀の視線を受け、荒魂が閉ざされた岩戸へ向き直る。


長い間、何も言えなかった。


やがて。


『……我は。』


掠れた声が、闇へ落ちる。


岩戸の隙間から漏れる光が、僅かに揺れた。


『戻りたい。』


瑞稀の胸が、強く鳴った。


荒魂は、震える声で続ける。


『もう一度、そなたと一つへ戻りたい。』


『だが。』


一度、唇を噛むように言葉が途切れた。


『また拒まれることが、怖い。』


『我が、そなたにとって不要なものだと言われることが。』


長い沈黙。


そして。


『……我も、怖い。』


岩戸の中から、和魂の声が返った。


荒魂の瞳が、大きく揺れる。


『そなたを受け入れれば。』


和魂の声は、今にも消えそうだった。


『我は、また怒るかもしれぬ。』


『誰かを恨むかもしれぬ。』


『悲しみに沈み、光を失うかもしれぬ。』


荒魂は、それを黙って聞いていた。


『そなたを見るたび。』


『我が光ではないものまで、すべて我自身であると思い知らされる。』


『だから、怖かった。』


『だから、切り離した。』


荒魂の表情が、歪む。


『……では。』


『我は、捨てられたのではなかったのか。』


岩戸の向こうから、すぐには答えが返らなかった。


やがて、震える声が響く。


『捨てたのではない。』


『我自身から、逃げたのだ。』


荒魂の瞳から、一筋の光が零れた。


けれど、二つの御魂の間には、まだ岩戸がある。


戻りたいと願っても。


怖いと認めても。


それだけでは、その距離を埋めることはできなかった。


瑞稀は、閉ざされた岩戸を見つめる。


「天照様。」


『……。』


「お二方とも、同じことを恐れておられたのですね。」


返事はない。


「拒まれることも。」


「受け入れることで、また傷つくことも。」


瑞稀は、ゆっくりと続ける。


「ですが、お二方とも、もう独りでいることを望んではおられません。」


岩戸の向こうから、小さく息を呑む音が聞こえた。


その時、遠くから淡い光が差し込んだ。


闇の中へ、静かな月明かりが広がっていく。


『姉上。』


低く、穏やかな声が響く。


岩戸の隙間から漏れる光が、激しく揺れた。


荒魂も、その声へ振り返る。


『月読か。』


『はい。』


月明かりの中へ、一柱の神の姿が浮かび上がった。


白銀の髪。


静かな眼差し。


以前に見た時よりも、その姿には確かな光が宿っている。


月読は、閉ざされた岩戸をまっすぐに見つめた。


『私は、傷つきました。』


天照は、何も答えない。


『姉上の光へ届かなかったことを。』


『自らが、姉上に必要とされぬ存在なのだと思い続けたことを。』


『今さら、何もなかったことにはできません。』


岩戸の向こうで、小さく息を呑む音がした。


『けれど。』


月読は、静かに続ける。


『私はもう、自らの光を、姉上の光が届かぬ場所に生まれた影だとは思いません。』


『私は、私の光で夜を照らします。』


月読の光が、闇の中へ静かに満ちていく。


『だから、姉上も。』


『私を照らせなかったことを、罪にしないでください。』


『私はもう、姉上に照らされずとも、ここに立つことができます。』


『月読。』


岩戸の向こうから届いた声が、涙に濡れたように震えた。


その時、別の方向から荒々しい風が吹き抜ける。


月明かりの隣へ、青白い神気が集まっていった。


『姉上。』


低く、野太い声。


岩戸の奥から、今度ははっきりと動揺が伝わる。


『須佐之男か。』


『ああ。』


青白い光の中へ、長い髪を風に揺らす大柄な神の姿が浮かび上がる。


須佐之男は腕を組み、閉ざされた岩戸を睨むように見つめた。


『先に言っておく。』


『俺は、腹が立っている。』


月読が、僅かに目を細める。


天鈿女命は、少女の身体で楽しそうに笑った。


『勝手に岩戸へ隠れ。』


『勝手に全部、自分の罪にして。』


『誰にも何も言わせぬまま、一人で終わろうとした。』


須佐之男の声には、隠すことのない怒りがあった。


『俺は、傷ついた。』


『月読も。』


『そこにいる者たちも。』


『皆、姉上の選んだことに巻き込まれた。』


岩戸の向こうから、微かな声が返る。


『……すまぬ。』


須佐之男は、すぐには答えなかった。


やがて腕を解き、静かに息を吐く。


『謝れば、全部が消えるとは思わん。』


『俺も、今すぐすべてを許せるとは言わん。』


『だが。』


須佐之男は、岩戸へ一歩近づいた。


『それでも俺は、もう一度姉上に会いたい。』


『顔を見て、言うべきことを言って。』


『言われるべきことも、全部聞きたい。』


低い声が、静かな闇へ響く。


『腹を立てたままでも。』


『傷ついたままでも。』


『それでも、また共に在ることはできる。』


須佐之男は、岩戸をまっすぐに見つめる。


『それでは、足りぬか。』


長い沈黙が落ちた。


岩戸の向こうから、押し殺すような泣き声が聞こえる。


それは、光を失った世界を見ても泣かなかった神が。


誰にも弱さを見せまいとした姉が。


ようやく零した、小さな嗚咽だった。


『我は。』


声が震える。


『そなたたちに、見限られたのだと思っていた。』


『それでよいと。』


『それが、我への罰なのだと。』


「天照様。」


瑞稀は、静かに岩戸へ手を伸ばした。


触れることはできない。


冷たい岩の表面との間には、まだ距離がある。


それでも、掌をまっすぐに差し出す。


「お二人は、あなたを許すためだけに、ここへ来られたのではありません。」


「あなたと、もう一度共に在ることを、ご自分の意思で選ぶために来られたのです。」


『選ぶ……。』


「はい。」


瑞稀は、頷いた。


「私も、これからの人生を、私自身の意思で選びたいと思っています。」


岩戸の向こうが、静かになる。


「私は、神卸の器として生まれました。」


「あなたのために。」


「母様をお助けするために。」


「荒魂を還すために。」


「その役目を、背負ってきました。」


瑞稀は、白銀の髪を一房、指先で掬う。


「そのために、失ったものもあります。」


少年の名を思い出そうとする。


けれど、やはり何も浮かばなかった。


大切な人だという思いだけを残し、その人を呼ぶための音が綺麗に抜け落ちている。


「怖くないわけではありません。」


「次に何を失うのか。」


「この姿が、どこまで変わっていくのか。」


「私にも、分かりません。」


母が、瑞稀の手を強く握った。


「それでも。」


瑞稀は、閉ざされた岩戸へ向き直る。


「ここまで来たことを、誰かに命じられたからだとは思いたくありません。」


「母様をお助けすると決めたのも。」


「荒魂の声を聞くと決めたのも。」


「ここにいる方々と、共に歩むと決めたのも。」


「すべて、私自身の選択です。」


瑞稀は、はっきりと告げた。


「ですから、天照様。」


一度、息を吸う。


「これからの私の生き方を、私の知らないところで決めないでください。」


闇が、静まり返った。


母の瞳から、涙が零れる。


須佐之男は、僅かに目を見開き、月読はどこか優しげに瑞稀を見つめていた。


岩戸の向こうから、長い沈黙のあと、小さな笑い声が聞こえる。


泣きながら、それでも確かに笑う声だった。


『……朱莉と。』


天照が、掠れた声で呟く。


『同じことを言うのだな。』


瑞稀は、隣の母を見る。


母も、驚いたように目を見開いていた。


『十年前。』


『朱莉も、我へ言った。』


『あの子の人生を、あの子の知らぬ場所で決めないでください、と。』


母が、静かに目を伏せる。


「はい。」


『我は、あの時も聞くことができなかった。』


『皆を守るためだと。』


『正しい道を選んでいるのだと、己へ言い聞かせ。』


『朱莉の言葉も。』


『そなたの人生も。』


『我が勝手に、決めてしまった。』


岩戸の隙間から漏れる光が、次第に強くなっていく。


『瑞稀。』


「はい。」


『すまなかった。』


瑞稀は、すぐには答えなかった。


許す。


許さない。


そのどちらかを、今すぐ選ぶ必要はない。


木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が教えてくれた。


謝罪を受け取ることと、傷が消えることは同じではない。


瑞稀は、静かに頭を下げた。


「そのお言葉を、確かにお受けいたします。」


『……それだけで、よいのか。』


「はい。」


瑞稀は、顔を上げる。


「私が何を思うのか、これからゆっくりと考えます。」


「それも、私自身で選びたいのです。」


岩戸の向こうから、今度は穏やかな笑い声が返ってきた。


『そうか。』


一度、深く息を吸う気配がする。


『ならば。』


『我も、自ら選ばねばならぬな。』


岩戸の隙間から漏れる光が、一際強く輝いた。


荒魂が、僅かに息を呑む。


その時、闇の奥から大きな足音が聞こえた。


一歩。


また一歩。


大地そのものが震えるような音とともに、大柄な神が岩戸の前へ姿を現す。


逞しい腕。


山のような体躯。


その姿を見て、母が深く頭を下げた。


天手力男神あめのたぢからおのかみ様。」


天手力男神は、閉ざされた岩戸を見上げた。


『長く、待った。』


太い腕を、岩戸へかける。


けれど、すぐに力を込めることはなかった。


『昔は。』


低い声が、静かに響く。


『そなたが僅かに戸を開けたところを、我が力任せに引き開けた。』


岩戸の向こうから、和魂の声が返る。


『覚えている。』


『今度は。』


天手力男神は、岩戸へ手を添えたまま告げる。


『無理に引きずり出しはせぬ。』


『そなたが、自ら外へ出ると決めたのなら。』


『その時だけ、我が力を貸そう。』


長い沈黙。


やがて、岩戸の向こうから静かな声が届いた。


『……頼む。』


天手力男神の口元が、僅かに緩む。


『承知した。』


内側から、和魂が岩戸を押す。


外側から、天手力男神がその重みを支えた。


轟音。


天岩戸が、ゆっくりと動き始める。


岩と岩が擦れ合う音が、高天原全体へ響き渡った。


隙間が、少しずつ広がっていく。


細かった光が帯となり、やがて闇の中へ溢れ出した。


瑞稀は、眩しさに目を細める。


少年が、反射的に僅かに前へ出る。


母が、瑞稀の手を離さぬまま涙を流している。


少女の身体を借りた天鈿女命は、鈴を胸元へ寄せ、静かに岩戸を見つめていた。


そして。


完全に開かれた岩戸の向こうに、一柱の女神が立っていた。


柔らかな白金の光。


すべてを包むような、温かな神威。


けれど、その表情には、まだ深い怯えが残っている。


和魂は、すぐには外へ出なかった。


その視線は、岩戸の前に立つ、もう一人の自分へ向けられていた。


荒魂も、動かない。


白く灼けつくような強い光を纏いながら、ただ和魂を見つめている。


同じ顔。


同じ神威。


けれど、一方は触れるものを優しく包み。


もう一方は、触れるものを焼き尽くしかねないほど激しい。


長い間切り離されていた、同じ神の二つの御心。


荒魂が、一歩を踏み出した。


和魂の身体が、僅かに強張る。


荒魂は、それを見てすぐに足を止めた。


『……まだ、怖いか。』


和魂は、答えなかった。


荒魂は、自嘲するように目を伏せる。


『そうであろうな。』


『我は、怒りだ。』


『悲しみだ。』


『そなたが、光には要らぬと切り離したものだ。』


『違う。』


和魂が、初めて強く声を上げた。


荒魂の瞳が揺れる。


『違うのだ。』


和魂は、震える手を胸元へ添えた。


『要らなかったのではない。』


『怖かった。』


『怒る自分が。』


『誰かを憎む自分が。』


『光でありながら、すべてを照らすことのできぬ自分が。』


声が震える。


『そなたを見れば、それらすべてが我自身であると認めなければならなかった。』


荒魂は、黙ってその言葉を聞いている。


『だから、逃げた。』


『そなたからではない。』


『我自身から。』


荒魂の表情が歪む。


『ならば。』


一度、声が詰まる。


『今も、我が怖いか。』


和魂は、すぐには答えなかった。


やがて、静かに頷く。


『怖い。』


荒魂の瞳が伏せられる。


けれど、和魂は続けた。


『それでも。』


一歩。


岩戸の外へ、足を踏み出す。


『もう、逃げぬ。』


荒魂が、顔を上げた。


和魂は、もう一歩近づく。


『怒りも。』


『悲しみも。』


『誰かを恨んだ心も。』


荒魂との距離が、少しずつ縮まっていく。


『すべて、我だ。』


荒魂の瞳から、一筋の光が零れた。


『我も。』


震える手が、和魂へ伸びる。


『もう、独りで在りたくない。』


和魂も、手を伸ばした。


二つの手が触れる。


その瞬間。


白金の光と、白く灼けつく光が大きく膨れ上がった。


少年が、反射的に瑞稀の前へ出ようとする。


けれど、瑞稀はその腕へそっと触れた。


「大丈夫です。」


少年が、瑞稀を見る。


「天照様は。」


瑞稀は、二つの光を見つめたまま続ける。


「ご自分の御心を、取り戻そうとしておられます。」


二つの光は、互いを消さなかった。


柔らかな光が、荒ぶる光を呑み込むこともない。


荒ぶる光が、柔らかな光を焼き尽くすこともない。


怒りは、怒りのまま。


悲しみは、悲しみのまま。


慈しみも。


喜びも。


そのすべてが、一柱の神の中へ静かに重なっていく。


やがて、二つの姿が一つになった。


眩い。


けれど、ただ温かいだけではない。


触れれば焼かれるような強さと、夜明けのような優しさ。


その両方を宿した、完全な日の光。


光が、ゆっくりと収まっていく。


そこに立っていたのは、一柱の女神だった。


長く、輝く髪。


白と金の衣。


その瞳には、光の神としての慈愛だけでなく、深い悲しみと、抑えきれない怒りと、それらすべてを自らのものとして受け入れた者だけが持つ静かな強さが宿っている。


天照は、ゆっくりと目を開いた。


久しぶりに触れた外の世界を見渡し、眩しそうに目を細める。


『……眩しいな。』


その呟きに、須佐之男が鼻で笑った。


『自分の光だろうが。』


天照が、須佐之男を見る。


須佐之男も、まっすぐに姉を見つめ返した。


しばらく、どちらも何も言わなかった。


やがて、天照の唇が僅かに震える。


『須佐之男。』


『ああ。』


『……すまなかった。』


須佐之男は、すぐには答えなかった。


腕を組んだまま、僅かに視線を逸らす。


『その話は、これからいくらでも聞く。』


天照の瞳が、大きく揺れた。


『一度で済むと思うなよ。』


『俺も、言いたいことは山ほどある。』


『……ああ。』


天照は、泣きながら微笑んだ。


『聞こう。』


その視線が、月読へ向く。


『月読。』


月読は、静かに頭を下げた。


けれど、以前のように姉の光へ隠れるような姿ではなかった。


自らの月光を纏い、一柱の神として、そこへ立っている。


『よく。』


天照の声が震える。


『戻ってきてくれた。』


月読は、僅かに微笑んだ。


『姉上も。』


『よく、お戻りになられました。』


天照の目から、再び涙が零れる。


三柱の間に、長い時を隔てた沈黙が落ちた。


それは、すべてが解けたことを意味する沈黙ではなかった。


傷は、残っている。


言わなければならないことも。


聞かなければならない言葉も。


これから、いくらでもある。


それでも。


三柱は、再び同じ場所へ立っていた。


天照は、やがて母へ目を向ける。


その頬へ残った一本の傷を見つめ、表情を曇らせた。


『長い間、そなたへ我が荒魂を預けた。』


母は、静かに天照を見つめ返す。


『十年もの間、苦しめたな。』


「苦しくなかったとは、申しません。」


天照の瞳が揺れる。


「あなたの御魂を抱き続けることは、何度も私の身を壊しかけました。」


「娘へ会えないことも。」


「夫へ、何も伝えられないことも。」


母は、一度言葉を止める。


「苦しくて、すべてを投げ出したくなったこともあります。」


天照は、何も言わなかった。


母は、それでも穏やかに続ける。


「ですが、あの時、あなたをお助けしたいと願ったことも、私自身の選択でした。」


瑞稀は、母の横顔を見つめる。


「その選択を、後悔はしておりません。」


「ただ。」


母は、天照をまっすぐに見た。


「次に何かを決められる時は、どうか一人で決めないでください。」


「私にも。」


母の手が、瑞稀の手を握る。


「この子にも。」


「そして、あなたを想う方々にも。」


「共に考えることを、許してください。」


天照は、長い間何も言わなかった。


やがて、静かに頭を下げる。


光を司る神が、一人の人間へ、深く。


『……分かった。』


母の瞳から、新たな涙が零れた。


「お帰りなさいませ。」


天照が、僅かに目を見開く。


やがて、泣きながら微笑んだ。


『……今、還った。』


短い言葉だった。


けれど、それを聞いた母は、ようやく安堵したように目を閉じた。


天照は、最後に瑞稀へ視線を向ける。


白銀の髪。


琥珀色の瞳。


神の側へ寄り始めた、その姿を苦しげに見つめた。


『瑞稀。』


「はい。」


『そなたから失われたものを、我は今すぐには返せぬ。』


瑞稀の胸が、僅かに痛んだ。


少年の名へ結びついていた記憶。


少女の名へ結びついていた記憶。


父と母の名へ結びついていた記憶。


そのほかにも、自分では失ったことにさえ気づけていない記憶があるのかもしれない。


『だが、失われたわけではない。』


瑞稀は、顔を上げた。


『そなたが御霊を還すたび、零れ落ちた記憶は、その御霊と共に神々のもとへ渡っている。』


「神々のもとへ。」


『ああ。』


『そなたが出会い、その声を聞き、還る道を開いた神々が。』


『そなた自身が再び受け取れる時まで、大切に預かっている。』


瑞稀の胸の奥へ、これまで出会った神々の姿が浮かぶ。


猿田毘古(さるたひこ)


火之迦具土(ひのかぐつち)


木花咲耶姫。


奇稲田姫(くしなだひめ)


そして、これまで心を交わしてきた多くの神々。


姿を思い浮かべるたび、胸の奥へ微かな温もりが灯る。


『そなたが失ったものは、消えてはいない。』


『帰る場所を得て、待っている。』


「では。」


瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。


「いつか、戻るのでしょうか。」


『戻すことはできる。』


天照は、静かに頷いた。


『だが、今ではない。』


その表情が、再び曇る。


『今、それらすべてをそなたへ戻せば、神威へ近づきすぎたその身体が、耐えられぬかもしれぬ。』


『やはり、そうか。』


少彦名神が、重々しく頷いた。


少年の表情が険しくなる。


「なら、どうすればいい。」


天照は、一度瑞稀を見つめ、それから月読と須佐之男へ目を向けた。


『黄泉へ向かわねばならぬ。』


「黄泉。」


『ああ。』


天照の表情へ、深い影が落ちる。


『我らの御魂が分かたれたことも。』


『各地の封印が弱まり始めたことも。』


『そなたが神々の御魂と深く結ばれるようになったことも。』


『すべての底に、黄泉へ続く歪みがある。』


瑞稀は、静かにその言葉を聞いた。


『その根へ触れぬままでは、そなたへ預けられたものを安全に戻すこともできぬ。』


伊邪那美(いざなみ)様。」


瑞稀が呟く。


天照は、静かに頷いた。


『我ら三柱の母。』


須佐之男の拳が、強く握られる。


月読も、静かに目を伏せた。


『あの御方の御心が、今も黄泉の奥にある。』


『そして、その悲しみが何を生み、何を望んでいるのか。』


天照は、僅かに首を横へ振った。


『我にも、すべては分からぬ。』


「伊邪那美様は、どのようなお方なのでしょうか。」


瑞稀が尋ねると、天照はしばらく答えなかった。


やがて、静かに告げる。


『我の言葉だけで、あの御方を決めてしまうべきではない。』


瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。


それは、先ほど自分が天照へ告げたことと似ていた。


自分の知らない場所で、自分のことを決めないでほしい。


天照もまた、その言葉を受け取ったのだ。


『黄泉へ行き。』


『そなた自身の目で、あの御方を見よ。』


『そして、何を願っておられるのか。』


『そなた自身の心で、確かめるがよい。』


「はい。」


瑞稀は、深く頭を下げた。


その時、須佐之男が一歩前へ出る。


『姉上。』


『何だ。』


『黄泉への道が、分かるのか。』


天照は、すぐには答えなかった。


やがて、高天原の遥か下へ意識を向けるように目を閉じる。


『道そのものを知っているわけではない。』


須佐之男の眉が僅かに動く。


『だが、今なら感じることができる。』


天照の身体から、日の光が静かに広がった。


それは周囲を照らすのではなく、高天原の奥深くへ染み込むように伸びていく。


『荒魂と一つへ戻ったことで、これまで見えなかったものが見える。』


『高天原と黄泉の境に、僅かな綻びがある。』


須佐之男が、低く息を吐いた。


『それが、俺が探していたものか。』


『恐らくは。』


天照が目を開く。


『だが、綻びがあるだけでは、人が通れる道にはならぬ。』


須佐之男は、口元を僅かに上げた。


『ならば。』


その手へ、青白い神気が集まっていく。


一振りの剣が、その中から姿を現した。


『俺が開けばいい。』


天照は、すぐには頷かなかった。


『須佐之男。』


『今度は、壊すためではない。』


須佐之男は、姉をまっすぐに見た。


『母上のもとへ行くための道を作る。』


『それだけだ。』


天照は、その言葉をしばらく受け止めたあと、静かに頷いた。


『……分かった。』


須佐之男が剣を構える。


けれど、その前に天照が瑞稀へ掌を差し出した。


『瑞稀。』


その上へ、小さな日の光が浮かび上がる。


『我からも、力を貸そう。』


瑞稀は、その光を見つめた。


『ただし。』


天照の声は、穏やかだった。


『我が力に、そなたの道を選ばせてはならぬ。』


瑞稀は、僅かに目を見開いた。


そして、一度だけ自分の周囲を見る。


ようやく再会できた母。


ずっと隣にいてくれた少年。


もう一度名を教えてくれた少女。


少女の肩へ戻った少彦名神。


月読。


須佐之男。


天鈿女命。


天手力男神。


そして、二つの御心を取り戻し、自ら岩戸を出た天照。


自分一人ではない。


けれど。


誰かに進まされるのでもない。


瑞稀は、天照の差し出した光へ、自らの手を重ねた。


「謹んで、お預かりいたします。」


日の光が、瑞稀の胸元へ静かに溶けていく。


温かい。


けれど、それは瑞稀を支配する光ではなかった。


自分が進むと選んだ時にだけ、その足元を照らすための光だった。


天照は、穏やかに微笑む。


『行くか。』


瑞稀は、頷いた。


「はい。」


母の手が、瑞稀の手を強く握る。


「私も参ります。」


瑞稀は、母を見る。


「今度こそ。」


母は、その手を離さなかった。


「あなたを、一人にはしません。」


瑞稀は、その温もりを確かめるように握り返す。


「はい。」


少年も、何も言わず瑞稀の隣へ立った。


その姿を見れば、何を選んだのかは分かった。


少女も、不安を隠すように笑う。


「もちろん、私も行くよ。」


『我もだ。』


少彦名神が、小さな胸を張った。


須佐之男もまた、瑞稀たちの前へ立つ。


『俺も行く。』


その声には、迷いがなかった。


『母上に会うために、ここまで来た。』


『今さら残る理由などない。』


月読が、静かにその隣へ並ぶ。


『私も参ります。』


須佐之男が、僅かに目を見開く。


月読は、兄弟へ視線を向けることなく続けた。


『私にも、母上へ聞かなければならないことがあります。』


最後に、天照が二柱の隣へ立った。


『我もだ。』


三柱が、再び同じ場所へ並ぶ。


今度は、誰か一柱の光へ従うためではない。


それぞれが、自らの意思で。


母のもとへ向かうために。


天照が、静かに目を閉じる。


日の光が、高天原の一点へ集まった。


何もないはずの闇の中へ、一筋だけ黒い亀裂のようなものが浮かび上がる。


『そこだ。』


須佐之男が、剣を握り直した。


『皆、下がれ。』


少年が、瑞稀と母の前へ僅かに出る。


須佐之男は、それを確認すると、剣を振り下ろした。


青白い神気が、高天原の空間をまっすぐに切り裂く。


轟音。


細かった亀裂が、大きく口を開いた。


裂け目の向こうから、冷たい風が吹き込んでくる。


日の光も。


月の光も。


届かないほど深い、暗い道。


天照の光でさえ、その奥までは照らせなかった。


けれど。


その遥か先から、何かがこちらを見つめている気配がした。


瑞稀は、息を呑む。


名を呼ばれたわけではない。


言葉として聞こえたわけでもない。


それでも分かった。


長い間。


誰にも届かぬ場所で。


一柱の神が、待ち続けている。


須佐之男が、開かれた道を見つめたまま低く呟く。


『……母上。』


その声には、これまで海で見せていた激しさはなかった。


ただ、長い間会えなかった者を求める、静かな響きだけがあった。


月読は、何も言わない。


天照もまた、暗闇の奥を見つめたまま動かなかった。


三柱それぞれの表情に浮かぶものは違う。


けれど。


今度は誰も、独りで向かおうとはしていなかった。


瑞稀は、白銀の髪を揺らし、琥珀色の瞳で黄泉へ続く道を見つめる。


これまで、多くの神々と出会った。


その怒りを。


悲しみを。


後悔を知った。


そのたびに、自分の中から大切な何かが失われていった。


けれど、失ったものだけが、今の自分を作っているわけではない。


神々から受け取った言葉。


新しく結び直した縁。


今も、隣へ立ってくれている人たち。


名前を失っても。


その人が大切だという思いは、まだここにある。


瑞稀は、母の手を握ったまま、裂け目の前へ立った。


その隣へ、少年が並ぶ。


反対側には、少女が立つ。


少彦名神が、少女の肩から暗い道を見据えている。


そして、その少し前には。


天照。


月読。


須佐之男。


三柱の神が、同じ黄泉への道を見つめていた。


「参ります。」


誰かに命じられたからではない。


役目だからでもない。


自分で選び。


自分の足で。


瑞稀は、黄泉へ続く暗い道へ一歩を踏み出した。


その一歩へ重なるように。


隣にいる者たちもまた、それぞれの意思で歩き始めた。

第四十三話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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