第四十二話 「器の悲鳴」
第四十二話 「器の悲鳴」
光の道の先には、何も見えなかった。
月読の夜よりも深く、須佐之男の海よりも重い闇。
音さえも、どこかへ閉じ込められている。
瑞稀は、自分たちの足音だけを聞きながら、慎重に進んでいた。
足元には、確かに道がある。
けれど、その先がどこへ続いているのかは分からない。
旭と、もう一人の少女が隣を歩いている。
二人の気配を感じるだけで、どうにか足を止めずにいられた。
やがて、闇の奥へ淡い輪郭が浮かび上がる。
巨大な岩の扉。
空へ届くほど高く、左右の果ても闇へ隠れて見えない。
固く閉ざされた、天岩戸だった。
その隙間から、細い光が漏れている。
温かいはずの光。
すべてを照らすはずの光。
けれど、その光は弱々しく震え、今にも途切れてしまいそうだった。
「……天岩戸。」
瑞稀の呟きが、重い闇へ吸い込まれていく。
『気をつけよ。』
少彦名神が、少女の襟元から顔を覗かせた。
『天照の和魂は、あの戸の内におられる。』
『だが、荒魂の気配は、別の場所から感じる。』
「別の場所。」
瑞稀が問い返した、その時だった。
岩戸の手前で、何かが微かに動いた。
最初は、白い布が落ちているように見えた。
けれど、違う。
一人の女性が、地面へうずくまっていた。
長い髪が、闇の中で白く浮かび上がっている。
肩から背へ流れる髪は、光を失った雪のようだった。
それでも、その姿を見た瞬間、瑞稀の胸が強く締めつけられた。
知らないはずなのに。
初めて見る姿のはずなのに。
身体の奥が、その人を知っていた。
「……母様。」
声が、自然に零れた。
女性の肩が、僅かに揺れる。
ゆっくりと、顔が上がった。
白い髪の間から現れた顔。
以前、父が大切にしていた写真の中で見た女性よりも、ずっと痩せていた。
頬は白く、唇にはほとんど色がない。
その瞳は赤黒く濁り、顔の右側には細い罅が走っていた。
陶器の器へ刻まれたような罅。
額から頬へ、頬から首筋へ。
女性が息をするたび、その罅の奥で赤い光が脈打っている。
「……瑞稀。」
掠れた声が響いた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥へ何かが溢れた。
懐かしい。
会いたかった。
ずっと、この声を求めていた。
「母様。」
瑞稀は、もう一度呼んだ。
女性は、苦しそうに眉を寄せる。
「来ては、駄目。」
「ですが。」
「近づかないで。」
女性の声が、先ほどより強くなる。
それと同時に、頬へ走っていた罅が、ぴしりと音を立てた。
一本。
また一本。
赤黒い光を宿した亀裂が、白い肌へ広がっていく。
「母様……!」
瑞稀が、一歩踏み出す。
女性は、地面へついた手へ力を込め、必死に身体を退かせた。
「駄目。」
「今の私に、触れては駄目。」
「あなたにまで、届いてしまう。」
『瑞稀、止まれ。』
少彦名神の鋭い声が飛ぶ。
瑞稀は、女性まであと数歩のところで足を止めた。
『あの身体の内に、天照の荒魂がおられる。』
少彦名神が、低く告げる。
『十年もの間、器として抱え続けてきたのだ。』
「十年。」
『和魂と荒魂は、本来、同じ神の二つの面。』
『切り離されたまま長く留まれば、どちらも均衡を失う。』
少彦名神の視線が、巨大な岩戸へ向かう。
『和魂は、戸の内へ閉じこもり。』
『荒魂は、人の器へ封じられた。』
『その歪みを、あの者が一身に受け止め続けてきたのだ。』
瑞稀は、母の姿を見つめた。
細い腕。
痩せた肩。
全身へ広がる罅。
十年。
自分が父と暮らし、学校へ通い、旭や友人と日々を過ごしていた間、母はこの暗闇の中で、一人、天照の荒魂を抱き続けていた。
「……どうして。」
瑞稀の唇から、震える声が零れる。
「どうして、そこまで。」
母の瞳が、僅かに揺れた。
「あなたを、守るため。」
迷いのない答えだった。
「あなたが生まれた時、天照様の荒魂は、すでに現世へ溢れかけていました。」
「そのままでは、神卸の器として生まれたあなたへ、すべてが流れ込んでしまう。」
母は、自分の胸元へ罅の入った手を添えた。
「だから、私が引き受けました。」
「あなたが、少しでも長く、人として生きられるように。」
瑞稀は、何も言えなかった。
自分の中へ残る母の記憶は、ほとんどない。
けれど、母がいなくなったあと、父が一人で自分を育ててきたことは覚えている。
母がいないことを、仕方のないものとして受け入れようとしてきたことも。
寂しいと口にすれば、父を困らせると思っていた。
母を求めれば、自分が弱い人間になってしまうと思っていた。
だから、会いたかったという気持ちさえ、胸の奥へ押し込めていた。
「私は。」
瑞稀は、自分の胸元を強く押さえた。
「ずっと。」
声が、途中で詰まる。
母の名を呼びたい。
写真の中の女性へ与えられていたはずの名。
父が、かつて愛おしそうに呼んでいたはずの名。
それが、出てこない。
「母様。」
結局、瑞稀の口から出たのは、その呼び方だけだった。
女性は、瑞稀を見つめた。
その瞳の奥へ、痛みと深い悲しみが浮かぶ。
「……私の名前を。」
女性が、小さく尋ねる。
瑞稀の身体が、強張った。
「覚えていますか。」
「私は。」
瑞稀は、必死に記憶を探した。
写真。
父の声。
古い部屋。
母が残したもの。
どこかに、その名があるはずだった。
けれど、どれほど探しても、記憶の中には名前のあった場所だけが空白になっている。
「申し訳、ありません。」
瑞稀は、俯いた。
「母様であることは、分かります。」
「あなたに会いたかったことも、あなたを大切に思っていることも、分かるのです。」
声が、僅かに震える。
「けれど、お名前が。」
「どうしても、思い出せません。」
長い沈黙が落ちた。
母は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、責められることよりも瑞稀には苦しかった。
やがて、母は罅の入った顔へ穏やかな笑みを浮かべた。
「朱莉です。」
瑞稀は、顔を上げる。
「私の名前は、朱莉。」
その名を聞いた瞬間、胸の奥が痛いほど大きく鳴った。
知っている。
確かに、知っているはずの名。
けれど、それが記憶へ戻ることはなかった。
ただ、母の口から与えられた新しい言葉として、瑞稀の中へ静かに落ちていく。
「……朱莉、様。」
「様は、要りません。」
母は、涙を浮かべながら微笑んだ。
「あなたの母ですから。」
瑞稀の目にも、ようやく涙が滲む。
「……朱莉、母様。」
「はい。」
「私は。」
言葉が、続かなかった。
会いたかった。
寂しかった。
なぜ、いなくなったのか聞きたかった。
帰ってきてほしかった。
一度でいいから、母に抱き締めてもらいたかった。
言いたいことは、いくつもあったはずなのに、実際に目の前へ現れた母を前にすると、何一つ形にならなかった。
「瑞稀。」
母が、優しく名を呼ぶ。
その声だけで、瑞稀の頬を涙が伝った。
「ごめんなさい。」
母が言った。
「あなたを置いていって。」
「母として、何一つしてあげられなくて。」
「違います。」
瑞稀は、すぐに首を横へ振る。
「あなたは、私を守ってくださった。」
「十年も、このような場所で。」
「それは。」
母は、苦しそうに目を伏せた。
「私が、自分で選んだことです。」
「ですが、あなたが寂しい思いをしたことまで、なかったことにはできません。」
母の声が、震える。
「私は、あなたを守るためだと言いながら。」
「あなたが何を望むかを、聞くことすらしなかった。」
「まだ幼かった私に、選ぶことなどできなかったと思います。」
瑞稀は、静かに答えた。
「それでも。」
母の言葉を遮らず、続ける。
「寂しかったです。」
母の瞳が、大きく揺れた。
瑞稀は初めて、自分の中へ残っていた感情を、そのまま口にした。
「母様がいないことを、仕方がないと思おうとしていました。」
「父様がいるから、私は一人ではないと、何度も自分へ言い聞かせました。」
「ですが。」
瑞稀は、涙を拭わなかった。
「母様にも、いてほしかった。」
「私の名前を呼んでほしかった。」
「一度でいいから、会いたかったです。」
母の目から、涙が溢れた。
罅の入った頬を伝い、赤黒い光の隙間へ吸い込まれていく。
「私もです。」
「瑞稀に、会いたかった。」
「毎日。」
「一日も、忘れたことはありません。」
母が、手を伸ばした。
けれど、その指先が瑞稀へ届く前に、全身の罅が激しく赤く輝いた。
「――ッ!」
母の身体が、大きく仰け反る。
赤黒い光が、罅の隙間から噴き出した。
闇の中へ、熱を伴う神威が広がっていく。
旭が瑞稀の腕を掴み、後方へ引いた。
「下がれ!」
瑞稀の身体が、旭の胸元へ引き寄せられる。
直後、母の周囲から眩い光が弾けた。
それは、温かな日の光ではない。
地上のすべてを焼き尽くすような、白く痛い光だった。
旭が、須佐之男から預かった太刀を呼び出し、瑞稀たちの前へ構える。
深い青の刃と、天照の荒魂が放つ光が激突した。
太刀の周囲で、光が激しく弾ける。
「くっ……!」
旭の足が、地面を滑った。
隣では、少女が少彦名神を庇うように腕へ抱いていた。
「瑞稀!」
名前を呼ばれ、瑞稀は顔を上げる。
母の姿が、光の中へ浮かんでいた。
頭を抱え、必死に何かを抑え込もうとしている。
「離れて……!」
母の声と、別の低い声が重なった。
『離れよ。』
『この者は、我の器だ。』
二重に響く声が、闇全体を震わせる。
『この者が、我を望んだ。』
『この者が、我を抱えると決めた。』
『ゆえに、この身体は我のものだ。』
「違います。」
瑞稀は、旭の腕から離れ、一歩前へ出た。
「母様は、あなたへ身体を明け渡したのではありません。」
『同じことだ。』
荒魂の声が、母の口から響く。
『我を封じる器となることを選んだ。』
『十年。』
『我が痛みを。』
『我が怒りを。』
『我が孤独を。』
『すべて、この身体で受け止めてきた。』
赤黒い光が、さらに強くなる。
『この者なくして、我はどこへ行けばよい。』
瑞稀は、槍を呼び出そうと右手を掲げた。
けれど、光は集まらない。
胸の奥で神威が揺れるだけで、いつものように槍の形を結ばなかった。
「……なぜ。」
『瑞稀。』
少彦名神が、厳しい表情で瑞稀を見る。
『お前自身の力が、乱れている。』
「私の。」
『月読と須佐之男を、続けて還した。』
『加えて、ここには天照の神威が満ちすぎておる。』
『お前の内と外で、神の力が互いを引き合っているのだ。』
瑞稀は、もう一度、右手へ意識を集中した。
淡い光が集まる。
けれど、槍になりかけた光は、途中で砕けて消えてしまう。
母の身体へ、さらに罅が走った。
ひび割れる音が、静かな闇へはっきりと響く。
「……逃げて。」
母が、自分の胸元を押さえながら声を絞り出した。
「瑞稀。」
「今すぐ、ここから離れて。」
「ですが――」
「お願い。」
母は、苦痛に顔を歪めながら、それでも瑞稀をまっすぐに見た。
「あなたにまで、この方の力が届いてしまう前に。」
「私は、もう十分です。」
「だから、どうか、あなただけは。」
「……嫌です。」
母の瞳が、大きく揺れた。
瑞稀は、震える手を強く握り締める。
「ようやく、お会いできたのです。」
「母様をここへ残して、私だけが逃げることなどできません。」
「瑞稀……。」
「必ず、お助けします。」
そう告げたものの、瑞稀の手は震えていた。
今、無理に荒魂を引き離せば、母の身体が耐えられないかもしれない。
十年もの間、荒魂と母の身体は深く結びついている。
切り離すことが、母を救うことになるのか。
それとも、とどめを刺すことになるのか。
判断できない。
『迷うか。』
母の口から、荒魂の声が漏れた。
『ならば、去れ。』
『この者は、我と共に朽ちる。』
「そのようなことは、させません。」
瑞稀は、答えた。
けれど、荒魂は嘲るように笑う。
『何も決められぬ者に、何ができる。』
『母を救いたい。』
『我も救いたい。』
『誰一人、傷つけたくない。』
『すべてを望みながら、何一つ失う覚悟がない。』
その言葉が、瑞稀の胸へ深く突き刺さった。
何かを選べば、何かを失う。
思金神と太玉命から教えられたことだった。
それでも、目の前に母がいる。
今にも壊れようとしている。
選び方を誤れば、十年求め続けた人を、再び失うことになる。
「瑞稀。」
旭の声が、背後から届いた。
瑞稀は、振り返らなかった。
「俺たちもいる。」
短い言葉だった。
「一人で決めなくていい。」
「ですが。」
「最後に決めるのは、お前だ。」
旭は、太刀を構えたまま続ける。
「でも、お前が決めるまでの間、俺たちはここにいる。」
「私もいるよ。」
少女の声が続いた。
「何が正しいかは、私にも分からない。」
「でも、瑞稀がどっちも助けたいと思ってるなら、最初から無理だって決めなくてもいいと思う。」
瑞稀は、少女を見た。
名は、思い出せない。
それでも、何度も自分の手を取ってくれた人だと分かる。
自分一人では出せなかった答えへ、いつも一緒に辿り着こうとしてくれた二人。
『我も、可能な限り器を支えよう。』
少彦名神が、母の状態を見据える。
『長くは保たぬ。』
『だが、一瞬ならば。』
『荒魂と器の結びつきを緩めることは、できるやもしれぬ。』
「一瞬。」
『その間に、お前が道を開け。』
少彦名神は、瑞稀をまっすぐに見た。
『荒魂を、無理に奪うのではない。』
『母と神。』
『双方が、自ら手を離せる道を。』
瑞稀は、母を見た。
赤黒く濁った瞳。
それでも、その奥には母の意思が残っている。
十年。
荒魂を憎まず、ただ封じ込めるのでもなく、その痛みを抱え続けてきた人。
「母様。」
瑞稀は、静かに呼びかける。
「天照様の荒魂を、憎んでおられますか。」
母は、苦しそうに息をしながら、首を横へ振った。
「いいえ。」
「この方も、ずっと苦しんでおられました。」
「和魂から引き離され。」
「光を求められるたび、応えることができず。」
「自分は、誰にも必要とされないのだと。」
荒魂の気配が、僅かに揺れる。
母は、自分の胸へ手を当てた。
「天照様は。」
「皆を照らせない自分を、許せなかったのだと思います。」
『黙れ。』
荒魂の声が、震えた。
『人の身で、我を分かったように語るな。』
「十年も、同じ身体で過ごしましたから。」
母は、穏やかに続けた。
赤黒い光が、大きく脈打つ。
けれど、先ほどまでのような怒りではなかった。
痛みに耐えるような揺れだった。
「あなたが、本当は岩戸の中へ行きたいと思っていることも。」
『違う。』
「和魂へ、もう一度会いたいと思っていることも。」
『違う。』
「独りでいることが、怖いことも。」
『違う!』
光が、爆発する。
旭が太刀で受け止め、少女が瑞稀のもとへ届く光を、自分の身体で遮ろうとする。
二人に守られた僅かな隙の中で、瑞稀は荒魂を見つめた。
槍を呼び出そうとするのではない。
神の力を、無理に形へ押し込めるのでもない。
ただ、自分が何を願うのか、胸の奥へ問いかけた。
母を、助けたい。
荒魂も、独りのままにはしたくない。
どちらかを選び、どちらかを切り捨てるのではなく、二人が自分から手を離せる場所を作る。
「私は。」
瑞稀は、静かに言葉を紡ぐ。
「あなたを、母様から引き剥がしたいのではありません。」
赤黒い瞳が、瑞稀へ向いた。
「あなたが、自分の意思で、この方の身体から離れられる道を作りたいのです。」
『我が。』
荒魂の声が、掠れる。
『この者を手放せば、我には何も残らぬ。』
「残っています。」
「月読様が。」
「須佐之男様が。」
「そして、私たちが。」
瑞稀は、はっきりと告げた。
「あなたを、独りにはいたしません。」
荒魂の気配が、大きく揺れる。
『嘘だ。』
「月読様は、ご自分の光を、もう一度信じるとおっしゃいました。」
「須佐之男様は、あなたを、すべてを照らそうとするあまり、照らせなかったものをご自分の罪とする方だとおっしゃいました。」
『あの者たちが。』
「はい。」
荒魂の声が、幼い子どものように震えた。
『我を。』
「お二人とも、あなたを想っておられます。」
「だからこそ、私たちをあなたのもとへ送り出してくださったのです。」
瑞稀は、一歩前へ進む。
母の身体から溢れる熱が、肌を焼くように痛い。
それでも、足を止めなかった。
「そして、岩戸の向こうには、あなたの和魂がおられます。」
『和魂は、我を拒んだ。』
荒魂は、低く呟いた。
「そうではありません。」
瑞稀は、巨大な岩戸を見上げる。
「和魂もまた、あなたと離れたまま、独りで苦しんでおられるのだと思います。」
『何を根拠に。』
「光が、今も消えていないからです。」
瑞稀は、岩戸の隙間から漏れる光を見つめた。
「あなたが必要でなければ、和魂は完全に光を閉ざしていたはずです。」
「けれど、岩戸の隙間から、今も光が漏れています。」
瑞稀は、荒魂をまっすぐに見た。
「あなたを、待っているのではありませんか。」
長い沈黙が落ちた。
母の身体を覆う赤黒い光が、少しずつ弱くなっていく。
『……戻っても。』
荒魂が呟く。
『拒まれるかもしれぬ。』
「その時は。」
瑞稀は、答えた。
「私も、一緒にお話をします。」
『お前が。』
「はい。」
「和魂へも、あなたが必要なのだと伝えます。」
荒魂の瞳から、一筋の光が零れた。
涙のように、母の頬へ流れていく。
『我は。』
『ただ。』
『もう一度。』
『一つへ戻りたかった。』
その言葉を聞いた瞬間、少彦名神が鋭く声を上げた。
『――今だ、瑞稀!』
小さな両手が掲げられる。
淡い緑色の光が母の全身を包み、身体の奥へ深く絡みついていた赤黒い神威が、僅かに揺らいだ。
ほんの一瞬。
母と荒魂を結んでいたものが、緩む。
瑞稀は右手を掲げる。
光はゆっくりと長く伸び、瑞稀の手の中で一振りの槍へ姿を結ぶ。
白銀の髪が、光を受けて揺れた。
琥珀色の瞳が、赤黒い光をまっすぐに見つめる。
「天照様。」
瑞稀は、槍を地面へ立てた。
「あなたの願いを、確かにお預かりいたします。」
荒魂の目が、静かに閉じられる。
瑞稀は、両手を槍の柄へ重ね、深く頭を下げた。
「――御霊よ。」
祝詞の声が、闇の中へ静かに広がっていく。
足元に、淡く輝く文字が浮かび上がる。
文字は母の身体を取り囲み、罅の隙間へ入り込んだ赤黒い光を、少しずつ外へ導いていった。
「畏み、畏み申し上げる。」
旭の太刀を纏っていた光が、瑞稀の祝詞へ重なる。
少女の肩から、少彦名神の緑色の光が母を支えた。
誰か一人の力ではない。
瑞稀が選び、皆がその道を支えている。
「御神の御許へ還り給え。」
――シャン。
神楽鈴の澄んだ音が、闇へ響いた。
母の身体を覆っていた赤黒い光が、一斉に空へ立ち上がる。
光の中に、一柱の女神の輪郭が浮かび上がった。
母ではない。
眩い光を纏った、神の姿。
その瞳には、長い孤独と、帰る場所を求める悲しみが宿っていた。
天照の荒魂は、瑞稀を見つめる。
『……約束を。』
「はい。」
『我を、和魂のもとへ。』
「必ず。」
瑞稀は、深く頭を下げた。
天照の荒魂は、最後に母へ視線を向ける。
『十年。』
『我を抱いてくれたこと、礼を言う。』
母は、目を閉じたまま微笑んだ。
「どうか、今度はご自分の御心へお戻りください。」
荒魂は、静かに目を伏せた。
その身体を覆っていた赤黒い光が、少しずつ穏やかな輝きへ変わっていく。
けれど、その姿は消えなかった。
母から離れた場所へ、一柱の女神として静かに降り立つ。
眩い光を纏いながらも、その瞳にはまだ、長い孤独の影が残っている。
荒魂は、巨大な天岩戸を見上げた。
隙間から漏れる細い光が、その頬を照らす。
『……ここまで来ても。』
声が、僅かに震えた。
『まだ、怖いのだな。』
瑞稀は、荒魂の隣へ立つ。
「ですから、一緒に参りましょう。」
荒魂が、瑞稀を見る。
「和魂がお出でになるまで、私もここにおります。」
荒魂はしばらく瑞稀を見つめたあと、静かに岩戸へ向き直った。
今度は、逃げなかった。
その背後で、母の身体から、すべての力が抜ける。
「母様!」
瑞稀は、崩れ落ちる身体を抱き止めた。
軽い。
あまりにも、軽かった。
十年、大きな神の荒魂を抱え続けてきた身体は、驚くほど細く、儚い。
「母様。」
瑞稀は、震える手で母の頬へ触れた。
白かった髪が、根元から少しずつ黒へ戻り始めている。
頬から首筋へ広がっていた罅も、淡い光を放ちながら消えていく。
けれど、右の頬には一本だけ、細い傷痕が残った。
「母様。」
返事はない。
「母様……!」
声が、震える。
母を救えたはずなのに。
荒魂は、離れたはずなのに。
もし、間に合わなかったのなら。
「朱莉。」
少年が、背後から母の名を呼んだ。
瑞稀は、僅かに顔を上げる。
「呼び続けろ。」
「お前の声なら、届く。」
瑞稀は、母の手を強く握った。
「母様。」
「朱莉、母様。」
覚えていた名ではない。
つい先ほど、母自身からもう一度教えてもらった名。
それでも今は、その名を呼びたかった。
「目を開けてください。」
「私は。」
瑞稀の涙が、母の頬へ落ちる。
「まだ、あなたに何もお話しできていません。」
「これまでのことも。」
「父様のことも。」
「これからのことも。」
「聞いていただきたいことが、たくさんあります。」
母の指が、僅かに動いた。
瑞稀は、息を止める。
閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。
黒い瞳。
写真の中で見たものと同じ、穏やかな目だった。
「……瑞稀。」
「母様。」
声を聞いた瞬間、瑞稀は母の身体を抱き締めた。
罅が残っていることも、壊れてしまうかもしれないことも忘れて、ただ、十年間できなかったことを、ようやく形にした。
母の腕が、ゆっくりと瑞稀の背へ回る。
弱い力だった。
それでも、確かに抱き返してくれていた。
「大きくなりましたね。」
母の声が、耳元で震える。
「はい。」
「こんなに、立派に。」
「……はい。」
それ以上、瑞稀には答えられなかった。
母の肩へ顔を埋めたまま、声を押し殺すように泣いた。
母は何も言わず、何度も瑞稀の背を撫でる。
幼い頃にも、こうしてもらったことがあるのだろうか。
記憶にはない。
けれど、身体の奥が、この温もりを知っている気がした。
しばらくして、母が瑞稀の髪へ触れる。
「瑞稀。」
「はい。」
「髪が。」
その声に、瑞稀はゆっくりと身体を離した。
自分の髪を一房、手へ取る。
白銀。
御霊還しを終え、天照の荒魂を母から離しても、元の黒へ戻っていない。
須佐之男を還したあとから残っていた琥珀色の瞳も、今なお神の光を宿したままだった。
母は、瑞稀の頬へ手を添える。
琥珀色の瞳を、悲しそうに見つめた。
「……ここまで。」
母は、小さく呟く。
「何度、御霊還しを。」
「……数えてはおりません。」
瑞稀は、静かに答えた。
「多くの神々を、お還ししました。」
「そのたびに。」
母の指先が、瑞稀の白銀の髪を撫でる。
「記憶を、失ったのですね。」
瑞稀は、すぐには答えなかった。
少女が、少し離れた場所から心配そうにこちらを見ている。
父の名も。
母の名も。
自分が失っていることへ、今、気づいた。
母の名を、思い出せなかった。
では、父の名は。
瑞稀は、胸の内へ問いかける。
父の姿は分かる。
拝殿へ立つ背中も。
厳しい声も。
頭を撫でてくれた手の温もりも。
覚えている。
けれど、名前だけが、どこにも存在しなかった。
「……父様の名も。」
瑞稀の声が、微かに震える。
「思い出せません。」
母の瞳から、涙が静かに零れた。
「そうですか。」
「申し訳、ありません。」
瑞稀が俯くと、母はすぐに首を横へ振った。
「謝らないでください。」
「あなたが失ったのは、私たちを大切に思う心ではありません。」
母は、瑞稀の両頬へ手を添えた。
「私が母だと、分かってくれた。」
「会いたかったと、言ってくれた。」
「それだけで、十分です。」
「ですが、名前は。」
母は、涙を浮かべたまま微笑んだ。
「また、教えればよいのです。」
「何度でも。」
その言葉に、瑞稀の胸が強く痛んだ。
「私の名は、朱莉。」
母は、ゆっくりと告げる。
「あなたの父は、忠司さん。」
「そして。」
母の視線が、少年へ向いた。
「あなたの隣にいるのは、旭君。」
続いて、もう一人の少女へ向けられる。
「その子は、芽衣さんでしょう。」
瑞稀は、少女を見た。
芽衣。
その名を聞いても、記憶へ戻ることはなかった。
けれど、ようやく呼びかけるための言葉を、もう一度手にした。
「……芽衣。」
少女の瞳が、大きく見開かれる。
「瑞稀。」
「申し訳ありません。」
瑞稀は、芽衣をまっすぐに見た。
「私は、あなたの名を思い出すことができませんでした。」
芽衣の表情が、僅かに歪む。
けれど、すぐに泣きそうな笑顔を浮かべた。
「そっか。」
「はい。」
「じゃあ。」
芽衣は、瑞稀の前へ歩み寄る。
「もう一回、覚えて。」
「私は、双葉芽衣。」
一度、言葉を止めた。
「大親友だよ。」
瑞稀は、その言葉を胸へ受け止める。
「……はい。」
「双葉、芽衣。」
ゆっくりと、与えられた名を口にする。
「私の、大親友。」
「うん。」
芽衣の目から、涙が零れた。
それでも、その顔は笑っていた。
少年は、何も言わなかった。
ただ、瑞稀を静かに見つめている。
母から、彼の名も教えてもらったはずだった。
けれど、その音を胸の内で辿ろうとしても、もう形にはならなかった。
大切な人。
幼い頃から、ずっと隣にいてくれた人。
そのことだけは、痛いほど分かるのに。
次に何を失うのか、自分でも分からない。
白銀の髪。
琥珀色の瞳。
人と神の境が、少しずつ曖昧になっている。
『瑞稀。』
少彦名神が、重い声で告げる。
『お前の器もまた、限界へ近づいている。』
少年の表情が、険しくなる。
「どういうことだ。」
『髪も、瞳も元へ戻らぬ。』
『神威を受け入れた身体が、以前の姿へ戻る力を失い始めておる。』
「それは。」
芽衣が、不安そうに尋ねる。
「このままだと、どうなるの。」
少彦名神は、すぐには答えなかった。
『分からぬ。』
『神の側へ寄りすぎれば。』
『人としての瑞稀が、どこまで残るのか。』
『我にも、断言はできぬ。』
重い沈黙が落ちる。
瑞稀は、自分の白銀の髪を見つめた。
以前なら、この姿は御霊還しの間だけのものだった。
神を迎え、その力を借りるための姿。
けれど今は、それが自分自身の一部になろうとしている。
「瑞稀。」
母が、瑞稀の手を握った。
「もう、これ以上進まなくても。」
その言葉に、瑞稀は巨大な天岩戸を見上げた。
岩戸の隙間から、微かな光が漏れている。
その手前には、天照の荒魂が静かに立っていた。
先ほどまで母の身体を覆っていた激しい光は、もうない。
それでも荒魂は、岩戸へ近づこうとはしていなかった。
ただ、細い光を見つめている。
その時。
岩戸の隙間から漏れる光が、ほんの僅かに揺れた。
荒魂の瞳が、微かに見開かれる。
けれど、戸の向こうから声は聞こえなかった。
荒魂もまた、何も言わない。
同じ神でありながら。
十年以上、切り離されたまま過ごした二つの御魂は、僅かな距離を埋めることさえできずにいた。
「天照様は。」
母も、岩戸を見つめた。
「まだ、あの戸の内にいらっしゃいます。」
「そして、荒魂も。」
母の視線が、岩戸の前に立つ女神へ向く。
「戻りたいと願いながら、まだあの方のもとへ近づくことができずにおられる。」
「では。」
瑞稀は、母を見る。
「まだ、終わっていないのですね。」
「はい。」
母は、静かに頷いた。
「あの方は、すべてを照らせなかったことを、ずっとご自分の罪として抱えておられます。」
「荒魂を切り離したことも。」
「私へ、その御魂を預けたことも。」
「あなたへ役目を背負わせたことも。」
「すべて、ご自分が光であり続けられなかったせいだと思っておられるのでしょう。」
瑞稀は、須佐之男の言葉を思い出す。
――姉上は、すべてを照らそうとする。
――ゆえに、照らせなかったものを、誰よりも己の罪とする。
瑞稀は、もう一度岩戸へ目を向けた。
荒魂は、まだそこに立っている。
岩戸の内側から漏れる光も、消えてはいない。
互いを求めながら。
互いへ近づくことを、恐れている。
「私は。」
母が、静かに口を開いた。
「荒魂を抱くことで、あの方をお助けできると思っていました。」
「けれど、結果として。」
母は、岩戸の前に立つ荒魂を見つめる。
「より長く離れたままにしてしまったのかもしれません。」
「母様。」
「朱莉です。」
母は、悲しそうに、それでもどこかいたずらっぽく微笑んだ。
「忘れたら、また呼んでください。」
「何度でも教えますから。」
瑞稀は、母の顔を見つめた。
それから、静かに呼ぶ。
「朱莉、母様。」
「はい。」
「一緒に。」
瑞稀は、朱莉の手を強く握った。
「天照様のもとへ参りましょう。」
朱莉の瞳が揺れる。
「瑞稀。」
「私は。」
瑞稀は、自分の白銀の髪へ触れた。
「何を失うのか。」
「どこまで、この姿が変わるのか。」
「怖くないわけではありません。」
少年と芽衣が、黙って瑞稀を見つめている。
「それでも。」
瑞稀は、閉ざされた岩戸へ向き直る。
「荒魂へ、約束しました。」
「和魂のもとへ、必ずお連れすると。」
「そして、天照様へ。」
「私の人生を、私自身の意思で選ぶのだと、伝えなければなりません。」
朱莉は、しばらく瑞稀の横顔を見つめていた。
やがて涙を拭い、静かに頷く。
「分かりました。」
「俺も行く。」
少年が、須佐之男から預かった太刀を、再び手へ呼び出す。
芽衣も、瑞稀の隣へ並んだ。
「もちろん、私も行く。」
『我もだ。』
少彦名神が、芽衣の肩へ立つ。
瑞稀は、三人を見た。
名前を失っても。
記憶が欠けても。
そこにいる人たちが、自分を支えてくれていることは分かる。
だから、もう一度覚えればいい。
失うたびに、何度でも聞けばいい。
たとえ、教えられたそばから零れ落ちてしまう名があっても。
その人が大切だという思いまで、失ったわけではない。
瑞稀は、朱莉の手を握ったまま、閉ざされた天岩戸へ歩き始めた。
白銀の髪が、微かな光を受けて揺れる。
琥珀色の瞳には、岩戸の隙間から漏れる細い光が映っていた。
その輝きは、もう瞬きをしても消えなかった。
第四十二話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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