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第四十一話 「凪の刃」

第四十一話 「凪の刃」


月明かりの道を抜けた先で、激しい波の音が響いていた。


瑞稀たちの足元には、黒い砂浜が広がっている。


空は分厚い雲に覆われ、海は沖から押し寄せるたび、白い飛沫を高く舞い上げていた。


雷も、風もない。


それでも波だけが、何かに突き動かされているかのように荒れ狂っている。


「ここが、須佐之男(すさのお)様の神域なのでしょうか。」


瑞稀は、暗い海を見渡した。


月読(つくよみ)の神域に満ちていた静けさとは、あまりにも違う。


静かに心の内へ沈んでいく夜から、すべてを呑み込もうとする海へ。


その変化に、芽衣も緊張したように息を呑んでいた。


『気を抜くな。』


芽衣の襟元から、少彦名神(すくなびこな)が顔を覗かせる。


『須佐之男は、荒ぶる力を持つ神だ。』


「荒魂になったら、もっと荒っぽくなるってこと?」


『必ずしも、そうとは限らぬ。』


少彦名神は、荒れる波の向こうへ目を向けた。


『荒魂とは、ただ怒り狂うものではない。』


『その御方が内に抱えてきたものが、強く歪んで現れることもある。』


瑞稀は、その言葉を静かに受け止めた。


月読もまた、ただ孤独へ耐えかねて荒れたわけではなかった。


自分の光を、自分で見失っていた。


須佐之男が、この海の奥で何を抱えているのか。


それを、知らなければならない。


『――遅かったな。』


低い声が、波の合間から響いた。


三人が、顔を上げる。


荒れ狂う海の中に、一柱の男神が立っていた。


長い髪を波風へ靡かせ、片手には一振りの剣を携えている。


足元へ幾度波が打ち寄せても、その身体は少しも揺らがない。


荒れる海そのものが、その男神を避けているように見えた。


「……須佐之男様。」


瑞稀は、静かにその名を呼ぶ。


須佐之男は、鋭い目で瑞稀たちを見渡した。


『よく来た。』


声には、想像していたような激しい怒りはない。


むしろ、冷え切った静けさがあった。


荒れ狂う海とは対照的な、研ぎ澄まされた気配。


『だが。』


須佐之男の指が、剣の柄を強く握る。


『我が道を阻むならば、容赦はせぬ。』


次の瞬間、その姿が視界から消えた。


「――来る!」


旭の右手へ青白い光が集まり、一振りの刀へ姿を変える。


ほとんど同時に、轟音とともに須佐之男の剣が振り下ろされた。


旭は刀を両手で構え、正面から受け止める。


刃と刃が激しく噛み合い、衝撃で渚の砂が大きく抉れた。


「重い……ッ!」


旭の足が、砂へ深く沈む。


ただ、力が強いだけではない。


刃の角度も、踏み込みも、そこには一切の迷いがなかった。


余分な動きを持たない、研ぎ澄まされた一撃。


須佐之男は刃を引くと、間を置かずに二撃目を放った。


旭は身を捻って避け、刀を横薙ぎに振るう。


須佐之男はそれを容易く受け流し、返す刃で旭の肩口を狙った。


青白い雷が、旭の刀身を走る。


さらに、赤い炎が刃へ絡みついた。


建御雷神(たけみかづちのかみ)の雷。


火之迦具土(ひのかぐつち)の炎。


二つの神威を纏った刀が、須佐之男の剣と激突する。


赤と青の光が交差し、暗い海岸を一瞬だけ、昼のように照らした。


『ほう。』


須佐之男の口元へ、僅かな笑みが浮かぶ。


『建御雷と、火之迦具土か。』


「名前まで分かるのかよ。」


『我を、誰だと思っている。』


須佐之男は、一歩強く踏み込んだ。


剣へ込められる力が、さらに増す。


旭の両腕が、大きく震えた。


「くっ……!」


刀身を覆う雷と炎が、須佐之男の刃へ押し潰されるように激しく揺らぐ。


力の差は、明らかだった。


それでも、旭は退かなかった。


『悪くない。』


須佐之男は、静かに告げる。


『だが、その程度では足りぬ。』


剣が、鋭く振り抜かれた。


甲高い音が、海岸へ響き渡る。


旭の刀へ、一本の亀裂が走った。


「旭!」


瑞稀が、声を上げる。


亀裂は瞬く間に刀身全体へ広がり、青白い光の破片となって砕け散った。


旭の身体が、後方へ弾き飛ばされる。


背中から砂浜へ叩きつけられ、腕から血が滲んだ。


「旭君!」


芽衣が、駆け寄ろうとする。


けれど旭は、すぐに片膝をつき、立ち上がった。


右手には、刀の柄だけが残っている。


それでも、その手を開こうとはしなかった。


『刃を失ってなお、立つか。』


須佐之男が、目を細める。


「……まだ終わってない。」


旭は、柄を強く握り締めた。


青白い雷が、砕けた刀身を補うように僅かに伸びる。


けれど、形を保つことはできない。


それでも旭は、瑞稀の隣へ立った。


「刀がなくても。」


息を整え、須佐之男を見据える。


「ここに立つことはできる。」


須佐之男の剣先が、僅かに下がった。


『何のために。』


「瑞稀の隣にいるためだ。」


以前なら、前へ立つと言っていたかもしれない。


けれど、今は違う。


旭は、瑞稀の意思を奪うために、そこへ立っているのではない。


同じ道を選んだ者として、共に戦うために立っている。


須佐之男は、しばらく旭を見つめていた。


やがて、剣を完全には納めないまま、静かに口を開く。


『我と斬り結ぶだけの覚悟は、あるようだ。』


瑞稀は、旭の隣へ進み出た。


「須佐之男様。」


「あなたが何を望み、この海を荒らしておられるのか。」


「お聞かせください。」


須佐之男の視線が、瑞稀へ向く。


剣は、まだ下ろされていない。


それでも、それ以上斬りかかってくることはなかった。


『……よかろう。』


低い声が、波の音へ重なる。


『聞かせてやる。』


須佐之男は、荒れる海へ視線を戻した。


『我が探しているのは、封印の綻びだ。』


「封印。」


『高天原と黄泉を隔てるもの。』


須佐之男の声が、さらに低くなる。


『我は長い間、その隙を探してきた。』


「黄泉へ向かうために、ですか。」


『左様。』


須佐之男は、迷いなく答えた。


『我は、黄泉へ渡る。』


『封印を破ってでも。』


『母に会うために。』


その言葉に、瑞稀の胸が強く揺れた。


母。


その響きだけで、胸の奥へ懐かしさと寂しさが同時に込み上げる。


顔も。


声も。


共に過ごした記憶も、ほとんど残っていない。


それでも、会いたいという気持ちだけは、ずっと消えずに残っていた。


須佐之男は、遠い海の向こうを見つめたまま続ける。


伊邪那美(いざなみ)は、黄泉の奥にいる。』


『誰とも会えぬまま。』


『生者の世界から切り離され。』


『長い時を、ただ独りで過ごしている。』


「だから、封印を破るのですか。」


『他に道はない。』


「封印の先に、何が待っているか分からなくても。」


『構わぬ。』


須佐之男の目へ、鋭い光が宿った。


『母に会えるのならば。』


『高天原が、どうなろうと。』


『現世へ、何が溢れようと。』


『我には、関係ない。』


海が、一際激しく荒れた。


沖から立ち上がった巨大な波が、壁のように空を覆う。


芽衣が息を呑み、旭が反射的に瑞稀たちの前へ出た。


刀は、折れている。


それでも、右腕には青白い雷が纏わりついていた。


けれど、須佐之男は波を振り下ろそうとはしなかった。


ただ瑞稀を見つめ、その答えを待っている。


「須佐之男様。」


瑞稀は、押し寄せる波を見上げた。


「私にも、会いたい母がいます。」


須佐之男の瞳が、僅かに動く。


「幼い頃に離れ、それ以来、一度も会えていません。」


「顔も、声も、ほとんど覚えていません。」


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


「それでも、会いたいという気持ちは、ずっとここにあります。」


波の動きが、僅かに鈍る。


「ですから。」


瑞稀は、須佐之男をまっすぐに見た。


「あなたが、どれほどお母様へ会いたいと願ってこられたのか。」


「すべてではなくとも、少しは分かるつもりです。」


『ならば、我を止めるな。』


須佐之男の声が、鋭くなる。


『お前も、母を求めるなら。』


『会うために、すべてを壊す覚悟も分かるはずだ。』


「いいえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振った。


巨大な波が、再び大きく揺れる。


『何だと。』


「会いたいと思うからこそ。」


瑞稀は、言葉を選びながら続ける。


「そのために、他の誰かを失う道を選びたいとは思いません。」


『綺麗事を。』


「そうかもしれません。」


瑞稀は、否定しなかった。


「実際に母を目の前にすれば、私も他のすべてを投げ出したくなるかもしれません。」


その正直な言葉に、須佐之男の目が僅かに細められる。


「けれど、今は。」


瑞稀は、隣に立つ旭と芽衣を見た。


「私一人で、母のもとへ向かおうとは思いません。」


「大切な人たちを置き去りにして、誰かを傷つけながら進んだ先で、母に会えても。」


一度、息を整える。


「私は、心から喜ぶことができないと思うからです。」


須佐之男は、答えなかった。


荒れる波の音だけが、重く響いている。


「伊邪那美様が、今も黄泉で苦しんでおられるのなら。」


瑞稀は、続ける。


「私たちも、いずれ黄泉へ向かいます。」


『何のために。』


「すべての荒魂が生まれた理由を知るために。」


「そして。」


瑞稀は、須佐之男の奥にある悲しみへ語りかけるように告げた。


「伊邪那美様を、独りのままにしないために。」


須佐之男の瞳が、大きく揺れる。


『お前が。』


『母を救うとでも言うのか。』


「できるかどうかは、分かりません。」


瑞稀は、正直に答えた。


「ですが、会いに行きます。」


「封印を壊し、無理に押し入るのではなく。」


「黄泉へ至る道を探して。」


「伊邪那美様が、本当に望んでおられることを聞きます。」


『そのような道があると、なぜ言える。』


猿田毘古(さるたひこ)様が、道を示してくださいました。」


「月読様も、私たちを次の場所へ送り出してくださいました。」


瑞稀は、一歩、須佐之男へ近づいた。


「道がまだ見えないことと、道が存在しないことは、同じではありません。」


海を覆っていた波が、少しずつ高さを失っていく。


『我に。』


須佐之男の声が、低く掠れた。


『ただ待てと言うのか。』


「いいえ。」


瑞稀は、首を横へ振る。


「一緒に探していただきたいのです。」


須佐之男の表情が、初めて大きく動いた。


「独りで封印を破るのではなく。」


「私たちと共に、黄泉へ向かう道を探してください。」


「そして、一緒に伊邪那美様へ会いに行きましょう。」


長い沈黙が流れた。


巨大だった波は、すでに瑞稀たちの背丈ほどまで低くなっている。


須佐之男は、手にした剣へ視線を落とした。


『我は長く。』


静かな声が、海岸へ響く。


『母を取り戻すことだけを考えてきた。』


『何を壊すことになろうと。』


『誰が傷つこうと。』


『母さえ戻れば、それでよいと。』


「はい。」


『それが誤りだと、我を咎めぬのか。』


「誤っていると思います。」


瑞稀は、はっきりと答えた。


須佐之男の目が、鋭く細められる。


それでも瑞稀は、言葉を引かなかった。


「ですが、間違った道を選んだことと、お母様へ会いたいと願ったことは、同じではありません。」


須佐之男の剣先が、僅かに下がる。


「会いたいという願いまで、否定する必要はないと思います。」


「ただ、その願いを叶えるための道を、もう一度選び直せばよいのではないでしょうか。」


須佐之男は、しばらく瑞稀を見つめていた。


やがて、ゆっくりと目を閉じる。


海を覆っていた波が、さらに静まっていく。


『……選び直す、か。』


「はい。」


『我にも。』


『まだ、そのようなことが許されるのか。』


「許すかどうかを決めるのは、私ではありません。」


瑞稀は、静かに答える。


「ですが、少なくとも。」


「私は、あなたと共に進みたいと思っています。」


須佐之男が、目を開いた。


赤黒く濁っていた瞳から、ゆっくりと色が薄れていく。


『瑞稀。』


「はい。」


『お前と共に進めば。』


『本当に、母へ辿り着けるのか。』


「分かりません。」


瑞稀は、迷わず答えた。


「けれど、独りで封印を壊すよりも、多くのものを失わずに済む道を探せると思います。」


須佐之男の口元へ、微かな笑みが浮かぶ。


『確かなことは、何一つ言わぬのだな。』


「嘘を申し上げることはできませんので。」


『そうか。』


須佐之男は、静かに剣を下ろした。


『ならば、信じてみよう。』


その言葉と同時に、荒れていた海が完全に凪いだ。


空を覆っていた雲が割れ、淡い光が海面へ差し込む。


須佐之男の周囲から、赤黒い靄が静かに剥がれていった。


『黄泉への道は、我も探そう。』


須佐之男は、僅かに目を細めた。


『……姉上ならば、何か知っているやもしれぬ。』


「天照様が。」


『ああ。』


『高天原を長く見渡してきた御方だ。我の知らぬ道を知っていても、不思議ではない。』


須佐之男は、静かに瑞稀を見据えた。


『まずは、姉上のもとへ向かえ。』


『我もまた、こちらから黄泉へ至る道を探そう。』


「ありがとうございます。」


瑞稀は、深く頭を下げた。


そして、ゆっくり顔を上げ右手を掲げる。


淡い光が集まり、一振りの槍へ姿を変えた。


両手を柄へ重ね、静かに祈りを捧げる。


「――御霊よ。」


祝詞の声が、凪いだ海へ広がっていく。


「畏み、畏み申し上げる。」


槍を中心に、淡く輝く文字が浮かび、波のない水面へ静かに広がっていった。


「御神の御許へ還り給え。」


――シャン。


神楽鈴の澄んだ音が、静かな海へ響き渡る。


槍から溢れた光が、須佐之男を優しく包み込んだ。


その身体から荒ぶる気配が消え、穏やかな神威だけが残っていく。


『礼を言う。』


須佐之男の声が、光の中から届いた。


『我は長く。』


『力尽くで奪い取ることだけが、母へ至る唯一の道だと思っていた。』


須佐之男は、凪いだ海を見渡す。


『だが、海も、荒れ続けるばかりではない。』


『静まった時にこそ、見える道もあるのだな。』


その視線が、旭へ向けられた。


『秋葉の。』


「何だ。」


旭は、折れた刀の柄を握ったまま答える。


『刃を失ってなお、退かなかったこと。』


『気に入った。』


須佐之男が、右手を掲げた。


凪いだ海の底から、淡い光が浮かび上がる。


光は水面を破り、一本の太刀へ姿を変えた。


深い青を宿した刃。


柄には、波を思わせる細かな紋様が刻まれている。


旭は、その太刀を見つめた。


「これは。」


『我が力から生まれた刃だ。』


須佐之男は、太刀を旭へ差し出す。


『お前の刀は、建御雷の神威が形を成したもの。』


『砕けようとも、いずれ再び姿を結ぶ。』


『だが、それまでの間、この刃を預けよう。』


旭は、差し出された太刀へ、すぐには手を伸ばさなかった。


草薙剣(くさなぎのつるぎ)なのか。」


『否。』


須佐之男は、僅かに口元を緩める。


『草薙剣は、姉上へ献じたもの。』


『我が勝手に持ち出すわけにはいかぬ。』


「……そうか。」


『これは、我の神威を分けたものにすぎぬ。』


須佐之男は、改めて太刀を差し出す。


『かつて、奇稲田(くしなだ)を救った礼だ。』


『あれは、我にとってかけがえのない者。』


『お前たちが、あれの心を荒魂から取り戻したことを、我は忘れておらぬ。』


旭は、静かに両手を伸ばした。


太刀を受け取った瞬間、青い光が刀身から腕へ流れ込む。


荒々しい力ではない。


広い海の底へ沈むような、重く静かな神威だった。


「……借りておく。」


旭は、太刀をまっすぐに見つめる。


「必ず、正しく使う。」


『それでよい。』


須佐之男は、満足そうに頷いた。


その姿が、次第に淡い光へ変わっていく。


『瑞稀。』


「はい。」


『次は、姉上のもとへ向かうのであろう。』


「はい。」


『姉上は。』


須佐之男は、一度言葉を止めた。


『我よりも、深く己を閉ざしている。』


「天照様が。」


『あの方は、すべてを照らそうとする。』


『ゆえに、照らせなかったものを、誰よりも己の罪とする。』


瑞稀は、その言葉を胸へ刻んだ。


『気をつけよ。』


『姉上の光は。』


『時に、闇よりも深く人を閉ざす。』


「分かりました。」


須佐之男は、最後に凪いだ海を振り返った。


『母のもとで、また会おう。』


その言葉を残し、須佐之男の姿は、光の中へ静かに溶けていった。



波の音が、穏やかに渚を撫でていた。


先ほどまで荒れ狂っていた海が嘘のように、静かな水面がどこまでも続いている。


旭の手には、須佐之男から預かった太刀が握られていた。


「折れた刀は、大丈夫なの?」


芽衣が、心配そうに尋ねる。


旭は、右手に残っていた柄へ視線を落とした。


役目を終えたように、柄が青い光へ変わっていく。


光は旭の胸元へ吸い込まれ、跡形もなく消えた。


「完全に失ったわけじゃない。」


「力は、まだ残ってる。」


『建御雷の刃は、旭の意思と共に形を成すものだからな。』


『今は、神威を大きく消耗しているだけであろう。』


少彦名神の言葉に、芽衣は安堵したように息を吐く。


「それなら、よかった。」


瑞稀は、その横顔を静かに見つめた。


共に過ごした時間も。


何度も支えてくれたことも、覚えている。


それなのに、胸の内で呼ぼうとした名だけが、どこにも見つからなかった。


「瑞稀?」


少女が、不思議そうに首を傾げる。


「どうかした?」


「……いいえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振った。


これも、須佐之男を還した代償なのだろう。


「本当に?」


「はい。」


瑞稀は、少女へ微笑み返した。


「ありがとうございます。」


名を呼ばなかったことに、少女はまだ気づいていないようだった。


けれど旭だけは、瑞稀の言葉が僅かに詰まったことを見逃していなかった。


「瑞稀。」


「何だか、顔色が悪い。」


「そうでしょうか。」


「ああ。」


「どこか痛むのか。」


「痛みはありません。」


そう答えながら、瑞稀は目元へそっと指を添えた。


御霊還しを終えてから、視界の奥へ残る淡い光が消えない。


凪いだ海面へ、視線を落とす。


そこへ映った自分の瞳を見て、瑞稀は僅かに息を止めた。


琥珀色。


これまでは、御霊還しを終えれば元の色へ戻っていた。


けれど、今回は違う。


何度瞬きをしても、瞳の奥へ宿る琥珀の輝きは薄れなかった。


旭も、水面へ映る瑞稀の顔へ目を向ける。


「目が。」


「はい。」


瑞稀は、静かに頷いた。


「戻っていないようです。」


少女も、慌てて瑞稀の顔を覗き込む。


「本当だ。」


その声に、瑞稀は再び少女を見た。


名前だけが、分からない。


けれど、自分を心配してくれていることも、傍にいてほしい人だということも分かる。


その事実に、瑞稀は僅かな安堵を覚えた。


『強い神の御霊還しを短い間に重ねた影響かもしれぬ。』


少彦名神が、瑞稀の瞳を見つめながら静かに告げる。


『神の力と、お前自身との境が、これまでよりも曖昧になり始めておる。』


「元へ戻るのでしょうか。」


『分からぬ。』


少彦名神は、誤魔化さなかった。


『だが、今すぐ身体へ害があるようには見えぬ。』


「そうですか。」


瑞稀は、もう一度、水面へ映る自分を見つめた。


琥珀色の瞳。


それは、神々を迎える器である証のようでもあり。


人としての自分が、少しずつ失われていく兆しのようにも見えた。


旭が、瑞稀の隣へ一歩近づく。


「本当に、大丈夫なのか。」


「はい。」


瑞稀は、答えた。


けれど、その言葉が完全な真実ではないことを、旭には見抜かれている気がした。


「何かあったなら、言え。」


「分かりました。」


瑞稀は、頷く。


今はまだ、名を失ったことを口にする気にはなれなかった。


口にしてしまえば、その喪失が本当のものになってしまうように思えた。


瑞稀は、須佐之男が消えた場所へ視線を戻した。


母へ会いたいという願い。


そのために、すべてを壊してもよいと思うほどの思い。


須佐之男の言葉は、他人事には思えなかった。


自分も、母を目の前にした時。


同じように、他のすべてが見えなくなるほど求めてしまうのだろうか。


「母親に会うのが、怖くなったのか。」


旭の問いに、瑞稀はすぐには答えなかった。


会いたい。


それは、間違いない。


けれど、会った時に自分が何を思うのか。


母へ何を言うのか。


何を望んでしまうのか。


何一つ、分からなかった。


「……少しだけ。」


瑞稀は、正直に答える。


「会いたいと思っています。」


「ですが、その時、私が何を望んでしまうのか。」


「自分でも、分かりません。」


旭は、瑞稀を静かに見つめた。


「分からないなら、その時に考えればいい。」


「その時に……。」


「ああ。」


旭は、凪いだ海へ目を向ける。


「今、全部決めなくてもいいだろ。」


瑞稀は、その言葉を静かに受け止めた。


選ぶことは、一度、すべてを決めてしまうことではない。


その時々に、自分の心へ問い直すこと。


思金神(おもいかねのかみ)太玉命(ふとだまのみこと)から教えられた言葉が蘇る。


「そうですね。」


瑞稀は、小さく頷いた。


「その時に、考えます。」


少女が、二人の隣へ並ぶ。


「その時は、私たちもいるからね。」


襟元から、少彦名神も小さく頷いた。


『無論、我もいる。』


瑞稀は、少女へ顔を向ける。


胸の奥へ広がる痛みを隠すように、微笑んだ。


「ありがとうございます。」


少女は、いつもどおりに笑い返した。


まだ、気づいていない。


自分の名が、瑞稀の中から失われたことに。


その時。


凪いだ海の中央へ、眩い光が落ちた。


須佐之男の荒々しい神威とは異なる。


温かく、すべてを照らし出すような光。


けれど、その奥には、目を開けていられないほどの、痛みに似た眩しさがあった。


光は海面をまっすぐに走り、瑞稀たちの足元へ道を作っていく。


少彦名神が、眩しそうに目を細めた。


『天照のもとへ続く道だ。』


三貴子、最後の一柱。


そして、母が待つ場所。


瑞稀は、光の先をまっすぐに見つめた。


母がいる。


会いたいと願い続けてきた人がいる。


けれど瑞稀は、まだ。


その名を思い出せないことに、気づいていなかった。


琥珀色の瞳へ、眩い光が映り込む。


その輝きは、瞬きをしても消えなかった。


瑞稀は、一歩を踏み出した。


旭と少女が、その隣へ並ぶ。


三人は、凪いだ海を背に、眩い光の道へ歩き出した。

第四十一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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