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第四十話 「月の陰」

第四十話 「月の陰」


光を抜けた先には、果ての見えない夜が広がっていた。


星は、静かに瞬いている。


けれど、どれほど空を見渡しても、月の姿だけが見当たらなかった。


足元には、白銀の砂が続いている。


その先には、夜空をそのまま地上へ移したような、広大な水面が広がっていた。


風はない。


波も立たない。


黒く澄んだ水は、星々の光だけを映している。


「……ここが、月読(つくよみ)様の神域なのでしょうか。」


瑞稀の声が、静かな夜へ溶けていく。


返ってくるはずの反響さえない。


音そのものが、深い闇へ吸い込まれているようだった。


旭は周囲を見渡しながら、右手を静かに開いた。


青白い光が掌へ集まり、一振りの刀へ姿を変える。


「気配はある。」


刀身を走る雷が、暗闇を僅かに照らした。


「けど、どこにいるのか分からない。」


芽衣の襟元から、少彦名神(すくなびこな)が顔を出す。


『月読は、夜を統べる神。』


『この闇すべてが、あの御方の内にあるものと考えた方がよかろう。』


「内にあるもの。」


芽衣は、黒い水面へ視線を落とした。


「じゃあ、この場所自体が、月読様の心みたいなものなのかな。」


『おそらくは。』


瑞稀は、目の前へ広がる水面を静かに見つめた。


星々は映っている。


自分たちの姿も、水際へ近づけば僅かに映る。


けれど、月だけがない。


空にも。


水面にも。


どこにも、その姿は見えなかった。


『――何をしに来た。』


冷ややかな声が、夜の奥から響いた。


どこから聞こえたのか分からない。


頭上からでも、地の底からでもない。


まるで、闇そのものが語りかけているようだった。


瑞稀は、静かに頭を下げる。


「月読様。」


猿田毘古(さるたひこ)様より道を示され、参りました。」


『道を示されたから、来たのか。』


「いいえ。」


瑞稀は、顔を上げた。


「最後に、この道を進むと決めたのは私です。」


短い沈黙が落ちる。


やがて、水面の中央へ小さな波紋が広がった。


『ならば、問おう。』


『お前は、我に何を望む。』


「あなたと、お話をさせていただきたいのです。」


『我を還すためか。』


「それもあります。」


瑞稀は、正直に答えた。


「ですが、何を苦しんでおられるのかも知らずに、槍を向けるつもりはありません。」


『知ったところで、何になる。』


月読の声には、怒りよりも深い諦めが滲んでいた。


『人は、夜を見上げる。』


『月を美しいと言う者もいる。』


『寂しいと語る者もいる。』


『優しいとも、恐ろしいとも。』


水面へ映る星々が、僅かに揺れる。


『だが、それらは皆。』


『月を見ているのではない。』


『我が光へ、己の心を映しているだけだ。』


瑞稀は、黙ってその言葉を受け止めた。


『人は、我を見上げながら、我自身を見ようとはしない。』


天照(あまてらす)のような、眩い光ではない。』


須佐之男(すさのお)のように、激しく荒れ狂うこともない。』


『ただ、静かに夜を照らす我が、何を思い、何を望んでいるのかなど。』


『誰も、知ろうとはしなかった。』


闇が、少しずつ濃くなっていく。


星の光が、一つ、また一つと水面から消えていった。


旭が、刀を構える。


けれど、瑞稀は静かに片手を上げて制した。


月読の言葉は、誰かを傷つけるためのものではない。


長い間、胸の奥へ閉じ込めてきたものが、ようやく外へ零れ始めている。


そう感じた。


「月読様は。」


瑞稀は、闇の奥へ呼びかける。


「見てもらえなかったのではなく。」


一度、言葉を選ぶ。


「見られることを、諦めてしまわれたのではありませんか。」


水面が、大きく波打った。


『何だと。』


「人々が、あなたを正しく理解できなかったことはあったのでしょう。」


「けれど、あなたもまた。」


「理解されないことを恐れ、自ら姿を隠してしまわれた。」


闇の奥から、冷たい気配が押し寄せる。


旭が、瑞稀の隣へ一歩近づいた。


芽衣も、不安そうに瑞稀を見つめている。


それでも瑞稀は、目を逸らさなかった。


『分かったような口を利くな。』


月読の声が、低く響く。


『見られてきた者に、何が分かる。』


『お前は、多くの神に必要とされ。』


『多くの者に、名を呼ばれている。』


『我とは違う。』


「いいえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振った。


「私は、見られていたのではありません。」


胸元へ、そっと手を添える。


「神を迎える器として。」


「荒魂を還す巫女として。」


「本家の血を引く者として。」


「いつも、役目を通して見られていました。」


言葉にするたび、かつての自分の姿が胸の奥へ浮かび上がる。


父の教えに従い。


望みを口にせず。


苦しいとも、寂しいとも言わず。


誰かに理解されることを、初めから諦めていた自分。


「私自身が、何を感じているのか。」


「何を望んでいるのか。」


「私も、誰にも分かってもらえないと思っていました。」


『ならば、我と同じではないか。』


「以前の私は、そうだったのだと思います。」


瑞稀は、隣に立つ二人へ視線を向けた。


芽衣は、何も言わずに瑞稀を見つめている。


旭も刀を下ろし、静かに言葉の続きを待っていた。


「けれど、今は。」


瑞稀は、再び闇へ向き直る。


「私を知ろうとしてくれる人がいます。」


「すべてを理解してもらえているわけではありません。」


「私も、あの人たちのすべてを理解できているわけではありません。」


「それでも。」


「分かり合おうとすることは、できます。」


月読は、答えなかった。


夜の静けさだけが広がる。


「分かってもらえないことが怖くて、何も言葉にしなければ。」


瑞稀は、自分自身へ言い聞かせるように続けた。


「誰にも気づいてもらえないのではなく、自分で、分かり合うための道を閉ざしてしまいます。」


水面へ、再び波紋が広がった。


先ほどよりも小さく、迷うような揺れだった。


『言葉にしたところで。』


月読の声が、僅かに弱くなる。


『届かぬこともある。』


「はい。」


『姿を見せても、誤解されることもある。』


「……はい。」


『それでも。』


暗闇の奥で、何かが揺れた。


『それでも、姿を現せと言うのか。』


瑞稀は、すぐには答えなかった。


自分もまた、言葉にしたことで、すべてがうまくいったわけではない。


公寛へ拒絶を伝えた時も。


父へ思いを告げた時も。


旭へ、自分の意思を示した時も。


相手を傷つけるかもしれないという不安は、消えなかった。


それでも。


「姿を見せなければならないとは、申しません。」


瑞稀は、静かに答えた。


「あなたが、そう望まれないのであれば。」


「無理に、誰かへ理解を求める必要もないと思います。」


月読の気配が、僅かに揺れる。


「ですが。」


瑞稀は、月のない空を見上げた。


「あなた自身まで、あなたの光を、ないものにしないでください。」


それまで揺らぐことのなかった夜が、静かに震えた。


「夜は、昼に光が足りない時間ではありません。」


「暗いからこそ、見えるものがあります。」


「静かだからこそ、聞こえるものもあります。」


瑞稀は、水面へ映る星々へ視線を落とす。


「私は、夜空が好きです。」


旭と芽衣が、静かに瑞稀を見る。


「月を見上げることも。」


「星の光を探すことも。」


「静かな夜の中で、自分の心へ向き合うことも。」


瑞稀の声は、穏やかに夜へ広がっていった。


「それは、昼の代わりではありません。」


「夜にしかない、大切な時間です。」


闇の中から、長い沈黙が返ってくる。


やがて、月読の声が低く、静かに響いた。


『お前は。』


『我を見ているのか。』


「はい。見ています。」


「まだ、あなたのすべてを知れてはいません。」


瑞稀は、正直に答えた。


「ですが、知りたいと思っています。」


その言葉と同時に、黒い水面へ一筋の銀色の光が落ちた。


空には、まだ月はない。


けれど、どこからともなく差し込んだ光が、水面へ細い道を作っている。


瑞稀の足元から、遥か彼方へ続く月明かりの道。


『……そうか。』


月読の声から、僅かに冷たさが薄れた。


『知ろうとする者が、まだいるのか。』


「はい。」


芽衣が、瑞稀の隣へ進み出る。


「私も、知りたいです。」


襟元から、少彦名神が小さく頷いた。


『我も、長らく御身と言葉を交わしておらぬ。』


『よろしければ、また話を聞かせていただきたい。』


旭は、銀色の道の先を見据えた。


「俺は、神のことには詳しくない。」


素直な言葉だった。


「月読のことも、ほとんど知らない。」


暗闇の奥で、僅かに気配が動く。


「でも。」


旭は、刀を光へ変え、静かに消した。


「知らないなら、これから知ればいい。」


「瑞稀が、そうしたいと言うなら。」


「俺も、一緒に聞く。」


月読は、しばらく何も答えなかった。


やがて、銀色の道の先に、一柱の神が姿を現した。


長い銀の髪。


夜色の衣。


静かな光を宿した瞳。


その姿は、天照のように眩しくはない。


けれど、見つめていると、胸の奥のざわめきが静まっていくような、柔らかな神威を纏っていた。


月読は、銀色の道をゆっくりと歩いてくる。


水面へ足を下ろすたび、淡い波紋が広がった。


その波紋の中に、欠けていた月の形が、少しずつ浮かび上がっていく。


『人は。』


月読が、静かに口を開いた。


『我を見る時、己の心を映す。』


『それを、我は長く疎んじていた。』


『我そのものを見ぬのなら、見上げられる意味などないと。』


月読は、瑞稀の前で足を止める。


『だが。』


『人が我へ心を映すこともまた。』


『我が夜に、何かを感じている証なのかもしれぬ。』


瑞稀は、静かに頷いた。


「夜を見て、何を感じるかは、人によって違います。」


「寂しいと思う人も。」


「安心する人も。」


「美しいと感じる人もいるでしょう。」


「ですが、その心を受け止められるのは。」


瑞稀は、目の前の神をまっすぐに見つめた。


「月読様の夜が、そこにあるからです。」


月読の瞳が、僅かに揺れる。


『我が夜は。』


『無意味ではなかったのか。』


「はい。」


その瞬間、水面へ映る星々が一斉に明るさを増した。


夜空の中央に、細い銀色の弧が現れる。


新月から生まれたばかりのような、細い月。


月は、少しずつ満ちていく。


三日月から半月へ。


半月から、柔らかな満月へ。


月光が、神域全体を照らした。


闇は、消えない。


けれど、もう何も見えない暗闇ではなかった。


静かな夜の中へ、確かな光が満ちている。


月読の瞳を覆っていた濁りも、ゆっくりと薄れていった。


『瑞稀。』


「はい。」


『我は長く、姉上の光と己を比べていた。』


『あの光が、あまりに眩しいゆえに。』


『我が光は弱く、価値のないものだと思っていた。』


『だが。』


月読は、頭上の月を見上げる。


『夜には、夜の光がある。』


「はい。」


『我は、それを。』


『もう一度、信じてもよいのだろうか。』


「はい。」


瑞稀は、静かに微笑んだ。


「私も、あなたの光を信じます。」


月読の表情が、僅かに和らいだ。


やがて、その身体から青白い光が溢れ始める。


荒ぶる気配は、もう残っていない。


瑞稀は、右手を掲げた。


淡い光が集まり、一振りの槍へ姿を変える。


両手を柄へ重ね、静かに頭を下げた。


「――御霊よ。」


祝詞の声が、月明かりの下へ広がっていく。


「畏み、畏み申し上げる。」


槍を中心に、淡く輝く文字が銀色の水面へ浮かび上がった。


文字は波紋へ乗り、月読の足元まで静かに届いていく。


「御神の御許へ還り給え。」


――シャン。


神楽鈴の澄んだ音が、静かな夜へ響いた。


月読を包む光が、頭上の月と同じように柔らかく輝く。


『礼を言う。』


月読の声が、光の中から届く。


『お前が我を、すべて理解したとは思わぬ。』


「はい。」


『だが。』


『理解しようとしたことを、我は忘れぬ。』


瑞稀は、深く頭を下げた。


月読の姿が、少しずつ銀色の光へ溶けていく。


その光は天へ昇らず、水面へ静かに広がった。


やがて、神域全体が月明かりに包まれる。


月読の姿が消えたあと、水面には、満ちた月がはっきりと映っていた。



しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。


夜は、先ほどまでと同じように静かだった。


けれど、その静けさは、何かを拒むものではない。


心を落ち着かせ、言葉にならない思いへ耳を澄ませるための静けさだった。


「きれいだね。」


芽衣が、水面へ映る月を見つめながら呟く。


「はい。」


瑞稀も、静かに頷いた。


旭が、隣へ立つ。


「夜空が好きだったんだな。」


瑞稀は、僅かに目を見開いた。


「お話ししたことは、ありませんでしたか。」


「聞いた覚えはない。」


「そうでしたか。」


瑞稀は、改めて夜空を見上げる。


「昔から、好きでした。」


「誰も起きていない時間に、一人で空を見ていると。」


「少しだけ、役目から離れられる気がしていたのかもしれません。」


旭は、瑞稀の横顔を静かに見つめた。


「じゃあ。」


「今度、一緒に見るか。」


「夜空を、ですか。」


「ああ。」


「戦いも、神託もない時に。」


旭は、少し気まずそうに視線を逸らす。


「ただ見るだけでも、いいだろ。」


瑞稀の胸へ、温かなものが広がった。


「はい。」


微かな笑みを浮かべる。


「楽しみにしています。」


少し離れた場所で、芽衣が口元を押さえている。


「芽衣。」


「何でもないよ。」


そう答えながらも、頬は明らかに緩んでいた。


『静かにしておけ。』


少彦名神が、呆れたように芽衣の襟元へ引っ込む。


その時。


水面へ映る月の中央から、一筋の光が伸びた。


光は、白銀の砂の上へ降り、次の道を形作っていく。


先ほどまでの静かな月光とは異なる、激しく荒々しい気配。


遠くから、海が荒れるような音が聞こえた。


少彦名神が、光の先を見据える。


『次の道が開いたようだ。』


「須佐之男様のもとへ。」


瑞稀は、呟いた。


穏やかな月の夜の先に、激しい嵐の気配が待っている。


瑞稀は槍を光へ戻し、旭と芽衣へ目を向けた。


二人とも、静かに頷く。


三人は、水面へ映る月を、もう一度だけ振り返った。


その光は、誰かと比べることなく、静かに、確かに夜を照らしていた。


瑞稀たちは並んで、次の道へ歩き出した。

第四十話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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