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第三十九話 「鏡合わせ」

第三十九話 「鏡合わせ」


拝殿に、一人。


忠司(ただし)は、御神鏡の前へ座っていた。


伊勢へ向かった三人は、今頃、八咫鏡(やたのかがみ)が開いた道を進んでいるのだろうか。


そう思うと、じっとしてはいられなかった。


けれど、自分にできることは何もない。


ただここで、瑞稀たちの無事を祈ることだけだった。


「……瑞稀。」


小さく、その名を呼ぶ。


娘が生まれてから、今日まで。


守るということが何なのか分からないまま、ここまで来た気がする。


厳しくすることが正しいと思っていた。


感情を、なるべく表へ出させないように。


いつか背負うことになる重さへ、押し潰されないように。


それが、せめて自分にできることだと思っていた。


けれど、本当にそれでよかったのか。


今も、答えは出ていない。


その時だった。


御神鏡が、静かに淡い光を帯び始めた。


「……これは。」


忠司は、息を呑んだ。


鏡面が、揺らめく水面のように波打っている。


伊勢の八咫鏡が、高天原への道を開いた影響だろうか。


あるいは、花里家に残された形代が、その道の光へ応えているのか。


忠司には分からなかった。


ただ、光が一際強くなった瞬間、鏡の向こうから懐かしい香りが、微かに漂ってきた。


「……忠司さん。」


その声を聞いた瞬間、忠司の胸が大きく震えた。


十年。


一度も忘れたことはなかった。


けれど、もう二度と聞くことはできないと、どこかで諦めていた声だった。


鏡の中で、淡い光が人の姿を結んでいく。


長い黒髪。


瑞稀よりもなお長い、艶やかな髪が、光の中で緩やかに揺れていた。


穏やかな、けれど、どこか寂しげな笑みを浮かべた女性が、そこに立っている。


朱莉(あかり)……。」


忠司は立ち上がろうとして、足をもつれさせた。


「朱莉、なのか。」


「はい。」


朱莉は、静かに頷く。


その目へ、みるみる涙が浮かんでいった。


「本当に、忠司さんですね。」


「夢ではありませんね。」


「……夢じゃない。」


忠司は、鏡の前へ膝をつくようにして近づいた。


触れられないと分かっていても、手を伸ばさずにはいられなかった。


朱莉も、同じように鏡の向こうから手を伸ばす。


指先が、鏡面を隔てて重なった。


冷たいはずの鏡が、その瞬間だけ、確かな温もりを伝えてきた気がした。


「……会いたかったです。」


朱莉の声が、震える。


「毎日、会いたいと思っていました。」


「私も。」


忠司の声も、掠れていた。


「毎日、思っていた。」


しばらく、二人とも言葉にできなかった。


ただ、鏡越しに互いの顔を見つめ続ける。


失われた十年が、消えるわけではない。


それでも、離れていた時間の中で、互いを想い続けていたことだけは、その眼差しですぐに分かった。


「どうして、今……。」


忠司が呟くと、朱莉は鏡面へ視線を落とした。


「伊勢の八咫鏡が、高天原への道を開いたからだと思います。」


「その光が、花里家に残した形代にも届いたのでしょう。」


朱莉は、自分の手のひらを静かに見つめる。


「これほどはっきりと、現世へ姿や声を届けられたのは、私も初めてです。」


「今までも、こちらが見えていたのか。」


「いつもではありません。」


朱莉は、少し寂しそうに首を横へ振った。


「鏡の向こうへ、ほんの一瞬だけ景色が映ることがありました。」


「声が、途切れ途切れに届くことも。」


「ですが、こちらから呼びかけても、現世へ届くことはありませんでした。」


忠司は、鏡へ重ねた手に力を込めた。


朱莉は、ずっと近くにいながら、見えても声を届けることさえできなかった。


その苦しさを思うと、胸が締めつけられた。


「……高天原は、どうだ。」


ようやく、忠司は声を絞り出した。


「つらくはないか。」


朱莉は、少し困ったように微笑む。


「つらくないと言えば、嘘になります。」


「ですが、あなたたちが生きている。」


「それだけが、支えです。」


「……そうか。」


「忠司さんは。」


朱莉が、鏡越しに忠司の顔を覗き込む。


「ちゃんと眠れていますか。」


「ちゃんと食べていますか。」


「一人で無理をしていませんか。」


矢継ぎ早に問われ、忠司は思わず小さく笑った。


「……変わらないな、お前は。」


「私のことより、瑞稀のことを聞くと思っていた。」


「瑞稀のことも、もちろん聞きたいです。」


朱莉は、少し拗ねたように頬を膨らませる。


「でも、忠司さんのことも、ちゃんと心配しているんです。」


「一人にして、寂しい思いをさせているのは、私の方なのに。」


その言い方に、忠司は懐かしさで胸が詰まった。


昔から、こうだった。


朱莉は、いつも誰かを気遣ってばかりで、それでいて、少しだけ甘えたがりなところがあった。


「瑞稀は。」


忠司は、静かに話し始めた。


「立派に育った。」


「巫女としての務めを背負って。」


「それでも、自分の意思で生きようとしている。」


朱莉は、目を細めた。


「そうですか。」


「大切な人も、見つけたようだ。」


朱莉の目が、大きく見開かれる。


「大切な人……。」


「秋葉の子だ。」


「幼い頃から、瑞稀の傍にいた。」


「覚えているか。」


「覚えています。」


朱莉は、右手を頬へ添える。


「よく瑞稀の後ろをついて回っていた、あの子ですね。」


「そうだ。」


「まあ……。」


朱莉の頬が、ほんのりと赤くなる。


「あの二人が。」


「そうか、そうですか。」


嬉しそうに、けれど少し切なそうに、朱莉は目を細めた。


「私が見られなかった間に、瑞稀は色々なことを乗り越えてきたのですね。」


「ああ。」


忠司は、頷いた。


「代償で、多くのものを失いながらだが。」


朱莉の表情が、僅かに曇る。


「……知っています。」


「鏡越しに、あの子の姿が見えることがありました。」


「何かを失うたびに、胸が張り裂けそうになりました。」


「代わってやれるものなら、代わってやりたい。」


「けれど、それも私にはできません。」


朱莉の声に、深い悔しさが滲んだ。


「朱莉。」


忠司は、静かに名を呼ぶ。


「お前のせいじゃない。」


「ですが。」


「私が、天照(あまてらす)様の荒魂をお預かりすることを選んだから。」


「瑞稀は、母を持たないまま、重い役目を背負うことになりました。」


「もし、私が。」


「もし、あの時――」


「瑞稀は、一人じゃない。」


忠司は、少し強い声で朱莉の言葉を遮った。


「秋葉の子がいる。」


「友人もいる。」


「神々も、力を貸してくれている。」


一度、息を整える。


それから、鏡の中の朱莉をまっすぐに見つめた。


「そして、私がいる。」


朱莉は、しばらく忠司を見つめ返していた。


やがて、堪えきれなくなったように、静かに涙をこぼした。


「……ずるいです。」


「そんなふうに言われたら。」


「もっと、忠司さんに会いたくなってしまいます。」


「私もだ。」


忠司は、鏡へ重ねた手を動かさなかった。


「会えない間も、私の心はずっとお前の傍にいる。」


「そうですね。」


朱莉は、涙を拭いながら笑った。


「では、聞かせてください。」


「私が知らない、この十年の話を。」


「全部。」


それから忠司は、朱莉にこれまでのことを話し始めた。


幼い頃の話から瑞稀が、初めて神卸を経験した日のこと。


一つ、また一つと、御霊還しを重ねてきたこと。


記憶を失うたびに、それでも前を向こうとしてきたこと。


秋葉の子と、少しずつ心を通わせていったこと。


本家から持ち込まれた縁談。


それを瑞稀が、自分の意思ではっきりと拒んだこと。


朱莉は、時に笑い、時に涙を流しながら、その一つ一つへ耳を傾けた。


「……瑞稀は。」


すべてを聞き終えた朱莉が、静かに呟く。


「思っていたよりも、ずっと強い子に育ちましたね。」


「お前に似たんだろう。」


忠司が言うと、朱莉は首を横へ振った。


「いいえ。」


「忠司さんが、育てたんです。」


忠司は、鏡から僅かに目を伏せる。


「厳しくしすぎたと、ずっと悔いていた。」


「母親を失った子へ、役目を背負わせることしか教えられなかった。」


「厳しさの中にも。」


朱莉は、優しく微笑んだ。


「愛情は、きっと伝わっていました。」


「そうだろうか。」


「はい。」


朱莉は、迷わず頷く。


「瑞稀は、あなたに頭を撫でられるたび、ほんの少しだけ安心した顔をしていました。」


「鏡越しに見えた、僅かな時間だけでも、あの子があなたを信じていることは分かりました。」


「……そうか。」


忠司の声が、小さく震えた。


「あなたが思っているよりも。」


朱莉は、いたずらっぽく笑う。


「私は案外、見ていたんですよ。」


その笑顔に、忠司の胸が温かくなった。


十年前と、何も変わらない。


朱莉は、朱莉のままだった。


「これから。」


朱莉の表情が、静かに引き締まる。


「瑞稀たちは、月読(つくよみ)様のもとへ向かいます。」


「そして、いずれ。」


須佐之男(すさのお)様、天照様のもとへも。」


「ああ。」


「その先に。」


朱莉は、一度言葉を止めた。


「私もいます。」


忠司の胸が、強く騒ぐ。


「その時は。」


朱莉は、静かに、けれど確かな声で告げた。


「私が、瑞稀に直接伝えます。」


「今、伝えたいこともたくさんありますが。」


「それは、あの子の顔を見てから、ちゃんと伝えたいのです。」


「……分かった。」


忠司は、静かに頷いた。


鏡面の光が、少しずつ揺らぎ始める。


「もう、時間のようです。」


朱莉が、寂しそうに鏡へ視線を落とした。


「……そうか。」


「忠司さん。」


朱莉は、もう一度、鏡越しに手を伸ばす。


「待っていてください。」


「必ず、また会いに来ますから。」


「今度こそ。」


朱莉の表情が、少しだけ明るくなる。


「この目で、瑞稀の花嫁姿も見てみたいですし。」


「気の早いことを言うな。」


忠司が、思わず苦笑する。


朱莉も、涙を浮かべたまま明るく笑った。


「本気ですよ。」


「私は、ずっと、あなたと瑞稀のことをここから見守っていますから。」


「ああ。」


忠司は、朱莉の姿を目へ焼きつけるように見つめた。


「待っている。」


光が一際強く輝き、それから、ゆっくりと収まっていく。


朱莉の姿が、少しずつ光へ溶けていった。


「……忠司さん。」


最後に、朱莉の声が小さく響く。


「愛しています。」


「私も。」


忠司も、静かに答えた。


「愛している。」


光が消えていく。


鏡面は、やがて、いつもどおりの静かな鏡へ戻った。


拝殿には、忠司一人が残される。


けれど、その胸の中には、十年ぶりに感じた確かな温もりが、まだ残っていた。


忠司は、静かに鏡へ向かって頭を下げる。


「……行ってきなさい、瑞稀。」


誰もいない拝殿へ、その声だけが静かに響いた。

第三十九話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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