第三十七話 「雷神の一撃」
第三十七話 「雷神の一撃」
夢だった。
けれど、いつもの夢とは違う。
瑞稀は、白く霞んだ道の上に立っていた。
足元には丸い石が敷き詰められている。
見覚えのある道だった。
『――久しいな。』
穏やかな声が、前方から響く。
顔を上げると、そこには、瑞稀が初めて契りを結んだ神が立っていた。
「猿田毘古様。」
瑞稀が静かに頭を下げると、猿田毘古はいつもと変わらぬ笑みを浮かべたまま、瑞稀を見つめた。
『息災か。』
「はい。」
『そうか。』
猿田毘古は、道の先へ視線を向ける。
『瑞稀よ。そろそろ、時が満ちた。』
「時、とは。」
『終わりへ向かう道だ。』
猿田毘古の声が、僅かに低くなる。
『月読。』
『須佐之男。』
『天照。』
その名を聞いた瞬間、瑞稀の胸が大きく騒いだ。
『この三柱を還した先に、すべての答えがある。』
「私は、異変が起きるのを待たなくてよいのですか。」
これまでは、いつもそうだった。
町のどこかで異変が起き、気配を辿り、還す相手を見つける。
その繰り返しだった。
『もう、待つ時ではない。』
猿田毘古は、静かに首を横へ振る。
『向かうべき時を、時が教えてくれるのではない。』
『お前が決めるのだ。』
道を司る神の声には、いつになく確かな重みがあった。
『まずは、月読のもとへ向かうがいい。』
『三貴子へ至る道は、そこから開かれる。』
瑞稀は、深く頭を下げた。
「はい。」
視界が、ゆっくりと白く滲んでいく。
瑞稀が顔を上げた時には、もう猿田毘古の姿は光の中へ消えていた。
◇
朝。
瑞稀は、夢で聞いたことを、そのまま旭へ伝えた。
石段の下で、旭はしばらく黙って話を聞いていた。
「――月読か。」
「はい。」
「三貴子のうち、最初に向き合う神だな。」
旭は、拝殿の方角へ静かに目を向ける。
「行くしかないな。」
「はい。」
瑞稀は頷いた。
けれど、旭の横顔には、いつもと違う色が浮かんでいる。
「……旭。」
「何だ。」
「何か、気にかかることがあるのですか。」
旭は、少しの間答えなかった。
やがて、自分の右手へ視線を落とす。
「月読のもとへ向かう前に、確かめておきたいことがある。」
「確かめたいこと、とは。」
「この前の戦いから、建御雷神の力が少し変なんだ。」
「変、とは。」
「ああ。」
旭は、静かに拳を握る。
「今まで使っていた力の奥に、まだ何かある。」
瑞稀は、旭の手を見つめた。
「危険なのですか。」
「分からない。」
旭は、瑞稀へ視線を戻す。
「だから、月読のもとへ行く前に確かめたい。」
「私も一緒に参ります。」
瑞稀は、迷わず答えた。
けれど、旭は静かに首を横へ振る。
「いや。」
「どうしてですか。」
「建御雷神の力は、俺が受け継いできたものだ。」
旭は、握った拳を見つめる。
「何があるのか分からないなら、最初に向き合うのは俺じゃないといけない。」
瑞稀は、すぐには答えなかった。
旭が自分の意思で決めたことを、代わりに変えるべきではない。
つい先日、自分たちが選んだ答えだった。
「……分かりました。」
瑞稀は、静かに頷く。
「ですが、終わったら必ず、私に話してください。」
「ああ。」
旭は、短く答えた。
◇
その日の放課後。
旭は一人、神社の裏手にある古い杉の木の下へ立っていた。
空は朝から重く曇り、遠くでは低い雷鳴が響いている。
旭は、右手を静かに握った。
思金神と太玉命の荒魂と戦った時から、身体の奥に、これまでとは違う力が残っていた。
建御雷神の雷。
幼い頃から一緒だった、青白い神威。
そのさらに奥に、まだ触れたことのない、荒々しい気配がある。
気づいていなかったわけではない。
けれど、今までは触れる必要がなかった。
「……いるんだろ。」
旭が、低く呼びかける。
直後、頭上で雷が轟いた。
『――待っていたぞ。』
低い声が、空から降ってくる。
旭が顔を上げると、青白い光の中に巨躯の神が立っていた。
建御雷神。
物心がつく前から、旭の傍らにいた守護神。
幼い頃、刀の握り方も、足の運び方も、最初に教えたのはこの神だった。
厳しくも、どこか大らかな師。
目の前に立つ姿は、あの頃から何一つ変わっていない。
けれど、纏う気配の奥には、旭が感じ取っていたものと同じ、鋭い雷が潜んでいた。
「やっぱり、まだ隠してる力があるんだな。」
建御雷神は、しばらく旭を見つめたあと、静かに頷く。
『左様。』
『我の荒魂だ。』
旭の眉が、僅かに寄った。
「荒魂?」
『お前がまだ幼かった頃、我は、その姿を決して見せぬと誓った。』
「なぜだ。」
『幼い子どもには、雷神の荒々しさはあまりに過ぎる。』
『力へ呑まれ、お前自身を損なうと思った。』
建御雷神は、旭を静かに見つめる。
『だが、お前はもう幼くない。』
「今の俺なら、耐えられると。」
『いや。』
建御雷神は、首を横へ振った。
『耐えられるかどうかは、分からぬ。』
「……は?」
『だからこそ、お前自身で確かめねばならぬ。』
一際大きな雷鳴が轟く。
『月読のもとへ向かうならば、和魂の力だけでは足りぬ。』
『我が、もう半分。』
『お前は、それを御することができるか。』
旭は、右手を静かに開いた。
守ると決めた意思へ応えるように、青白い光が掌へ集まる。
光は長く形を伸ばし、一振りの刀へ姿を変えた。
「御霊還しは、しないのか。」
『これは、お前と我だけの話だ。』
建御雷神は、静かに答える。
『あの娘の力を借りて乗り越えては、意味がない。』
「……分かった。」
旭は刀を構えた。
「やろう。」
空が、一層黒く染まっていく。
◇
一瞬の後、旭の視界は真っ白な雷光へ包まれた。
気づけば、辺りは荒れ果てた岩山の頂へ変わっている。
黒雲が渦を巻き、絶え間なく雷が地上へ落ちていた。
その中心には、先ほどとは異なる建御雷神の姿がある。
赤黒く濁った瞳。
全身から、青白い雷が絶え間なく迸っている。
『――構えよ。』
低い声が、岩山へ響いた。
建御雷神の荒魂が、右手を掲げる。
青白い雷が掌へ集まり、やがて一振りの刀へ姿を変えた。
旭のものよりも長く、厚い刃。
刀身の周囲では、絶え間なく雷が弾けている。
荒魂が、一歩踏み込んだ。
次の瞬間。
雷光とともに、刃が旭の眼前へ迫る。
旭は、咄嗟に刀で受け止めた。
金属がぶつかる音よりも先に、凄まじい衝撃が両腕を貫く。
足元の岩が砕け、旭の身体が大きく後方へ押し戻された。
「――ッ!」
重い。
ただ、力任せに振るわれた刃ではない。
鋭く、速く、一切の迷いがなかった。
これまで共に戦ってきた、穏やかな神威とはまるで違う。
旭は、刃を滑らせるように受け流し、間合いを取った。
刀身へ、青白い光を纏わせる。
けれど、いつものように力が乗らない。
『気づいたか。』
荒魂が、低く嗤う。
『和魂から借りた力だけでは、我には届かぬ。』
「なら、どうすればいい。」
『問うな。』
雷が、旭の足元へ落ちた。
爆音とともに岩肌が抉れ、砕けた石が頬を掠める。
『己で掴め。』
旭は、刀を構え直した。
これまで、幾度となく荒魂と戦ってきた。
火之迦具土の炎も、大山祇神の重さも、思金神と太玉命の惑わしも経験した。
けれど、この力は、そのどれとも違っていた。
荒々しいだけではない。
迷いのない剣筋。
雷とともに振るわれる刃は鋭く、重く、受けるたびに旭の腕から感覚を奪っていく。
荒魂の刀が、横薙ぎに振るわれた。
旭は身を沈めて刃をかわし、そのまま懐へ踏み込む。
反撃の一閃を放つが、荒魂は刀を返し、容易く受け止めた。
二振りの刀が噛み合う。
青白い雷が激しく弾け、足元の岩が砕け散った。
「……お前も、建御雷神なんだろ。」
旭は、刃を押し返しながら低く問う。
『無論だ。』
「なら、どうして俺を潰すような真似をする。」
荒魂の刀が、旭の刃を弾いた。
体勢を崩した旭へ、間髪を入れず次の一撃が迫る。
旭は刀を立てて受け止めたが、衝撃へ耐えきれず、数歩後方へ押し戻された。
『我が和魂がお前へ寄り添ってきたからこそ、我はお前へ容赦せぬ。』
荒魂の声には、微かな笑みが混じっている。
『穏やかな力だけを知ったままでは、お前は我がすべてを御することなどできぬ。』
「穏やかだろうが、荒々しかろうが、お前の力には変わらないだろ。」
『本当に、そう思っているか。』
荒魂の姿が、雷光とともに消えた。
次の瞬間、旭の背後から刃が振り下ろされる。
旭は、振り向きざまに受け止めた。
刀身同士が激突し、白い閃光が視界を焼く。
『お前は、巫女の隣に立つと決めた。』
荒魂は刃を押し込みながら、旭を見据えた。
『だが、月読の先には須佐之男が待つ。』
『天照が待つ。』
旭の両腕が震える。
荒魂の刀は、少しずつ旭の肩へ近づいていた。
『それらは今、お前が向き合っている力より、遥かに大きい。』
旭は、奥歯を噛み締める。
『お前は今のままで、あの娘の隣に立ち続けられると思うか。』
その言葉が、旭の胸を深く刺した。
これまでは、和魂の力だけで十分だった。
けれど、この先に待つものは、もっと大きい。
もっと恐ろしいものかもしれない。
瑞稀が自ら進むと決めた道で、自分だけが力不足で取り残されるかもしれない。
刀を押し込む力が、さらに強くなる。
『答えよ。』
荒魂の声が、雷鳴のように響いた。
『今のままで、隣に立てるか。』
「……立つ。」
旭は、静かに答えた。
『何だと。』
「立ち続ける。」
旭は足へ力を込め、荒魂の刃を僅かに押し返す。
「今のままでは足りないなら、足りるようになるまでだ。」
その言葉と同時に、旭の身体の奥で何かが軋んだ。
これまで、無意識に抑え込んでいたもの。
守るためだけではない。
自分の望む場所へ進むための、剥き出しの力。
荒々しく、触れれば自分さえ傷つけかねない雷が、身体の奥から溢れ出す。
青白い光は皮膚を焼き、筋肉を痺れさせ、骨の奥まで軋ませながら旭の腕を駆け、刀身へ流れ込んだ。
『その力を、恐れぬか。』
荒魂が問う。
「怖くないわけじゃない。」
旭は、歯を食いしばる。
それでも、旭は力を手放さなかった。
「でも、これもお前の力だ。」
荒魂の目が、僅かに細められる。
「和魂も、荒魂も、どっちも建御雷神なんだろ。」
『左様。』
「なら、片方だけ借りて、分かったつもりにはならない。」
旭は、荒魂の刀を強く押し返した。
「荒魂の力も、俺が受け止める。」
『呑まれるやもしれぬぞ。』
「呑まれない。」
『何を根拠に。』
「俺が、この力を何のために使うのか、決めてるからだ。」
旭は、一歩踏み込む。
荒魂の刃が、僅かに軋んだ。
「誰かを従わせるためじゃない。」
さらに一歩。
「瑞稀の前に立って、全部を代わりに受けるためでもない。」
旭の刀を覆う雷が、次第に鋭さを増していく。
「俺が選んだ場所に。」
旭は、荒魂をまっすぐに見据えた。
「瑞稀の隣に立つためだ。」
二振りの刀の間で、雷が爆ぜる。
荒魂が一度距離を取り、刀を大きく振り上げた。
黒雲の中を走っていた雷が、すべてその刃へ集まっていく。
『ならば。』
荒魂の声が、岩山全体を震わせる。
『我が一撃を、受けてみせよ。』
荒魂が、地面を蹴った。
雷光よりも速く、その刃が旭へ迫る。
旭は、逃げなかった。
両手で刀を握り、正面から迎え撃つ。
二振りの刃が、激突した。
轟音。
雷が岩山を駆け抜け、視界のすべてが白く染まる。
足元の岩が崩れ、旭の身体が押し潰されそうになる。
それでも、旭は退かなかった。
「和魂も。」
旭の刀へ、青白い光が集まる。
「荒魂も。」
荒魂の刃へ、一本の亀裂が走った。
「どっちも、お前だ。」
亀裂は、少しずつ刀身全体へ広がっていく。
「なら。」
旭は、残る力のすべてを刃の一点へ集めた。
「両方まとめて、俺が背負う。」
刀を振り抜く。
青白い閃光が、荒れ果てた岩山をまっすぐに切り裂いた。
荒魂の刀が砕け、雷の破片が無数の光となって周囲へ舞い上がる。
建御雷神の荒魂は、大きくよろめいた。
『……見事だ。』
低く荒々しい声が、僅かに笑みを含む。
旭は肩で息をしながら、刀を下ろした。
腕は痺れ、指先の感覚もほとんどない。
けれど、その痛みの奥には、これまでにない確かな手応えがあった。
その時、荒魂の隣へ青白い光が集まっていく。
光の中から現れたのは、旭がよく知る建御雷神の和魂だった。
穏やかな神と、荒々しい神。
同じ顔を持ちながら、纏う気配はまるで違う。
二柱の建御雷神が、並んで旭を見つめていた。
和魂が、静かに口を開く。
『我が力の、もう半分。』
続いて、荒魂が口元を僅かに歪める。
『お前は確かに、受け止めた。』
「倒したわけじゃないのか。」
『我を斬り伏せることが、目的ではない。』
建御雷神の口元へ、僅かな笑みが浮かぶ。
『荒魂の力を拒まず、呑まれもせず、己の意思で握ること。』
『それが、この試しだ。』
和魂は、旭の刀へ視線を落とした。
『これより、我が和魂と荒魂、その両方の力をお前へ預けよう。』
赤黒い光と青白い光が、旭の刀へ流れ込んでいく。
刀身を覆う雷が、一際強く輝いた。
荒々しい。
けれど、先ほどまでのように制御を失ってはいない。
旭の意思へ応えるように、刃の上で静かに脈打っている。
『ただし。』
旭は、顔を上げた。
『強さとは、すべてを一人で受け止めることではない。』
荒魂が続ける。
『あの娘が隣を選ぶなら、お前もまた隣に立て。』
旭は、しばらく二柱の建御雷神を見つめた。
やがて、短く頷く。
「分かってる。」
『本当に分かっておるのか。』
「……多分。」
和魂が、低く笑った。
『ならばよい。』
岩山を覆っていた黒雲が、晴れていく。
雷鳴は次第に遠ざかり、割れた岩肌へ静かな光が差し込んだ。
◇
気づくと、旭は神社の裏手にある杉の木の下へ戻っていた。
空には、いつの間にか夕暮れの色が広がっている。
制服は所々焼け焦げ、腕には強い痺れが残っていた。
それでも、刀を握る手には、これまでとは違う確かな力が宿っている。
旭が手を開くと、役目を終えた刀は光となって消えていった。
「――旭!」
声に振り返る。
瑞稀が、こちらへ駆けてくるところだった。
「瑞稀。」
「その傷……。」
瑞稀は旭の前へ立つと、焼け焦げた制服と傷ついた腕を見つめた。
「大したことじゃない。」
「その言葉を信用できる状態には見えません。」
瑞稀の声は静かだったが、僅かに硬い。
旭は、思わず目を逸らした。
「……悪かった。」
瑞稀は、僅かに目を見開く。
旭が素直に謝るとは、思っていなかったのだろう。
「終わったのですか。」
「ああ。」
旭は、静かに頷いた。
「確かめたかったことは、分かった。」
「何があったのか、話していただけますか。」
旭は、一瞬だけ言葉を探すように目を伏せた。
「建御雷神の荒魂と、向き合ってた。」
瑞稀の瞳が、僅かに揺れる。
「荒魂……。」
「ああ。」
旭は、自分の右手を見つめる。
「今まで俺が借りていたのは、和魂の力だけだった。」
「だが、今その奥にあった荒魂の力も、受け入れた。」
「では、その傷は……。」
「そのせいだ。」
瑞稀の表情が、僅かに曇る。
旭は、それ以上心配させまいとするように続けた。
「でも、もう大丈夫だ。」
「建御雷神の力が何だったのかは、分かった。」
瑞稀は、しばらく旭を見つめていた。
「……すべてを、お話しくださるつもりはないのですね。」
旭は、少しだけ困ったように目を逸らす。
「細かいことは、また話す。」
瑞稀は、少しだけ目を細めた。
「私も先日、同じようなことを申し上げましたね。」
「ああ。」
旭の口元へ、微かな笑みが浮かぶ。
「お互い様だな。」
「そうかもしれません。」
瑞稀の表情も、僅かに和らいだ。
けれど、すぐに旭の腕へ視線を戻す。
「まず、手当てをします。」
「これくらいなら、放っておいても――」
「手当てをします。」
「……分かった。」
夕暮れの風が、二人の頬を静かに撫でていく。
瑞稀は歩き出そうとして、ふと足を止めた。
「旭。」
「何だ。」
「月読のもとへ向かうことに、変わりはありませんか。」
旭は、自分の右手を見つめる。
建御雷神の和魂と荒魂。
二つの力が、今も身体の奥で静かに脈打っていた。
「変わらない。」
旭は拳を握り、瑞稀をまっすぐに見る。
「月読のもとへ向かおう。」
「今度は。」
一度、言葉を切る。
「今までより、ちゃんと隣に立てる。」
瑞稀は、旭を静かに見つめた。
「今までも、ちゃんと隣に立ってくださっていました。」
「……そうだな。」
「はい。」
瑞稀は、僅かに首を傾げる。
「ですが、これからもよろしくお願いいたします。」
旭の目が、僅かに見開かれた。
やがて、照れを隠すように顔を背ける。
「ああ。」
二人は並んで、神社へ向かって歩き始めた。
夕暮れの境内へ、二人の影が長く伸びていく。
その先には、月の神へ続く、まだ見ぬ道が待っていた。
第三十七話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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