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第三十六話 「通う心」

第三十六話 「通う心」


その頃。


瑞稀がまだ白い領域で、自らの答えを選んでいた頃。


旭は、赤黒く染まった荒れ果てた領域に立っていた。


地面は割れ、空には幾重もの黒雲が渦巻いている。


目の前には、二柱の荒魂。


一柱は、赤黒く濁った目で御幣を握る、太玉命(ふとだまのみこと)


もう一柱は、同じく濁った双眸を細め、静かに旭を見据える、思金神(おもいかねのかみ)だった。


『――何のために、戦う。』


太玉命の荒魂が、低く問う。


『誰のために、何を捧げる。』


「瑞稀のためだ。」


旭は、即座に答えた。


思金神の荒魂が、愉快そうに目を細める。


『それだけか。』


『守っているつもりで、縛っているのではないか。』


その言葉と同時に、旭の周囲へ無数の瑞稀の姿が現れた。


泣いている瑞稀。


槍を握っている瑞稀。


荒木田家の白無垢を纏った瑞稀。


記憶を失い、旭の名さえ分からなくなった瑞稀。


『お前が傍にいるから、あの娘は戦い続けているのではないか。』


『お前が守ろうとするから、あの娘は弱いと言えぬのではないか。』


旭の刀が、僅かに揺れた。


太玉命の荒魂は、その隙を逃さなかった。


御幣を刃のように振るう。


旭は、刀で受け止めた。


激しい衝撃が走り、地面が大きく抉れる。


「くっ……!」


旭の足が、土へ沈んだ。


『答えよ。』


太玉命の荒魂が、御幣を押し込む。


『瑞稀が、お前のいない道を望んだ時。』


『それでも、傍にいると言えるのか。』


旭は、奥歯を噛み締めた。


答えは、すぐには出なかった。


「……分からない。」


旭が、低く吐き出す。


思金神の荒魂が、静かに嗤った。


『ならば、お前の思いはただの独善だ。』


周囲へ浮かんだ瑞稀の幻が、一斉に旭へ手を伸ばす。


黒い指が、腕へ、肩へ、刀を握る手へ絡みついた。


『守りたいという願いも。』


『傍にいたいという思いも。』


『すべて、己のためではないのか。』


旭の腕が、引き下ろされていく。


刀身が、少しずつ地面へ近づいた。


「……そうかもしれない。」


旭は、低く呟く。


『認めるか。』


「ああ。」


旭は、伏せていた顔を上げた。


「俺が瑞稀の傍にいたいのは、瑞稀のためだけじゃない。」


思金神の荒魂の瞳が、僅かに揺れる。


「俺が、傍にいたいからだ。」


刀身へ、青白い光が走った。


建御雷神(たけみかづちのかみ)の雷が、旭の腕から刀へ激しく迸る。


轟音。


絡みついていた黒い指が雷に打たれ、一斉に弾け飛んだ。


周囲へ重なっていた瑞稀の幻も、青い閃光に切り裂かれ、無数の光片となって砕け散る。


旭は、刀を振り抜いた。


「自分のために傍にいたいと思うことまで、嘘にするつもりはない。」


太玉命の荒魂が、地面を蹴る。


白い紙垂が無数の帯となって伸び、旭の両腕と刀へ絡みついた。


『ならば、その思いをあの娘へ押しつけるのか。』


紙垂が強く締まり、旭の動きを封じる。


『お前の願いで、あの娘の道を縛るのか。』


旭は、動かない刀を見つめた。


その脳裏へ、瑞稀の言葉が蘇る。


――私が望まないと申し上げても。


――私の意思より優先されるのでしょうか。


本家へ向けて告げた問い。


けれど、それは旭自身にも向けられているのかもしれない。


守りたい。


戦わせたくない。


失わせたくない。


そのすべてを理由に、瑞稀の選択を自分が決めようとしてはいなかったか。


「……俺が。」


旭は、静かに息を吐いた。


「決めることじゃない。」


太玉命の荒魂が、僅かに目を細める。


「瑞稀が槍を置きたいと言うなら、俺は止めない。」


『戦う道を選べば。』


「隣に立つ。」


『本家へ行くと選べば。』


旭の表情が、僅かに歪んだ。


それでも、答える。


「……受け入れる。」


声が掠れた。


「納得できなくても、苦しくても。」


「瑞稀が自分で選んだ答えなら、俺がそれを奪うことはしない。」


紙垂の拘束が、さらに強く締まった。


『ならば。』


思金神の荒魂が問う。


『なぜ、今、刀を握っている。』


旭は、二柱をまっすぐに見据えた。


「まだ、瑞稀の答えを聞いてないからだ。」


刀の根元から、赤い炎が噴き上がった。


火之迦具土(ひのかぐつちのかみ)の炎。


それは、刀へ絡みついていた紙垂を呑み込み、白い拘束を激しく焼いていく。


『何……。』


太玉命の荒魂が、僅かに身を引いた。


「本人の口から、もう戦わないと聞くまでは。」


赤い炎が、旭の両腕を縛っていた紙垂を焼き切る。


青白い雷が、再び刀身を走った。


雷と炎が、一本の刀の上で交差する。


「俺は、俺の意思で、瑞稀の隣に立ち続ける。」


旭は、刀を両手で構え直した。


青い雷を纏った刃が、赤い炎を引きながら振り抜かれる。


太玉命の御幣と激突し、凄まじい光が領域全体へ弾けた。


二柱の荒魂が、同時に後方へ押し戻される。


その時。


赤黒い空間を切り裂くように、一筋の白い光が差し込んだ。


「――旭!」


光の道から、瑞稀が駆けてくる。


「瑞稀!」


旭が、振り返った。


安堵と驚きが、その顔へ同時に浮かぶ。


瑞稀は、迷わず旭の隣へ並んだ。


刀には、まだ建御雷神の雷と、火之迦具土の炎が宿っている。


その光を見つめ、瑞稀は静かに息を吸った。


「旭。」


「何だ。」


「私は、この道を自分で選びました。」


瑞稀は、二柱の荒魂を見据えたまま告げる。


旭は、瑞稀の横顔を見つめ、静かに頷いた。


「ああ。」


「俺もだ。」


瑞稀は、右手を静かに掲げる。


淡い光が集まり、一振りの槍が音もなく姿を結んだ。


二柱の荒魂は、すぐには動かなかった。


ただ、瑞稀と旭を、赤黒く濁った瞳で静かに見つめている。


「私たちは、誰かに定められたから、ここにいるのではありません。」


瑞稀は、槍を握りながら告げた。


旭が、刀を構えたまま隣へ立つ。


「迷いながら。」


「間違いながら。」


「それでも。」


瑞稀は、槍の石突きを赤い大地へ静かに立てた。


「自分で選んで、ここにいます。」


太玉命の荒魂が、手にしていた御幣をゆっくりと下ろした。


思金神の荒魂も、静かに目を閉じる。


『ならば。』


低い声が落ちた。


『その誓いを、我らへ示せ。』


瑞稀は、両手を槍の柄へ重ね、深く頭を下げる。


「――御霊よ。」


静かな声が、赤い領域へ広がっていく。


「畏み、畏み申し上げる。」


槍を中心に、淡く輝く祝詞の文字が足元へ浮かび上がった。


青白い雷が、旭の刀から文字の上へ流れ込む。


赤い炎が、その光を包むように静かに揺れた。


戦うための雷ではない。


焼き払うための炎でもない。


二人が自ら選んだ答えを、神へ届けるための光だった。


瑞稀は、ゆっくり顔を上げて二柱をまっすぐに見つめる。


「御神の御許へ還り給え。」


――シャン。


神楽鈴の澄んだ音が、赤い領域へ静かに響き渡った。


槍から広がる光が、二柱の荒魂を同時に包み込んでいく。


赤黒く濁っていた瞳から、少しずつ色が薄れていった。


黒い靄が剥がれ、荒れ果てていた大地へ淡い光が戻っていく。


やがて光の中へ現れたのは、瑞稀が先ほど出会った、穏やかな和魂の姿だった。


思金神は、瑞稀と旭を静かに見つめる。


『選ぶことに、迷いがなくなる日は来ぬ。』


『今日選んだ答えも、明日には変わるかもしれぬ。』


瑞稀は、その言葉を静かに受け止めた。


太玉命が続ける。


『だが、変わることを恐れ、初めから己の心を他者へ委ねてはならぬ。』


『誓いとは、一度決めた答えに永遠に縛られることではない。』


『その時々に己の心へ問い、再び選び直すことだ。』


瑞稀は、僅かに目を見開いた。


一度決めたら、決して変えてはならない。


役目も。


誓いも。


そういうものだと思っていた。


けれど、人の心は変わる。


変わった時には、もう一度、自分で選び直してもよい。


思金神が、穏やかに告げる。


『お前たちは、互いの答えを代わりに決めなかった。』


『それでよい。』


太玉命の視線が、瑞稀の槍へ向けられた。


『此度の道は、お前たち自身が、その心で開いたもの。』


思金神が、穏やかに続ける。


『ゆえに、その代価まで、お前一人へ負わせる必要はない。』


瑞稀は、僅かに目を見開いた。


『我らの神威を、この槍へ還そう。』


『それをもって、此度の御霊還しに捧げるものとする。』


『これより先も、迷った時は己の心へ問うがよい。』


『答えは、誰かに与えられるものではない。』


『お前たち自身が、選び続けるものだ。』


二柱の姿が、淡い光へ変わっていく。


その光は、瑞稀の槍と旭の刀へ静かに触れた。


一瞬、槍の柄へ白い紙垂のような光が結ばれる。


刀身には、青い雷と赤い炎の間を縫うように、金色の光が走った。


やがて、二柱の姿は光の中へ完全に溶けていった。


町を覆っていた重い気配も、ゆっくりと薄れていく。



気づけば、二人は元の祠の前に立っていた。


夕暮れの風が、二人の頬を静かに撫でる。


遠くから、町の音が聞こえてきた。


車の走る音。


誰かの話し声。


祠へ来る前には、どこか不自然に途切れていた日常の音だった。


旭は刀を静かに消すと、空になった右手を見つめた。


「……終わったみたいだな。」


「はい。」


瑞稀も、静かに頷いた。


けれど、胸の奥には、まだ小さな緊張が残っている。


荒木田家からの返答は、まだ来ていない。


思金神と太玉命の言葉が、本家の申し出を消してくれるわけではなかった。


これから先、何度も迷うのだろう。


今日選んだ答えへ、自信を失う日も来るかもしれない。


それでも。


「……瑞稀。」


旭が、静かに名を呼ぶ。


「何でしょうか。」


「今日。」


旭は、一度言葉を止めた。


「お前が何を選んだのか、聞いてもいいか。」


瑞稀は、旭の顔を見つめた。


白い空間で、自分が選んだ答え。


大切な人たちと、自分で迷いながら生きること。


そして、その道を旭と歩きたいと願ったこと。


伝えれば、きっと旭は、また耳を赤くするのだろう。


そう考えると、胸の奥が少しだけ温かくなった。


けれど今はまだ、その言葉を自分の中で大切にしておきたかった。


「いずれ、お話しします。」


瑞稀は、小さく笑う。


「今はまだ、自分の中だけで大切にしておきたいので。」


旭は、それ以上尋ねなかった。


少しだけ残念そうに、それでも穏やかに頷く。


「……分かった。」


二人は、神社へ向かって歩き始めた。


少し進んだところで、瑞稀は隣を歩く旭へ目を向ける。


「旭。」


「何だ。」


「一つだけ。」


瑞稀は、ゆっくりと言葉を選んだ。


「あなたが、私の代わりに答えを決めなかったことを、嬉しく思います。」


旭の目が、僅かに見開かれる。


「そうか。」


「はい。」


「俺も。」


旭は、夕暮れの道へ視線を戻した。


「お前が自分で決めてくれて、よかった。」


二人の歩幅が、自然と重なっていく。


夕暮れの空の下、並んで伸びる二つの影は、もう、どちらかがどちらかを導くものではなかった。


同じ道を、それぞれの意思で選び、隣を歩く者の影だった。

第三十六話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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