第三十五話 「選ぶ心」
第三十五話 「選ぶ心」
異変は、些細なところから始まった。
商店街のパン屋で、一人の客が棚の前から動けなくなった。
「どれにしよう。」
「どれでもいいはずなのに。」
そう呟いたまま、何十分も並べられたパンを見つめ続けていたという。
似たような話は、やがて町のあちこちで聞かれるようになった。
昼食をどこで取るか、どの道を通って帰るか、誰に連絡をするか。
それまでなら、深く考えることもなく決めていたはずのことを、誰も選べなくなっていた。
友人との約束も、当日になって、
「どちらの店にするか決められない。」
という理由で流れることが増えた。
一つ一つを見れば、決して珍しいことではない。
ただの優柔不断にも見える。
けれど、その数は明らかに多すぎた。
極めつけは、花里神社の近くにある式場で開かれた、親戚の結婚式だった。
誓いの言葉を読み上げようとした、その時新郎新婦が揃って声を失った。
口は動く。
けれど、言葉だけが出てこない。
まるで、その誓いが自分たちで選んだものではないかのように。
「……これは。」
式場の外へ出た瑞稀は、建物から漂う気配に静かに眉を寄せた。
「言葉を奪われているのではありません。」
隣に立つ旭が、瑞稀へ視線を向ける。
「決めることそのものが、力を失っているように感じます。」
瑞稀は、胸元へ手を添えた。
旭も、低く頷く。
二人は、花里神社へ戻った。
拝殿へ入り、神前に立てられた御幣へ、瑞稀がそっと手を伸ばす。
紙垂へ触れた指先から、鈍い痺れのようなものが伝わってきた。
選ぶこと。
誓うこと。
決めること。
そのすべてが、町から少しずつ失われている。
瑞稀は、静かに手を離した。
「町外れの方角です。」
「かなり古い気配があります。」
旭は、刀の柄に手を添える。
「行くか。」
瑞稀は、迷わず頷いた。
「はい。」
二人は、気配の中心へ向かって歩き出した。
◇
町外れには、今では誰も訪れない、小さな祠が残されていた。
周囲を覆う草は長く伸び、石段の端には苔が生えている。
祠の前へ立った瞬間、瑞稀の視界が大きく歪んだ。
「瑞稀!」
旭が手を伸ばす。
「……旭!」
瑞稀も手を伸ばしたが、そこにいたはずの旭の姿は、すでに消えていた。
辺りは、白く霞んだ空間へ変わっている。
音も、匂いもない。
地面さえ、本当に存在しているのか分からない。
ただ、果てのない静けさだけが広がっていた。
『――ようこそ。』
低い声が、どこからともなく響いた。
『我は、思金神。』
続いて、別の声が響く。
『我は、太玉命。』
『此度は、二柱でお前たちを迎えた。』
穏やかな声だった。
敵意はない。
けれど、有無を言わせぬ重さがある。
白い霞の奥に、二つの人影がゆっくりと浮かび上がった。
一柱は、両手へ御幣を捧げるように持つ、静かな神。
もう一柱は、何かを思案するように目を伏せた神。
どちらも荒々しさとは無縁の、深く凪いだ気配を纏っていた。
瑞稀は、二柱へ深く頭を下げる。
「思金神様。」
「太玉命様。」
「旭は、どこにいるのでしょうか。」
『案ずるな。』
思金神が答える。
『あの者にも、試練を与えた。』
「試練……。」
瑞稀は、静かに繰り返した。
太玉命が、手にした御幣を僅かに持ち上げる。
『誓いとは、ただ口へ出せばよいものではない。』
『何を捧げ、何を背負い、どの道を進むのか。』
『己の意思で決めてこそ、誓いとなる。』
思金神が、瑞稀を見据えた。
『瑞稀よ。』
『お前は、自ら選んだつもりでいる。』
「つもり、ですか。」
『左様。』
思金神の瞳が、僅かに細められる。
『本家の申し出を拒み、己の人生は己で決めると告げた。』
『だが、お前はまだ、誰も傷つかぬ答えを探している。』
瑞稀の胸が、僅かに揺れた。
『選ぶとは、一つを得ることではない。』
太玉命の声が続く。
『選ばなかったものを、自ら手放すことでもある。』
二柱の言葉が落ちた瞬間、瑞稀の前に幾つもの光が浮かび上がった。
光は、ゆっくりと形を変え、一つの景色を映し始める。
◇
最初に現れたのは、荒木田家の広大な屋敷だった。
白い砂利が敷かれた庭。
長い廊下。
重く閉ざされた襖。
その中央に、瑞稀自身が立っている。
美しい白無垢を纏い、表情を失ったまま、静かに前を向いていた。
その隣には、公寛が立っている。
『瑞稀さん。』
穏やかな声が響いた。
『本家へ来てくだされば、あなた一人へ御霊還しを背負わせることはございません。』
景色が変わる。
父が、神社の縁側へ座っていた。
その顔には、これまでになかった安堵が浮かんでいる。
芽衣は、楽しそうに友人たちと笑っている。
旭も、穏やかな表情でその隣へ立っていた。
誰も傷ついていない。
誰も戦っていない。
荒魂の影も、その暮らしの中には存在していなかった。
『本家へ来れば、父も、芽衣も、旭も、戦いから遠ざけることができます。』
公寛の姿を借りた光が告げる。
瑞稀は、その光景を見つめた。
自分一人が役目を受け入れればいい。
そうすれば、大切な人たちは傷つかずに済む。
かつてなら、迷うことすらなかっただろう。
自分の望みよりも、役目を優先する。
それこそが、正しい選択だと思っていた。
「……皆が、傷つかずに済むのなら。」
それでもよいのではないか。
その言葉が、胸の奥から浮かび上がる。
瑞稀は、白無垢を纏った自分を見つめた。
その顔は、穏やかだった。
苦しんでもいない。
悲しんでもいない。
何も望んでいないから、何も失うこともない。
『それを選ぶか。』
思金神の声が響いた。
瑞稀は、すぐには答えられなかった。
皆を守ることができる。
自分が従うだけで。
それは、本当に間違った選択なのだろうか。
「……いいえ。」
長い沈黙のあと、瑞稀は静かに答えた。
光景の中の公寛が、瑞稀を見つめる。
『なぜ。』
「それは、皆を大切にしているのではありません。」
瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。
「皆のためという言葉を使って、私が自分の心を諦めようとしているだけです。」
白無垢を纏った瑞稀の姿へ、細い亀裂が走る。
「誰かを守るためなら、自分を失っても構わないと、そう思うことは。」
瑞稀は、静かに首を横へ振った。
「以前の私へ戻ることと、同じです。」
光景が、音もなく砕け散った。
◇
次に現れたのは、槍を持たない瑞稀だった。
朝。
祝詞を奏上することもなく制服を着て、芽衣と笑いながら学校へ向かっている。
旭も、その隣にいた。
三人で、何でもない話をしながら歩いている。
御霊還しは、もう行わない。
荒魂の気配へ、気づかないふりをする。
槍を置けば、記憶を失わずに済む。
父のことも、芽衣のことも、旭のことも、忘れずにいられる。
『槍を置けば。』
太玉命の声が響いた。
『お前は、人として生きられる。』
瑞稀は、笑っている自分を見つめる。
その顔は、先ほどの白無垢の自分よりも、ずっと自然に見えた。
これが、自分の望んでいた日々なのかもしれない。
大切な人たちと、何も失わず、何も奪われず、ただ普通に生きていく。
けれど、景色の遠くから黒い影が立ち上った。
助けを求める声が聞こえる。
還れない神々が、暗い場所へ取り残されている。
誰かが傷つき、誰かが泣いている。
その声が届いているのに、光景の中の瑞稀は振り返ろうとしなかった。
「……できません。」
瑞稀は、静かに言った。
『なぜ。』
「私は、御霊還しだけを選んだのではありません。」
「神々を救うという役目だけを、背負いたいわけでもありません。」
瑞稀は、助けを求める声へ耳を澄ませる。
「けれど、苦しんでいる声が聞こえているのに、自分が失いたくないからという理由だけで、聞こえないふりをすることは、私にはできません。」
『記憶を失い続けてもか。』
思金神が問う。
瑞稀の胸が、強く痛んだ。
父を。
芽衣を。
旭を。
いつか、忘れるかもしれない。
その恐怖は、今も消えていない。
むしろ、以前よりもはっきりとした形を持っている。
「怖いです。」
瑞稀は、正直に答えた。
「今も、何かを失うことが。」
「失ったことにさえ、気づけないことが。」
「怖くて仕方がありません。」
声が、僅かに震える。
それでも、瑞稀は顔を上げた。
「ですが、怖くない道だけを選ぶことが、自分で選ぶということではないと思います。」
穏やかな日常の景色へ、光の亀裂が走った。
「私は、怖くても。」
「自分が大切だと思うものを、大切だと言える道を選びます。」
景色が、淡い光となって消えていった。
◇
最後に現れたのは、何もない道だった。
左右へ、無数の道が分かれている。
どの先にも、異なる未来が映っていた。
荒木田家へ嫁ぐ未来。
槍を置く未来。
一人で戦い続ける未来。
父のもとへ残る未来。
神々のために、自分のすべてを捧げる未来。
どれが正しいのか、誰にも分からない。
思金神が、瑞稀の背後へ立つ。
『正しい道を、探しているのか。』
瑞稀は、無数の道を見つめた。
「……はい。」
正直に答える。
「誰も傷つかず、誰も悲しまず、後悔することもない。」
「そのような道があるのなら、選びたいと思っていました。」
太玉命の声が、静かに響く。
『そのような道はない。』
瑞稀は、ゆっくりと目を閉じた。
分かっていた。
本家を拒めば、父にも、公寛にも、荒木田家にも負担をかける。
槍を握れば、旭や芽衣を戦いへ巻き込むかもしれない。
槍を置けば、救えない神が残る。
何かを選べば、選ばなかった何かを失う。
『それでも。』
思金神が問う。
『選べるか。』
瑞稀は、すぐには答えなかった。
自分の胸の奥へ、静かに問いかける。
役目ではなく。
誰かに命じられたからでもなく。
自分は、何を望んでいるのか。
やがて、一つの光が道の先へ現れた。
父がいる。
芽衣がいる。
少彦名神が、芽衣の肩で何かを騒いでいる。
そして、少し離れた場所に旭が立っていた。
旭は何も言わない。
ただ、瑞稀が自分で歩き出すのを待っている。
瑞稀の胸へ、温かなものが広がった。
「私は。」
瑞稀は、静かに言葉を紡ぐ。
「槍を選ぶのではありません。」
「荒木田家へ行かないことだけを、選ぶのでもありません。」
思金神と太玉命は、黙って瑞稀を見つめている。
「私は、大切に思う人たちと、自分で考え、自分で迷い、そのたびに自分で決めながら、生きることを選びます。」
無数に分かれていた道が、少しずつ光へ溶けていく。
「誰かに正しい道を与えていただくのではなく。」
「間違うことも、失うことも、後悔することも、すべて自分のものとして。」
瑞稀は、光の中へ立つ旭へ静かに手を伸ばした。
「そして。」
声が、僅かに柔らかくなる。
「その道を、旭と歩きたいと思っています。」
旭の姿が、温かな光へ変わった。
その光は、瑞稀の差し出した手へ触れ、ゆっくりと胸の中へ溶けていく。
『――よかろう。』
太玉命の声が、静かな空間へ響く。
『お前は、もう、誰かに委ねられるだけの器ではない。』
『自ら選び、その選択へ己の心を捧げる者だ。』
思金神も、穏やかに頷いた。
『選ぶことに、迷いがない者などおらぬ。』
『迷わぬことが、強さなのではない。』
『迷いながらも、己の答えへ進むことこそ、選ぶ心だ。』
二柱は、静かに互いの顔を見合わせた。
やがて、思金神が瑞稀へ告げる。
『だが。』
『もう一人は、いまだ答えを得ておらぬ。』
瑞稀の表情が、強張る。
「旭。」
太玉命が、静かに続けた。
『荒魂となった我らが、あの者を迷わせている。』
『守るとは何か。』
『捧げるとは何か。』
『己の意思と、他者の意思をどこで分けるのか。』
白い空間の奥へ、赤い光が走った。
『あちらは。』
思金神が、僅かに目を細める。
『まだ、終わっておらぬ。』
「旭のもとへ。」
瑞稀は、一歩前へ出た。
「行かせてください。」
思金神の口元へ、微かな笑みが浮かぶ。
『すでに、道は決まっているのではないか。』
瑞稀は、迷わず頷いた。
「はい。」
足元へ、淡い光の道が伸びていく。
瑞稀は、その道へ迷わず足を踏み入れた。
第三十五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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