第三十四話 「本家の影」
第三十四話 「本家の影」
朝。
瑞稀は、いつもどおり拝殿で祝詞を奏上した。
声に乱れはなく、祝詞の一音一音が、朝の冷えた空気へ静かに溶けていく。
十月も半ばを過ぎたというのに、日が昇れば、まだ夏の名残を感じるほど暑い。
拝殿を出ると、境内の木々から色づき始めた葉が一枚、足元へ舞い落ちた。
石段を下りると、その先には、今日も旭が待っていた。
「おはよ。」
「おはようございます。」
いつもと変わらない挨拶を交わし、二人は並んで歩き始める。
少し進んだところで、瑞稀は隣を歩く旭へ目を向けた。
「……昨夜は、よく眠れましたか。」
旭の足が、ほんの僅かに遅くなった。
「……ああ。」
用事もないのに、瑞稀の方から話しかけてくることが、まだ珍しいのだろう。
旭は、少し戸惑ったように答えた。
「お前は。」
瑞稀は、すぐには答えなかった。
昨夜も、何度か目を覚ました。
それでも、以前よりは眠れるようになっている。
「まあまあ、でしょうか。」
瑞稀は、少し考えてから答えた。
「ですが、悪くはありません。」
「そうか。」
短いやり取りだった。
瑞稀が、自分から言葉を継ぐようになったのは、最近のことだ。
旭は、それ以上何も言わなかった。
ただ、その口元には小さな安堵が浮かんでいた。
◇
放課後。
図書室には、紙と古い本の匂いが静かに漂っていた。
瑞稀と旭は、図書委員として、返却された本をそれぞれの棚へ戻している。
瑞稀が分類番号を確かめ、旭が高い棚へ本を並べていく。
二人の間に、ほとんど会話はない。
けれど、沈黙を気まずいと感じることもなかった。
「秋葉ー!」
突然、図書室の戸口から明るい声が響いた。
振り向くと、クラスメイトの男子生徒が、バスケットボールを片腕へ抱えて立っている。
「今日も部活、来ないのか?」
旭は、本を棚へ差し込みながら答えた。
「行かない。」
「即答かよ。」
男子生徒は、呆れたように笑う。
「今日、人数が足りないんだって。」
「お前、背も高いし、ちゃんとやれば絶対に戦力になるのに。」
「図書委員の仕事がある。」
「それ、終わってからでもいいだろ。」
「面倒だ。」
「本音が出たな。」
男子生徒は笑いながら、今度は瑞稀へ視線を向ける。
「今日も、花里さんと――」
「悪いか。」
旭の返事は、先ほどよりもさらに早かった。
「食い気味だな。」
男子生徒は、にやりと笑う。
「花里さんも大変だな。」
「こんな愛想のない奴と、ずっと一緒で。」
瑞稀は、棚へ本を戻す手を止めないまま答えた。
「愛想がないのは、以前から存じています。」
「今更、困ることではありません。」
「え。」
男子生徒が、目を瞬かせる。
「それ、庇ってるのか、ばっさり切ってるのか、どっち?」
瑞稀は、少しだけ考えた。
「事実を申し上げただけです。」
男子生徒が、声を上げて笑う。
旭は、何も言い返さなかった。
けれど、本を持つ指先へ僅かに力が入り、耳の先もほんのりと赤くなっていた。
「じゃあ、また誘うからな!」
「何度来ても行かない。」
◇
神社へ帰ると、石段の下に見慣れない車が停まっていた。
黒く磨かれた車体が、夕方の光を受けて冷たく輝いている。
瑞稀は、僅かに足を止めた。
「……客か。」
隣で旭も、表情を引き締める。
「父様からは、何も伺っておりません。」
二人は顔を見合わせ、そのまま石段を上った。
拝殿の前には、父と一人の男が向かい合って立っていた。
年齢は、二十代半ばだろうか。
父よりはずっと若い。
けれど、高校生である瑞稀たちよりは、明らかに年上にみえた。
濃紺の着物に、仕立てのよい羽織を纏っている。
背筋はまっすぐに伸び、その立ち姿には隙がない。
声を荒らげているわけでもないのに、その場の空気は張り詰めていた。
男が、瑞稀へ視線を向ける。
「……瑞稀さんですね。」
「はい。」
瑞稀が父の隣まで進むと、男は丁寧に一礼した。
「お初にお目にかかります。」
「荒木田公寛と申します。」
「荒木田……。」
瑞稀は、その名を静かに繰り返した。
聞き覚えはある。
花里家には、本家に当たる一族があると、幼い頃に父から聞かされていた。
けれど、本家の人間と実際に顔を合わせるのは、これが初めてだった。
「伊勢の内宮に仕える、荒木田家の方ですね。」
「ご存じでしたか。」
公寛は、僅かに目を細める。
「はい。」
父が、低い声で続けた。
「花里は、荒木田の一族から分かれた家だ。」
普段と変わらない声だった。
けれど、父の横顔には、隠しきれない緊張が浮かんでいる。
公寛は、瑞稀を静かに見つめた。
値踏みするというより、長い間、書面の上でしか知らなかった存在を、実際に確かめようとしているような目だった。
「ようやく、直接お目にかかることができました。」
「花里の家が担ってきた役目については、存じております。」
公寛の視線が、瑞稀の胸元へ向けられる。
そこには、欠けた勾玉が静かに下がっていた。
今は、槍も神威の光も現れていない。
それでも、公寛は勾玉の奥へ残る気配を感じ取ったのか、僅かに目を細めた。
「ですが、報告から想像していた以上に、神気が近い。」
旭が、瑞稀の前へ半歩だけ進み出る。
公寛は、その動きを見逃さなかった。
「秋葉家の方ですね。」
「……そうだ。」
「建御雷神様の加護を受けていると伺っております。」
旭の眉が、僅かに寄る。
「俺のことまで調べてるのか。」
「調べた、という言い方は適切ではありません。」
公寛は、淡々と答えた。
「神卸を支える家について、本家が把握しているのは当然のことです。」
「代が変わっても。」
公寛は、旭が瑞稀を庇うように立っている姿を見つめる。
「秋葉の方は、花里の傍を離れないのですね。」
その声に、嘲りはなかった。
ただ、代々繰り返されてきた役目を確認するような響きだった。
旭は、何も答えない。
けれど、瑞稀の前から退くこともしなかった。
「本日は。」
瑞稀が、静かに尋ねる。
「どのような御用向きでしょうか。」
公寛は、瑞稀から拝殿の奥へ視線を移した。
「確認したいことがございました。」
「宮司殿からは、以前より報告を受けております。」
「天照様が、今もなお天岩戸へお隠れになっていると。」
瑞稀の胸が、僅かに騒いだ。
「ですが、荒木田の者には、その真偽を直接確かめる術がございません。」
「神と直接言葉を交わせるのは、今や花里の血を継ぐ方のみです。」
公寛の言葉には、羨望とも悔しさともつかない、微かな響きが混じっていた。
「我らは、宮司殿から届く報告を信じるほかありませんでした。」
父の表情が、僅かに硬くなる。
「疑っていたというのか。」
「いいえ。」
公寛は、静かに首を横へ振った。
「疑っていたわけではございません。」
「ただ、神意を預かる家として、自ら確かめられないことに焦りを感じていたのです。」
公寛は、再び瑞稀へ向き直った。
「今年の夏、瑞稀さんは、天手力男神様とお会いになったと伺いました。」
その名を聞いた瞬間、境内を吹き抜けた風の感触が、瑞稀の記憶へ鮮明に蘇った。
◇
夏の盛りだった。
境内では、蝉の声が耳を塞ぎたくなるほど鳴り響いていた。
日差しは強く、石畳の上には陽炎が揺れている。
瑞稀は一人、鳥居の注連縄に緩みがないか確かめていた。
強い風でも吹いたのか、垂れ下がった紙垂が一枚だけ、不自然に捻れている。
瑞稀が、それへ手を伸ばした。
その時。
不意に、境内の木々が大きく揺れた。
風が吹いたわけではない。
けれど、鳥居の周囲へ張り巡らされていた神気が、何かを迎えるように大きく震えた。
瑞稀が、顔を上げる。
鳥居の前に、一柱の神が立っていた。
人の倍はあろうかという巨躯。
日に焼けたような褐色の肌。
岩をも砕きそうな、太い腕。
立っているだけで、地面が沈むのではないかと思うほどの力強さがあった。
けれど、その眼差しには、外見からは想像できない穏やかな光が宿っている。
「……天手力男神様。」
瑞稀が、その名を呼ぶ。
巨躯の神は、意外そうに眉を上げた。
『ほう。』
『よく分かったな。』
「その御姿と、鳥居へ触れた神気から。」
瑞稀は、深く頭を下げる。
「和魂でいらっしゃいますね。」
『左様。』
天手力男神は、満足そうに頷いた。
それでも、瑞稀が僅かに身構えていることへ気づいたのか、神は太い腕をゆっくりと下ろした。
『そう警戒するな。』
『此度は、異変に呼ばれて現れたのではない。』
神は、鳥居の上部へ目を向ける。
『高天原より、この地を守る神気へ僅かな綻びがあると聞いてな。』
『様子を見に来た。』
天手力男神が、鳥居の柱へ片手を添える。
眩い光が柱から注連縄へ流れ、さらに境内全体へ広がっていった。
軋んでいた神気が整えられ、肌へ触れていた僅かな違和感も静かに消えていく。
用件は、それだけだった。
けれど、去ろうとした天手力男神が、ふと拝殿の奥へ視線を向けた。
『……岩戸は。』
その声が、先ほどまでより僅かに低くなる。
『まだ、開かぬ。』
瑞稀は、息を呑んだ。
「天照様は、今もお隠れになっているのですか。」
天手力男神は、しばらく答えなかった。
やがて、静かに頷く。
『ああ。』
『あの御方は、今もなお内へお籠りだ。』
神の眼差しが、遠くを見るように細められる。
『和魂は、誰かを気にかけておいでのようだが。』
『戸を開くには、まだ時が満ちておらぬのだろう。』
「……誰か。」
瑞稀が、問い返す。
けれど、天手力男神はそれ以上を語らなかった。
『いずれ、お前自身が知ることになる。』
そう告げると、神の巨躯は光の中へ溶けるように消えていった。
◇
その夜、瑞稀は天手力男神から聞いたことを、父へ伝えた。
父は、長い間、何も言わなかった。
ただ、拝殿の奥へ向けられた視線には、深い憂いが滲んでいる。
「……やはり。」
低い声が落ちた。
瑞稀は、父を見上げる。
「やはり、とは。」
父は、すぐには答えなかった。
やがて、拝殿の奥へ祀られた鏡へ静かに視線を向ける。
「以前、御神鏡がお前へ見せたものと同じだ。」
「天照様は。」
父は、言葉を選ぶように間を置いた。
「今も、岩戸の中におられる。」
瑞稀の胸が、僅かに騒ぐ。
「では、父様はすでにご存じだったのですか。」
「確信はなかった。」
父は、低く答えた。
「だが、天手力男神様がそう仰ったのなら。」
その手が、袖の中で僅かに握られる。
「鏡が見せたものは、真実なのだろう。」
父は、それ以上何も言わなかった。
ただ、拝殿の奥の鏡を見つめたまま、長い間動かなかった。
◇
「そのお話は。」
瑞稀は、公寛をまっすぐに見つめた。
「私が、天手力男神様ご自身から伺いました。」
公寛の目に、初めて明らかな動揺が浮かぶ。
「……本当に。」
独り言のように呟いた。
「本当に、今も岩戸の中におられるのか。」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
やがて、公寛はゆっくりと息を吐く。
「宮司殿の報告を疑っていたわけではございません。」
「ですが、神様ご自身の御言葉として伺えば、その重みはまるで違う。」
公寛は、何かを考えるように拝殿を見つめた。
「天照様は、お隠れになったまま。」
「荒魂は各地へ現れ、高天原と現世を結ぶ道も不安定になっている。」
その表情から、先ほどまでの平静が少しずつ薄れていく。
「我らが考えていた以上に、世は不安定な状態にあるのでしょう。」
「それを確かめるために。」
父が、低く問いかけた。
「わざわざ伊勢から来たのか。」
公寛は、ゆっくりと父へ向き直る。
「それもございます。」
「ですが、本日はもう一つ、正式にお伝えすべきことがございます。」
父の眉間へ、深い皺が刻まれた。
「……公寛殿。」
父は、何かを止めようとするように、その名を呼ぶ。
けれど、公寛は静かに首を横へ振った。
「いずれ、お伝えしなければならないことです。」
「先送りにすれば、瑞稀さんの意思を、さらに置き去りにすることになる。」
その言葉に、父は口を閉ざした。
公寛が、瑞稀へ向き直る。
「花里の家は、かつて荒木田の一族から分かれました。」
「神をその身へ迎え、神意を現世へ伝える役目を、一つの血筋へ集中させすぎないために。」
瑞稀は、黙ってその言葉を聞く。
「それ以来、荒木田と花里は、一定の時を置いて互いの血を交えてきました。」
「本家へ偏りすぎた神威を和らげ、分家の力が途絶えることを防ぐために。」
「双方の均衡を保つための、古くからの取り決めです。」
「……取り決め。」
瑞稀は、その言葉を静かに繰り返した。
「はい。」
公寛の表情には、誇りも喜びもなかった。
ただ、自分へ課せられた役目を、正確に伝えようとする人間の顔がある。
「そして、今がその時期に当たります。」
夕方の風が、拝殿の前を静かに吹き抜けた。
「瑞稀さん。」
公寛は、一度だけ深く息を吸う。
「あなたを、荒木田の家へお迎えしたい。」
その言葉の意味を、瑞稀が理解するよりも早く、公寛は続けた。
「私の妻として。」
風の音が、一瞬遠ざかった。
隣で、旭の拳が強く握られる。
「……何を。」
低い声が、旭の喉から漏れた。
「何を、勝手なことを言ってる。」
「旭。」
瑞稀が、静かに名を呼ぶ。
旭は、それ以上言葉を続けなかった。
けれど、公寛を見る目には隠しきれない怒りが宿っていた。
公寛は、その怒りを正面から受け止める。
「勝手な申し出であることは、承知しております。」
予想していなかった言葉に、旭の眉が僅かに動いた。
「この話が、瑞稀さんご自身の希望から始まったものではないことも理解しております。」
公寛は、目を逸らさなかった。
「私は、荒木田の家を継ぐ者です。」
「一族の存続と、神意を伝える血を守る責任がございます。」
公寛の視線が、瑞稀へ向けられる。
「そして、天照様がお隠れになり、世が不安定になっている今。」
「神に最も近い力を持つ方を、本家から遠ざけたままにしておくことを危惧しております。」
「だから。」
旭が、押し殺した声で言う。
「瑞稀を、家へ囲い込むのか。」
公寛は、僅かに眉を寄せた。
「そのようなつもりはございません。」
「結果は同じだ。」
「旭。」
瑞稀は、もう一度その名を呼んだ。
今度は、先ほどより少し強く。
旭が、瑞稀を見る。
その瞳には、怒りと不安と、瑞稀を失うことへの恐れが入り混じっていた。
瑞稀は、小さく頷く。
自分で答える。
そう伝えるように。
それから、公寛へ向き直った。
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか。」
「何でしょう。」
瑞稀は、静かに問う。
「私が望まないと申し上げても、本家の決まりは、私の意思より優先されるのでしょうか。」
公寛は、すぐには答えなかった。
瑞稀は、言葉を続ける。
「荒木田と花里のため。」
「血を守るため。」
「世の安定を保つため。」
「必要だと仰る理由は、分かります。」
「ですが。」
瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。
その内側には、失いたくないと願った日々がある。
父の手の温もり。
芽衣の笑顔。
何度でも言葉を伝えると、思い出を覚えていると約束してくれた旭。
そのすべてが、今の瑞稀を形作っていた。
「私には、大切に思う人たちがいます。」
「大切にしたいと願う日々があります。」
瑞稀は、公寛をまっすぐに見つめる。
「それを、周期だから。」
「血を守るためだからという理由だけで、差し出すことはできません。」
公寛の目が、僅かに見開かれた。
かつての瑞稀なら、役目だと言われれば、何も問わず従っていたかもしれない。
自分の望みよりも、家の役目を優先することが正しいのだと思っていた。
けれど今は、胸の中へ生まれた願いを、なかったことにはできない。
「私は。」
瑞稀は、静かに息を吸う。
「荒木田家へ嫁ぐことを望みません。」
拝殿の前へ、静かな沈黙が落ちた。
公寛は、長い間瑞稀を見つめていた。
怒るでもなく、すぐに反論するでもない。
ただ、予想していなかったものを目にしたように、僅かな驚きを浮かべている。
「……宮司殿から伺っていたお姿とは、随分違いますね。」
父が、僅かに目を伏せた。
「以前は。」
公寛が、静かに続ける。
「感情を表へ出さず、定められた役目へ疑問を持たない方だと、そのように聞いておりました。」
瑞稀は、僅かに目を伏せた。
「……そうだったのかもしれません。」
それから、まっすぐに顔を上げる。
「ですが、今の私は違います。」
公寛は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
その表情へ浮かんだものは、苛立ちではなく、どこか眩しいものを見るような戸惑いだった。
「……そうですか。」
公寛は、静かに呟く。
「あなたが、ご自身の意思をはっきりと仰る方であることは分かりました。」
「なら。」
旭が、低く言う。
「話は終わりだろ。」
「旭。」
瑞稀が、窘めるように名を呼ぶ。
公寛は、旭の言葉へ反発することなく、首を横へ振った。
「残念ながら、私一人の判断で終わらせることはできません。」
「この申し出は、荒木田家として正式に決められたものです。」
公寛の声には、初めて僅かな苦さが混じった。
「ですが、瑞稀さんのお答えも、私が責任を持って本家へ伝えます。」
瑞稀は、公寛の顔を見つめる。
「私の意思を、なかったことにはしないと。」
「お約束いただけますか。」
公寛は、一度だけ目を閉じた。
そして、深く頭を下げる。
「お約束いたします。」
父が、それまで固く握っていた拳を僅かに緩めた。
けれど、公寛は頭を上げると、再び厳しい表情へ戻った。
「ただし、天照様がお戻りにならない以上、本家もこのままでは引き下がらないでしょう。」
「また改めて、正式な使いを立てることになると思います。」
父は、公寛をまっすぐに見返した。
「娘を差し出すと、承諾したわけではない。」
低い声だった。
公寛の表情が、ほんの僅かに揺れる。
「……承知しております。」
「瑞稀は。」
父は、続けた。
「花里の器である前に、私の娘だ。」
瑞稀は、父の横顔を見上げる。
声は静かだった。
けれど、そこには決して退かない意志があった。
公寛は、父へ深く一礼する。
「では、本日はこれで失礼いたします。」
踵を返し、石段へ向かおうとした公寛が、ふと足を止めた。
振り返らないまま、瑞稀へ問いかける。
「瑞稀さん。」
「はい。」
「先ほど仰った、大切に思う方々の中に。」
「その方も、含まれているのでしょうか。」
公寛が誰を指しているのか、問われるまでもなかった。
瑞稀は、すぐには答えなかった。
けれど、迷ったからではない。
自分の中へある感情を、どの言葉で伝えるべきか考えていた。
「はい。」
やがて、瑞稀は静かに答える。
「旭は、私にとって大切な人です。」
旭が、息を呑んだ。
公寛は今度こそ、僅かに振り返る。
その表情に浮かんでいたのは、嫉妬でも怒りでもなかった。
ただ、何かを理解したような静かな納得だった。
「……そうですか。」
それだけを言い残し、公寛は石段を下りていった。
やがて、黒い車が鳥居の前を離れる。
三人は、その車が見えなくなるまで黙って見送っていた。
「……瑞稀。」
旭が、先ほどよりも少し掠れた声で名を呼ぶ。
「はい。」
「その。」
珍しく、言葉に詰まっている。
「さっきの。」
瑞稀は、僅かに首を傾げた。
「大切な人、と申し上げたことでしょうか。」
「……ああ。」
旭の耳が、少しずつ赤くなっていく。
瑞稀は、その様子を見つめながら静かに頷いた。
「事実ですから。」
旭は、それ以上何も言えなくなったようだった。
父が、小さく咳払いをする。
二人が同時に、そちらへ顔を向けた。
父は、公寛の車が消えた方角を見つめたまま、低く呟く。
「……簡単には、終わらないだろう。」
瑞稀の胸の奥へ、再び重いものが沈んだ。
「断って、済む話ではないのでしょうね。」
「ああ。」
父は、短く答えた。
「荒木田にとって、これは何代も守ってきた決まりだ。」
「公寛殿一人が、考えを変えれば済む話ではない。」
瑞稀は、拝殿を振り返った。
これまで、家の役目へ従うことだけが、自分の道だと思っていた。
けれど今は、その道の先に、自分の望まない未来が待っているのなら、立ち止まり、違うと伝えることができる。
たとえ、それによって本家と向き合うことになったとしても。
「それでも。」
瑞稀は、静かに口を開いた。
「言わずに済ませることは、もうできませんでした。」
父は、瑞稀へ視線を向ける。
しばらく、その顔を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「それでいい。」
瑞稀は、僅かに目を見開く。
父は、もう一度、公寛が去った方角へ目を向けた。
「お前の人生だ。」
「お前が決めていい。」
その声には、自分自身へ言い聞かせるような響きがあった。
瑞稀は、胸元へ手を添える。
「……はい。」
夕暮れの空を、一羽の烏が横切っていく。
鋭い鳴き声が、静まり返った境内へ長く響いた。
本家の影は、まだ遠ざかってはいなかった。
第三十四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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