第三十三話 「豊受姫」
第三十三話 「豊受姫」
あれから、数日が過ぎた。
十月へ入っても、季節外れの残暑が続いている。
朝晩の風には、ようやく秋の冷たさが混じり始めていた。
けれど、日が昇れば、日差しにはまだ夏の名残が強く残っている。
瑞稀の日常は、表面上、何も変わっていなかった。
朝はいつもと同じ時刻に起き、拝殿で祝詞を奏上し、石段の下で待つ旭と学校へ向かう。
けれど、会話の途中で返事が一拍遅れることがあった。
誰かに話しかけられ、答えようとして、自分が何を言おうとしていたのか、一瞬だけ分からなくなる。
「……瑞稀?」
旭に名前を呼ばれ、我に返る。
「何でもありません。」
そう答えるたび、旭の目には小さな陰りが浮かんだ。
瑞稀は、それに気づいていた。
けれど、気づかないふりをして歩き続ける。
鏡の前へ立つ時間も、以前より短くなった。
長く見つめていると、自分でも分からない何かを鏡の中へ探してしまう気がしたからだった。
◇
異変に気づいたのは、昼休みだった。
「……これ、変じゃない?」
芽衣が、弁当箱の中を見つめたまま箸を止めた。
母親が朝、炊いてくれたはずの米。
色も、匂いも、いつもと変わらない。
けれど、口へ運ぶと硬い芯が残っていた。
炊き方を失敗したというより、米そのものが、実ることを途中で諦めたような奇妙な硬さだった。
「朝は普通だったんだけどな。」
芽衣が、不思議そうに米粒を箸でつつく。
「クラスのやつも、似たようなことを言ってた。」
旭が、弁当箱の蓋を脇へ置きながら言った。
「商店街の八百屋じゃ、朝に並べた野菜が、夕方には全部しなびるらしい。」
「水を切らしたわけでも、日に焼けたわけでもないそうです。」
瑞稀が続ける。
花里神社でも、数日前から異変が起きていた。
朝、神前へ供えた米と水が、翌朝には決まって黒ずんでいる。
腐敗の臭いはしない。
黴が生えているわけでもない。
ただ、そこにあるはずの命だけが、抜け落ちているように見えた。
「食べ物は、ある。」
瑞稀は、芽衣の弁当へ目を向ける。
「けれど、それを恵みとして受け取ることができなくなっている。」
旭が、眉を寄せた。
「食や実りに関わる神か。」
「恐らくは。」
瑞稀は、窓の外へ視線を向ける。
遠くに見える田は、刈り入れを待つ稲穂で黄金色へ染まっている。
そのはずだった。
けれど、目を凝らすと、穂の間から赤黒い何かが滲んでいるように見えた。
◇
その夜。
瑞稀と旭は、町外れに広がる田へ向かった。
日が沈んでも、昼間に蓄えられた熱が土の中へ残っている。
田を渡る風だけが、季節がすでに秋へ移ったことを伝えていた。
見える限りの稲穂は、重たげに頭を垂れている。
けれど、それは実りの重さではなかった。
どの穂も、生気を失ったように力なく沈んでいる。
「……ここだな。」
旭が、低く呟いた。
鳥居も、社もない。
それでも、二人が田の中央へ足を踏み入れた瞬間、辺りの空気が明らかに変わった。
虫の声が遠のく。
夜風が止まる。
現世へ立っているはずなのに、足元の田だけが、どこか別の場所へ切り離されたようだった。
赤黒い気配が、稲穂の間をゆっくりと這っている。
その中心に、一人の女神が立っていた。
豊かな布を幾重にも重ねた、豪奢な衣。
本来なら、実りそのものを纏ったような気高い姿だったのだろう。
けれど今は、長い裾が泥に汚れ、髪も乱れたまま肩へ落ちている。
双眸だけが、赤黒く深く濁っていた。
『……誰だ。』
低い声が、田全体を震わせる。
瑞稀は、一歩前へ出た。
「豊受姫様。」
女神の瞳が、僅かに細められた。
「町の食に、異変が起きています。」
「どうか、お鎮まりください。」
『鎮めに来た、と申すか。』
豊受姫の口元が、ゆっくりと歪む。
『米を実らせる神として。』
『食を与える神として。』
『供物を司る神として。』
一つ、また一つと言葉を重ねるたび、稲穂の間から黒い靄が立ち上っていく。
『それだけの用向きで。』
瑞稀は、僅かに息を呑んだ。
『……お前たちも、同じだ。』
「同じ、とは。」
『我を。』
豊受姫は、静かに瑞稀を見据えた。
『食を与えるものとしてしか、見ておらぬ。』
田を渡る空気が、重く沈んだ。
『天照の光は、誰もが崇める。』
『朝が来れば、光へ感謝し。』
『夜が明ければ、その御名を讃える。』
豊受姫の瞳が、僅かに揺れる。
『けれど。』
『その光の下で、人を生かしているものを。』
『誰が、見る。』
稲穂の間から、乾いた音が次々と響き始めた。
『食卓へ並べば、それはただの飯となる。』
『腹が満たされれば、誰がそれを育てたかなど忘れられる。』
『我が名も。』
『我が働きも。』
『誰の目にも、映らぬ。』
瑞稀は、答えようとした。
けれど、言葉がすぐには出てこなかった。
米が炊かれること。
食卓へ、当たり前のように食事が並ぶこと。
毎朝、弁当が用意されていること。
それが誰の手によって、どのような思いで準備されていたのか。
これまで、深く考えたことがあっただろうか。
「……申し訳ありません。」
瑞稀は、静かに目を伏せた。
「今の私には、すぐにお答えすることができません。」
豊受姫は、しばらく瑞稀を見つめていた。
その表情に、怒りとも失望ともつかない色が過ぎる。
『ならば。』
低い声が落ちた。
『知ったような言葉で、我を鎮めようとするな。』
赤黒い靄が、大きく膨れ上がる。
旭が、刀の柄へ手をかけた。
けれど、豊受姫は襲いかかってこなかった。
ただ、瑞稀へ背を向ける。
『見えぬものは。』
『無いものと同じだ。』
そう言い残し、豊受姫は稲穂の奥へ静かに姿を消した。
残された田には、力なく垂れた稲穂と、空虚な風だけが漂っていた。
◇
その夜。
瑞稀は、自室で膳を前にしていた。
夕餉は、いつものように父と一緒に取るはずだった。
けれど瑞稀は、少し考えたいことがあると告げ、自分の膳だけを部屋へ運んでもらっていた。
湯気を立てる汁物。
炊きたての白米。
煮物と、小さな焼き魚。
いつもと変わらない、夕餉だった。
けれど、箸を持つ手は動かなかった。
米を、誰が育てたのか。
魚を、誰が獲ったのか。
それらが、どれほど多くの手を渡り、この家まで運ばれてきたのか。
そして、米がいつ研がれたのか。
汁物が、いつから火へかけられていたのか。
魚を、父がどのような思いで焼いたのか。
これまで、考えたことはなかった。
食事は、朝になれば用意され、夜になれば膳へ並んでいた。
ただ、そこにあるものとして受け取っていた。
「……瑞稀。」
襖の向こうから、父の声がした。
「入るぞ。」
父が、湯呑みを二つ載せた盆を手に入ってくる。
その一つを、瑞稀の前へそっと置いた。
「箸が進んでいないようだが。」
「……今日、豊受姫様に言われたことを考えていました。」
父は、瑞稀の隣へ腰を下ろし、自分の湯呑みを両手で包んだ。
「何を言われた。」
瑞稀は、膳へ視線を落とす。
「食を与えるものとしてしか、見ていないと。」
父は、黙って続きを待っている。
「私は、与えられることに慣れすぎているのかもしれません。」
「食事が用意されることも、それを誰かが作ってくださっていることも。」
「今まで、深く考えたことがありませんでした。」
父は、それ以上すぐには何も言わなかった。
しばらく、二人は無言のまま膳を見つめる。
やがて父が、ぽつりと口を開いた。
「……昔、お前に初めて弁当を作ったことがあった。」
瑞稀は、顔を上げる。
父は、どこか懐かしむように目を細めた。
「お前が、小学校へ上がったばかりの頃だ。」
「朱莉がいなくなって、初めて私一人で作った。」
父の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「卵焼きは焦げていたし、おにぎりも酷い形だった。」
「それでも、お前は全部食べて帰ってきた。」
「……そうだったのですね。」
瑞稀は、父の言葉を聞きながら、その光景を思い浮かべようとした。
卵焼き。
歪なおにぎり。
初めて、父が作った弁当。
けれど、何も浮かんでこない。
弁当箱の色も、蓋を開けた時の景色も、父がどのような顔で渡してくれたのかも。
何一つ。
「……父様。」
瑞稀は、慎重に言葉を選んだ。
「申し訳ありません。」
父の表情が、僅かに止まる。
「その日のことを、私は覚えていないようです。」
父の手が、湯呑みを包んだまま僅かに止まる。
「……そうか。」
低く、絞り出すような声だった。
「それも、失われていたのか。」
瑞稀は、答えることができなかった。
いつ失ったのかも、その記憶がどの御霊還しとともに消えたものなのかも分からない。
失ったことにさえ、今まで自分では気づいていなかった。
「覚えていなくて。」
瑞稀は、静かに頭を下げた。
「申し訳ありません。」
父は、すぐには答えなかった。
やがて、湯呑みからゆっくりと手を離す。
「……謝る必要はない。」
その声は静かだった。
けれど、僅かに震えている。
「お前が、捨てたわけではない。」
父は、瑞稀の頭へ手を伸ばした。
数日前と同じように。
けれど今度の手のひらには、言葉にできない痛みが混じっているように感じられた。
「覚えていないなら。」
父が、ゆっくりと言う。
「これから、また作ればいい。」
瑞稀が、顔を上げる。
父は瑞稀を見ずに、膳へ視線を落としていた。
「昔よりは、少しはまともな弁当を作れる。」
それは、父なりの慰めだったのかもしれない。
瑞稀は、胸の奥へ広がる感覚へ意識を向けた。
痛い。
けれど、その痛みが何という感情なのか、まだうまく分からない。
ただ、大切にされていたことだけは、今触れている手のひらから確かに伝わってきた。
瑞稀は、ふと膳へ目を落とした。
覚えていない。
父が初めて弁当を作ってくれた日のことも、その時、自分が何を思ったのかも。
けれど。
覚えていないからといって、その日がなかったことになるわけではない。
見えていなかったからといって、父が自分のために手を動かしてくれていなかったわけでもない。
――見えぬものは、無いものと同じだ。
豊受姫の言葉が、胸の奥へ蘇る。
瑞稀は、静かに首を横へ振った。
違う。
見えなかったものも、そこにあった。
自分が気づかなかっただけで。
食事を作る手も。
米を育てる手も。
自分を大切にしてくれていた、父の思いも。
ずっと、そこにあったのだ。
「……はい。」
瑞稀は、静かに答えた。
それから、膳の上へそっと視線を落とす。
「父様。」
「いつも、ありがとうございます。」
僅かに迷いながらも、今度は言葉を途切れさせなかった。
「ああ。」
短い返事だった。
けれど、その声は先ほどよりも少しだけ穏やかだった。
瑞稀は、箸を取る。
白い米を、一口だけ口へ運んだ。
味は、いつもと同じだった。
けれど今夜は、そこへ込められたものを見失わないように、ゆっくりと噛み締めた。
◇
夜明け前。
石段を下りると、旭はすでにそこにいた。
「……旭。」
「はよ。」
「どうして、こちらに。」
旭は、少しだけ眉を上げた。
「昨日のまま、お前が学校終わるまで待つとは思えなかった。」
瑞稀は、目を瞬かせる。
旭は町外れの田がある方角へ視線を向けた。
「どうせ、朝一番で行くつもりだったんだろ。」
「……はい。」
「なら、行くか。」
瑞稀は、静かに頷いた。
「はい。」
二人は、並んで歩き出す。
空は明るみ始めている。けれど、稲穂の上には、まだ薄い朝靄が漂っていた。
旭が、前を向いたまま言う。
「大丈夫か。」
瑞稀は、少し考えた。
「はい。」
「……豊受姫様が話されたこと、少しだけ、分かった気がします。」
旭が、僅かに視線を向ける。
「豊受姫様が、何を見てほしかったのか。」
瑞稀は、朝靄の向こうへ見える田を見つめた。
「まだ、答えになっているかは分かりません。」
「それでも、昨日とは違う言葉で、お話しできると思います。」
瑞稀は、朝靄の向こうへ見える田を見つめた。
旭は何も言わなかった。
ただ、瑞稀より半歩前へ出ることも、後ろへ下がることもなく、同じ歩幅で隣を歩き続けた。
◇
田へ足を踏み入れる。
昨日と同じように、虫の声が遠ざかり、朝靄の向こうへ赤黒い気配が滲み出す。
豊受姫は、昨日と同じ場所へ立っていた。
乱れた髪。
泥に汚れた衣。
濁った双眸が、瑞稀を見据える。
『答えは、出たか。』
瑞稀は、豊受姫の前へ進み出た。
「昨夜、気づいたことがあります。」
豊受姫は、僅かに眉を寄せた。
赤黒い瞳が、瑞稀の言葉の真意を量るように細められる。
『……申せ。』
「私は、与えられることに慣れすぎていました。」
瑞稀は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「米が炊かれること。」
「食事が並ぶこと。」
「朝になれば、弁当が用意されていることも。」
豊受姫は、黙って聞いている。
「誰が、どのような思いでそれを用意してくださったのか。」
「私は、見ようとしていませんでした。」
瑞稀は、自分の両手へ目を落とした。
『今更、気づいたと。』
豊受姫の声には、まだ冷たい響きが残っていた。
「はい。」
瑞稀は、否定しなかった。
「今更です。」
「私は、父が初めて私へ弁当を作ってくださった日のことさえ、覚えておりませんでした。」
豊受姫の瞳が、僅かに揺れる。
「忘れたことにさえ、自分では気づいていませんでした。」
朝靄が、静かに二人の間を流れていく。
「食べることは、生きることです。」
瑞稀は、顔を上げた。
「けれど、生きていられる時ほど、人は自分を支えているものを、当たり前だと思ってしまいます。」
『……忘れる、か。』
豊受姫の声が、低く響いた。
「はい。」
瑞稀は、静かに頷く。
「人は、忘れます。」
「私も、今も何かを忘れ続けています。」
旭の拳が、瑞稀の隣で僅かに握られた。
けれど、瑞稀は言葉を止めなかった。
「だからこそ、忘れたことを、初めからなかったことにはしたくありません。」
豊受姫の瞳が、静かに瑞稀を映している。
「見ていなかったことを、見えなかったことにはしたくありません。」
瑞稀は、深く頭を下げた。
「今日まで、人を生かし、実りを育て、食を与え続けてくださったことへ、心より感謝申し上げます。」
田を渡っていた風が、静かに凪いだ。
豊受姫は、長い間何も言わなかった。
やがて、赤黒く濁っていた瞳から、僅かに色が戻り始める。
『……感謝が。』
掠れた声が落ちる。
『欲しかったわけではない。』
瑞稀は、頭を下げたまま答えた。
「はい。」
『崇められたかったわけでもない。』
「はい。」
豊受姫の肩から、黒い靄が僅かに剥がれ落ちる。
『ただ。』
声が、震えた。
『見てほしかった。』
『我が、ただ食を運ぶだけの者ではないと。』
『我にも、心があるのだと。』
瑞稀は、ゆっくりと顔を上げる。
「今、あなたを見ています。」
豊受姫の瞳が、大きく揺れた。
「食を司る神としてだけではなく。」
「見過ごされることを悲しんだ、一柱の神として。」
田を覆っていた黒い靄へ、細い亀裂が走る。
一つ。
また一つ。
赤黒い穢れが、稲穂の間から静かに剥がれ落ちていった。
豊受姫は、自らの両手を見つめる。
『……遅い。』
その声には、もう怒りはなかった。
「申し訳ありません。」
『だが。』
豊受姫が、静かに目を閉じる。
『届かぬよりは、ずっとよい。』
瑞稀は、右手を静かに差し出した。
淡い光が、その掌へ集まっていく。
やがて、一振りの槍が音もなく姿を結んだ。
瑞稀は、両手を柄へ重ね、深く頭を下げる。
「――御霊よ。」
静かな声が、朝靄の中へ広がっていく。
「畏み、畏み申し上げる。」
槍を中心に、淡く輝く祝詞の文字が足元へ浮かび上がった。
光は乾いた土へ染み込み、力なく垂れていた稲穂の間をゆっくりと巡っていく。
一つ。
また一つ。
淡い命の光が、戻り始めた。
瑞稀は、ゆっくりと顔を上げ、豊受姫をまっすぐに見つめる。
「御神の御許へ還り給え。」
――シャン。
神楽鈴の澄んだ音が、朝の田へ静かに響き渡った。
槍から広がる光が、豊受姫の身体を足元から包み込んでいく。
黒く汚れていた衣は、本来の豊かな色を取り戻していった。
乱れていた髪も、朝の風を受け、静かに整っていく。
豊受姫は、自らを包む光をしばらく見つめた。
やがて、瑞稀へ向かって穏やかに微笑む。
『人は、また忘れるのだろう。』
「はい。」
瑞稀は、静かに答えた。
「それでも、思い出そうとすることはできます。」
豊受姫は、僅かに目を細める。
『ならば、見失うな。』
『お前を生かすため、人知れず手を動かしている者たちを。』
瑞稀は、深く頭を下げた。
「はい。」
『そして。』
豊受姫の視線が、瑞稀の隣へ立つ旭へ向けられる。
『見ている者がいることも、忘れるでない。』
旭が、僅かに目を見開いた。
豊受姫の身体が、淡い光の粒へ変わっていく。
その光は、朝日に照らされた稲穂の上を、ゆっくりと昇っていった。
最後の一片が空へ溶けると同時に、瑞稀の手からも槍が静かに光となって消える。
領域を覆っていた気配がほどけた。
虫の声が戻り、朝の風が田を渡っていく。
頭を垂れていた稲穂が、重たげに、けれど今度は誇らしげに揺れていた。
◇
田を出ると、朝日が黄金の稲穂の上を静かに照らしていた。
「……終わったな。」
旭が、短く呟く。
「はい。」
瑞稀は、頷いた。
けれど胸の奥には、御霊を還した安堵よりも、静かな重さの方が強く残っている。
昨夜、父から聞かされた弁当の記憶。
それは、豊受姫を還した代償として、今失われたものではない。
もっと前から、すでに自分の中から消えていたものだった。
それなのに、誰かに教えられるまで、失ったことにさえ気づかなかった。
旭の告げた言葉を失った。
父が作ってくれた弁当の記憶も、失っていた。
数えていないだけで、きっと他にも多くのものが、すでに自分の中から欠け落ちている。
これまで、御霊還しの代償は目に見えないものだった。
失っても、失ったことを知らなければ、恐れることさえできなかった。
けれど今は、違う。
「瑞稀。」
旭の声に、瑞稀はゆっくりと顔を上げた。
「大丈夫か。」
いつもと同じ問い。
けれど、今までのように、何でもないと答えることはできなかった。
瑞稀は、自分の胸元へ手を添える。
そこには、まだ父の手のひらの温かさが残っている。
旭が、何度でも伝えると言ってくれた時の温もりも、確かに残っていた。
けれど、それさえいつか失ってしまうのだろうか。
「……怖いです。」
言葉は、考えるよりも先に口から零れていた。
旭が、僅かに目を見開く。
瑞稀自身も、その言葉を口にしたことへ驚いていた。
「何を失っているのか、もう自分では分かりません。」
「今、覚えていることも。」
「明日には――」
声が、僅かに震える。
「なくなっているかもしれない。」
旭は、すぐには何も言わなかった。
ただ、震える瑞稀の声を黙って聞いている。
やがて、一歩だけ距離を詰めた。
瑞稀が顔を上げるより先に、旭はそっとその身体を抱き寄せる。
強くはない。
逃げ場をなくすためではなく、ここにいると伝えるための腕だった。
瑞稀の頬が、旭の胸元へ触れる。
耳を澄まさなくても、その鼓動が近くに聞こえた。
「なら。」
旭が、低く言う。
「お前が忘れたことは、俺が覚えてる。」
腕へ、僅かに力がこもった。
瑞稀は、旭を見上げる。
「俺だって、いつか忘れることはある。」
旭は、朝日に照らされた田を見つめた。
「それでも、お前が大切にしてたことは。」
「できる限り、俺が覚えてる。」
瑞稀の胸の奥へ、温かなものが静かに広がっていく。
「……ありがとうございます。」
瑞稀が、小さく答える。
旭は、ゆっくりと腕をほどいた。
離れたあとも、触れていた場所には、まだ確かな温もりが残っている。
旭は、僅かに顔を背けた。
「礼はいい。」
耳が、朝日に照らされ、薄く赤く染まっている。
「勝手に覚えてるだけだ。」
朝の風が、二人の頬を静かに撫でていく。
黄金の稲穂が、その風へ応えるように揺れていた。
失ったものは、もう戻らない。
けれど、誰かが覚えていてくれる限り、初めから存在しなかったことにはならない。
瑞稀は、隣を歩く旭の足音を聞きながら、今この瞬間だけは忘れたくないと、強く願った。
第三十三話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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