第三十二話 「消えない温もり」
第三十二話 「消えない温もり」
朝五時。
瑞稀は、いつもどおりに目を開けた。
布団を畳み、顔を洗い、鏡の前で長い黒髪を整える。
櫛を通していた手が、ふと止まった。
昨夜、旭から大切な言葉を告げられた。
そのことは、覚えている。
天児屋根の領域で、長い間胸の奥へ隠していた思いを暴かれ、それでも最後には、自分の意思で瑞稀へ向き直った。
旭の顔も、震えていた声も、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥へ広がった温かさも、確かに残っている。
けれど。
「……何と。」
瑞稀は、鏡の中の自分へ問いかけた。
旭は最後に、何と言ったのだろう。
思い出そうとする。
旭が、自分の名を呼ぶ。
その唇が、ゆっくりと動く。
そこまでは浮かぶ。
けれど、その先だけが聞こえない。
まるで、記憶の中から言葉だけを抜き取られてしまったように。
瑞稀は、胸元へ手を当てた。
自分も、何かを答えたはずだった。
嬉しいと、大切にしたいと、そのような思いを伝えたことは覚えている。
それなのに、自分がどのような言葉を返したのかすら、どうしても思い出せない。
昨夜は、忘れたくないと強く願ったはずなのに。
「……旭。」
その名前だけが、静かな部屋へ落ちた。
返事はない。
鏡の中には、いつもと変わらない自分が映っている。
感情の読めない、静かな顔。
けれど、頬へ冷たいものが伝う感触があった。
指先で触れると、濡れていた。
「……涙。」
悲しいのだろうか。
自分の胸へ、静かに問いかける。
分からない。
苦しいのだろうか。
それも、はっきりとは分からない。
けれど、涙だけは止まらなかった。
失われた言葉の代わりに、身体だけが何かを覚えていて、それを伝えようとしているようだった。
瑞稀は、しばらく鏡の前から動けなかった。
やがて手拭いを取り、静かに頬を拭う。
いつもの朝と同じ手順で、いつもの朝とは違う心のまま、瑞稀は身支度を整えた。
◇
拝殿で、朝の祝詞を奏上する。
言葉を一つ、また一つと紡いでいく。
けれど、途中で一度だけ、次へ続くはずの言葉が喉の奥で止まった。
ほんの僅かな間を置き、瑞稀は祝詞を最後まで唱え終える。
一礼し、立ち上がった。
背後には、いつものように父が立っている。
「……今日は、いつもより長かったな。」
瑞稀は、振り返った。
「お気づきになったのですか。」
「祝詞の切れ目が、少し乱れていた。」
父はそれだけ言うと、瑞稀の顔を静かに見つめた。
以前なら、それ以上は何も尋ねなかっただろう。
けれど。
「何か、あったのか。」
短い問いだった。
咎めるような響きはない。
ただ、娘を案じる色だけが、声の奥にあった。
瑞稀は、少し迷った。
それでも、父の視線から逃げることはしなかった。
「大切な言葉を。」
瑞稀は、胸元へ手を添える。
「思い出せなくなりました。」
父の目が、僅かに揺れた。
「……代償か。」
「はい。」
短い沈黙が落ちる。
父は、静かに息を吐いた。
「辛いか。」
瑞稀は、自分の心へ問いかける。
やはり、はっきりとした答えは見つからなかった。
「分かりません。」
正直に答える。
「けれど。」
一度、言葉を切った。
「悲しいのだと思います。」
父は、それ以上の事情を尋ねなかった。
ただ、瑞稀の頭へそっと手を置いた。
大きな手だった。
幼い頃にも、こうして触れられたことがあったのだろうか。
思い出すことはできなかった。
けれど、今触れている手のひらは温かかった。
「……行ってきなさい。」
父が告げる。
「気を付けて。」
少し間を置き、いつもの言葉を続けた。
「学校が終わったら、真っ直ぐ帰ってきなさい。」
いつもと同じ言葉。
それなのに、今日は少しだけ違って聞こえた。
「はい。」
瑞稀は静かに頭を下げ、拝殿を後にした。
◇
石段を下りると、いつもの場所に旭が待っていた。
制服姿で、鞄を肩へかけている。
瑞稀と目が合った瞬間、旭の身体が僅かに強張った。
「……おはよ。」
短く告げる声は、いつもより少し硬い。
耳の先が、薄く赤く染まっている。
昨夜のことを意識しているのだと、瑞稀にも分かった。
「おはようございます。」
いつもどおりに返す。
けれど、瑞稀の視線は、いつもより長く旭へ留まった。
旭が、気まずそうに顔を背ける。
「……何だ。」
瑞稀は、すぐには答えられなかった。
昨夜、この人は自分へ大切なことを伝えてくれた。
そのことだけは、確かに覚えている。
けれど、言葉そのものは、もうどこにもない。
「旭。」
「何だ。」
「昨夜のことについて、お伝えしなければならないことがあります。」
旭の肩が、僅かに揺れた。
ゆっくりと瑞稀へ向き直り、その表情から先ほどまでの気まずさが消えていく。
「……何だ。」
瑞稀は、静かに口を開いた。
「あなたが、私へ大切なことを伝えてくださった。」
「そのことは、覚えています。」
旭の瞳が、僅かに揺れる。
「あなたが、私の名を呼んだことも。」
「その時のお顔も。」
「それを聞いて、私がとても嬉しいと思ったことも。」
瑞稀は、一度息を整えた。
「すべて、覚えています。」
旭は何も言わず、続きを待つように瑞稀を見つめていた。
「ですが。」
瑞稀は、僅かに目を伏せる。
「あなたが何とおっしゃったのか。」
「私が何とお答えしたのか。」
「言葉だけが、思い出せません。」
朝の空気が、静かに二人の間を通り抜けた。
旭の顔から、ゆっくりと赤みが引いていく。
「……本当に。」
低い声だった。
「そこだけ、覚えてないのか。」
「はい。」
「俺が、何を話したのかは。」
「その前にお話しくださったことは、覚えています。」
瑞稀は、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「母様がいらした頃の私のこと。」
「母様がいなくなってから、私が変わったこと。」
「何も聞けなかったことを、寂しく思っていたこと。」
「私が忘れていくことを、怖いと思っていたことも。」
旭の拳が、僅かに握られた。
瑞稀は、その手を見つめる。
「けれど、あなたが最後に、ご自身の意思で伝えてくださった言葉だけが抜け落ちています。」
「私が返した言葉も、同じです。」
旭は、しばらく動かなかった。
やがて、深く息を吐く。
「……そうか。」
声には、隠しきれない痛みがあった。
「もう、持っていかれたのか。」
瑞稀の胸が、強く締め付けられる。
御霊還しの代償。
感情に結びついた記憶は、少しずつ失われていく。
これまでは、きっと遠い過去から欠けていた。
けれど今は、昨夜の記憶さえ、朝を迎える前に失われ始めている。
「申し訳ありません。」
瑞稀は、静かに頭を下げた。
「あれほど、大切にしたいと思ったのに。」
「頭を下げるな。」
旭が、遮るように言った。
いつもより強い声だった。
瑞稀は、僅かに顔を上げる。
「ですが。」
「お前のせいじゃない。」
「ですが――」
「ですがじゃない。」
旭の声が、僅かに震えた。
「忘れたくて忘れたわけじゃないだろ。」
「はい。」
「なら、お前が謝ることじゃない。」
奥歯を噛み締めるような声だった。
旭の目には、怒りにも似た感情が浮かんでいる。
けれど、それは瑞稀へ向けられたものではなかった。
瑞稀から大切なものを奪っていく代償へ、抗うことのできない神卸の仕組みそのものへ向けられている。
「悪い。」
旭は、すぐに目を伏せた。
「お前に、怒った顔を見せたいわけじゃない。」
「分かっています。」
瑞稀は、静かに答えた。
「私へ怒っているのではないことは。」
その言葉に、旭の表情がほんの少しだけ緩んだ。
しばらく、二人は石段の下で向き合っていた。
朝の光が、木々の間から静かに差し込んでいる。
やがて、旭が低く口を開いた。
「……瑞稀。」
「はい。」
「昨日、また言うって約束したよな。」
瑞稀は、静かに頷いた。
「はい。そのことは、覚えています。」
「不思議なのですが。」
瑞稀は、胸元へ手を添える。
「言葉の中身は思い出せないのに、もう一度伝えてくださると約束したことだけは、覚えているのです。」
旭は、しばらく瑞稀を見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「なら、もう一度言えばいい。」
瑞稀が、僅かに目を見開いた。
旭の耳が、再び薄く赤く染まっていく。
けれど今度は、目を逸らさなかった。
「昨日言ったことを、そのまま繰り返すって意味じゃない。」
旭は、僅かに眉を寄せる。
「昨日は、天児屋根に勝手に引きずり出された。」
「言うつもりのなかったことまで、順番も、言い方も選べずに、全部口にさせられた。」
瑞稀は、黙って聞いている。
「だから今度は、最初から俺の意思で言う。」
「自分で言う時を決めて。」
「自分の言葉で、もう一度伝える。」
瑞稀の胸の奥で、何かが小さく揺れた。
悲しみとも、苦しさとも違う、温かな何かだった。
「……はい。」
瑞稀は、静かに頷く。
「待っています。」
旭は、一瞬だけ言葉を失った。
「お前。」
耳の赤みが、頬まで広がっていく。
「そういうことを。」
「何でしょうか。」
「いや。」
旭は、顔を背けた。
「何でもない。」
そう言って、逃げるように歩き出す。
瑞稀も、その隣へ並んだ。
数歩進んだところで、旭が不意に口を開く。
「忘れても。」
瑞稀は、旭へ視線を向けた。
旭は、前を向いたままだった。
「何度でも言う。」
低く、けれど、はっきりとした声だった。
「お前が、覚えていられるようになるまで。」
瑞稀は、旭の横顔を見つめた。
昨夜の言葉は、もう思い出せない。
けれど今、この瞬間、胸の奥へ広がった温かさだけは、確かに残っている。
「ありがとうございます。」
瑞稀が告げると、旭は前を向いたまま小さく答えた。
「……ああ。」
二人は、並んで学校へ向かった。
その歩幅は、いつもより少しだけ近かった。
◇
昼休み。
弾むような足音が、教室へ近づいてきた。
「瑞稀ー! お昼、一緒に食べよう!」
茶色いくせ毛を揺らしながら、芽衣が瑞稀の机へ駆け寄ってくる。
いつものように、机へ頬杖をついた。
けれど今日は、その肩口に小さな影がある。
制服の襟へ片手をかけるようにして、白銀の髪をした小さな青年が顔を覗かせていた。
手のひらへ乗るほどの身体で、少彦名神は得意げに胸を張る。
『邪魔するぞ。』
瑞稀は、僅かに目を瞬かせた。
「その大きさでも、随分と堂々としていらっしゃるのですね。」
『わしは、小さくとも神ぞ。』
少彦名神が、誇らしげに鼻を鳴らす。
「はいはい。偉い、偉い。」
芽衣が、指先でその頭を軽くつついた。
『こら!』
少彦名神は、慌てて芽衣の襟元へ身を隠した。
すぐに顔だけを覗かせ、芽衣を睨みつける。
『神を指でつつくでない。』
「だって、可愛いんだもん。」
『可愛いと言うな!』
芽衣は、楽しそうに笑った。
瑞稀は、その様子をしばらく見つめる。
「お二人とも、随分仲良くなられたのですね。」
「え。」
芽衣は、少しだけ目を丸くした。
それから、肩口の少彦名神へ視線を向ける。
「そう、かな。」
『こやつが、勝手に馴れ馴れしくなっただけだ。』
「少彦名神様だって、ずっと私の肩にいるじゃん。」
『ここが一番、見晴らしがよいだけだ。』
「はいはい。」
芽衣は、呆れたように笑った。
けれど、その声には隠しきれない嬉しさが滲んでいる。
「でも、まあ。」
芽衣は、少彦名神へ指先を差し出した。
「いてくれると、安心するかな。」
少彦名神は、その指先をちらりと見る。
やがて何も言わず、そこへ小さな手を置いた。
その様子を見て、瑞稀の胸にも小さな温もりが生まれた。
その時。
芽衣の視線が、瑞稀と旭の間でぴたりと止まった。
「……あれ?」
「何だ。」
旭が、箸を止める。
芽衣は瑞稀を見て、次に旭を見た。
もう一度、瑞稀へ視線を戻す。
「何か。」
芽衣の目が、ゆっくりと細くなった。
「雰囲気、違わない?」
瑞稀は、僅かに首を傾げる。
「そうでしょうか。」
「絶対、違う!」
芽衣は、身を乗り出した。
「瑞稀、旭君のことを見る回数が増えてるし。」
旭の手が止まる。
「それに、旭君も。」
「瑞稀と目が合うたび、すぐ逸らしてる!」
「逸らしてない。」
旭が、即座に否定した。
けれど、声が僅かに上擦っている。
耳も赤い。
芽衣の目が、ぱっと輝いた。
「……あ。」
「絶対、何かあったでしょ!」
『ほう。』
襟の中から、少彦名神が再び顔を出す。
『若い者の色恋は、見ていて飽きぬな。』
「神様まで乗ってこないでください。」
旭が、低く唸った。
芽衣は、机へ両手をつく。
「ねえ、何があったの?」
「何もない。」
旭が答える。
「旭。」
瑞稀が、隣を見る。
「何もなかったわけではありません。」
旭が、勢いよく咽せた。
「瑞稀!」
芽衣の顔が、さらに輝く。
「やっぱり!」
瑞稀は、少し考えた。
昨夜の言葉そのものは、もう思い出せない。
けれど、以前とは違う。
旭との間にあった距離が、ほんの少し変わったことだけは分かる。
「距離が。」
瑞稀は、静かに答えた。
「少し、近くなったのだと思います。」
教室の時間が、一瞬だけ止まった。
芽衣が、目を見開く。
少彦名神も、小さな口を開けたまま固まっている。
旭だけが、顔を真っ赤にして俯いた。
「お前は。」
掠れた声が落ちる。
「そういうことを、簡単に言うな。」
「事実を申し上げただけです。」
「それが駄目なんだ。」
「なぜですか。」
「分からなくていい。」
旭は、片手で顔を覆った。
その隣で、芽衣が嬉しそうに身を乗り出す。
「じゃあ、絶対いつか聞かせてね。」
瑞稀は、少しだけ考えた。
昨夜の言葉そのものは、もう思い出せない。
けれど、旭との間に何か大切なことがあった。
そのことまで、なくなったわけではない。
「ええ。」
瑞稀は、静かに頷く。
「いつか、お話しします。」
「約束だからね。」
芽衣は、満足そうに笑った。
それから瑞稀と旭を、もう一度交互に見つめる。
「まあ。」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「今は、それでいいか。」
「二人とも、ちょっと幸せそうだし。」
その言葉に、瑞稀の胸がまた小さく温かくなる。
昨夜と同じような、けれど、今この瞬間に新しく生まれた温もり。
『我が薬より、よほど効く顔をしておるな。』
少彦名神が、しみじみと呟いた。
瑞稀は、僅かに首を傾げる。
「何のことでしょうか。」
『さてな。』
小さな神は、悪戯っぽく笑うだけだった。
昼休みの教室へ、三人と一柱の賑やかな声が響いていく。
失った言葉は、もう思い出せない。
それでも、胸へ残った温もりは、新しい言葉と新しい時間によって、少しずつ形を与えられていく。
それは、何度失ったとしても、もう一度生まれることのできる、確かな人の心だった。
第三十二話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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