第三十一話 「言えなかった言葉」
第三十一話 「言えなかった言葉」
その週、町のあちこちで、小さな諍いが絶えなかった。
長年連れ添った夫婦が、些細な一言をきっかけに怒鳴り合う。
仲の良かった友人同士が、言った覚えのない悪口を巡り、口も利かなくなる。
商店街では、挨拶のつもりで発した言葉が、まるで嫌味のように相手の耳へ届いたという。
「言ったつもりのないことを、言ったことにされる。」
瑞稀は、聞き集めた話を一つずつ確かめるように続けた。
「反対に、確かに口にしたはずの言葉が、まるで違う意味で伝わることもあるそうです。」
旭は、僅かに眉を寄せる。
「言葉そのものが、捻じ曲げられているのか。」
「恐らくは。」
瑞稀は、懐に収めた勾玉へ触れた。
冷たい石の表面から、かすかな震えが伝わってくる。
「言葉に関わる神なのでしょうか。」
「心当たりはあるのか。」
「一柱だけ。」
瑞稀は、静かに顔を上げた。
「天児屋根様。」
祝詞を司り、言葉の力をもって神々を導いた神。
その名を口にした瞬間、勾玉がもう一度、小さく震えた。
◇
夜。
二人は、町外れにある古い神社を訪れた。
かつては祝詞を納める社として、多くの参拝者を集めていたという。
けれど今は、参道を覆う草が長く伸び、石灯籠には深い亀裂が走っていた。
朽ちかけた鳥居だけが、闇の中へ取り残されたように立っている。
「ここか。」
「はい。」
瑞稀は、朽ちかけた鳥居を見上げた。
注連縄はとうに朽ち、紙垂も残っていない。
境界としての力など、すでに失われているように見えた。
瑞稀が鳥居をくぐる。
旭も、すぐ後へ続いた。
境内に、変わった様子はない。
風に揺れる草の音。
遠くを走る車の音。
木々の隙間から差し込む、淡い月明かり。
ただ、人の気配だけがなかった。
「……何もいないな。」
旭が呟いた、その時だった。
耳の奥で、囁くような声がした。
『……ようこそ。』
滑らかで、ひどく耳に心地よい声だった。
その響きへ触れた瞬間、世界から音が消える。
風に揺れていた草が、ぴたりと止まった。
木々の葉も。
夜空を流れていた雲さえも。
何かに縫い留められたように、動きを失っている。
「……旭。」
瑞稀が振り返る。
鳥居の向こうに見えていたはずの道が、消えていた。
そこにあるのは、底の見えない闇だけ。
二人がくぐったはずの鳥居は、今や闇の奥へ続く門のように立っていた。
旭が、すぐに刀の柄へ手をかける。
「取り込まれたか。」
「恐らくは。」
瑞稀は、懐の勾玉へ触れた。
先ほどまで震えていた石は、不自然なほど静まり返っている。
外とのつながりが、完全に断たれていた。
その時、足元の砂利が、墨を落とした水面のように黒く滲んだ。
滲みは瞬く間に境内全体へ広がり、石畳も、草木も、朽ちた社も、色を失っていく。
白と黒だけで描かれた世界。
頭上には、月が浮かんでいる。
けれど、その光はどこにも影を落としていなかった。
代わりに、無数の声が二人の周囲を漂い始める。
『そんなつもりではなかった。』
『どうして分かってくれない。』
『言っていない。』
『確かに聞いた。』
『違う。』
『嘘つき。』
誰のものとも知れない言葉が、囁きとなって重なり合う。
一つ一つは小さな声なのに、聞いているうちに、すべてが自分へ向けられているような錯覚へ陥った。
瑞稀は、胸元を押さえる。
「これは……。」
『言葉の墓場だ。』
先ほどの声が、今度ははっきりと境内へ響いた。
社の奥。
月明かりさえ届かない闇の中に、一つの人影が浮かび上がる。
墨染めの衣を纏った、涼やかな顔立ちの男。
整った口元には、薄い笑みが浮かんでいた。
けれど、その笑みに温度はない。
『口にされ、届かず。』
『または、異なる意味へ受け取られ。』
『やがて、誰の心にも還れなくなった言葉たち。』
男が、片手を上げる。
それに応じるように、周囲の囁きが一斉に止んだ。
静寂の中、男の声だけが耳の奥へ滑り込んでくる。
『ここでは、言葉は話す者のものではない。』
『聞いた者のものですらない。』
笑みが、僅かに深くなる。
『すべて、我のものだ。』
その視線が、瑞稀を捉えた。
続いて、旭へ向けられる。
『花里の巫女。』
『それから――その従者か。』
旭の眉が、僅かに動いた。
「従者じゃない。」
『ほう。』
男は、愉快そうに目を細める。
『では、何だ。』
旭は答えなかった。
瑞稀が、一歩前へ出る。
「天児屋根様。」
男の笑みが、僅かに深くなった。
『ほう、よく分かったな。』
『それとも、当てずっぽうか。』
「祝詞と、言葉を司る神と伺っています。」
『それだけで、我だと?』
「……私には、そのように思えました。」
瑞稀が静かに答えると、天児屋根はしばらくその顔を見つめた。
やがて、口元を歪める。
『なるほど。』
『随分と賢い巫女だ。』
瑞稀は、僅かに目を伏せた。
「そのようなことは――」
『謙遜か。』
瑞稀の言葉を遮るように、天児屋根の声が重なる。
『それとも、自分が賢いことくらい、とうに知っているのか。』
「違います。」
『違う?』
声が、耳の奥へ直接滑り込んでくる。
『では、教えてやろう。』
『賢い女という言葉はな。』
天児屋根の目が、細くなった。
『可愛げのない女、とも言い換えられる。』
瑞稀の胸が、鋭く痛む。
ただの挑発だ。
そう分かっているはずなのに、その言葉は、自分自身が長い間心の奥で恐れていたことのように、深く突き刺さった。
感情を表へ出せない。
何を考えているか分からない。
近寄り難い。
そう思われても、仕方がない。
胸の奥へ、冷たいものが広がっていく。
「瑞稀。」
旭が、瑞稀の前へ出た。
「あいつの言葉を聞くな。」
低い声だった。
「お前に可愛げがないとか、そんな――」
旭の言葉が、不自然に途切れた。
目が、大きく見開かれる。
口を閉じようとしている。
けれど。
「……昔は、もっと笑ってた。」
零れた声に、旭自身が息を呑んだ。
瑞稀が、顔を上げる。
「旭?」
「違う。」
旭は、すぐに首を横へ振った。
「今のは、言うつもりじゃ――」
『ほう。』
天児屋根が、楽しげに笑う。
『面白い。』
『その続きを、聞かせてみろ。』
「黙れ。」
旭が睨みつける。
けれど、その口は意思へ反して再び開いた。
「お前の母親がいた頃は、もっと明るかった。」
瑞稀の瞳が、揺れる。
旭の顔から、血の気が引いていった。
「やめろ。」
自分自身へ言い聞かせるような声だった。
「今、言うことじゃない。」
「そんな顔をさせたいわけじゃ――」
それでも、止まらない。
「いなくなってから、お前は笑わなくなった。」
「泣かなくなった。」
「何を言われても、何でもないみたいな顔をするようになった。」
瑞稀は、何も言えなかった。
旭の声は、責めるようなものではない。
むしろ、長い間触れることすら恐れていた傷を、震える手で確かめるような声だった。
「俺は、ずっと分からなかった。」
「本当に、何も感じなくなったのか。」
「感じてるのに、表へ出さなくなっただけなのか。」
「聞きたかった。」
旭の拳が、強く握られる。
「何かあるたびに、何度も。」
「大丈夫かって。」
「苦しくないのかって。」
「一人で抱えてないかって。」
旭の声が、僅かに震えた。
「でも、聞いたらお前を傷つける気がした。」
「思い出したくないことを、無理に思い出させるかもしれないと思った。」
「俺が聞いたせいで、もっと苦しませるのが怖かった。」
「だから、俺も何でもないふりをした。」
「ずっと。」
「お前が何も言わないなら、俺も聞かない方がいいんだって。」
旭が、自分の口元を手で覆う。
それでも言葉は、指の隙間から零れ続けた。
「やめろ。」
「もう、やめろ。」
「こんなの、瑞稀に聞かせたくない。」
『なぜだ。』
天児屋根が、ゆっくりと首を傾げる。
『本心なのだろう?』
『ならば、伝えればよい。』
『言葉とは、そのためにある。』
「違う。」
旭は、苦しげに息を吐いた。
「言葉は、選ぶものだ。」
「何を言ってもいいわけじゃない。」
「相手がどう受け取るのかを考えて。」
「傷つけないように、選ぶものだ。」
『だから、言えなかった。』
天児屋根の声が、甘く響く。
『優しさではない。』
『拒まれるのが、怖かっただけだ。』
旭の肩が、大きく揺れた。
「……そうだ。」
掠れた声が落ちる。
瑞稀が、息を呑んだ。
「怖かった。」
「聞いて、何も話してもらえなかったら。」
「俺には言いたくないって言われたら。」
「お前にとって、俺は何でもないんだって分かったら。」
旭は、俯いたまま拳を握り締めた。
「ずっと傍にいたのに、俺には何も話してくれない。」
「俺が知ってるのは、昔のお前ばかりで。」
「今のお前が何を考えてるのか。」
「何が好きで、何が嫌で。」
「何が苦しくて。」
「何を失うのが怖いのか。」
「何も分からない。」
旭の声へ、初めて明確な痛みが滲む。
「それが、ずっと寂しかった。」
境内が、静まり返った。
天児屋根の表情から、僅かに笑みが消えている。
瑞稀は、ただ旭を見つめていた。
胸の奥が、強く締め付けられる。
旭はいつも、何も聞かなかった。
瑞稀が答えたくないのだと思っていた。
聞かないことが、旭なりの優しさなのだと。
けれど、その沈黙の向こうで、旭もまた、ずっと傷ついていた。
「最近は、お前が思い出せないことが増えて。」
旭の声が、さらに低くなる。
瑞稀の指が、僅かに震えた。
「聞いたはずのことを忘れて。」
「昔のことが、少しずつ抜けて。」
「そのたびに、不安になる。」
「次は、何を忘れるんだって。」
「お前が大事にしてたものまで、忘れるんじゃないかって。」
旭が、息を詰まらせる。
「そのうち、俺のことも忘れるんじゃないかって。」
「旭。」
瑞稀は、思わず名前を呼んだ。
旭が、顔を上げる。
その表情に、赤みはなかった。
戸惑いと恐れ。
止められない言葉への焦り。
そして、今まで隠してきたものを、すべて暴かれていく苦しさ。
「言いたくなかった。」
旭の声が、震える。
「こんな言い方で、お前を責めてるみたいに。」
「違うんだ。」
「忘れたくて忘れてるんじゃないことくらい、分かってる。」
「お前が一番苦しいことも、分かってるつもりだった。」
「だから、何も言わない方がいいと思った。」
一度、言葉が途切れる。
旭は、必死に口を閉ざそうとしていた。
喉の奥で、何度も息を呑み込む。
けれど、それでも次の言葉は零れた。
「俺は、お前に忘れられたくない。」
瑞稀の瞳が、大きく揺れる。
「忘れないでほしい。」
「昔、一緒に遊んだことも。」
「お前が笑ってたことも。」
「泣いた時、俺の服を掴んでたことも。」
「俺がずっと、お前の傍にいたことも。」
「全部、忘れないでほしい。」
旭の声は、もうほとんど祈りに近かった。
「俺は、ずっとお前のために――」
旭の顔が、強張る。
初めて、その先にある言葉を自分自身で理解したようだった。
「違う。」
旭が、掠れた声で呟く。
「そこまでは。」
「それだけは、今は――」
『言え。』
天児屋根の声が、境内へ響いた。
『胸の奥へ隠した言葉を。』
『どうせいつか、失われる。』
『ならば、今ここですべて口にしてしまえ。』
「黙れ!」
旭の怒声とともに、青白い雷光が弾けた。
けれど、天児屋根を取り囲む黒い靄は、少しも揺らがない。
旭は、荒い呼吸を繰り返す。
瑞稀から目を逸らしたまま、必死に何かへ抗っていた。
「言いたくない。」
「こんなふうに、勝手に言わされて。」
「お前の気持ちも聞かないで。」
「俺だけが、全部押しつけるみたいに。」
「そんなのは、嫌だ。」
言葉は、止まらない。
それでも、その声には少しずつ旭自身の意思が戻り始めていた。
「……でも。」
旭が、ゆっくりと瑞稀を見る。
逃げることを諦めたような。
それでも、瑞稀の反応を恐れているような目だった。
「これだけは、言わされた言葉にしたくない。」
天児屋根の眉が、僅かに動く。
旭は、短く息を吸った。
「瑞稀。」
名を呼んだ瞬間、それまで荒れ狂っていた黒い靄が、不自然に止まった。
旭の声から焦りが消えていく。
代わりに残ったのは、覚悟だった。
「俺は、お前が好きだ。」
静かな声だった。
飾りも。
言い訳も。
何一つなかった。
言葉が落ちたあと、旭自身が一番驚いたように目を見開く。
次の瞬間、見る見るうちに顔へ赤みが広がっていった。
「……っ。」
ようやく、自分が何を口にしたのか、すべて理解したのだろう。
旭は、瑞稀から顔を背けた。
けれど、もう取り消そうとはしなかった。
境内の空気が震え、黒い靄が激しく揺らぐ。
天児屋根が、一歩後ずさった。
『……なぜだ。』
その声から、初めて余裕が消えていた。
『我は、お前の胸へ隠したものを暴いた。』
『言う時を選ぶことも。』
『言い方を選ぶことも許さず。』
『最も醜い形で、すべてを吐き出させた。』
『それなのに。』
天児屋根の瞳が、旭を捉える。
『なぜ、お前はその言葉を否定しない。』
旭は、赤くなった顔を背けたまま答えた。
「言い方は、最悪だった。」
「こんなふうに、言いたかったわけじゃない。」
「でも、言ったことまで、なかったことにはしたくない。」
天児屋根の顔が、歪む。
『強がりを。』
「違う。」
旭は、瑞稀へ向き直った。
「言わされたままなら、あいつの言葉になる。」
「だから、最後だけは自分で言った。」
短く息を吸い、続ける。
「俺が、自分で伝えたかったからだ。」
『……言葉に裏切られたというのに。』
「裏切ったのは、言葉じゃない。」
旭は、静かに言った。
「俺が、ずっと逃げてただけだ。」
「伝えなきゃ、何も始まらない。」
「間違って伝わったなら、もう一度言えばいい。」
「傷つけたなら、謝ればいい。」
「一度で駄目なら、何度でも。」
天児屋根の周囲で、黒い靄が大きく波打った。
瑞稀は、旭を見つめていた。
胸の奥へ、幾つもの感情が押し寄せている。
驚き。
戸惑い。
申し訳なさ。
そして、言葉にすることを躊躇うほどの、温かな何か。
旭の言葉を、失いたくない。
そう思った。
今までのように、大切な記憶から少しずつ欠けていくものの中へ、この言葉まで入れたくなかった。
「旭。」
瑞稀が呼びかける。
旭の肩が跳ねた。
それでも、こちらを向かない。
「……今は、こっちを見るな。」
低く呟く。
耳まで、赤く染まっていた。
瑞稀は、その横顔を見つめたまま口を開く。
「私は――」
その瞬間、黒い靄が瑞稀の唇へ絡みついた。
『言え。』
天児屋根が、囁く。
『気味が悪いと。』
『重いと。』
『そのような目で見ていたのかと。』
『その言葉を、拒め。』
瑞稀の喉から、別の言葉が這い上がろうとする。
けれど、瑞稀は静かに胸元へ手を当てた。
何を伝えたいのか。
自分の心へ問いかける。
まだ、この感情の名前は分からない。
旭と同じものなのかも、今は分からない。
けれど。
「……嬉しいです。」
言葉は、何一つ歪まなかった。
旭が、ゆっくりと振り返る。
瑞稀は、まっすぐに旭を見つめた。
「あなたが、そのように思っていたことには気づきませんでした。」
「私が何も言わなかったことで、あなたを寂しくさせていたことにも。」
「申し訳ありません。」
「謝るな。」
旭が、すぐに言った。
「今のは、俺が勝手に――」
瑞稀は、小さく首を横へ振る。
「それでも、伝えてくださって嬉しいです。」
旭は、何も言わなかった。
瑞稀は、胸元の勾玉を強く握る。
「私はまだ、この気持ちが何なのか分かりません。」
旭の目が、僅かに伏せられる。
その表情を見て、瑞稀の胸が痛んだ。
けれど、言葉を飾ってはいけない。
今、自分が伝えられることを、伝えなければならない。
「ですが、あなたに忘れられることを想像すると、苦しいです。」
旭の顔が上がった。
「あなたが、私の傍からいなくなることも。」
「他の誰かの隣へ立つことも。」
胸の奥が、強く脈打つ。
瑞稀自身、その感情に驚いていた。
「……嫌だと思います。」
旭は、呆然と瑞稀を見つめている。
「それが、あなたと同じ気持ちなのかは、まだ分かりません。」
「ですが――」
瑞稀は、一度言葉を切った。
「あなたが今、伝えてくださったことを、私は大切にしたいです。」
「忘れたくありません。」
その瞬間、黒い靄へ大きな亀裂が走った。
天児屋根が、苦しげに顔を歪める。
『なぜだ。』
『美しくもない。』
『整ってもいない。』
『答えにすら、なっていない。』
瑞稀は、静かに天児屋根へ向き直った。
「そうかもしれません。」
「けれど、分からないものを分かったふりはできません。」
「今、伝えられることを、できる限り伝えました。」
天児屋根の肩が、僅かに揺れる。
「天児屋根様。」
瑞稀は、柔らかく呼びかけた。
「あなたも、かつて。」
「伝えたかった言葉とは異なるものを、大切な方へ向けてしまったのですね。」
『……知ったような口を。』
低い声だった。
けれど、先ほどまでの嘲るような響きは、もうなかった。
「言葉を捻じ曲げるほど、本当の言葉が届かなかったことを、悔いていらっしゃる。」
天児屋根は、しばらく何も言わなかった。
やがて、その口元へ浮かんでいた笑みが静かに消える。
『……あの日。』
掠れた声が、暗い境内へ落ちた。
『我は、大切な者へ、心にもない言葉を投げた。』
『ほんの僅かな怒りに任せて。』
『最も傷つく言葉を選んだ。』
天児屋根の衣から、黒い靄が零れ落ちる。
『謝ればよかった。』
『違うのだと。』
『本当は、そのようなことを思ってはいないのだと。』
『すぐに追いかければよかった。』
声が震えた。
『だが、言葉を司る我が。』
『一度口にした言葉を、取り消すことなど許されぬと思った。』
『それきり、二度と伝えることはできなかった。』
「だから、言葉そのものを信じられなくなったのですね。」
瑞稀が静かに告げる。
『言葉さえなければ。』
『伝えようとしなければ。』
『二度と、誰も傷つけずに済むと思った。』
瑞稀は、首を横へ振った。
「言葉をなくしても、心はなくなりません。」
「伝えなければ、相手は知ることすらできません。」
天児屋根は、俯いたまま動かなかった。
瑞稀は、先ほど旭が口にした言葉を思い返す。
間違ったなら、伝え直せばいい。
傷つけたなら、謝ればいい。
一度で駄目なら、何度でも。
「言葉は、間違うものなのかもしれません。」
「同じ言葉でも、受け取り方は人によって違います。」
「けれど、間違えたあとに、もう一度伝えようとすることまで。」
瑞稀は、まっすぐに天児屋根を見つめた。
「諦めてはいけないのだと思います。」
境内を覆っていた黒い靄が、ゆっくりと薄れていく。
天児屋根の輪郭が、淡い光を帯び始めた。
『……不器用な言葉ほど。』
天児屋根が、僅かに顔を上げる。
『時に、飾られた祝詞よりも強く響く。』
その視線が、旭へ向く。
続いて、瑞稀へ向けられた。
『とうに、忘れていた。』
『言葉は、正しくあるためだけのものではない。』
『届かせようと、願うためのものだった。』
瑞稀は、静かに右手を差し出す。
淡い光が、その掌へ集まった。
やがて、一振りの槍が音もなく姿を結ぶ。
瑞稀は、その穂先を天児屋根へ向けなかった。
槍の石突きを、色を失った地面へ静かに立てる。
澄んだ音が一つ、白と黒だけの境内へ響いた。
瑞稀は、両手を柄へ重ね、深く頭を下げる。
「――御霊よ。」
声が、静まり返った領域へ広がっていく。
「畏み、畏み申し上げる。」
槍を中心に、淡い光の文字がゆっくりと足元へ浮かび上がった。
境内を漂っていた言葉たちが、その光へ触れるたび、穏やかな光の粒へ変わっていく。
瑞稀は、ゆっくりと顔を上げた。
「御神の御許へ還り給え。」
――シャン。
神楽鈴の澄んだ音が、朽ちた社へ響く。
槍から広がった淡い光が、天児屋根の身体を足元から静かに包んでいった。
同時に、周囲を覆っていた白と黒の景色へ、少しずつ色が戻り始める。
枯れた草へ。
朽ちた社へ。
夜空に浮かぶ月へ。
天児屋根は、自らを包む光を、しばらく見つめていた。
やがて、皮肉のない穏やかな笑みを浮かべる。
『……励めよ。』
消えゆく声には、微かな温もりが混じっていた。
『言えなかった言葉は。』
『言わずに済んだ言葉ではない。』
その姿が、淡い光の粒へ変わっていく。
『いつか必ず。』
最後に、天児屋根の視線が旭へ向けられた。
『己の口で、伝えることだ。』
光が、静かに天へ昇る。
最後の一片が消えると同時に、瑞稀の手から槍も光となって消えた。
領域を閉ざしていた闇がほどける。
鳥居の向こうに、夜の道が戻っていた。
遠く、町のどこかで響いていた怒鳴り声も、いつの間にか消えている。
◇
朽ちた鳥居の下。
瑞稀と旭は、並んで歩いていた。
けれど二人の間には、どこか落ち着かない沈黙が続いている。
「……その。」
旭が、ようやく口を開いた。
「さっきのことだが。」
瑞稀は、隣へ視線を向ける。
旭は、頑なに前を向いていた。
「忘れてくれとは言わない。」
一度、言葉を切る。
「言わないが、今日のところは、あまり俺を見るな。」
声は平静を装っていた。
けれど、耳まで真っ赤だった。
瑞稀は、しばらく旭の横顔を見つめる。
「分かりました。」
「……本当か。」
「はい。」
そう答えながらも、瑞稀は視線を逸らさなかった。
「瑞稀。」
「すみません。」
「謝りながら見るな。」
旭は、ますます顔を背ける。
けれど、その口元は、隠しきれないまま僅かに緩んでいた。
瑞稀も、自分の胸元へそっと手を当てる。
今までにない速さで、心臓が脈打っていた。
この感情が何なのか、まだ分からない。
それでも、旭が伝えてくれた言葉を忘れたくない。
そう思った。
「旭。」
「何だ。」
「先ほどの言葉を。」
瑞稀は、胸元へ手を添えたまま続ける。
「もう一度、伺ってもよいでしょうか。」
旭の足が、止まった。
「……今、聞いたばかりだろ。」
「はい。」
「なぜ、また聞く。」
瑞稀は、少し考える。
「覚えておきたいからです。」
旭は、言葉を失ったように瑞稀を見つめた。
次の瞬間、顔を背け、片手で口元を覆う。
「……今日は無理だ。」
「そうですか。」
「そんな顔をするな。」
「どのような顔でしょうか。」
「自分で分かってないなら、なおさら見るな。」
瑞稀は、僅かに首を傾げた。
旭は、小さく息を吐く。
けれど、その声にはどこか嬉しさが混じっていた。
「また言う。」
低く。
けれど、はっきりとした声だった。
「今度は、最初から俺の言葉で。」
瑞稀は、静かに頷く。
「はい。」
「待っています。」
夜風が、二人の間を静かに吹き抜けた。
朽ちた鳥居の向こうには、いつもと変わらない星空が広がっている。
けれど、並んで歩く二人の距離は、来た時よりもほんの僅かに近くなっていた。
第三十一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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