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第三十一話 「言えなかった言葉」

第三十一話 「言えなかった言葉」


その週、町のあちこちで、小さな諍いが絶えなかった。


長年連れ添った夫婦が、些細な一言をきっかけに怒鳴り合う。


仲の良かった友人同士が、言った覚えのない悪口を巡り、口も利かなくなる。


商店街では、挨拶のつもりで発した言葉が、まるで嫌味のように相手の耳へ届いたという。


「言ったつもりのないことを、言ったことにされる。」


瑞稀は、聞き集めた話を一つずつ確かめるように続けた。


「反対に、確かに口にしたはずの言葉が、まるで違う意味で伝わることもあるそうです。」


旭は、僅かに眉を寄せる。


「言葉そのものが、捻じ曲げられているのか。」


「恐らくは。」


瑞稀は、懐に収めた勾玉へ触れた。


冷たい石の表面から、かすかな震えが伝わってくる。


「言葉に関わる神なのでしょうか。」


「心当たりはあるのか。」


「一柱だけ。」


瑞稀は、静かに顔を上げた。


天児屋根(あめのこやね)様。」


祝詞を司り、言葉の力をもって神々を導いた神。


その名を口にした瞬間、勾玉がもう一度、小さく震えた。



夜。


二人は、町外れにある古い神社を訪れた。


かつては祝詞を納める社として、多くの参拝者を集めていたという。


けれど今は、参道を覆う草が長く伸び、石灯籠には深い亀裂が走っていた。


朽ちかけた鳥居だけが、闇の中へ取り残されたように立っている。


「ここか。」


「はい。」


瑞稀は、朽ちかけた鳥居を見上げた。


注連縄はとうに朽ち、紙垂も残っていない。


境界としての力など、すでに失われているように見えた。


瑞稀が鳥居をくぐる。


旭も、すぐ後へ続いた。


境内に、変わった様子はない。


風に揺れる草の音。


遠くを走る車の音。


木々の隙間から差し込む、淡い月明かり。


ただ、人の気配だけがなかった。


「……何もいないな。」


旭が呟いた、その時だった。


耳の奥で、囁くような声がした。


『……ようこそ。』


滑らかで、ひどく耳に心地よい声だった。


その響きへ触れた瞬間、世界から音が消える。


風に揺れていた草が、ぴたりと止まった。


木々の葉も。


夜空を流れていた雲さえも。


何かに縫い留められたように、動きを失っている。


「……旭。」


瑞稀が振り返る。


鳥居の向こうに見えていたはずの道が、消えていた。


そこにあるのは、底の見えない闇だけ。


二人がくぐったはずの鳥居は、今や闇の奥へ続く門のように立っていた。


旭が、すぐに刀の柄へ手をかける。


「取り込まれたか。」


「恐らくは。」


瑞稀は、懐の勾玉へ触れた。


先ほどまで震えていた石は、不自然なほど静まり返っている。


外とのつながりが、完全に断たれていた。


その時、足元の砂利が、墨を落とした水面のように黒く滲んだ。


滲みは瞬く間に境内全体へ広がり、石畳も、草木も、朽ちた社も、色を失っていく。


白と黒だけで描かれた世界。


頭上には、月が浮かんでいる。


けれど、その光はどこにも影を落としていなかった。


代わりに、無数の声が二人の周囲を漂い始める。


『そんなつもりではなかった。』


『どうして分かってくれない。』


『言っていない。』


『確かに聞いた。』


『違う。』


『嘘つき。』


誰のものとも知れない言葉が、囁きとなって重なり合う。


一つ一つは小さな声なのに、聞いているうちに、すべてが自分へ向けられているような錯覚へ陥った。


瑞稀は、胸元を押さえる。


「これは……。」


『言葉の墓場だ。』


先ほどの声が、今度ははっきりと境内へ響いた。


社の奥。


月明かりさえ届かない闇の中に、一つの人影が浮かび上がる。


墨染めの衣を纏った、涼やかな顔立ちの男。


整った口元には、薄い笑みが浮かんでいた。


けれど、その笑みに温度はない。


『口にされ、届かず。』


『または、異なる意味へ受け取られ。』


『やがて、誰の心にも還れなくなった言葉たち。』


男が、片手を上げる。


それに応じるように、周囲の囁きが一斉に止んだ。


静寂の中、男の声だけが耳の奥へ滑り込んでくる。


『ここでは、言葉は話す者のものではない。』


『聞いた者のものですらない。』


笑みが、僅かに深くなる。


『すべて、我のものだ。』


その視線が、瑞稀を捉えた。


続いて、旭へ向けられる。


『花里の巫女。』


『それから――その従者か。』


旭の眉が、僅かに動いた。


「従者じゃない。」


『ほう。』


男は、愉快そうに目を細める。


『では、何だ。』


旭は答えなかった。


瑞稀が、一歩前へ出る。


「天児屋根様。」


男の笑みが、僅かに深くなった。


『ほう、よく分かったな。』


『それとも、当てずっぽうか。』


「祝詞と、言葉を司る神と伺っています。」


『それだけで、我だと?』


「……私には、そのように思えました。」


瑞稀が静かに答えると、天児屋根はしばらくその顔を見つめた。


やがて、口元を歪める。


『なるほど。』


『随分と賢い巫女だ。』


瑞稀は、僅かに目を伏せた。


「そのようなことは――」


『謙遜か。』


瑞稀の言葉を遮るように、天児屋根の声が重なる。


『それとも、自分が賢いことくらい、とうに知っているのか。』


「違います。」


『違う?』


声が、耳の奥へ直接滑り込んでくる。


『では、教えてやろう。』


『賢い女という言葉はな。』


天児屋根の目が、細くなった。


『可愛げのない女、とも言い換えられる。』


瑞稀の胸が、鋭く痛む。


ただの挑発だ。


そう分かっているはずなのに、その言葉は、自分自身が長い間心の奥で恐れていたことのように、深く突き刺さった。


感情を表へ出せない。


何を考えているか分からない。


近寄り難い。


そう思われても、仕方がない。


胸の奥へ、冷たいものが広がっていく。


「瑞稀。」


旭が、瑞稀の前へ出た。


「あいつの言葉を聞くな。」


低い声だった。


「お前に可愛げがないとか、そんな――」


旭の言葉が、不自然に途切れた。


目が、大きく見開かれる。


口を閉じようとしている。


けれど。


「……昔は、もっと笑ってた。」


零れた声に、旭自身が息を呑んだ。


瑞稀が、顔を上げる。


「旭?」


「違う。」


旭は、すぐに首を横へ振った。


「今のは、言うつもりじゃ――」


『ほう。』


天児屋根が、楽しげに笑う。


『面白い。』


『その続きを、聞かせてみろ。』


「黙れ。」


旭が睨みつける。


けれど、その口は意思へ反して再び開いた。


「お前の母親がいた頃は、もっと明るかった。」


瑞稀の瞳が、揺れる。


旭の顔から、血の気が引いていった。


「やめろ。」


自分自身へ言い聞かせるような声だった。


「今、言うことじゃない。」


「そんな顔をさせたいわけじゃ――」


それでも、止まらない。


「いなくなってから、お前は笑わなくなった。」


「泣かなくなった。」


「何を言われても、何でもないみたいな顔をするようになった。」


瑞稀は、何も言えなかった。


旭の声は、責めるようなものではない。


むしろ、長い間触れることすら恐れていた傷を、震える手で確かめるような声だった。


「俺は、ずっと分からなかった。」


「本当に、何も感じなくなったのか。」


「感じてるのに、表へ出さなくなっただけなのか。」


「聞きたかった。」


旭の拳が、強く握られる。


「何かあるたびに、何度も。」


「大丈夫かって。」


「苦しくないのかって。」


「一人で抱えてないかって。」


旭の声が、僅かに震えた。


「でも、聞いたらお前を傷つける気がした。」


「思い出したくないことを、無理に思い出させるかもしれないと思った。」


「俺が聞いたせいで、もっと苦しませるのが怖かった。」


「だから、俺も何でもないふりをした。」


「ずっと。」


「お前が何も言わないなら、俺も聞かない方がいいんだって。」


旭が、自分の口元を手で覆う。


それでも言葉は、指の隙間から零れ続けた。


「やめろ。」


「もう、やめろ。」


「こんなの、瑞稀に聞かせたくない。」


『なぜだ。』


天児屋根が、ゆっくりと首を傾げる。


『本心なのだろう?』


『ならば、伝えればよい。』


『言葉とは、そのためにある。』


「違う。」


旭は、苦しげに息を吐いた。


「言葉は、選ぶものだ。」


「何を言ってもいいわけじゃない。」


「相手がどう受け取るのかを考えて。」


「傷つけないように、選ぶものだ。」


『だから、言えなかった。』


天児屋根の声が、甘く響く。


『優しさではない。』


『拒まれるのが、怖かっただけだ。』


旭の肩が、大きく揺れた。


「……そうだ。」


掠れた声が落ちる。


瑞稀が、息を呑んだ。


「怖かった。」


「聞いて、何も話してもらえなかったら。」


「俺には言いたくないって言われたら。」


「お前にとって、俺は何でもないんだって分かったら。」


旭は、俯いたまま拳を握り締めた。


「ずっと傍にいたのに、俺には何も話してくれない。」


「俺が知ってるのは、昔のお前ばかりで。」


「今のお前が何を考えてるのか。」


「何が好きで、何が嫌で。」


「何が苦しくて。」


「何を失うのが怖いのか。」


「何も分からない。」


旭の声へ、初めて明確な痛みが滲む。


「それが、ずっと寂しかった。」


境内が、静まり返った。


天児屋根の表情から、僅かに笑みが消えている。


瑞稀は、ただ旭を見つめていた。


胸の奥が、強く締め付けられる。


旭はいつも、何も聞かなかった。


瑞稀が答えたくないのだと思っていた。


聞かないことが、旭なりの優しさなのだと。


けれど、その沈黙の向こうで、旭もまた、ずっと傷ついていた。


「最近は、お前が思い出せないことが増えて。」


旭の声が、さらに低くなる。


瑞稀の指が、僅かに震えた。


「聞いたはずのことを忘れて。」


「昔のことが、少しずつ抜けて。」


「そのたびに、不安になる。」


「次は、何を忘れるんだって。」


「お前が大事にしてたものまで、忘れるんじゃないかって。」


旭が、息を詰まらせる。


「そのうち、俺のことも忘れるんじゃないかって。」


「旭。」


瑞稀は、思わず名前を呼んだ。


旭が、顔を上げる。


その表情に、赤みはなかった。


戸惑いと恐れ。


止められない言葉への焦り。


そして、今まで隠してきたものを、すべて暴かれていく苦しさ。


「言いたくなかった。」


旭の声が、震える。


「こんな言い方で、お前を責めてるみたいに。」


「違うんだ。」


「忘れたくて忘れてるんじゃないことくらい、分かってる。」


「お前が一番苦しいことも、分かってるつもりだった。」


「だから、何も言わない方がいいと思った。」


一度、言葉が途切れる。


旭は、必死に口を閉ざそうとしていた。


喉の奥で、何度も息を呑み込む。


けれど、それでも次の言葉は零れた。


「俺は、お前に忘れられたくない。」


瑞稀の瞳が、大きく揺れる。


「忘れないでほしい。」


「昔、一緒に遊んだことも。」


「お前が笑ってたことも。」


「泣いた時、俺の服を掴んでたことも。」


「俺がずっと、お前の傍にいたことも。」


「全部、忘れないでほしい。」


旭の声は、もうほとんど祈りに近かった。


「俺は、ずっとお前のために――」


旭の顔が、強張る。


初めて、その先にある言葉を自分自身で理解したようだった。


「違う。」


旭が、掠れた声で呟く。


「そこまでは。」


「それだけは、今は――」


『言え。』


天児屋根の声が、境内へ響いた。


『胸の奥へ隠した言葉を。』


『どうせいつか、失われる。』


『ならば、今ここですべて口にしてしまえ。』


「黙れ!」


旭の怒声とともに、青白い雷光が弾けた。


けれど、天児屋根を取り囲む黒い靄は、少しも揺らがない。


旭は、荒い呼吸を繰り返す。


瑞稀から目を逸らしたまま、必死に何かへ抗っていた。


「言いたくない。」


「こんなふうに、勝手に言わされて。」


「お前の気持ちも聞かないで。」


「俺だけが、全部押しつけるみたいに。」


「そんなのは、嫌だ。」


言葉は、止まらない。


それでも、その声には少しずつ旭自身の意思が戻り始めていた。


「……でも。」


旭が、ゆっくりと瑞稀を見る。


逃げることを諦めたような。


それでも、瑞稀の反応を恐れているような目だった。


「これだけは、言わされた言葉にしたくない。」


天児屋根の眉が、僅かに動く。


旭は、短く息を吸った。


「瑞稀。」


名を呼んだ瞬間、それまで荒れ狂っていた黒い靄が、不自然に止まった。


旭の声から焦りが消えていく。


代わりに残ったのは、覚悟だった。


「俺は、お前が好きだ。」


静かな声だった。


飾りも。


言い訳も。


何一つなかった。


言葉が落ちたあと、旭自身が一番驚いたように目を見開く。


次の瞬間、見る見るうちに顔へ赤みが広がっていった。


「……っ。」


ようやく、自分が何を口にしたのか、すべて理解したのだろう。


旭は、瑞稀から顔を背けた。


けれど、もう取り消そうとはしなかった。


境内の空気が震え、黒い靄が激しく揺らぐ。


天児屋根が、一歩後ずさった。


『……なぜだ。』


その声から、初めて余裕が消えていた。


『我は、お前の胸へ隠したものを暴いた。』


『言う時を選ぶことも。』


『言い方を選ぶことも許さず。』


『最も醜い形で、すべてを吐き出させた。』


『それなのに。』


天児屋根の瞳が、旭を捉える。


『なぜ、お前はその言葉を否定しない。』


旭は、赤くなった顔を背けたまま答えた。


「言い方は、最悪だった。」


「こんなふうに、言いたかったわけじゃない。」


「でも、言ったことまで、なかったことにはしたくない。」


天児屋根の顔が、歪む。


『強がりを。』


「違う。」


旭は、瑞稀へ向き直った。


「言わされたままなら、あいつの言葉になる。」


「だから、最後だけは自分で言った。」


短く息を吸い、続ける。


「俺が、自分で伝えたかったからだ。」


『……言葉に裏切られたというのに。』


「裏切ったのは、言葉じゃない。」


旭は、静かに言った。


「俺が、ずっと逃げてただけだ。」


「伝えなきゃ、何も始まらない。」


「間違って伝わったなら、もう一度言えばいい。」


「傷つけたなら、謝ればいい。」


「一度で駄目なら、何度でも。」


天児屋根の周囲で、黒い靄が大きく波打った。


瑞稀は、旭を見つめていた。


胸の奥へ、幾つもの感情が押し寄せている。


驚き。


戸惑い。


申し訳なさ。


そして、言葉にすることを躊躇うほどの、温かな何か。


旭の言葉を、失いたくない。


そう思った。


今までのように、大切な記憶から少しずつ欠けていくものの中へ、この言葉まで入れたくなかった。


「旭。」


瑞稀が呼びかける。


旭の肩が跳ねた。


それでも、こちらを向かない。


「……今は、こっちを見るな。」


低く呟く。


耳まで、赤く染まっていた。


瑞稀は、その横顔を見つめたまま口を開く。


「私は――」


その瞬間、黒い靄が瑞稀の唇へ絡みついた。


『言え。』


天児屋根が、囁く。


『気味が悪いと。』


『重いと。』


『そのような目で見ていたのかと。』


『その言葉を、拒め。』


瑞稀の喉から、別の言葉が這い上がろうとする。


けれど、瑞稀は静かに胸元へ手を当てた。


何を伝えたいのか。


自分の心へ問いかける。


まだ、この感情の名前は分からない。


旭と同じものなのかも、今は分からない。


けれど。


「……嬉しいです。」


言葉は、何一つ歪まなかった。


旭が、ゆっくりと振り返る。


瑞稀は、まっすぐに旭を見つめた。


「あなたが、そのように思っていたことには気づきませんでした。」


「私が何も言わなかったことで、あなたを寂しくさせていたことにも。」


「申し訳ありません。」


「謝るな。」


旭が、すぐに言った。


「今のは、俺が勝手に――」


瑞稀は、小さく首を横へ振る。


「それでも、伝えてくださって嬉しいです。」


旭は、何も言わなかった。


瑞稀は、胸元の勾玉を強く握る。


「私はまだ、この気持ちが何なのか分かりません。」


旭の目が、僅かに伏せられる。


その表情を見て、瑞稀の胸が痛んだ。


けれど、言葉を飾ってはいけない。


今、自分が伝えられることを、伝えなければならない。


「ですが、あなたに忘れられることを想像すると、苦しいです。」


旭の顔が上がった。


「あなたが、私の傍からいなくなることも。」


「他の誰かの隣へ立つことも。」


胸の奥が、強く脈打つ。


瑞稀自身、その感情に驚いていた。


「……嫌だと思います。」


旭は、呆然と瑞稀を見つめている。


「それが、あなたと同じ気持ちなのかは、まだ分かりません。」


「ですが――」


瑞稀は、一度言葉を切った。


「あなたが今、伝えてくださったことを、私は大切にしたいです。」


「忘れたくありません。」


その瞬間、黒い靄へ大きな亀裂が走った。


天児屋根が、苦しげに顔を歪める。


『なぜだ。』


『美しくもない。』


『整ってもいない。』


『答えにすら、なっていない。』


瑞稀は、静かに天児屋根へ向き直った。


「そうかもしれません。」


「けれど、分からないものを分かったふりはできません。」


「今、伝えられることを、できる限り伝えました。」


天児屋根の肩が、僅かに揺れる。


「天児屋根様。」


瑞稀は、柔らかく呼びかけた。


「あなたも、かつて。」


「伝えたかった言葉とは異なるものを、大切な方へ向けてしまったのですね。」


『……知ったような口を。』


低い声だった。


けれど、先ほどまでの嘲るような響きは、もうなかった。


「言葉を捻じ曲げるほど、本当の言葉が届かなかったことを、悔いていらっしゃる。」


天児屋根は、しばらく何も言わなかった。


やがて、その口元へ浮かんでいた笑みが静かに消える。


『……あの日。』


掠れた声が、暗い境内へ落ちた。


『我は、大切な者へ、心にもない言葉を投げた。』


『ほんの僅かな怒りに任せて。』


『最も傷つく言葉を選んだ。』


天児屋根の衣から、黒い靄が零れ落ちる。


『謝ればよかった。』


『違うのだと。』


『本当は、そのようなことを思ってはいないのだと。』


『すぐに追いかければよかった。』


声が震えた。


『だが、言葉を司る我が。』


『一度口にした言葉を、取り消すことなど許されぬと思った。』


『それきり、二度と伝えることはできなかった。』


「だから、言葉そのものを信じられなくなったのですね。」


瑞稀が静かに告げる。


『言葉さえなければ。』


『伝えようとしなければ。』


『二度と、誰も傷つけずに済むと思った。』


瑞稀は、首を横へ振った。


「言葉をなくしても、心はなくなりません。」


「伝えなければ、相手は知ることすらできません。」


天児屋根は、俯いたまま動かなかった。


瑞稀は、先ほど旭が口にした言葉を思い返す。


間違ったなら、伝え直せばいい。


傷つけたなら、謝ればいい。


一度で駄目なら、何度でも。


「言葉は、間違うものなのかもしれません。」


「同じ言葉でも、受け取り方は人によって違います。」


「けれど、間違えたあとに、もう一度伝えようとすることまで。」


瑞稀は、まっすぐに天児屋根を見つめた。


「諦めてはいけないのだと思います。」


境内を覆っていた黒い靄が、ゆっくりと薄れていく。


天児屋根の輪郭が、淡い光を帯び始めた。


『……不器用な言葉ほど。』


天児屋根が、僅かに顔を上げる。


『時に、飾られた祝詞よりも強く響く。』


その視線が、旭へ向く。


続いて、瑞稀へ向けられた。


『とうに、忘れていた。』


『言葉は、正しくあるためだけのものではない。』


『届かせようと、願うためのものだった。』


瑞稀は、静かに右手を差し出す。


淡い光が、その掌へ集まった。


やがて、一振りの槍が音もなく姿を結ぶ。


瑞稀は、その穂先を天児屋根へ向けなかった。


槍の石突きを、色を失った地面へ静かに立てる。


澄んだ音が一つ、白と黒だけの境内へ響いた。


瑞稀は、両手を柄へ重ね、深く頭を下げる。


「――御霊よ。」


声が、静まり返った領域へ広がっていく。


「畏み、畏み申し上げる。」


槍を中心に、淡い光の文字がゆっくりと足元へ浮かび上がった。


境内を漂っていた言葉たちが、その光へ触れるたび、穏やかな光の粒へ変わっていく。


瑞稀は、ゆっくりと顔を上げた。


「御神の御許へ還り給え。」


――シャン。


神楽鈴の澄んだ音が、朽ちた社へ響く。


槍から広がった淡い光が、天児屋根の身体を足元から静かに包んでいった。


同時に、周囲を覆っていた白と黒の景色へ、少しずつ色が戻り始める。


枯れた草へ。


朽ちた社へ。


夜空に浮かぶ月へ。


天児屋根は、自らを包む光を、しばらく見つめていた。


やがて、皮肉のない穏やかな笑みを浮かべる。


『……励めよ。』


消えゆく声には、微かな温もりが混じっていた。


『言えなかった言葉は。』


『言わずに済んだ言葉ではない。』


その姿が、淡い光の粒へ変わっていく。


『いつか必ず。』


最後に、天児屋根の視線が旭へ向けられた。


『己の口で、伝えることだ。』


光が、静かに天へ昇る。


最後の一片が消えると同時に、瑞稀の手から槍も光となって消えた。


領域を閉ざしていた闇がほどける。


鳥居の向こうに、夜の道が戻っていた。


遠く、町のどこかで響いていた怒鳴り声も、いつの間にか消えている。



朽ちた鳥居の下。


瑞稀と旭は、並んで歩いていた。


けれど二人の間には、どこか落ち着かない沈黙が続いている。


「……その。」


旭が、ようやく口を開いた。


「さっきのことだが。」


瑞稀は、隣へ視線を向ける。


旭は、頑なに前を向いていた。


「忘れてくれとは言わない。」


一度、言葉を切る。


「言わないが、今日のところは、あまり俺を見るな。」


声は平静を装っていた。


けれど、耳まで真っ赤だった。


瑞稀は、しばらく旭の横顔を見つめる。


「分かりました。」


「……本当か。」


「はい。」


そう答えながらも、瑞稀は視線を逸らさなかった。


「瑞稀。」


「すみません。」


「謝りながら見るな。」


旭は、ますます顔を背ける。


けれど、その口元は、隠しきれないまま僅かに緩んでいた。


瑞稀も、自分の胸元へそっと手を当てる。


今までにない速さで、心臓が脈打っていた。


この感情が何なのか、まだ分からない。


それでも、旭が伝えてくれた言葉を忘れたくない。


そう思った。


「旭。」


「何だ。」


「先ほどの言葉を。」


瑞稀は、胸元へ手を添えたまま続ける。


「もう一度、伺ってもよいでしょうか。」


旭の足が、止まった。


「……今、聞いたばかりだろ。」


「はい。」


「なぜ、また聞く。」


瑞稀は、少し考える。


「覚えておきたいからです。」


旭は、言葉を失ったように瑞稀を見つめた。


次の瞬間、顔を背け、片手で口元を覆う。


「……今日は無理だ。」


「そうですか。」


「そんな顔をするな。」


「どのような顔でしょうか。」


「自分で分かってないなら、なおさら見るな。」


瑞稀は、僅かに首を傾げた。


旭は、小さく息を吐く。


けれど、その声にはどこか嬉しさが混じっていた。


「また言う。」


低く。


けれど、はっきりとした声だった。


「今度は、最初から俺の言葉で。」


瑞稀は、静かに頷く。


「はい。」


「待っています。」


夜風が、二人の間を静かに吹き抜けた。


朽ちた鳥居の向こうには、いつもと変わらない星空が広がっている。


けれど、並んで歩く二人の距離は、来た時よりもほんの僅かに近くなっていた。

第三十一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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