表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/40

第三十話 「忘れられる神」

第三十話 「忘れられる神」


闇の中で、一つ、また一つと、小さな双眸が開いた。


社の壁にも。


天井の梁にも。


床へ転がった瓢箪の上にも。


手のひらほどの黒い人影が、びっしりと張りついている。


どれも、倒れている少彦名神(すくなびこな)と同じ顔をしていた。


けれど、髪は黒く濁り、赤い瞳は深い穴のように光を失っている。


口元だけが、不自然なほど大きく歪んでいた。


無数の小さな影が、一斉に芽衣へ顔を向ける。


『……治ったか。』


一つの声が、社の奥から落ちた。


『薬は、効いたか。』


別の影が、笑う。


『ならば。』


『もう、我は要らぬか。』


幾重にも重なった声が、狭い社の中を震わせた。


芽衣は、息を呑んだ。


足が竦む。


けれど、倒れている少彦名神を見て、逃げることはできなかった。


「あなたたちが……。」


芽衣は、震える声で問いかける。


「町の薬を、効かなくしているの?」


黒い影たちは、一斉に首を傾げた。


そして、同じ顔で、同じように笑う。


『治ってはならぬ。』


『治れば。』


『また、忘れる。』


黒い影たちは壁や梁を這いながら、ゆっくりと芽衣を取り囲んでいく。


一つ一つは小さい。


けれど、幾つもの声が重なるたび、社の中の空気は重く沈んでいった。


芽衣は、倒れている少彦名神へ目を向ける。


その身体へ絡みつく黒い糸が、影たちの言葉へ呼応するように強く締まった。


「忘れるって……。」


芽衣が呟くと、無数の瞳が一斉に細められる。


『苦しい時だけ、我を呼ぶ。』


『治れば、名すら忘れる。』


『薬が効けば、それでよい。』


『我がどれほど削れようとも。』


『我がどれほど小さくなろうとも。』


『誰も、見ぬ。』


床へ転がる薬壺が、一斉に震え始めた。


中から溢れた黒い液体が、芽衣の足元へ広がっていく。


『ならば。』


無数の影が、同時に笑った。


『誰も、治らなければよい。』


『いつまでも苦しみ。』


『いつまでも、我を呼べばよい。』


黒い液体が、芽衣の足へ絡みついた。


冷たい。


昨日までの熱とは違う。


身体の内側から、生きる力を奪っていくような冷たさだった。


「芽衣!」


いつの間にか後ろにいた瑞稀の声が飛ぶ。


淡い光が、黒い液体を一瞬だけ押し返した。


旭も刀を抜き、芽衣の前へ出ようとする。


けれど、芽衣は二人を制した。


「待って。」


声は震えていた。


それでも、目を逸らさない。


「まだ、話せると思う。」


黒い影たちが、一斉に首を傾げる。


『話す。』


『何を。』


『我の名も知らなかった娘が。』


『我の何を知っている。』


芽衣は、言葉に詰まった。


少彦名神について、知っていることは少ない。


昨日、初めて会ったばかり。


医薬と酒と湯を司る、小さな神。


それ以外は、何も知らなかった。


荒魂たちが、嘲るように笑う。


『ほれ。』


『知らぬ。』


『誰も、我を知らぬ。』


芽衣は、唇を噛んだ。


それでも、逃げるように知っているふりをすることはできなかった。


「……知らないよ。」


荒魂たちの笑い声が止まる。


「昨日、会ったばかりだもん。」


「あなたが何を好きなのかも、何が嫌いなのかも。」


「どうして、そんな話し方をするのかも。」


「まだ、何にも知らない。」


黒い影たちが、僅かに揺れた。


芽衣は、一歩前へ出る。


冷たい液体が、足首まで這い上がってきた。


それでも、立ち止まらなかった。


「それでも、これから知りたい。」


社の中へ、芽衣の声が響く。


「薬をくれる神様だからじゃない。」


「病気を治してくれるからでもない。」


「小さくて、ちょっと威張ってて。」


「自分が消えそうなのに、町の人を助けようとしてた。」


芽衣は、倒れている少彦名神へ目を向けた。


「そんな、あなたのことを。」


「私は、これから知りたい。」


荒魂たちの顔から、笑みが消えていく。


『知って。』


『どうする。』


「覚える。」


芽衣は、迷わず答えた。


「薬がいらなくなっても。」


「元気になっても。」


「あなたが助けてくれたことを。」


「あなたの名前を。」


「ちゃんと覚えてる。」


黒い影が、激しく震えた。


『嘘だ。』


『人は、忘れる。』


『必要がなくなれば。』


『何もかも。』


「忘れることも、あると思う。」


芽衣は、静かに認めた。


「私だって、何もかもずっと覚えていられるかは分からない。」


少彦名神が、僅かに目を開く。


荒魂たちも、動きを止めた。


「でも。」


芽衣は、自分の胸へ手を当てる。


「忘れたくないって思ったことは、きっと私の中に残る。」


「助けてもらった時の気持ちも。」


「あなたを放っておけないって思ったことも。」


「全部、なくなるわけじゃない。」


芽衣は、少彦名神の前へ膝をついた。


黒い糸の先にいる無数の荒魂へ、まっすぐに手を伸ばす。


「それに。」


芽衣は、小さく笑った。


「ずっと必要とされなくても、いいんじゃないかな。」


荒魂たちが、揺れる。


「治ったってことは、あなたがちゃんと助けたってことだから。」


「呼ばれなくなるのは、役目がなくなったんじゃなくて。」


芽衣は、黒い影たちを見つめた。


「あなたが、その人を元気にできた証拠でしょう?」


社の奥で、小さな嗚咽が聞こえた。


黒い影の一つが、涙を流していた。


その涙は、黒い雫となって床へ落ちる。


それを合図に、無数の荒魂たちの顔が一斉に歪んだ。


『……我は。』


『忘れられるのが。』


『怖かった。』


『役目が終われば。』


『我そのものまで、消えてしまうようで。』


芽衣は、伸ばした手を下ろさなかった。


「消えないよ。」


「少なくとも、私は今、ここであなたを見てる。」


黒い糸が、僅かに緩んだ。


少彦名神の身体へ、淡い光が戻り始める。


瑞稀は、静かに一歩前へ出た。


けれど、芽衣の隣で立ち止まり、それより前へは出なかった。


「芽衣。」


優しい声だった。


「そのまま、呼びかけてください。」


芽衣は、瑞稀へ頷いた。


そして、無数の小さな影へ、もう一度向き直る。


「少彦名神様。」


初めて、無数に分かれた荒魂のすべてを、一柱の神として呼んだ。


「治らなくていいなんて、思わなくていい。」


「治って。」


「元気になって。」


「それでも、あなたを覚えている人がいるって。」


芽衣は、伸ばした手に力を込める。


「私が、そうするから。」


黒い影たちの輪郭が、崩れ始めた。


小さな身体から、黒い濁りが剥がれていく。


一つ。


また一つ。


無数に分かれていた姿が淡い光となり、一つの流れへ集まっていった。


瑞稀の手の中にも、光が集まる。


やがて、一振りの槍が静かに姿を結んだ。


けれど、瑞稀はそれを振るわなかった。


芽衣の言葉が、すでに御霊の還る道を開いていた。


瑞稀は槍の石突きを床へ立て、その道へ祈りを重ねる。


「――御霊よ。」


「畏み、畏み申し上げる。」


槍を中心に、淡い光の文字がゆっくりと足元へ浮かび上がった。


無数に分かれていた小さな影が、その光へ触れるたび、黒い濁りを失い、穏やかな光の粒へ変わっていく。


光は一つの流れとなり、芽衣の伸ばした手の先へ集まった。


瑞稀は、ゆっくりと顔を上げる。


「御神の御許へ還り給え。」


――シャン。


神楽鈴の澄んだ音が、社の奥へ響く。


黒い糸が、次々と切れていった。


荒魂たちは、苦しげに目を閉じる。


けれど、その表情はもう、歪んだ笑みを浮かべてはいなかった。


『……芽衣。』


無数の声が、一つへ重なる。


『我を。』


『覚えていてくれるか。』


芽衣は目へ涙を浮かべながら、力強く頷いた。


「うん。」


「小さくて。」


「元気で。」


「ちょっと威張ってて。」


芽衣は、泣きながら笑った。


「でも、本当はすごく優しい神様だったって。」


光が、社全体を包み込む。


黒い影は、一つずつ光の中へ溶けていった。


最後に残った小さな光が、少彦名神の胸へ静かに戻る。


離れていた荒魂と和魂が、再び一柱の御霊として重なっていった。



しばらくして、社へ穏やかな静けさが戻った。


腐った薬草の臭いは消えている。


床へ広がっていた黒い液体も、干からびていた瓢箪も、淡い光へ溶けるように少しずつ消えていった。


芽衣の前で、少彦名神がゆっくりと身体を起こす。


透けていた輪郭は元へ戻っている。


白銀の髪も、静かな瞳も、昨日と同じ小さな青年の姿だった。


『……やれやれ。』


少彦名神は、肩を回した。


『随分と、面倒をかけたようだな。』


「本当にね。」


芽衣が答えると、少彦名神は僅かに眉を上げた。


『神に向かって、随分な物言いだ。』


「だって、町中の人を病気にしたんでしょう。」


『荒魂の仕業だ。』


「でも、その荒魂もあなたなんでしょう?」


少彦名神は、言葉に詰まる。


芽衣は、小さく笑った。


「じゃあ、一緒に反省しないと。」


『……お前。』


少彦名神は、呆れたように芽衣を見つめた。


けれど、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。


『誰とも契りを結ばぬ神なのだと、そう思っておった。』


少彦名神は、背中の瓢箪を腕へ抱えた。


『誰かの器を借りず。』


『誰か一人の力となることもなく。』


『ただ、小さき身で人を癒やし。』


『必要がなくなれば、忘れられていく。』


芽衣は、静かにその言葉を聞いた。


少彦名神は、腕に抱えた瓢箪を見つめる。


それから芽衣へ向かい、ひらりと放った。


「わっ。」


芽衣は、慌てて両手で受け止める。


掌に乗った瓢箪は、淡い光を帯びた。


やがて形を変え、小さな袋となる。


その内部には、薬草の葉に似た紋様が浮かぶ玉が入っていた。


『我が薬玉だ。』


「これを、私に?」


『預けるだけだ。』


少彦名神は、偉そうに腕を組む。


『お前が、わしを忘れぬと申したからな。』


『どこまで覚えておるか、見張ってやる。』


芽衣は、薬玉を両手で包み込んだ。


微かな温もりが、掌へ伝わってくる。


「それって。」


芽衣は、嬉しそうに笑った。


「私のそばにいてくれるってこと?」


『勘違いするでない。』


少彦名神は、顔を逸らした。


『わしは、誰にも縛られぬ神だ。』


『還る場所も。』


『留まる場所も。』


『わし自身で決める。』


一拍置いて、小さな青年は悪戯っぽく笑った。


『だが、わしの気が変わるまではお前のそばに留まってやろう。』


芽衣は、目を丸くする。


「……いいの?」


『……駄目か。』


「ううん!」


芽衣は、勢いよく首を横へ振った。


「嬉しい。」


少彦名神は、満足そうに頷く。


『ならば、よい。』


その身体が、淡い光の粒へ変わっていった。


光は芽衣の手の中にある薬玉へ、ゆっくりと溶け込んでいく。


最後に、小さな声が薬玉の中から響いた。


『呼ぶ時は、丁寧に呼べよ。』


「はいはい。」


『二度返事をするな。』


芽衣は、声を立てて笑った。



町では、止まっていた癒やしが、ゆっくりと戻り始めていた。


薬を飲んだ者の熱が下がり、湿布を貼った者の痛みが和らいでいく。


冷えたままだった温泉の湯も、再び人々の身体を温め始めていた。


誰も、何が起きたのかは知らない。


ただ、いつもの薬が、いつものように効く。


その当たり前に、人々は安堵したように息を吐いていた。



社を出ると、夕暮れの光が石段を淡く照らしていた。


芽衣は、薬玉を胸の前で大切そうに抱えている。


「――やったね。」


芽衣が、瑞稀と旭へ振り返った。


その顔は、いつもどおり明るく笑っている。


けれど、目の端には薄く涙が滲んでいた。


「芽衣。」


瑞稀が、静かに歩み寄る。


芽衣は、照れくさそうに笑った。


「何だか。」


「私も、誰かの役に立てたんだなって思ったら。」


「じんわりきちゃって。」


旭が、小さく息を吐く。


「よくやったな。」


「えへへ。」


芽衣は、薬玉を強く握り締めた。


瑞稀は、その薬玉へ視線を向ける。


「少彦名神様の御霊を結び直したのは、私ではありません。」


芽衣が、きょとんとした顔で瑞稀を見る。


瑞稀は、静かに続けた。


「芽衣の言葉が、届いたのです。」


芽衣は、手の中の薬玉を見つめた。


「私の、言葉。」


「はい。」


瑞稀は、僅かに微笑む。


「芽衣にしか、届けられない言葉でした。」


芽衣は、しばらく何も言わなかった。


やがて目元を拭い、照れ隠しのように笑う。


「そっか。」


「じゃあ。」


薬玉を胸へ抱く。


「私も、ちゃんと仲間になれたんだね。」


「最初から、仲間だろ。」


旭が、すぐに答えた。


芽衣は、一瞬だけ目を丸くする。


それから、にやりと笑った。


「旭君、そういうこと言えるんだ。」


「どういう意味だ。」


「そのままの意味。」


「うるさい。」


二人のやり取りを見て、瑞稀の口元も、ほんの少しだけ緩んだ。


その時だった。


――こん。


小さな鳴き声に、瑞稀たちは足を止めた。


石段の脇にある木々の影から、二匹の狐が姿を現す。


一匹は白く、もう一匹は淡い茶色の毛並みをしていた。


「……宇迦之御魂(うかのみたま)様の神使です。」


瑞稀が、静かに呟く。


「しんし?」


「宇迦之御魂様って前教えてくれた神様だよね。」


芽衣が聞き返した。


「はい。」


「神使とは神に仕え、その御心を伝える者です。」


二匹の狐は、まっすぐに、瑞稀を見つめている。


その眼差しに責めるようなものはなく、ただ長い間見守り続けてきた者の、静かな温もりがあった。


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


「宇迦之御魂様は。」


瑞稀は、二匹の狐を見つめた。


「今も、私を見ておられるのですね。」


白い狐が、短く鳴いた。


続いて、淡い茶色の狐も尾を一度だけ揺らす。


なぜ自分が神卸の器として生まれたのか。


なぜ母が高天原へ残ったのか。


なぜ神々の封印が崩れ始めているのか。


宇迦之御魂は、すべてを知りながらも、最初から答えを与えることはなかった。


「私が、自分で進むことを選ぶまで、待っておられたのでしょうか。」


『おそらくはな。』


少彦名神が答える。


『何も知らぬお前を、神々の争いへ引き込むこともできず。』


『だからといって、背負わされたものを代わりに取り除くこともできなかった。』


『見守るほかなかったのであろう。』


瑞稀は、二匹の狐を見つめた。


母を守りたいと願ったこと。


荒魂をただ倒すのではなく、その声を聞きたいと思ったこと。


旭や芽衣と共に進むことを選んだこと。


そのすべては、誰かに命じられたものではない。


自分で見て、自分で知り、迷いながら、自ら選んできたものだった。


宇迦之御魂は、その道を代わりに決めることはできなかった。


けれど、瑞稀が一人で歩いている時も、決して目を離していたわけではなかった。


「ずっと見ていてくださったのですね。」


瑞稀は、深く頭を下げた。


「何もお伝えになれない時も。」


「お力を貸すことのできない時も。」


「私が、自ら手を伸ばすまで。」


二匹の狐は、答えるように同時に鳴いた。


――こん。


その声は、どこか遠くにいる宇迦之御魂からの返事のようにも聞こえた。


瑞稀は、ゆっくりと顔を上げる。


「宇迦之御魂様へ、お伝えください。」


狐たちが、静かに瑞稀を見つめる。


「今まで、見守ってくださったことへ。」


一度、言葉を置いた。


「ありがとうございます、と。」


白い狐が、尾を一度だけ揺らした。


淡い茶色の狐も、その隣で小さく頭を下げる。


やがて二匹は、瑞稀たちへ背を向け、それから風のように木々の間へ駆けていく。


言葉はなかった。


けれど、その背中は、宇迦之御魂が、これからも変わらず瑞稀を見守っていることを伝えているように見えた。


瑞稀は、狐たちが消えた先をしばらく見つめていた。


以前なら、神が何も教えてくれないことを当然のように受け入れていただろう。


けれど今は、少しだけ分かる。


語らなかったのではない。


語ることが、できなかった。


助けなかったのではない。


瑞稀自身が、自らの意思で進むために、手を出すことが許されなかったのだ。


それでも、宇迦之御魂はずっと見ていた。


瑞稀が生まれた日から、迷いながらも自分の道を選び始めた今日まで。


夕暮れの道へ、三人分の影が並んで長く伸びている。


その中に、誰にも気づかれないほど小さな四つ目の影が、芽衣の肩の辺りで僅かに揺れていた。

第三十話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ