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第二十九話 「小さな神様」

第二十九話 「小さな神様」


その日も、芽衣は熱を出して学校を休んでいた。


大したことのない、ただの夏風邪のはずだった。


喉が少し痛み、頭の奥が重い。


いつもなら薬を飲み、一晩眠れば治る程度のもの。


けれど、数日前から何度薬を飲んでも、少しも効いている気がしなかった。


熱は上がったり下がったりを繰り返し、身体の芯だけが、ずっと冷たい。


「……変なの。」


布団の中で、芽衣は小さく呟いた。


枕元の時計へ目を向ける。


今朝、薬を飲んでから、もう二時間は経っていた。


それなのに、頭の重さは増すばかりだった。


昼頃、様子を見に来た母も、同じような話をしていた。


町の薬局では、風邪薬が効かないという相談が相次いでいるらしい。


湿布を貼っても、痛みが引かない。


胃薬を飲んでも、胸のむかつきが治まらない。


温泉へ浸かっても、身体の芯が温まらない。


それどころか、昨日まで元気だった者まで、何となく身体が重いと訴え始めているという。


「何だか、町中……。」


芽衣は、ぼんやりと天井を見つめた。


「治らなくなってるみたい……。」


熱に浮かされた意識が、ゆっくりと沈んでいく。


その時だった。


枕元に、小さな気配を感じた。


人のものではない。


けれど、嫌なものでもなかった。


甘く、それでいて僅かに苦い香り。


芽衣は、重い瞼をゆっくりと開いた。


枕の端に、小さな人影が立っている。


手のひらへ乗せられそうなほど小さな青年。


肩まで伸びた白銀の髪に、涼しげな目元。


柔らかな薄衣を纏い、自らの身体ほどもある小さな瓢箪を背負っていた。


見た目は若いが、こちらを見つめる瞳だけは、遥か昔から人の営みを見守ってきたような静かな色をしている。


「……誰?」


掠れた声で尋ねる。


『おお。』


小さな青年は、芽衣の顔を覗き込み、安堵したように息を吐いた。


『まだ、こちらの声は届くか。』


「こちら……?」


『動くな。』


青年は、芽衣の枕元をとことこと歩いた。


その足取りは軽い。


けれど、よく見ると、身体の輪郭が薄く揺れていた。


時折、光の粒が零れ落ちる。


まるで、今にも消えてしまいそうに。


『お前、ちょうどよいところに寝ておったな。』


「寝てる人に、ちょうどいいって言う……?」


『細かいことを気にするでない。』


青年は瓢箪を抱え、栓を抜いた。


部屋の中へ、薬草を煮詰めたような香りが広がる。


甘く、けれど舌の奥へ苦みが残るような匂い。


青年は芽衣の顔へ近づくと、瓢箪を傾けた。


芽衣の唇へ、一滴の透明な雫が落ちる。


途端に、頭の奥を覆っていた重さが、すっと引いていった。


身体の芯に残っていた冷たさも、ゆっくりと消えていく。


「……あ。」


芽衣は、思わず身体を起こした。


「楽になった。」


『まだ、こちらの薬は効くようだな。』


青年は、安堵したように呟いた。


「こちらの?」


芽衣が聞き返す。


青年は、しまったというように僅かに顔をしかめ、それから窓の外へ目を向けた。


『……まだ、すべてを呑まれたわけではないらしい。』


「何に?」


『今は、説明しておる暇がない。』


青年は、瓢箪を背負い直した。


『あれが町中の薬を腐らせる前に、少しでもこちらで癒やさねばならぬ。』


そう言って、窓の方へ歩き出す。


けれど、その足元が僅かにふらついた。


「待って。」


芽衣は、反射的に手を伸ばした。


青年の小さな身体へ触れるより先に、彼はひらりと身を翻す。


『心配するな。』


得意げに胸を張った。


『わしは、医薬の神ぞ。』


けれど、その顔には、隠しきれない疲れが滲んでいた。


「あなた、誰なの?」


青年は、一瞬だけ動きを止め、振り返った。


『……少彦名神(すくなびこな)。』


『この小さき身で、薬と酒と湯を司る神よ。』


「少彦名神様。」


芽衣が、その名を繰り返す。


青年は、僅かに目を細めた。


だが、次の瞬間。


窓の外から、黒い風のようなものが吹き込んだ。


甘く苦かった薬の香りが、一瞬で腐った臭いへ変わる。


少彦名神の表情が険しくなった。


『もう、ここまで来たか。』


「何が?」


『近づくな。』


少彦名神は、芽衣を庇うように前へ出た。


小さな身体から、淡い光が放たれる。


黒い風と光がぶつかり、部屋の中で弾けた。


鋭い耳鳴りとともに、視界が一瞬だけ暗く染まる。


芽衣が再び目を開けた時、少彦名神の姿はもうなかった。


代わりに、部屋の隅から小さな笑い声が聞こえてくる。


一つではない。


幾つも。


子どもの囁きのような。


老人の呻きのような。


『治ってはならぬ。』


『治れば。』


『また、忘れる。』


芽衣は、身体を固くした。


声は、すぐに消えた。


部屋には再び、静けさが戻る。


けれど窓辺には、小さな黒い手形が一つ、残されていた。



翌朝。


熱の下がった芽衣は、朝一番に花里神社へ向かった。


石段の下には、待ち合わせをしていた瑞稀と旭の姿がある。


「瑞稀!」


「旭君!」


二人が、同時に振り返った。


「芽衣。」


瑞稀が、僅かに目を見開く。


「熱は、もうよろしいのですか。」


「それどころじゃないの!」


芽衣は、息を切らしながら二人のもとへ駆け寄った。


「昨日、神様が出たの!」


「すごく小さくて、手のひらくらいで!」


旭が、眉を寄せる。


「熱で見た夢じゃないのか。」


「夢じゃない!」


芽衣は、旭を睨んだ。


「薬をもらったら、本当に熱が下がったの。」


「それに――」


昨夜のことを思い返し、声を少し落とす。


「その神様、何かと戦ってた。」


「黒い風みたいなのが来て。」


「治ってはならないって、声がしたの。」


瑞稀の表情が、僅かに変わった。


「治ってはならない……。」


「うん。」


芽衣は、真剣に頷く。


「その神様は、自分のことを少彦名神って言ってた。」


「医薬とか、酒とか、温泉の神様だって。」


旭が、腕を組んだ。


「町中で、薬が効かなくなっている。」


「関係があるのは、間違いなさそうだな。」


瑞稀は、静かに目を伏せた。


「少彦名神様の和魂が、人々を癒やそうとしている。」


「その一方で、荒魂が癒やしを妨げているのかもしれません。」


芽衣は、両手を強く握り締めた。


「私、あの神様を助けたい。」


「すごく疲れてた。」


「自分が消えそうなのに、まだ町の人を治そうとしてた。」


芽衣の声に、迷いはなかった。


瑞稀は、まっすぐにその顔を見つめる。


やがて、静かに頷いた。


「分かりました。」


「行きましょう。」



三人は、甘く苦い薬の香りを辿った。


町を歩けば、薬局の前には朝から長い列ができていた。


肩を押さえる老人。


咳き込む子ども。


薬袋を握り締め、不安そうに話す人々。


「何度飲んでも、効かないの。」


「医者には異常がないって言われたんだけど。」


「温泉に入ったら、余計に寒くなった。」


そんな声が、町のあちこちから聞こえてくる。


芽衣は、唇を噛んだ。


昨日、自分へ薬を分けてくれた少彦名神。


あの小さな身体で、どれほど多くの人を治そうとしていたのだろう。


やがて三人は、町外れへ辿り着いた。


道の先に、小さな石段がある。


その上には、苔に覆われ、ほとんど使われなくなった古い祠が建っていた。


石段の下には、干からびた瓢箪が幾つも転がっている。


割れたもの。


黒く変色したもの。


中から、腐った薬草の臭いを漏らしているもの。


祠の奥から、何かを引きずるような音が聞こえた。


がり。


がり。


爪で木を削るような音。


瑞稀が、一歩前へ出ようとする。


「――待って。」


芽衣が、その袖を掴んだ。


瑞稀は、驚いたように振り返る。


「芽衣?」


芽衣は、祠をまっすぐに見つめていた。


足は震えている。


怖くないわけではない。


それでも、目を逸らさなかった。


「今度は、私が先に行く。」


「私が最初に会った神様だから。」


瑞稀は、しばらく芽衣を見つめていた。


以前なら、危険だからと止めていたかもしれない。


けれど今は、芽衣が自ら選んだことを知っている。


やがて、静かに頷いた。


「分かりました。」


「ですが――」


瑞稀は、芽衣の手へそっと自分の手を重ねる。


「危険だと感じたら、必ず戻ってきてください。」


「うん。」


旭も、刀の柄へ手をかけた。


「俺たちは、すぐ後ろにいる。」


芽衣は、大きく息を吸った。


そして、一人で石段を上り始めた。



祠の中は、外から見るよりも深かった。


薄暗い廊下が、奥へ奥へと続いている。


壁には、小さな手形が無数に残されていた。


黒く。


細い指を広げ。


何かへ縋りつくように。


足元には、砕けた薬壺が並んでいる。


中から流れ出した液体は、床の上で黒く固まっていた。


「少彦名神様。」


芽衣は、小さく呼びかける。


返事はない。


さらに奥へ進む。


やがて、小さな社が見えた。


その前に、少彦名神が倒れている。


「少彦名神様!」


芽衣は、慌てて駆け寄った。


小さな身体には、黒い糸のようなものが幾重にも絡みついていた。


糸は腕へ。


足へ。


首元へ巻きつき。


その先は、社の奥に広がる暗闇へ続いている。


少彦名神が、ゆっくりと目を開いた。


『……来たか。』


昨夜よりも、さらに弱い声だった。


「今、助けるから。」


芽衣が、黒い糸へ手を伸ばす。


『触るな!』


鋭い声が飛んだ。


芽衣は、驚いて手を止める。


『あれは――』


少彦名神は、息を切らしながら社の奥へ目を向けた。


『わしであって。』


一度、苦しげに息を呑む。


『わしではない。』


暗闇の中で、一つの双眸が開いた。


続いて、もう一つ。


また一つ。


小さな光が、無数に闇の中へ浮かび上がっていく。


それらはすべて、少彦名神と同じ目をしていた。

第二十九話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

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