第二十八話「還る潮」
第二十八話 「還る潮」
大山祇神を還したあとも、瑞稀たちはしばらく山を下りずにいた。
夜の山には、久しぶりの静けさが戻っていた。
葉の擦れる音。
遠くで鳴く虫の声。
先ほどまで山を覆っていた赤黒い気配は、もうどこにもなかった。
その時だった。
「――瑞稀。」
旭の声に、瑞稀は顔を上げる。
夜空に、小さな光が三つ、静かに瞬いていた。
三つの光は、ゆっくりと山へ降りてくる。
やがて瑞稀たちの前で、それぞれ人の形を結んだ。
白い波打ち際で出会った、三柱の女神。
「……宗像三女神様。」
瑞稀は、思わず息を呑んだ。
三柱の女神たちは、揃って穏やかな眼差しを向けている。
『よく、辿り着いた。』
中央に立つ女神が、静かに告げた。
別の女神が、その言葉を継ぐ。
『槍を失った時、お前には何が残る。』
そして最後の一柱が、瑞稀の瞳をまっすぐに見つめる。
『その答えは、見つかったか。』
瑞稀は、すぐには答えなかった。
大山祇神の眠っていた山。
時へ取り残されていた磐長姫。
荒れる波の奥で、三柱を案じていた大綿津見神。
槍を持たない両手で向き合い、見つけてきたものを、一つずつ思い返す。
やがて、静かに頷いた。
「はい。」
瑞稀は、何も握っていない両手へ目を落とす。
「槍は、私のために道を開いてくださいました。」
「迷わず進むための力を、与えてくださいました。」
三女神は、黙って言葉の続きを待っている。
「けれど――」
瑞稀は、ゆっくりと顔を上げた。
「開かれた道の先に、何があるのか。」
「そこにいらっしゃる神が、何を見てほしいと願っているのか。」
「それを見るのは、私自身の目です。」
夜風が、瑞稀の長い黒髪を静かに揺らす。
「槍がなくても、問いかけることはできます。」
「言葉を待つことも。」
「その方が見てほしいものを、見ようとすることもできます。」
瑞稀は、三柱をまっすぐに見つめた。
「それは、槍を失っても、私の中に残っていました。」
三女神たちは、しばらく瑞稀を見つめていた。
やがて、三柱は顔を見合わせ、僅かに微笑む。
『その答えでよい。』
一柱の女神が、そっと両手を差し出した。
その掌の上へ、淡い光が集まっていく。
光は細長く形を変え、やがて一振りの槍となった。
瑞稀が、これまで幾度も握ってきた槍。
けれど今は、失う前とは異なる、静かで澄んだ光を纏っているように見えた。
『槍に頼らず立てたから、返すのではない。』
別の女神が、穏やかに告げる。
『槍と己を、別のものとして知ったからこそ。』
『今一度、これをお前へ託そう。』
瑞稀は、両手を差し出した。
女神の手から、槍が静かに預けられる。
懐かしい重みが、両の掌へ戻ってきた。
『これは、お前の力に代わるものではない。』
『お前の目が見つけ。』
『お前の心が選んだ道を。』
『ともに切り開くためのものだ。』
瑞稀は、槍をしっかりと受け取った。
手の中へ戻った重みに、胸の奥が僅かに震える。
懐かしい。
嬉しい。
けれど、以前のように、その重さへ縋りつくことはなかった。
槍が自分を支えている。
同時に、自分もまた、槍を支えている。
そのどちらか一方だけではない。
互いに並び、同じ道を進んでいくような、不思議な感覚があった。
槍を失う前の瑞稀は、この重みがなければ、神の前へ立つことすらできないと思っていた。
けれど、今は違う。
この手に槍がなくとも、見ることはできる。
問いかけることも。
相手の言葉を待つこともできる。
槍は、自分に欠けたものを埋めるための力ではなかった。
自分が選んだ道を、より遠くまで切り開くために、ともに歩く神具だった。
瑞稀は、槍から伝わる温もりを静かに確かめる。
それは、失う前よりも近い。
けれど、以前よりも頼りすぎることのない、穏やかな距離だった。
「ありがとうございます。」
瑞稀は槍を胸元へ寄せ、深く頭を下げた。
三女神の姿が、淡い光へ変わり始める。
『道を見失うな。』
『己の目を曇らせるな。』
『そして――』
最後の一柱が、瑞稀の隣に立つ旭へ、一度だけ目を向けた。
『独りで歩いていると思うな。』
旭が、僅かに目を見開く。
瑞稀も、思わず隣へ視線を向けた。
けれど、三女神はそれ以上何も告げなかった。
三柱の姿は三つの光となり、静かに夜空へ昇っていく。
星の少ない空で、三つの光だけが、長く瞬いていた。
◇
山を下りる道。
瑞稀は、戻ってきた槍を手に歩いていた。
登ってきた時と同じように、瑞稀が先を進んでいる。
けれど、少し下ったところで歩みを緩めた。
後ろを歩いていた旭が追いつき、その隣へ並ぶ。
「……戻ったな。」
旭が、槍へ視線を向ける。
「はい。」
瑞稀は、手にした槍を見つめた。
懐かしい。
戻ってきたことが、素直に嬉しい。
それでも、槍が戻ったことだけで、胸の中が満たされているわけではなかった。
槍がなかった間に、自分の中へ残っていたものを知った。
何も持たない手でも、誰かへ差し伸べられることを知った。
そして、自分一人で歩いていたわけではないことも。
「一番大切なものは。」
瑞稀は、静かに口を開いた。
「槍がなかった間に、見つけられたような気がします。」
旭は、少しだけ目を細める。
「なら。」
短く言葉を置いた。
「なくした意味も、あったんだろ。」
瑞稀は、旭の横顔を見つめた。
「……はい。」
静かに頷き、前へ目を向ける。
夜空には、雲の切れ間から、久しぶりに星が覗いていた。
手の中には、戻ってきた槍。
隣には、変わらずともに歩く旭。
失ったことで、見えるようになったもの。
離れたことで、確かめられたもの。
自らの手で拾い、結び直したもの。
それらすべてが、満ちてくる潮のように、静かに、けれど確かな形で、瑞稀のもとへ還ってきていた。
第二十八話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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