第二十七話「父の隣」
第二十七話「父の隣」
山道は、前に登った時と同じはずだった。
踏み固められていない土。
行く手を塞ぐように伸びた枝。
登るほどに重くなる空気も、木々の間から赤黒く滲む光も、何一つ変わっていない。
それでも。
以前より、山頂までの道が近く感じられた。
瑞稀の足取りに、迷いがなかったからかもしれない。
「……前を歩くのは、初めてだな。」
少し後ろから、旭の声が届いた。
瑞稀は歩みを止めずに答える。
「はい。」
「今度は、私が先に行きます。」
旭は何も言わなかった。
けれど、背後から聞こえる足音は、一定の距離を保ったまま、瑞稀の後をついてくる。
一人で進んでいるのではない。
そのことを確かめながら、瑞稀は山道を登り続けた。
◇
祠のあった場所には、以前と変わらず、巨大な岩が鎮座していた。
砕けた柱も。
崩れた屋根も。
すべて、岩の中へ呑み込まれたままだった。
岩肌からは、赤い雫が絶えず滴り落ちている。
けれど、以前のような荒々しさは感じられなかった。
山全体を揺らしていた怒りも。
押し寄せるような、赤黒い奔流もない。
ただ。
長く泣き続け、疲れ果てた者が、その場へ座り込んでいるように見えた。
瑞稀が岩の前へ立つ。
中央に二つの亀裂が走り、その奥で濁った双眸がゆっくりと開いた。
『……また、来たか。』
低い声が、山の底から響いた。
以前ほどの怒気はない。
代わりにあるのは、深く沈んだ疲労だけだった。
「大山祇神様。」
瑞稀は、まっすぐに岩を見上げた。
「磐長姫様から、言伝を預かって参りました。」
岩が、わずかに震えた。
『……あの子に。』
声が掠れる。
『会えたのか。』
「はい。」
瑞稀は、静かに頷いた。
「磐長姫様は、おっしゃっていました。」
一度、息を整える。
「我は、もう。」
「独りではない、と。」
長い沈黙が落ちた。
山を吹き抜ける風すら、言葉を待つように止まっていた。
岩肌を伝う赤い雫だけが、一筋。
また一筋と地面へ落ちていく。
『……今更。』
やがて、低い声が漏れた。
『今更、そのような言葉を。』
喜びとも。
悲しみともつかない。
感情を持て余すような声だった。
瑞稀は、一歩前へ出た。
「大山祇神様。」
濁った双眸が、瑞稀へ向く。
「磐長姫様が、あなたのもとへ戻られた日。」
「あなたは、何をなさったのですか。」
岩が、大きく揺れた。
『……何を、聞く。』
「教えてください。」
瑞稀は、視線を逸らさなかった。
以前の自分は、この神を鎮めようとした。
苦しんでいるのなら、言葉を差し伸べれば届くと思っていた。
けれど、今は違う。
大山祇神が見てほしいものを、今度こそ見なければならない。
「あなたは、磐長姫様がどのような顔で戻られたのか。」
「今も忘れられないと、おっしゃっていました。」
岩の奥で、低い呻きが響いた。
『……忘れられるものか。』
声が、初めて震えた。
『あの子が、どのような顔で戻ってきたか。』
『我は、今も覚えておる。』
赤い水が、岩肌をゆっくりと伝う。
『泣いてはおらなんだ。』
『怒ってもおらなんだ。』
『ただ。』
言葉が途切れる。
『何もかもを諦めたような顔で。』
『我の前に、立っておった。』
瑞稀の胸が、鋭く痛んだ。
止まった谷。
朽ちることのない枯れ葉。
岩の中で、一人きりで時を止めていた女神の姿が蘇る。
『我は。』
大山祇神の声が、山の底へ沈んでいく。
『何もしてやれなんだ。』
『怒ることも。』
『あれを返した男を責めることも。』
『娘を抱きしめることすら。』
赤い雫が、堰を切ったように溢れ始めた。
『父である我が。』
『あの子のために、何一つしてやれぬことを思い知らされた。』
岩が、深く軋む。
『あの子の顔を見るたびに。』
『己の無力さばかりが、目に映った。』
『だから、酒に逃げた。』
『何もできぬ己を、忘れるために。』
赤黒い光が、弱々しく明滅する。
『そうしているうちに。』
『あの子へ声をかけることすら、恐ろしくなった。』
瑞稀は、両手を静かに握った。
大山祇神は、娘を見捨てたのではない。
見ていた。
見ていたからこそ、自分の無力さに耐えられず、逃げた。
けれど。
見ていたことと、向き合っていたことは違う。
『我は、あの子を愛しておった。』
大山祇神の声が、弱々しく続く。
『今も、愛しておる。』
『だが。』
『それだけでは、何一つ守れなんだ。』
瑞稀は、静かに息を吸った。
「……磐長姫様も、きっと。」
そこまで口にしかけた時だった。
懐の勾玉が、ふいに小さく震えた。
磐長姫を還した時から残っていた、かすかな温もり。
それが胸元で、淡い光へ変わる。
神をその身へ迎えたのではない。
預かった思いが。
まだ届け切れていなかった言葉が。
瑞稀の声を借り、父のもとへ届こうとしていた。
「――いいえ。」
瑞稀の声でありながら、瑞稀のものではない響きが、山へ落ちた。
低く。
乾いた。
あの止まった谷で聞いたのと同じ声。
『同じ、ではありません。』
大山祇神の双眸が、大きく見開かれた。
『……その声。』
岩全体が、震える。
『まさか。』
『我も、長い間、時を止めておりました。』
『あなたへ声をかけることも。』
『あなたの顔を見ることも、恐ろしかった。』
大山祇神は、息をすることすら忘れたように沈黙した。
『……あの子か。』
『本当に、お前なのか。』
『はい。』
短く応じた声は、確かに磐長姫のものだった。
山を覆っていた赤黒い光が、静かに揺らぐ。
『詫びは、要りません。』
『ただ。』
磐長姫の声が、一度だけ言葉を置く。
『次に会う時は。』
『何もできぬと、目を伏せないでください。』
『ただ、我の隣にいてください。』
岩の奥から、低い音が漏れた。
それは呻きにも。
泣き声にも聞こえた。
『……我も。』
大山祇神の声が、崩れる。
『会いたいと。』
『そう、言えばよかった。』
『何もできぬなら。』
『何もできぬまま、隣にいればよかった。』
磐長姫の気配は、何も答えなかった。
けれど、懐の勾玉から伝わる温もりが、ほんの少しだけ強くなった。
やがて。
瑞稀に重なっていた気配が、静かに離れていく。
淡い光が、勾玉の中へ戻った。
瑞稀は、大きく息を吐いた。
自分の声が、いつものものへ戻っている。
しばらく、言葉を出すことができなかった。
「……大山祇神様。」
呼びかけると、濁った瞳が、ゆっくりと瑞稀へ向く。
『我は。』
低い声が、初めて隠すことなく震えていた。
『娘の悲しみを前に。』
『何もできぬ己から、逃げ続けてきた。』
『詫びる勇気もなく。』
『隣に立つ勇気すら持てず。』
『ただ、酒に沈んで誤魔化してきた。』
「はい。」
瑞稀は、静かに頷いた。
否定はしなかった。
大山祇神の過去を、美しい言葉へ変えようともしなかった。
「けれど、今は。」
瑞稀は、岩をまっすぐに見つめる。
「磐長姫様と、もう一度お会いになりたいと。」
「そう思っておられるのですね。」
岩が、大きく震えた。
『……ああ。』
短い言葉だった。
けれど、そこに迷いはなかった。
瑞稀は、胸の奥へ静かな温もりが広がるのを感じた。
「それから。」
もう一つ、預かっていた言葉がある。
瑞稀は、少しだけ姿勢を正した。
「大綿津見神様からも、言伝をお預かりしています。」
岩の双眸が、わずかに細められた。
『……海の男からか。』
「はい。」
瑞稀は、言われたとおりに伝える。
「いつまでも酒に沈んでおらず。」
「たまには、海まで顔を出せ、と。」
岩の奥から、呆れたような低い音が響いた。
『……余計なことを。』
その声には、先ほどまでの重苦しさが、ほんの少しだけ薄れていた。
「それから。」
瑞稀は続ける。
「娘というものは、親が案じている間にも、勝手に育つものらしい、と。」
大山祇神は、長い間、何も答えなかった。
やがて。
岩肌の奥から、低い笑い声が漏れた。
『あの男にだけは、言われたくないものだ。』
笑い声は掠れていた。
それでも。
以前のような怒りも、酒に濁った響きもなかった。
瑞稀の隣で、旭がわずかに口元を緩める。
大山祇神が、二人を静かに見つめた。
『……小娘。』
「はい。」
『我は、あの子に詫びる場所を。』
『探してもよいだろうか。』
瑞稀は、迷わず頷いた。
「はい。」
「けれど。」
瑞稀は、静かに続けた。
「磐長姫様が求めておられるのは、立派な言葉ではないと思います。」
「何もできなくとも。」
「ただ、隣にいることなのだと思います。」
岩が、深く軋んだ。
それは、崩れる兆しではなかった。
長い間、固く閉ざされていたものが。
ようやく、内側から緩み始めた音だった。
瑞稀は、両手をゆっくりと持ち上げた。
槍はない。
けれど、迷いもなかった。
「――御霊よ。」
「畏み、畏み申し上げる。」
「御神の御許へ還り給え。」
指先に、淡い光が集まる。
あの夜と変わらない、穏やかな光だった。
けれど今度は。
大山祇神を変えるために、差し出したのではない。
怒りを抑え込むためでもない。
娘のもとへ向き合おうとする神を、送り出すために。
瑞稀は、開いた手のひらを、そっと岩へ向けた。
光が、岩肌へ触れる。
以前のように弾かれることはなかった。
淡い光は、赤黒い亀裂の中へ、ゆっくりと染み込んでいった。
『……ぬるくは、ないな。』
大山祇神が、低く笑った。
初めて聞く、穏やかな響きだった。
「あなたが向き合えなかったものを、私は見てきました。」
瑞稀は、静かに告げる。
「けれど。」
「これから向き合うのは、あなたご自身です。」
大山祇神の双眸が、ゆっくりと閉じられる。
『……ああ。』
赤黒い濁りが、岩肌から剥がれ始めた。
一筋。
また一筋。
赤い雫が、澄んだ水へと変わっていく。
地面へ落ちた水が、黒く枯れていた草の間を流れる。
すると、萎れていた葉が、わずかに色を取り戻した。
瑞稀は、深く頭を下げる。
「謹んで、御霊をお還しいたします。」
神楽鈴の音が、山全体へ静かに響いた。
光が、岩の輪郭を包み込む。
巨大な岩は、ゆっくりとその形を失っていった。
やがて。
そこに立っていたのは、白髪を交えた長い髪を背へ流す、一柱の男神だった。
山の樹皮を思わせる、深い色の衣。
大きな身体には、古木のような重みがある。
酒に溺れていた荒々しさは、もうどこにもない。
ただ。
深く刻まれた皺の奥に、長い後悔の跡だけが残っていた。
『世話をかけたな。』
大山祇神は、瑞稀と旭を見つめた。
『……お前たちは。』
『我よりも、よほど勇気があるようだ。』
旭が、わずかに眉を上げる。
「別に。」
「大したことはしてない。」
瑞稀も、静かに頷いた。
「はい。」
大山祇神は、一瞬だけ目を見開いた。
やがて、声を立てずに笑う。
『そう思えることこそが。』
『大したことなのだよ。』
大山祇神の背後で、光が静かに空間を裂いた。
裂け目の向こうには、緑豊かな稜線が幾重にも連なっている。
その山々のどこかに。
磐長姫が還った、変わらぬ岩の峰もあるのだろう。
大山祇神は、光の道へ一歩を踏み出した。
それから、わずかに足を止める。
『次に、あの子へ会う時は。』
誰に言うでもなく、低く呟いた。
『今度こそ、隣にいよう。』
一歩。
また一歩。
その姿が、緑の稜線の向こうへ遠ざかっていく。
光が静かに閉じた。
山を覆っていた赤黒い気配は消えていた。
岩肌を流れていた赤い雫も、今は澄んだ水となって、静かに山を下っていく。
瑞稀は、何も握っていない自分の手を見つめた。
あの夜と同じ手。
けれど、今度は。
大山祇神が見てほしいと願っていたものを、見失わなかった。
遠く。
山の向こうから、潮の満ちるような音が聞こえた気がした。
第二十七話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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