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第二十七話「父の隣」

第二十七話「父の隣」


山道は、前に登った時と同じはずだった。


踏み固められていない土。


行く手を塞ぐように伸びた枝。


登るほどに重くなる空気も、木々の間から赤黒く滲む光も、何一つ変わっていない。


それでも。


以前より、山頂までの道が近く感じられた。


瑞稀の足取りに、迷いがなかったからかもしれない。


「……前を歩くのは、初めてだな。」


少し後ろから、旭の声が届いた。


瑞稀は歩みを止めずに答える。


「はい。」


「今度は、私が先に行きます。」


旭は何も言わなかった。


けれど、背後から聞こえる足音は、一定の距離を保ったまま、瑞稀の後をついてくる。


一人で進んでいるのではない。


そのことを確かめながら、瑞稀は山道を登り続けた。



祠のあった場所には、以前と変わらず、巨大な岩が鎮座していた。


砕けた柱も。


崩れた屋根も。


すべて、岩の中へ呑み込まれたままだった。


岩肌からは、赤い雫が絶えず滴り落ちている。


けれど、以前のような荒々しさは感じられなかった。


山全体を揺らしていた怒りも。


押し寄せるような、赤黒い奔流もない。


ただ。


長く泣き続け、疲れ果てた者が、その場へ座り込んでいるように見えた。


瑞稀が岩の前へ立つ。


中央に二つの亀裂が走り、その奥で濁った双眸がゆっくりと開いた。


『……また、来たか。』


低い声が、山の底から響いた。


以前ほどの怒気はない。


代わりにあるのは、深く沈んだ疲労だけだった。


大山祇神(おおやまつみ)様。」


瑞稀は、まっすぐに岩を見上げた。


磐長姫(いわながひめ)様から、言伝を預かって参りました。」


岩が、わずかに震えた。


『……あの子に。』


声が掠れる。


『会えたのか。』


「はい。」


瑞稀は、静かに頷いた。


「磐長姫様は、おっしゃっていました。」


一度、息を整える。


「我は、もう。」


「独りではない、と。」


長い沈黙が落ちた。


山を吹き抜ける風すら、言葉を待つように止まっていた。


岩肌を伝う赤い雫だけが、一筋。


また一筋と地面へ落ちていく。


『……今更。』


やがて、低い声が漏れた。


『今更、そのような言葉を。』


喜びとも。


悲しみともつかない。


感情を持て余すような声だった。


瑞稀は、一歩前へ出た。


「大山祇神様。」


濁った双眸が、瑞稀へ向く。


「磐長姫様が、あなたのもとへ戻られた日。」


「あなたは、何をなさったのですか。」


岩が、大きく揺れた。


『……何を、聞く。』


「教えてください。」


瑞稀は、視線を逸らさなかった。


以前の自分は、この神を鎮めようとした。


苦しんでいるのなら、言葉を差し伸べれば届くと思っていた。


けれど、今は違う。


大山祇神が見てほしいものを、今度こそ見なければならない。


「あなたは、磐長姫様がどのような顔で戻られたのか。」


「今も忘れられないと、おっしゃっていました。」


岩の奥で、低い呻きが響いた。


『……忘れられるものか。』


声が、初めて震えた。


『あの子が、どのような顔で戻ってきたか。』


『我は、今も覚えておる。』


赤い水が、岩肌をゆっくりと伝う。


『泣いてはおらなんだ。』


『怒ってもおらなんだ。』


『ただ。』


言葉が途切れる。


『何もかもを諦めたような顔で。』


『我の前に、立っておった。』


瑞稀の胸が、鋭く痛んだ。


止まった谷。


朽ちることのない枯れ葉。


岩の中で、一人きりで時を止めていた女神の姿が蘇る。


『我は。』


大山祇神の声が、山の底へ沈んでいく。


『何もしてやれなんだ。』


『怒ることも。』


『あれを返した男を責めることも。』


『娘を抱きしめることすら。』


赤い雫が、堰を切ったように溢れ始めた。


『父である我が。』


『あの子のために、何一つしてやれぬことを思い知らされた。』


岩が、深く軋む。


『あの子の顔を見るたびに。』


『己の無力さばかりが、目に映った。』


『だから、酒に逃げた。』


『何もできぬ己を、忘れるために。』


赤黒い光が、弱々しく明滅する。


『そうしているうちに。』


『あの子へ声をかけることすら、恐ろしくなった。』


瑞稀は、両手を静かに握った。


大山祇神は、娘を見捨てたのではない。


見ていた。


見ていたからこそ、自分の無力さに耐えられず、逃げた。


けれど。


見ていたことと、向き合っていたことは違う。


『我は、あの子を愛しておった。』


大山祇神の声が、弱々しく続く。


『今も、愛しておる。』


『だが。』


『それだけでは、何一つ守れなんだ。』


瑞稀は、静かに息を吸った。


「……磐長姫様も、きっと。」


そこまで口にしかけた時だった。


懐の勾玉が、ふいに小さく震えた。


磐長姫を還した時から残っていた、かすかな温もり。


それが胸元で、淡い光へ変わる。


神をその身へ迎えたのではない。


預かった思いが。


まだ届け切れていなかった言葉が。


瑞稀の声を借り、父のもとへ届こうとしていた。


「――いいえ。」


瑞稀の声でありながら、瑞稀のものではない響きが、山へ落ちた。


低く。


乾いた。


あの止まった谷で聞いたのと同じ声。


『同じ、ではありません。』


大山祇神の双眸が、大きく見開かれた。


『……その声。』


岩全体が、震える。


『まさか。』


『我も、長い間、時を止めておりました。』


『あなたへ声をかけることも。』


『あなたの顔を見ることも、恐ろしかった。』


大山祇神は、息をすることすら忘れたように沈黙した。


『……あの子か。』


『本当に、お前なのか。』


『はい。』


短く応じた声は、確かに磐長姫のものだった。


山を覆っていた赤黒い光が、静かに揺らぐ。


『詫びは、要りません。』


『ただ。』


磐長姫の声が、一度だけ言葉を置く。


『次に会う時は。』


『何もできぬと、目を伏せないでください。』


『ただ、我の隣にいてください。』


岩の奥から、低い音が漏れた。


それは呻きにも。


泣き声にも聞こえた。


『……我も。』


大山祇神の声が、崩れる。


『会いたいと。』


『そう、言えばよかった。』


『何もできぬなら。』


『何もできぬまま、隣にいればよかった。』


磐長姫の気配は、何も答えなかった。


けれど、懐の勾玉から伝わる温もりが、ほんの少しだけ強くなった。


やがて。


瑞稀に重なっていた気配が、静かに離れていく。


淡い光が、勾玉の中へ戻った。


瑞稀は、大きく息を吐いた。


自分の声が、いつものものへ戻っている。


しばらく、言葉を出すことができなかった。


「……大山祇神様。」


呼びかけると、濁った瞳が、ゆっくりと瑞稀へ向く。


『我は。』


低い声が、初めて隠すことなく震えていた。


『娘の悲しみを前に。』


『何もできぬ己から、逃げ続けてきた。』


『詫びる勇気もなく。』


『隣に立つ勇気すら持てず。』


『ただ、酒に沈んで誤魔化してきた。』


「はい。」


瑞稀は、静かに頷いた。


否定はしなかった。


大山祇神の過去を、美しい言葉へ変えようともしなかった。


「けれど、今は。」


瑞稀は、岩をまっすぐに見つめる。


「磐長姫様と、もう一度お会いになりたいと。」


「そう思っておられるのですね。」


岩が、大きく震えた。


『……ああ。』


短い言葉だった。


けれど、そこに迷いはなかった。


瑞稀は、胸の奥へ静かな温もりが広がるのを感じた。


「それから。」


もう一つ、預かっていた言葉がある。


瑞稀は、少しだけ姿勢を正した。


大綿津見神(おおわたつみのかみ)様からも、言伝をお預かりしています。」


岩の双眸が、わずかに細められた。


『……海の男からか。』


「はい。」


瑞稀は、言われたとおりに伝える。


「いつまでも酒に沈んでおらず。」


「たまには、海まで顔を出せ、と。」


岩の奥から、呆れたような低い音が響いた。


『……余計なことを。』


その声には、先ほどまでの重苦しさが、ほんの少しだけ薄れていた。


「それから。」


瑞稀は続ける。


「娘というものは、親が案じている間にも、勝手に育つものらしい、と。」


大山祇神は、長い間、何も答えなかった。


やがて。


岩肌の奥から、低い笑い声が漏れた。


『あの男にだけは、言われたくないものだ。』


笑い声は掠れていた。


それでも。


以前のような怒りも、酒に濁った響きもなかった。


瑞稀の隣で、旭がわずかに口元を緩める。


大山祇神が、二人を静かに見つめた。


『……小娘。』


「はい。」


『我は、あの子に詫びる場所を。』


『探してもよいだろうか。』


瑞稀は、迷わず頷いた。


「はい。」


「けれど。」


瑞稀は、静かに続けた。


「磐長姫様が求めておられるのは、立派な言葉ではないと思います。」


「何もできなくとも。」


「ただ、隣にいることなのだと思います。」


岩が、深く軋んだ。


それは、崩れる兆しではなかった。


長い間、固く閉ざされていたものが。


ようやく、内側から緩み始めた音だった。


瑞稀は、両手をゆっくりと持ち上げた。


槍はない。


けれど、迷いもなかった。


「――御霊よ。」


「畏み、畏み申し上げる。」


「御神の御許へ還り給え。」


指先に、淡い光が集まる。


あの夜と変わらない、穏やかな光だった。


けれど今度は。


大山祇神を変えるために、差し出したのではない。


怒りを抑え込むためでもない。


娘のもとへ向き合おうとする神を、送り出すために。


瑞稀は、開いた手のひらを、そっと岩へ向けた。


光が、岩肌へ触れる。


以前のように弾かれることはなかった。


淡い光は、赤黒い亀裂の中へ、ゆっくりと染み込んでいった。


『……ぬるくは、ないな。』


大山祇神が、低く笑った。


初めて聞く、穏やかな響きだった。


「あなたが向き合えなかったものを、私は見てきました。」


瑞稀は、静かに告げる。


「けれど。」


「これから向き合うのは、あなたご自身です。」


大山祇神の双眸が、ゆっくりと閉じられる。


『……ああ。』


赤黒い濁りが、岩肌から剥がれ始めた。


一筋。


また一筋。


赤い雫が、澄んだ水へと変わっていく。


地面へ落ちた水が、黒く枯れていた草の間を流れる。


すると、萎れていた葉が、わずかに色を取り戻した。


瑞稀は、深く頭を下げる。


「謹んで、御霊をお還しいたします。」


神楽鈴の音が、山全体へ静かに響いた。


光が、岩の輪郭を包み込む。


巨大な岩は、ゆっくりとその形を失っていった。


やがて。


そこに立っていたのは、白髪を交えた長い髪を背へ流す、一柱の男神だった。


山の樹皮を思わせる、深い色の衣。


大きな身体には、古木のような重みがある。


酒に溺れていた荒々しさは、もうどこにもない。


ただ。


深く刻まれた皺の奥に、長い後悔の跡だけが残っていた。


『世話をかけたな。』


大山祇神は、瑞稀と旭を見つめた。


『……お前たちは。』


『我よりも、よほど勇気があるようだ。』


旭が、わずかに眉を上げる。


「別に。」


「大したことはしてない。」


瑞稀も、静かに頷いた。


「はい。」


大山祇神は、一瞬だけ目を見開いた。


やがて、声を立てずに笑う。


『そう思えることこそが。』


『大したことなのだよ。』


大山祇神の背後で、光が静かに空間を裂いた。


裂け目の向こうには、緑豊かな稜線が幾重にも連なっている。


その山々のどこかに。


磐長姫が還った、変わらぬ岩の峰もあるのだろう。


大山祇神は、光の道へ一歩を踏み出した。


それから、わずかに足を止める。


『次に、あの子へ会う時は。』


誰に言うでもなく、低く呟いた。


『今度こそ、隣にいよう。』


一歩。


また一歩。


その姿が、緑の稜線の向こうへ遠ざかっていく。


光が静かに閉じた。


山を覆っていた赤黒い気配は消えていた。


岩肌を流れていた赤い雫も、今は澄んだ水となって、静かに山を下っていく。


瑞稀は、何も握っていない自分の手を見つめた。


あの夜と同じ手。


けれど、今度は。


大山祇神が見てほしいと願っていたものを、見失わなかった。


遠く。


山の向こうから、潮の満ちるような音が聞こえた気がした。

第二十七話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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