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第二十六話 「満ちてくる潮」

第二十六話 「満ちてくる潮」


あの夜から、数日が過ぎた。


大山祇神(おおやまつみ)の留まる山は、今も遠くから赤黒い光を滲ませている。


けれど、磐長姫(いわながひめ)を還してからというもの、それ以上、町へ被害が広がることはなかった。


荒れていた山の気配も、今はただ静かに、その場へ留まっている。


まるで、誰かの帰りを待っているかのように。


「……あなたも、待っていらっしゃるのですね。」


夕暮れの境内。


瑞稀は、竹箒を手にしたまま、山の方角へそっと呟いた。


隣で掃除をしていた旭が、瑞稀の視線を追う。


「大山祇神のことか。」


「はい。」


瑞稀は、懐へ収めた勾玉にそっと手を添えた。


磐長姫から預かった言葉を、まだ父である神へ届けられていない。


――我は、もう、独りではない。


あの女神が、最後に残した言葉。


それを思い返すたび、勾玉が微かに温かくなるような気がした。


「お伝えしなければなりません。」


「磐長姫様は、もう独りではないと。」


旭は、しばらく山を見つめていた。


やがて、静かに頷く。


「行くなら、俺も行く。」


「ありがとうございます。」


短いやり取りだった。


けれど、その短さの中には、言葉にせずとも揺らがないものがあった。


いつも隣にいるという、確かな安心。


瑞稀は、もう一度山へ目を向けた。


赤黒い光は、夕暮れの向こうで静かに脈打っていた。



掃除を終え、竹箒を片づけようとした時だった。


社務所の裏から、何かを擦り合わせるような音が聞こえてきた。


しゃり。


しゃり。


一定の間隔で、繰り返される音。


瑞稀は、足を止めた。


風に混じり、微かな潮の匂いが漂ってくる。


海など、近くにはないはずなのに。


音を辿って社務所の裏へ回ると、軒下に一人の老爺が座っていた。


膝の上へ漁網を広げ、慣れた手つきで破れ目を繕っている。


塩土老翁(しおつちのおじ)様。」


瑞稀が呼ぶと、老爺は顔を上げることなく、片手だけを上げた。


『おう。』


以前と何も変わらない、気の抜けた返事だった。


瑞稀は、老爺の傍へ歩み寄る。


『随分、遠くまで渡ってきた顔をしとるな。』


網を繕いながら、老爺が言った。


「……分かるのですか。」


『顔に書いてある。』


老爺は、にやりと笑う。


『最初に会った時は、潮が引いたような顔をしとった。』


『今は、少し違う。』


瑞稀は、思わず自分の頬へ触れた。


表情が変わっているという自覚はなかった。


「どのように、違うのでしょうか。」


『それを爺に聞くようでは、まだまだよ。』


老爺はそう言うと、再び網へ目を落とした。


しゃり。


しゃり。


しばらく、網を繕う音だけが響く。


やがて老爺が、何でもないことのように尋ねた。


『道は、見つかったかね。』


瑞稀は、すぐには答えなかった。


初めて会った時と同じ、遠回しな問いだった。


あの頃は、何を尋ねられているのかさえ分からなかった。


今も、答えをすべて見つけたわけではない。


それでも、以前とは違う言葉を口にできる気がした。


「……まだ、分かりません。」


老爺の手は止まらない。


『そうか。』


「けれど。」


瑞稀は、自分の手のひらへ目を落とした。


かつて槍を握っていた手。


今は、何もない。


「槍をお預けしてから、幾柱もの神と向き合いました。」


『ほう。』


「砕け、自分の形さえ失いかけていた神には、私がこれまで重ねてきた祈りが届きました。」


欠けた勾玉の重みを、懐の奥へ感じる。


「けれど、次に出会った神からは、同じやり方では届かないと拒まれました。」


大山祇神の、地鳴りのような声が脳裏へ蘇る。


――花だけを見て、岩を見ぬままでは。


――その手は、我には届かぬ。


「その女神とは、変えようとせずに向き合いました。」


磐長姫の、岩のように硬い笑み。


――我を、花に変えようとしなかったことに。


――我を、岩のまま見てくれたことに。


「そして、海の神からは、荒れる心の奥にあるものを見せていただきました。」


凪いだ海の向こうへ還っていった、大綿津見神(おおわたつみのかみ)


荒々しい波の奥にあったのは、憎しみではなかった。


娘同然に見守ってきた神々を案じる、不器用な心だった。


老爺は、手を動かしたまま、小さく頷く。


『四度、違う潮を渡ったわけだ。』


「……はい。」


『静かな潮も。』


『荒い潮も。』


『止まった潮も。』


『騒がしいだけの潮も。』


瑞稀は、大綿津見神の姿を思い出し、ほんの少しだけ目を伏せた。


「大綿津見神様がお聞きになれば、怒られると思います。」


『聞こえとらんから、構わん。』


老爺は、愉快そうに喉を鳴らした。


しばらくして、繕いかけの網を引き寄せる。


『それで。』


老爺は、破れ目を確かめながら尋ねた。


『槍がなくなって、お前さんの目まで見えなくなったかね。』


瑞稀は、顔を上げた。


「いいえ。」


答えは、思っていたよりも早く出た。


「むしろ、以前よりも、見えるものが増えたように思います。」


老爺の指が、僅かに止まる。


瑞稀は、自分の中にある感覚を、ゆっくりと言葉へ変えていった。


「槍は、私のために道を切り開いてくれました。」


「迷わず進むための力を、与えてくれました。」


「けれど。」


瑞稀は、何も握っていない掌を見つめる。


「開かれた道の先に、何があるのか。」


「そこにいらっしゃる神が、何を見てほしいと願っているのか。」


「それを見るのは、私自身の目です。」


老爺は、何も言わなかった。


瑞稀は、静かに続ける。


「それだけは、槍がなくても変わりません。」


社務所の裏を、夕風が通り抜けた。


網の端が、微かに揺れる。


老爺はしばらく瑞稀を見つめた後、再び手元へ目を落とした。


『……そうかい。』


短い返事だった。


けれど、その声はどこか満足そうだった。


最後の破れ目へ紐を通し、老爺は網を大きく広げる。


夕日に透かされた網には、もう一つの穴も残っていなかった。


『引いた潮も、無駄ではなかったようだな。』


「はい。」


瑞稀は、小さく頷いた。


老爺は網を畳み、膝の横へ置く。


『潮というものはな。』


『満ちる時もあれば、引く時もある。』


以前にも聞いた言葉だった。


けれど今は、その意味が少しだけ違って聞こえる。


『引いた潮は、ただ何かを奪っていくわけではない。』


老爺は、乾いた地面を指先でなぞった。


『水の下へ隠れていたものを、見せることもある。』


瑞稀は、静かに息を呑んだ。


槍が消えたことで、見えるようになったもの。


自分の言葉が届かないこと。


相手を変えようとすることの傲慢さ。


怒りの奥へ隠された心。


どれも、槍を持っていた頃には、気づけなかったものだった。


『そして。』


老爺は、山の方角へ顔を向ける。


『いつまでも、引いたままの潮はない。』


赤黒い光を滲ませる山を、細めた目で見つめた。


『そろそろ、満ちてくる頃合いだろうよ。』


「大山祇神様のもとへ向かう時、ということでしょうか。」


瑞稀が尋ねると、老爺は肩を揺らして笑った。


『さあて、な。』


「また、教えてくださらないのですね。」


『わしは、答えを売る商人ではない。』


老爺は立ち上がり、繕い終えた網を肩へ担ぐ。


『ただの渡し守よ。』


『舟を用意し、潮目を示す。』


『漕ぐかどうかを決めるのは、お前さんだ。』


瑞稀は、静かに一礼した。


「ありがとうございます。」


『礼はいらん。』


老爺は、ひらひらと手を振る。


『まだ渡し賃も、もろうとらんからな。』


「答えを見つけたら、お支払いするのでしたね。」


『覚えとったか。』


老爺は、愉快そうに笑った。


その背中が、夕暮れの影へ溶けるように遠ざかっていく。


『山へ行くなら。』


振り返らないまま、声だけが届いた。


『今度は、自分の手でしっかり漕いでいくことだ。』


瑞稀は、その背中へもう一度頭を下げた。


顔を上げた時には、老爺の姿はすでになかった。


地面には、潮の匂いだけが淡く残っていた。



その夜。


瑞稀は、縁側で旭と並んで座っていた。


空には雲が広がり、星はほとんど見えない。


けれど、不思議と穏やかな夜だった。


虫の音が、境内の静けさへ溶けていく。


二人の間には、長い沈黙があった。


以前の瑞稀なら、その沈黙を何とも思わなかった。


今は、その静けさの中に、旭が隣にいることを感じていた。


「……山へ行きます。」


瑞稀が口を開く。


旭は、前を向いたまま頷いた。


「ああ。」


「磐長姫様からお預かりした言葉を、大山祇神様へ届けなければなりません。」


「そうだな。」


瑞稀は、膝の上でそっと手を握った。


伝えるだけなら、それで役目は終わる。


けれど、あの山で拒まれた理由を、今はもう知っている。


「それだけではありません。」


瑞稀は、遠くにある山の影を見つめた。


「あの方ご自身が、何を抱えていらっしゃるのか。」


「今度は、きちんと見なければならないと思います。」


旭は、しばらく何も言わなかった。


やがて、静かに答える。


「分かった。」


それだけだった。


瑞稀は、隣へ視線を向ける。


「……一緒に来てくださいますか。」


旭の眉が、僅かに動いた。


「今更、何を聞いてる。」


「ですが――」


旭は、瑞稀の言葉を遮るように続けた。


「お前がどこへ行こうと、俺は隣にいる。」


低く、ぶっきらぼうな声。


けれど、その言葉は、瑞稀の胸の奥へまっすぐ届いた。


小さく。


水面へ一滴の雫が落ちたように。


胸の内側が、波打つ。


以前なら、その感覚に気づかなかったかもしれない。


気づいたとしても、名前を考えようとはしなかった。


けれど今は、それが安心だけではないことを、瑞稀は少しずつ知り始めていた。


「……はい。」


瑞稀は、小さく頷いた。


隣に座る旭の横顔を、今度は目を逸らさずに見つめる。


旭が、その視線へ気づいた。


「何だ。」


「いえ。」


瑞稀は、僅かに首を横へ振る。


「何でもありません。」


旭は訝しげに眉を寄せたが、それ以上は尋ねなかった。


瑞稀は、懐の勾玉へそっと触れる。


勾玉は、静かに温かかった。


槍は、まだ手元にない。


神へ続くあの鋭い光も、今は感じられない。


それでも、その不在を以前ほど恐れてはいなかった。


槍がなくなったことで、初めて見えたものがある。


何も握っていないからこそ、差し伸べることのできた手もある。


そして、自分の隣を歩いてくれる者の存在も。


瑞稀は、静かに山の方角を見つめた。


満ちてくる潮の音を、まだ聞くことはできない。


けれど、遠くない場所で、引いていた何かがゆっくりと戻り始めている。


そんな予感だけが、胸の奥へ静かに満ちていた。

第二十六話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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