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第二十五話 「波立つ父心」

第二十五話 「波立つ父心」


異変が起きたのは、町から山を越えた先にある、小さな港町だった。


朝、漁港は夜が明ける前から騒然としていた。


空には雲一つなく、風もほとんど吹いていない。


それなのに、朝凪を迎えるはずの海だけが激しくうねっている。


繋がれていた小舟は幾つも横倒しになり、絡み合った網が波打ち際へ打ち上げられていた。


魚たちは海の中から何かに追われているかのように、次々と浜へ跳ね上がってくる。


「山の次は、海か。」


波打ち際に立った旭が、眉を寄せた。


瑞稀は、荒れる海面を静かに見つめる。


胸の奥へ触れるのは、これまでの荒魂から感じてきたような、冷たく尖った気配ではない。


もっと大きく、荒々しい。


何かを傷つけたいというよりも、自らの内へ湧き上がるものを抑えられず、周囲を巻き込んでいるような波動だった。


怒りに似ている。


けれど、その奥にあるものは、少し違うように思えた。


「行ってみましょう。」


旭は、短く頷いた。


「ああ。」



その夜。


瑞稀と旭は、港の突堤へ立っていた。


昼間よりも風は弱まっている。


それでも海は、暗闇の中で大きくうねり続けていた。


遠い沖合で、水面が不自然に盛り上がる。


「……来るぞ!」


旭が叫んだ。


次の瞬間、巨大な波が突堤ごと二人を呑み込んだ。


視界が、暗い水の色へ染まる。


上下も、前後も分からない。


息ができない。


旭へ手を伸ばそうとした、その時だった。


瑞稀は、奇妙な感覚を覚えた。


沈んでいるのではない。


海底へ落ちているのでもない。


どこかへ引き込まれている。


現世の海よりも、さらに深い場所へ。


海そのものの内側へ。


やがて、水の重さがふっと消えた。


瑞稀の足が、硬い地面へ触れる。


気づけば、乾いた場所に立っていた。


見上げても、空はない。


頭上には深い水の層が広がり、青く沈んだ光がゆらゆらと揺れている。


そこは海底とも、空の上とも知れない、不思議な空間だった。


崩れかけた鳥居のような柱。


砕けた石段。


朽ちた社殿の残骸。


かつては海神の宮と呼ばれていたのだろう。


その成れの果てだけが、水の底で静かに沈黙していた。


「……瑞稀。」


すぐ隣から、声がした。


旭が刀を構え、周囲を見渡している。


「無事か。」


「はい。」


瑞稀も、ゆっくりと辺りを見回した。


「ここは、荒魂の神域なのだと思います。」


「だが、今までとは違う。」


旭が、頭上を見上げる。


瑞稀も、同じ違和感を覚えていた。


これまで鳥居の先に現れた神域は、現世から切り離された場所だった。


けれど、ここは違う。


「……つながっています。」


瑞稀は、頭上の水へ目を向けた。


「現世の海と、今も。」


言葉にした瞬間、頭上の水面が大きく波打った。


水の向こうから、町のざわめきが微かに響いてくる。


漁港の警報。


人々の叫び声。


船同士がぶつかる、鈍い音。


この場所で起きていることが、そのまま現世の海へ伝わっている。


瑞稀は、胸元へ手を添えた。


早く鎮めなければならない。


沈んだ宮殿の奥。


崩れた玉座の上には、巨大な人影が座っていた。


長い髭を蓄えた、老いた男の姿。


けれど、その身体は海水そのもので形作られているように揺らめき、双眸だけが赤黒く濁っていた。


苛立たしげな視線が、瑞稀たちへ向けられる。


『……小娘か。』


海鳴りのような声が、沈んだ空間全体を震わせた。


玉座の周囲で、海水が激しく渦を巻く。


『貴様が、あの三柱へ槍を預けた巫女か。』


瑞稀は、僅かに息を呑んだ。


三柱。


槍。


思い当たるのは、宗像三女神しかいない。


けれど、目の前の神は三女神を責めているのではなく、深く案じているようだった。


瑞稀は、周囲の神域へ目を向ける。


沈んだ宮。


現世の海へつながる、深い神域。


そして、海そのものを揺らすほどの神威。


思い当たる名は、一つしかなかった。


「……大綿津見神(おおわたつみのかみ)様、でしょうか。」


赤黒い瞳が、僅かに細められた。


『……ほう。』


『名乗ってもおらぬのに、よく察したものだ。』


瑞稀は、静かに姿勢を正す。


「槍は今、宗像三女神(むなかたさんじょしん)様にお預かりいただいております。」


『預かって、だと。』


海面が、激しく波立った。


『あれらを、己の試練へ巻き込んでおきながら。』


『よくも、そのように軽く申せるものよ。』


旭が、刀の柄へ手をかける。


「瑞稀。」


「お待ちください。」


瑞稀は、旭を制するように手を上げた。


大綿津見神の声は激しい。


けれど、その言葉は瑞稀を憎んでいるというよりも、何かを恐れているように聞こえた。


「大綿津見神様。」


瑞稀は、まっすぐに玉座を見上げる。


「三女神様は、私に頼まれて槍を預かったのではありません。」


『何。』


「ご自身の意思で、私へ問いを授けてくださいました。」


「槍を手にする前の私は、何者であったのか。」


「槍を失った時、私には何が残るのかと。」


海水の渦が、僅かに速度を落とす。


『……自らの意思で。』


「はい。」


瑞稀は、静かに頷いた。


「私は、その問いへの答えを見つけるために、自ら槍をお預けしました。」


『あれらが、そう望んだと申すか。』


「はい。」


大綿津見神は、すぐには何も言わなかった。


赤黒い瞳の奥で、何かを確かめるような光が揺れる。


やがて、低い声が響いた。


『あれらは――』


『昔から、己の役目ばかりを優先する。』


『苦しくとも、何一つ言わぬ。』


『海路を守る者として。』


『誰かを導く者として。』


『いつも、自らのことを後回しにする。』


玉座を囲む水が、再び大きくうねった。


『ゆえに、我は知らねばならぬ。』


『此度もまた、笑って重荷を抱え込んでおらぬかを。』


瑞稀は、そこでようやく理解した。


これは、憎しみではない。


怒りの形をした、心配だった。


「大綿津見神様は、三女神様を娘のように思っていらっしゃるのですね。」


赤黒い瞳が、僅かに揺れた。


『血を分けた娘ではない。』


『あれらは、天照大神(あまてらすおおみかみ)須佐之男命(すさのおのみこと)の誓約より生まれた神。』


大綿津見神は、低く鼻を鳴らした。


『だが、海路を守るあれらを、我は長く見てきた。』


『海に立ち、海を渡り、人を導く姿を。』


水の流れが、僅かに柔らかくなる。


『我にとっては、娘も同じよ。』


瑞稀は、静かに頷いた。


「三女神様は、重荷を背負わされたのではありません。」


「ご自身の役目として、私へ道を示してくださいました。」


『道を……。』


「はい。」


「その問いを受けてから、私は槍を持たずに、二柱の神と向き合いました。」


「けれど、まだ答えを見つけられたわけではありません。」


瑞稀は、自分の両手へ目を落とす。


「私は今も、その問いの途中にいます。」


「三女神様は答えを急かすことなく、私自身に探させてくださっています。」


渦巻いていた海水が、少しずつ静かになっていく。


頭上の水面も、それに合わせるように揺れを弱めた。


『……真剣に、役目を果たしておると。』


「はい。」


瑞稀は、迷わず答えた。


「誰よりも、道を重んじる女神様方です。」


「私を見定めるためではなく。」


「私が自分自身で道を選べるように、問いを残してくださいました。」


大綿津見神は、長い間黙っていた。


広い神域に、水の流れる音だけが響く。


やがて、低く呟いた。


『……あれらは。』


『まだ、幼子だと思っていた。』


「立派な女神様です。」


瑞稀は、はっきりと答えた。


赤黒い双眸が、僅かに見開かれる。


「ご心配なのでしたら。」


瑞稀は、静かに続けた。


「どうか、ご自身で三女神様のお声をお聞きください。」


「きっと、お話しできることがあると思います。」


長い沈黙が落ちた。


大綿津見神の周囲を巡っていた海水が、ゆっくりと鎮まっていく。


頭上で荒れていた水面も、少しずつ光を取り戻し始めた。


『……小娘。』


「はい。」


『我は、少々――』


言葉を探すように、低い唸り声が響く。


『うろたえたか。』


瑞稀は、少し考えた。


「……はい。」


一拍置いて、静かに付け加える。


「少々。」


隣で旭が、小さく咳払いをした。


大綿津見神の眉間へ、深い皺が寄る。


『……ふん。』


けれど、その声にはもう、先ほどまでの激しさはなかった。


大綿津見神は、長い髭を撫でる。


それに合わせるように、水面が小さく揺れた。


『山の男に、笑われそうだ。』


その言葉に、瑞稀と旭は顔を見合わせた。


大山祇神(おおやまつみのかみ)様と、お知り合いなのですか。」


『古い付き合いだ。』


大綿津見神は、鼻を鳴らした。


『山を守る者と、海を守る者。』


『顔を合わせれば、互いに好き勝手なことを申してきた。』


一拍置く。


『だが、あの男も似たようなものであろう。』


『娘のことになると、途端に見境がなくなる。』


海鳴りにも似た低い笑い声が響いた。


けれど、その音はどこか温かかった。


旭が、刀から手を離す。


「自覚はあるんだな。」


小さく呟いた声に、大綿津見神の目が向けられた。


『何か申したか、小僧。』


「いや。」


旭は、素知らぬ顔で目を逸らす。


瑞稀は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


『小娘。』


「はい。」


『あの男のもとへ、戻るのだろう。』


瑞稀は、頷く。


「はい。」


磐長姫(いわながひめ)様から、伝言をお預かりしています。」


大綿津見神の瞳が、僅かに細められた。


『岩の娘に会ったか。』


「はい。」


『……そうか。』


低い声が、水底へ静かに沈んでいく。


『ならば、我からも一つ頼もう。』


大綿津見神が、ゆっくりと身体を起こした。


その動きに合わせて、崩れていた玉座の周囲へ淡い光が満ちる。


『いつまでも酒に沈んでおらず。』


『たまには、海まで顔を出せと伝えておけ。』


瑞稀は、静かに一礼した。


「承知いたしました。」


大綿津見神は、少し考えた後、付け加える。


『それから。』


『娘というものは――』


水面が、柔らかく波打つ。


『親が案じている間にも、勝手に育つものらしいとな。』


瑞稀は、三女神の姿を思い浮かべた。


白い波打ち際へ立っていた、三柱の女神。


厳しく問い。


静かに導き。


答えを急かすことなく、自分の道を歩ませようとしてくれた神々。


「はい。」


今度は、少し柔らかく答えた。


「必ず、お伝えします。」


瑞稀の胸の奥に、小さな温もりが灯る。


それは、槍を手にした時の光とは違う。


道を切り開く鋭い力でもない。


静かな波のように、胸の内側から広がっていく。


瑞稀は、両手を胸元へ添えた。


その時、神域の奥から一筋の淡い光が伸びた。


水底を渡り。


沈んだ石段を越え。


大綿津見神の玉座から、遥か遠くへ続く道となる。


潮の流れによって作られた、光の道。


――潮路。


瑞稀の脳裏へ、塩土老翁(しおつちのおじ)の言葉が蘇る。


――潮が引けば、船は出せん。


――だからといって、海が無くなったわけじゃない。


そして、別れ際に告げられた言葉。


――渡し賃は、答えを見つけてからでええ。


これは、瑞稀が切り開いた道ではない。


大綿津見神が、自ら還ることを選んだことで生まれた道だった。


その道を見届けながら、瑞稀は深く頭を下げる。


「――御霊よ。」


「畏み、畏み申し上げる。」


「御神の御許へ還り給え。」


――シャン。


神楽鈴の音が、水底へ澄んで響いた。


大綿津見神を覆っていた赤黒い濁りが、光の粒となって剥がれていく。


老いた海神の双眸が、本来の深い青を取り戻した。


崩れていた鳥居が、淡い光へ溶ける。


朽ちた社殿も。


砕けた石段も。


沈んだ宮殿そのものが、静かな潮へ還っていった。


『世話をかけたな、小娘。』


大綿津見神は、潮路の前で瑞稀を振り返る。


『……存外、悪くない娘だ。』


瑞稀は、少しだけ首を傾げた。


褒められているのかどうか、すぐには判断できなかった。


大綿津見神は、低く笑う。


『あの三柱を、頼んだぞ。』


「はい。」


瑞稀は、静かに頷く。


「私も、三女神様から多くのことを学んでいます。」


『ならばよい。』


大綿津見神は、満足そうに髭を撫でた。


そして、光の潮路へ足を踏み入れる。


その姿が、穏やかな波へ溶けていった。


潮路が閉じる。


同時に、瑞稀たちの足元がふっと消えた。


身体が、宙へ浮き上がる。


視界が再び、暗い海の色へ染まった。


けれど、今度は苦しくない。


まるで大きな手のひらに押し上げられるように、二人の身体は静かに海面へ運ばれていった。



「――瑞稀!」


旭の声で、瑞稀は目を開けた。


夜明け前の突堤。


濡れた身体へ、冷たい海風が吹きつける。


隣では旭も膝をつき、荒い息を整えていた。


「……戻れたのですね。」


「ああ。」


瑞稀は、ゆっくりと身を起こした。


目の前の海は、先ほどまでの荒れ方が嘘だったかのように凪いでいた。


沖合には、もう水柱も、巨大な人影もない。


ただ、静かな波が規則正しく岸を打っている。


東の空が、明るくなり始めていた。


朝焼けの光が、水面を金色に染めていく。


浜へ打ち上げられていた魚たちも、いつの間にか海へ戻っていた。


漁港の方から、漁師たちの声が聞こえる。


「……船、流されてないぞ。」


「こっちの網も戻ってる。」


「何だったんだ、あの波は……。」


漁師たちは戸惑いながら、港の様子を確かめていた。


荒れていた現世の海も、大綿津見神の心が凪いだことへ呼応するように、静けさを取り戻していた。


旭が、濡れた前髪をかき上げる。


「……存外、悪くない娘、か。」


瑞稀は、少し考えた。


「褒められているのでしょうか。」


「さあな。」


旭は、微かに口の端を上げる。


「だが、悪い意味ではないだろう。」


瑞稀は、凪いだ海を見つめた。


荒れ狂う波の奥にあったのは、憎しみではなかった。


大切な者を案じる、ひどく不器用な心。


以前の自分なら、目の前へ現れた怒りだけを見ていたかもしれない。


その怒りを鎮めることだけが、自分の役目だと思っていたかもしれない。


けれど今は、波の向こうに隠されたものへ、少しだけ目を向けられるようになった。


胸の奥に、静かな手応えが残っている。


それは、槍がなくても神を還せたという自信ではない。


相手が見せるものだけではなく、その奥に隠されたものへ近づこうとした証。


朝焼けに染まる海を見つめながら、瑞稀はその小さな変化を、静かに胸へ刻んだ。

第二十五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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