第二十五話 「波立つ父心」
第二十五話 「波立つ父心」
異変が起きたのは、町から山を越えた先にある、小さな港町だった。
朝、漁港は夜が明ける前から騒然としていた。
空には雲一つなく、風もほとんど吹いていない。
それなのに、朝凪を迎えるはずの海だけが激しくうねっている。
繋がれていた小舟は幾つも横倒しになり、絡み合った網が波打ち際へ打ち上げられていた。
魚たちは海の中から何かに追われているかのように、次々と浜へ跳ね上がってくる。
「山の次は、海か。」
波打ち際に立った旭が、眉を寄せた。
瑞稀は、荒れる海面を静かに見つめる。
胸の奥へ触れるのは、これまでの荒魂から感じてきたような、冷たく尖った気配ではない。
もっと大きく、荒々しい。
何かを傷つけたいというよりも、自らの内へ湧き上がるものを抑えられず、周囲を巻き込んでいるような波動だった。
怒りに似ている。
けれど、その奥にあるものは、少し違うように思えた。
「行ってみましょう。」
旭は、短く頷いた。
「ああ。」
◇
その夜。
瑞稀と旭は、港の突堤へ立っていた。
昼間よりも風は弱まっている。
それでも海は、暗闇の中で大きくうねり続けていた。
遠い沖合で、水面が不自然に盛り上がる。
「……来るぞ!」
旭が叫んだ。
次の瞬間、巨大な波が突堤ごと二人を呑み込んだ。
視界が、暗い水の色へ染まる。
上下も、前後も分からない。
息ができない。
旭へ手を伸ばそうとした、その時だった。
瑞稀は、奇妙な感覚を覚えた。
沈んでいるのではない。
海底へ落ちているのでもない。
どこかへ引き込まれている。
現世の海よりも、さらに深い場所へ。
海そのものの内側へ。
やがて、水の重さがふっと消えた。
瑞稀の足が、硬い地面へ触れる。
気づけば、乾いた場所に立っていた。
見上げても、空はない。
頭上には深い水の層が広がり、青く沈んだ光がゆらゆらと揺れている。
そこは海底とも、空の上とも知れない、不思議な空間だった。
崩れかけた鳥居のような柱。
砕けた石段。
朽ちた社殿の残骸。
かつては海神の宮と呼ばれていたのだろう。
その成れの果てだけが、水の底で静かに沈黙していた。
「……瑞稀。」
すぐ隣から、声がした。
旭が刀を構え、周囲を見渡している。
「無事か。」
「はい。」
瑞稀も、ゆっくりと辺りを見回した。
「ここは、荒魂の神域なのだと思います。」
「だが、今までとは違う。」
旭が、頭上を見上げる。
瑞稀も、同じ違和感を覚えていた。
これまで鳥居の先に現れた神域は、現世から切り離された場所だった。
けれど、ここは違う。
「……つながっています。」
瑞稀は、頭上の水へ目を向けた。
「現世の海と、今も。」
言葉にした瞬間、頭上の水面が大きく波打った。
水の向こうから、町のざわめきが微かに響いてくる。
漁港の警報。
人々の叫び声。
船同士がぶつかる、鈍い音。
この場所で起きていることが、そのまま現世の海へ伝わっている。
瑞稀は、胸元へ手を添えた。
早く鎮めなければならない。
沈んだ宮殿の奥。
崩れた玉座の上には、巨大な人影が座っていた。
長い髭を蓄えた、老いた男の姿。
けれど、その身体は海水そのもので形作られているように揺らめき、双眸だけが赤黒く濁っていた。
苛立たしげな視線が、瑞稀たちへ向けられる。
『……小娘か。』
海鳴りのような声が、沈んだ空間全体を震わせた。
玉座の周囲で、海水が激しく渦を巻く。
『貴様が、あの三柱へ槍を預けた巫女か。』
瑞稀は、僅かに息を呑んだ。
三柱。
槍。
思い当たるのは、宗像三女神しかいない。
けれど、目の前の神は三女神を責めているのではなく、深く案じているようだった。
瑞稀は、周囲の神域へ目を向ける。
沈んだ宮。
現世の海へつながる、深い神域。
そして、海そのものを揺らすほどの神威。
思い当たる名は、一つしかなかった。
「……大綿津見神様、でしょうか。」
赤黒い瞳が、僅かに細められた。
『……ほう。』
『名乗ってもおらぬのに、よく察したものだ。』
瑞稀は、静かに姿勢を正す。
「槍は今、宗像三女神様にお預かりいただいております。」
『預かって、だと。』
海面が、激しく波立った。
『あれらを、己の試練へ巻き込んでおきながら。』
『よくも、そのように軽く申せるものよ。』
旭が、刀の柄へ手をかける。
「瑞稀。」
「お待ちください。」
瑞稀は、旭を制するように手を上げた。
大綿津見神の声は激しい。
けれど、その言葉は瑞稀を憎んでいるというよりも、何かを恐れているように聞こえた。
「大綿津見神様。」
瑞稀は、まっすぐに玉座を見上げる。
「三女神様は、私に頼まれて槍を預かったのではありません。」
『何。』
「ご自身の意思で、私へ問いを授けてくださいました。」
「槍を手にする前の私は、何者であったのか。」
「槍を失った時、私には何が残るのかと。」
海水の渦が、僅かに速度を落とす。
『……自らの意思で。』
「はい。」
瑞稀は、静かに頷いた。
「私は、その問いへの答えを見つけるために、自ら槍をお預けしました。」
『あれらが、そう望んだと申すか。』
「はい。」
大綿津見神は、すぐには何も言わなかった。
赤黒い瞳の奥で、何かを確かめるような光が揺れる。
やがて、低い声が響いた。
『あれらは――』
『昔から、己の役目ばかりを優先する。』
『苦しくとも、何一つ言わぬ。』
『海路を守る者として。』
『誰かを導く者として。』
『いつも、自らのことを後回しにする。』
玉座を囲む水が、再び大きくうねった。
『ゆえに、我は知らねばならぬ。』
『此度もまた、笑って重荷を抱え込んでおらぬかを。』
瑞稀は、そこでようやく理解した。
これは、憎しみではない。
怒りの形をした、心配だった。
「大綿津見神様は、三女神様を娘のように思っていらっしゃるのですね。」
赤黒い瞳が、僅かに揺れた。
『血を分けた娘ではない。』
『あれらは、天照大神と須佐之男命の誓約より生まれた神。』
大綿津見神は、低く鼻を鳴らした。
『だが、海路を守るあれらを、我は長く見てきた。』
『海に立ち、海を渡り、人を導く姿を。』
水の流れが、僅かに柔らかくなる。
『我にとっては、娘も同じよ。』
瑞稀は、静かに頷いた。
「三女神様は、重荷を背負わされたのではありません。」
「ご自身の役目として、私へ道を示してくださいました。」
『道を……。』
「はい。」
「その問いを受けてから、私は槍を持たずに、二柱の神と向き合いました。」
「けれど、まだ答えを見つけられたわけではありません。」
瑞稀は、自分の両手へ目を落とす。
「私は今も、その問いの途中にいます。」
「三女神様は答えを急かすことなく、私自身に探させてくださっています。」
渦巻いていた海水が、少しずつ静かになっていく。
頭上の水面も、それに合わせるように揺れを弱めた。
『……真剣に、役目を果たしておると。』
「はい。」
瑞稀は、迷わず答えた。
「誰よりも、道を重んじる女神様方です。」
「私を見定めるためではなく。」
「私が自分自身で道を選べるように、問いを残してくださいました。」
大綿津見神は、長い間黙っていた。
広い神域に、水の流れる音だけが響く。
やがて、低く呟いた。
『……あれらは。』
『まだ、幼子だと思っていた。』
「立派な女神様です。」
瑞稀は、はっきりと答えた。
赤黒い双眸が、僅かに見開かれる。
「ご心配なのでしたら。」
瑞稀は、静かに続けた。
「どうか、ご自身で三女神様のお声をお聞きください。」
「きっと、お話しできることがあると思います。」
長い沈黙が落ちた。
大綿津見神の周囲を巡っていた海水が、ゆっくりと鎮まっていく。
頭上で荒れていた水面も、少しずつ光を取り戻し始めた。
『……小娘。』
「はい。」
『我は、少々――』
言葉を探すように、低い唸り声が響く。
『うろたえたか。』
瑞稀は、少し考えた。
「……はい。」
一拍置いて、静かに付け加える。
「少々。」
隣で旭が、小さく咳払いをした。
大綿津見神の眉間へ、深い皺が寄る。
『……ふん。』
けれど、その声にはもう、先ほどまでの激しさはなかった。
大綿津見神は、長い髭を撫でる。
それに合わせるように、水面が小さく揺れた。
『山の男に、笑われそうだ。』
その言葉に、瑞稀と旭は顔を見合わせた。
「大山祇神様と、お知り合いなのですか。」
『古い付き合いだ。』
大綿津見神は、鼻を鳴らした。
『山を守る者と、海を守る者。』
『顔を合わせれば、互いに好き勝手なことを申してきた。』
一拍置く。
『だが、あの男も似たようなものであろう。』
『娘のことになると、途端に見境がなくなる。』
海鳴りにも似た低い笑い声が響いた。
けれど、その音はどこか温かかった。
旭が、刀から手を離す。
「自覚はあるんだな。」
小さく呟いた声に、大綿津見神の目が向けられた。
『何か申したか、小僧。』
「いや。」
旭は、素知らぬ顔で目を逸らす。
瑞稀は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
『小娘。』
「はい。」
『あの男のもとへ、戻るのだろう。』
瑞稀は、頷く。
「はい。」
「磐長姫様から、伝言をお預かりしています。」
大綿津見神の瞳が、僅かに細められた。
『岩の娘に会ったか。』
「はい。」
『……そうか。』
低い声が、水底へ静かに沈んでいく。
『ならば、我からも一つ頼もう。』
大綿津見神が、ゆっくりと身体を起こした。
その動きに合わせて、崩れていた玉座の周囲へ淡い光が満ちる。
『いつまでも酒に沈んでおらず。』
『たまには、海まで顔を出せと伝えておけ。』
瑞稀は、静かに一礼した。
「承知いたしました。」
大綿津見神は、少し考えた後、付け加える。
『それから。』
『娘というものは――』
水面が、柔らかく波打つ。
『親が案じている間にも、勝手に育つものらしいとな。』
瑞稀は、三女神の姿を思い浮かべた。
白い波打ち際へ立っていた、三柱の女神。
厳しく問い。
静かに導き。
答えを急かすことなく、自分の道を歩ませようとしてくれた神々。
「はい。」
今度は、少し柔らかく答えた。
「必ず、お伝えします。」
瑞稀の胸の奥に、小さな温もりが灯る。
それは、槍を手にした時の光とは違う。
道を切り開く鋭い力でもない。
静かな波のように、胸の内側から広がっていく。
瑞稀は、両手を胸元へ添えた。
その時、神域の奥から一筋の淡い光が伸びた。
水底を渡り。
沈んだ石段を越え。
大綿津見神の玉座から、遥か遠くへ続く道となる。
潮の流れによって作られた、光の道。
――潮路。
瑞稀の脳裏へ、塩土老翁の言葉が蘇る。
――潮が引けば、船は出せん。
――だからといって、海が無くなったわけじゃない。
そして、別れ際に告げられた言葉。
――渡し賃は、答えを見つけてからでええ。
これは、瑞稀が切り開いた道ではない。
大綿津見神が、自ら還ることを選んだことで生まれた道だった。
その道を見届けながら、瑞稀は深く頭を下げる。
「――御霊よ。」
「畏み、畏み申し上げる。」
「御神の御許へ還り給え。」
――シャン。
神楽鈴の音が、水底へ澄んで響いた。
大綿津見神を覆っていた赤黒い濁りが、光の粒となって剥がれていく。
老いた海神の双眸が、本来の深い青を取り戻した。
崩れていた鳥居が、淡い光へ溶ける。
朽ちた社殿も。
砕けた石段も。
沈んだ宮殿そのものが、静かな潮へ還っていった。
『世話をかけたな、小娘。』
大綿津見神は、潮路の前で瑞稀を振り返る。
『……存外、悪くない娘だ。』
瑞稀は、少しだけ首を傾げた。
褒められているのかどうか、すぐには判断できなかった。
大綿津見神は、低く笑う。
『あの三柱を、頼んだぞ。』
「はい。」
瑞稀は、静かに頷く。
「私も、三女神様から多くのことを学んでいます。」
『ならばよい。』
大綿津見神は、満足そうに髭を撫でた。
そして、光の潮路へ足を踏み入れる。
その姿が、穏やかな波へ溶けていった。
潮路が閉じる。
同時に、瑞稀たちの足元がふっと消えた。
身体が、宙へ浮き上がる。
視界が再び、暗い海の色へ染まった。
けれど、今度は苦しくない。
まるで大きな手のひらに押し上げられるように、二人の身体は静かに海面へ運ばれていった。
◇
「――瑞稀!」
旭の声で、瑞稀は目を開けた。
夜明け前の突堤。
濡れた身体へ、冷たい海風が吹きつける。
隣では旭も膝をつき、荒い息を整えていた。
「……戻れたのですね。」
「ああ。」
瑞稀は、ゆっくりと身を起こした。
目の前の海は、先ほどまでの荒れ方が嘘だったかのように凪いでいた。
沖合には、もう水柱も、巨大な人影もない。
ただ、静かな波が規則正しく岸を打っている。
東の空が、明るくなり始めていた。
朝焼けの光が、水面を金色に染めていく。
浜へ打ち上げられていた魚たちも、いつの間にか海へ戻っていた。
漁港の方から、漁師たちの声が聞こえる。
「……船、流されてないぞ。」
「こっちの網も戻ってる。」
「何だったんだ、あの波は……。」
漁師たちは戸惑いながら、港の様子を確かめていた。
荒れていた現世の海も、大綿津見神の心が凪いだことへ呼応するように、静けさを取り戻していた。
旭が、濡れた前髪をかき上げる。
「……存外、悪くない娘、か。」
瑞稀は、少し考えた。
「褒められているのでしょうか。」
「さあな。」
旭は、微かに口の端を上げる。
「だが、悪い意味ではないだろう。」
瑞稀は、凪いだ海を見つめた。
荒れ狂う波の奥にあったのは、憎しみではなかった。
大切な者を案じる、ひどく不器用な心。
以前の自分なら、目の前へ現れた怒りだけを見ていたかもしれない。
その怒りを鎮めることだけが、自分の役目だと思っていたかもしれない。
けれど今は、波の向こうに隠されたものへ、少しだけ目を向けられるようになった。
胸の奥に、静かな手応えが残っている。
それは、槍がなくても神を還せたという自信ではない。
相手が見せるものだけではなく、その奥に隠されたものへ近づこうとした証。
朝焼けに染まる海を見つめながら、瑞稀はその小さな変化を、静かに胸へ刻んだ。
第二十五話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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