表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
24/45

第二十四話 「選ばれなかった岩」

第二十四話 「選ばれなかった岩」


翌朝。


境内の梅の木が、一晩ですべての葉を落としていた。


真夏だというのに、まるで晩秋を迎えたかのように枝という枝が裸になり、地面を覆う葉は、触れただけで粉のように崩れた。


同じ頃、隣町の古い共同墓地では、昨日建てられたばかりの墓石が、数十年もの風雨へ晒されたように風化していた。


表面に刻まれた文字は薄れ、角は脆く崩れかけている。


「……時間が、狂ったみたいだな。」


旭が、崩れた葉の欠片を指先で摘まんだ。


僅かに力を加えただけで、葉は細かな塵となり、指から零れ落ちていく。


瑞稀は、静かに首を横へ振った。


「狂ったのではないと思います。」


粉となった葉へ、目を落とす。


「進みすぎているのです。」


「誰かの分まで。」


昨夜、山で聞いた声が、まだ耳の奥へ残っていた。


――朽ちぬ命を抱えたまま。


――今も独り、時に取り残されている。


磐長姫(いわながひめ)様の時は、止まったままなのだと思います。」


瑞稀は、掌へ残った灰のような葉を見つめる。


「その分だけ、他の場所の時が、流れすぎているのでしょうか。」


旭は何も答えなかった。


ただ、山の奥――これまで一度も足を踏み入れたことのない方角へ、静かに目を向けた。



古い言い伝えによれば、山の裏手には、誰も近づかない谷があるという。


かつては、小さな社が祀られていた。


けれど、祟りを恐れた村人たちは道を閉ざし、やがて谷の名そのものが古地図から消された。


瑞稀と旭は、獣道さえ残っていない斜面を、黙々と分け入っていく。


伸びた枝が服へ引っかかり、行く手を阻む。


足元の土は湿っているはずなのに、不思議なほど硬かった。


進むほどに虫の声も、鳥の羽音も消えていく。


やがて、斜面の先が開けた。


谷の奥。


そこだけ、季節が止まっていた。


苔むした鳥居。


朽ちることのない、けれど色も失った木々。


地面には、何十年分とも知れない枯れ葉が積もっていた。


それなのに、どの葉も崩れず、土へ還ることもなく、落ちた時の形のまま重なっている。


風すら、この場所では動くことを忘れているようだった。


谷の中心には、大きな岩が鎮座していた。


張られたしめ縄は色褪せ、今にも朽ち落ちそうでありながら、長い年月そのものを拒むように形を保っている。


瑞稀が、一歩近づいた。


岩の表面へ、静かに二本の亀裂が走る。


その奥で、双眸がゆっくりと開いた。


『……我のもとに花の匂いを連れてきたか。』


低く、乾いた声だった。


怒りではない。


それよりも硬く、長い年月の中で凍りついたような声。


「磐長姫様。」


瑞稀が呼びかけると、岩の表面が僅かに軋んだ。


『その名で、我を呼ぶな。』


『妹の陰に立っていた、あの日の名だ。』


瑞稀は、一歩も動かなかった。


「……申し訳ございません。」


「けれど、他にあなたをお呼びする名を、私は存じません。」


長い沈黙が落ちる。


やがて、岩の奥から低い声が返った。


『……正直な娘だ。』


『花を愛した者たちも、それほど正直であればよかったものを。』


「私は、花の使いではありません。」


瑞稀は、静かに続ける。


木花咲耶姫(このはなさくやひめ)様と、瓊瓊杵(ににぎ)様の御霊をお還ししました。」


『知っている。』


『その身には、二柱の気配が残っている。』


岩の奥の双眸が、瑞稀を深く見据える。


『だから来たのであろう。』


『詫びの言葉でも、聞かせに。』


瑞稀は、静かに首を横へ振った。


「いいえ。」


「あの時、私はお二人の痛みしか見ていませんでした。」


「その陰に、あなたがいらしたことに、気づきもしませんでした。」


岩は、何も答えない。


瑞稀は、言葉を選びながら続けた。


「ですが、今日は、そのことを詫びに来たのではありません。」


『……詫びぬのか。』


「私が謝ったところで、あなたが受けた出来事は変わりません。」


「謝ることで、自分だけが許されたような気持ちになるのも、違うと思います。」


岩の奥で、何かが僅かに揺れた。


「ですから。」


瑞稀は、岩をまっすぐに見つめる。


「あなたのお話を、聞きに来ました。」


長い沈黙。


止まった谷の中へ、瑞稀の呼吸だけが静かに響いた。


『……聞いて、どうする。』


やがて、掠れた声が落ちる。


『我はもう、選ばれることのない神だ。』


『美しくないという、ただそれだけの理由で。』


『父のもとへ、送り返された。』


岩肌を覆う苔が、赤く滲んだ。


雫のように、ゆっくりと表面を伝っていく。


『それだけならば、まだよかった。』


『我が返された、その日から。』


『人という人の命は、脆く、儚いものとなった。』


瑞稀は、息を呑んだ。


神話としては知っていた。


けれど、その出来事を磐長姫自身の声で聞くのは、まるで意味が違った。


『花のように咲き。』


『花のように散る命。』


『それが、我を拒んだ代償だ。』


『我が選ばれていれば、人の命は岩のように朽ちぬものだったであろう。』


低い声へ、深い疲労が滲んでいた。


『我は、誰からも望まれぬまま。』


『誰の寿命をも縮めた神として、ここに在り続けている。』


『花は愛され。』


『歌にまで詠まれる。』


『岩は、ただ忘れられていく。』


瑞稀は、しばらく何も言えなかった。


磐長姫の言葉を受け止めようとするほど、胸が重くなる。


やがて、ゆっくりと口を開いた。


「……短い命だからこそ、人は――」


そこまで言って、瑞稀は言葉を止めた。


磐長姫の双眸が、静かにこちらを見ている。


慰めを待っている目ではなかった。


瑞稀は、差し出しかけた言葉を飲み込む。


「……申し訳ありません。」


『何を詫びる。』


「今、あなたが拒まれたことへ、別の意味を与えようとしました。」


「短い命にも価値があるのだと。」


瑞稀は、ゆっくりと両手を下ろした。


「けれど、それでは。」


「あなたが拒まれたことも。」


「選ばれなかったことも。」


「誰かのために必要だったのだと、言い換えてしまいます。」


岩の表面へ、細い亀裂が走った。


崩れる音ではない。


長く閉ざされていたものが、僅かに軋んだ音だった。


「私は、あなたが拒まれてよかったとは思いません。」


「あなたの痛みを、美しい話へ変えるつもりもありません。」


瑞稀は、まっすぐに磐長姫を見つめる。


「ただ。」


「あなたが確かに、ここにいらしたことを。」


「知らないままにはしたくないのです。」


『……我を知って、何になる。』


「分かりません。」


瑞稀は、正直に答えた。


「けれど、何かになるから知るのではありません。」


「あなたが、ここにいらっしゃるから。」


「だから、知りたいと思いました。」


谷の空気が、ほんの僅かに揺れる。


止まっていた木の枝が、初めて小さな音を立てた。


『……父は。』


やがて、掠れた声が響く。


『今も、我のことを。』


「はい。」


瑞稀は、迷わず頷いた。


「あなたが、どのようなお顔で戻ってこられたのか。」


「それを、今も忘れられずにおいででした。」


「何もして差し上げられなかったことを、悔いておられます。」


岩の表面へ、幾つもの線が走る。


けれど、それは崩れる兆しではなかった。


固く閉ざされていた岩が、内側からゆっくりと呼吸を始めたような音だった。


『……今更。』


磐長姫の声が、微かに震える。


『今更、父が何を思おうと。』


『我が返された過去は、変わらぬ。』


「はい。」


瑞稀は、静かに頷いた。


「変わりません。」


岩の双眸が、僅かに見開かれる。


「ですから、変えようとはしません。」


「あなたが傷ついたことも。」


「選ばれなかったことも。」


「戻らない時間も。」


瑞稀は、僅かに息を吸う。


「そのまま、覚えていたいのです。」


長い沈黙が落ちた。


やがて、岩の奥から低く震える声が漏れる。


『……あの酒に溺れた父も。』


『我を、想ってはいたのか。』


「はい。」


瑞稀は、静かに答えた。


「ずっと。」


岩の輪郭が、淡い光を帯び始める。


止まっていた谷の風が、ゆっくりと動き出した。


積もったまま朽ちなかった枯れ葉が、一枚。


また一枚と、ようやく風に舞っていく。


『我は、変わらぬことしかできぬ神だ。』


磐長姫の声が、谷へ静かに広がった。


『それでも。』


『変わらぬまま、覚えていてくれる者がいるなら。』


言葉の終わりに、長い息が零れる。


『それだけで、よいのかもしれぬ。』


瑞稀の懐で、欠けた勾玉が淡く震えた。


けれど、そこから光が溢れたわけではない。


瑞稀自身の胸の奥へ、小さな温もりが生まれる。


それはゆっくりと腕を伝い、両の掌へ集まっていった。


瑞稀は、その光を握り込もうとはしなかった。


ただ、開いた手のまま、磐長姫へ差し出す。


「――御霊よ。」


「畏み、畏み申し上げる。」


「御神の御許へ還り給え。」


光が、静かに空間を裂いた。


――シャン。


神楽鈴の澄んだ音が、谷へ響き渡る。


裂け目の向こうには、変わらぬ稜線が幾重にも連なっていた。


動かず。


揺らがず。


それでも、降り注ぐ朝の光を受け止める山々。


岩の姿が、ゆっくりと人の形へ変わっていく。


そこに立っていたのは、静かな眼差しを持つ一人の女神だった。


華やかな衣ではない。


髪にも、花は咲いていない。


それでも、その佇まいには、岩山のような揺るぎない美しさがあった。


『……礼を言う。』


磐長姫は、瑞稀を見つめた。


『我を、花に変えようとしなかったことに。』


一拍置き、静かに続ける。


『我を、岩のまま見てくれたことに。』


瑞稀は、深く一礼した。


磐長姫は、微かに口元を緩める。


それは笑みと呼ぶには、あまりに硬い。


けれど、確かな笑みだった。


光の裂け目へ足を進めながら、磐長姫は最後に振り返った。


『父に会うならば。』


『伝えてくれ。』


瑞稀は、顔を上げる。


『我は、もう――』


僅かに言葉を置く。


『独りではない、と。』


光が、谷を静かに満たしていく。


磐長姫の姿が、変わらぬ山々の向こうへ溶けていった。


やがて裂け目が閉じる。


その瞬間、谷へ初めて夏の風が吹き抜けた。


止まっていた木々が揺れる。


積もり続けていた枯れ葉が舞い上がり、やがて土へ還っていく。


止まっていた季節が、ゆっくりと動き始めた。


瑞稀は、自分の両手を見つめた。


力で変えたのではない。


正しい言葉を与えたのでもない。


ただ、変わらない痛みを、変えようとせずに見つめた。


その時、初めて閉ざされていた道が開いた。


――槍を失った時、お前には何が残る。


宗像三女神から与えられた問いが、胸の奥へ蘇る。


答えは、まだ分からない。


けれど、その問いへ続く道を、今、一歩だけ進めたような気がした。

第二十四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ