第二十四話 「選ばれなかった岩」
第二十四話 「選ばれなかった岩」
翌朝。
境内の梅の木が、一晩ですべての葉を落としていた。
真夏だというのに、まるで晩秋を迎えたかのように枝という枝が裸になり、地面を覆う葉は、触れただけで粉のように崩れた。
同じ頃、隣町の古い共同墓地では、昨日建てられたばかりの墓石が、数十年もの風雨へ晒されたように風化していた。
表面に刻まれた文字は薄れ、角は脆く崩れかけている。
「……時間が、狂ったみたいだな。」
旭が、崩れた葉の欠片を指先で摘まんだ。
僅かに力を加えただけで、葉は細かな塵となり、指から零れ落ちていく。
瑞稀は、静かに首を横へ振った。
「狂ったのではないと思います。」
粉となった葉へ、目を落とす。
「進みすぎているのです。」
「誰かの分まで。」
昨夜、山で聞いた声が、まだ耳の奥へ残っていた。
――朽ちぬ命を抱えたまま。
――今も独り、時に取り残されている。
「磐長姫様の時は、止まったままなのだと思います。」
瑞稀は、掌へ残った灰のような葉を見つめる。
「その分だけ、他の場所の時が、流れすぎているのでしょうか。」
旭は何も答えなかった。
ただ、山の奥――これまで一度も足を踏み入れたことのない方角へ、静かに目を向けた。
◇
古い言い伝えによれば、山の裏手には、誰も近づかない谷があるという。
かつては、小さな社が祀られていた。
けれど、祟りを恐れた村人たちは道を閉ざし、やがて谷の名そのものが古地図から消された。
瑞稀と旭は、獣道さえ残っていない斜面を、黙々と分け入っていく。
伸びた枝が服へ引っかかり、行く手を阻む。
足元の土は湿っているはずなのに、不思議なほど硬かった。
進むほどに虫の声も、鳥の羽音も消えていく。
やがて、斜面の先が開けた。
谷の奥。
そこだけ、季節が止まっていた。
苔むした鳥居。
朽ちることのない、けれど色も失った木々。
地面には、何十年分とも知れない枯れ葉が積もっていた。
それなのに、どの葉も崩れず、土へ還ることもなく、落ちた時の形のまま重なっている。
風すら、この場所では動くことを忘れているようだった。
谷の中心には、大きな岩が鎮座していた。
張られたしめ縄は色褪せ、今にも朽ち落ちそうでありながら、長い年月そのものを拒むように形を保っている。
瑞稀が、一歩近づいた。
岩の表面へ、静かに二本の亀裂が走る。
その奥で、双眸がゆっくりと開いた。
『……我のもとに花の匂いを連れてきたか。』
低く、乾いた声だった。
怒りではない。
それよりも硬く、長い年月の中で凍りついたような声。
「磐長姫様。」
瑞稀が呼びかけると、岩の表面が僅かに軋んだ。
『その名で、我を呼ぶな。』
『妹の陰に立っていた、あの日の名だ。』
瑞稀は、一歩も動かなかった。
「……申し訳ございません。」
「けれど、他にあなたをお呼びする名を、私は存じません。」
長い沈黙が落ちる。
やがて、岩の奥から低い声が返った。
『……正直な娘だ。』
『花を愛した者たちも、それほど正直であればよかったものを。』
「私は、花の使いではありません。」
瑞稀は、静かに続ける。
「木花咲耶姫様と、瓊瓊杵様の御霊をお還ししました。」
『知っている。』
『その身には、二柱の気配が残っている。』
岩の奥の双眸が、瑞稀を深く見据える。
『だから来たのであろう。』
『詫びの言葉でも、聞かせに。』
瑞稀は、静かに首を横へ振った。
「いいえ。」
「あの時、私はお二人の痛みしか見ていませんでした。」
「その陰に、あなたがいらしたことに、気づきもしませんでした。」
岩は、何も答えない。
瑞稀は、言葉を選びながら続けた。
「ですが、今日は、そのことを詫びに来たのではありません。」
『……詫びぬのか。』
「私が謝ったところで、あなたが受けた出来事は変わりません。」
「謝ることで、自分だけが許されたような気持ちになるのも、違うと思います。」
岩の奥で、何かが僅かに揺れた。
「ですから。」
瑞稀は、岩をまっすぐに見つめる。
「あなたのお話を、聞きに来ました。」
長い沈黙。
止まった谷の中へ、瑞稀の呼吸だけが静かに響いた。
『……聞いて、どうする。』
やがて、掠れた声が落ちる。
『我はもう、選ばれることのない神だ。』
『美しくないという、ただそれだけの理由で。』
『父のもとへ、送り返された。』
岩肌を覆う苔が、赤く滲んだ。
雫のように、ゆっくりと表面を伝っていく。
『それだけならば、まだよかった。』
『我が返された、その日から。』
『人という人の命は、脆く、儚いものとなった。』
瑞稀は、息を呑んだ。
神話としては知っていた。
けれど、その出来事を磐長姫自身の声で聞くのは、まるで意味が違った。
『花のように咲き。』
『花のように散る命。』
『それが、我を拒んだ代償だ。』
『我が選ばれていれば、人の命は岩のように朽ちぬものだったであろう。』
低い声へ、深い疲労が滲んでいた。
『我は、誰からも望まれぬまま。』
『誰の寿命をも縮めた神として、ここに在り続けている。』
『花は愛され。』
『歌にまで詠まれる。』
『岩は、ただ忘れられていく。』
瑞稀は、しばらく何も言えなかった。
磐長姫の言葉を受け止めようとするほど、胸が重くなる。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……短い命だからこそ、人は――」
そこまで言って、瑞稀は言葉を止めた。
磐長姫の双眸が、静かにこちらを見ている。
慰めを待っている目ではなかった。
瑞稀は、差し出しかけた言葉を飲み込む。
「……申し訳ありません。」
『何を詫びる。』
「今、あなたが拒まれたことへ、別の意味を与えようとしました。」
「短い命にも価値があるのだと。」
瑞稀は、ゆっくりと両手を下ろした。
「けれど、それでは。」
「あなたが拒まれたことも。」
「選ばれなかったことも。」
「誰かのために必要だったのだと、言い換えてしまいます。」
岩の表面へ、細い亀裂が走った。
崩れる音ではない。
長く閉ざされていたものが、僅かに軋んだ音だった。
「私は、あなたが拒まれてよかったとは思いません。」
「あなたの痛みを、美しい話へ変えるつもりもありません。」
瑞稀は、まっすぐに磐長姫を見つめる。
「ただ。」
「あなたが確かに、ここにいらしたことを。」
「知らないままにはしたくないのです。」
『……我を知って、何になる。』
「分かりません。」
瑞稀は、正直に答えた。
「けれど、何かになるから知るのではありません。」
「あなたが、ここにいらっしゃるから。」
「だから、知りたいと思いました。」
谷の空気が、ほんの僅かに揺れる。
止まっていた木の枝が、初めて小さな音を立てた。
『……父は。』
やがて、掠れた声が響く。
『今も、我のことを。』
「はい。」
瑞稀は、迷わず頷いた。
「あなたが、どのようなお顔で戻ってこられたのか。」
「それを、今も忘れられずにおいででした。」
「何もして差し上げられなかったことを、悔いておられます。」
岩の表面へ、幾つもの線が走る。
けれど、それは崩れる兆しではなかった。
固く閉ざされていた岩が、内側からゆっくりと呼吸を始めたような音だった。
『……今更。』
磐長姫の声が、微かに震える。
『今更、父が何を思おうと。』
『我が返された過去は、変わらぬ。』
「はい。」
瑞稀は、静かに頷いた。
「変わりません。」
岩の双眸が、僅かに見開かれる。
「ですから、変えようとはしません。」
「あなたが傷ついたことも。」
「選ばれなかったことも。」
「戻らない時間も。」
瑞稀は、僅かに息を吸う。
「そのまま、覚えていたいのです。」
長い沈黙が落ちた。
やがて、岩の奥から低く震える声が漏れる。
『……あの酒に溺れた父も。』
『我を、想ってはいたのか。』
「はい。」
瑞稀は、静かに答えた。
「ずっと。」
岩の輪郭が、淡い光を帯び始める。
止まっていた谷の風が、ゆっくりと動き出した。
積もったまま朽ちなかった枯れ葉が、一枚。
また一枚と、ようやく風に舞っていく。
『我は、変わらぬことしかできぬ神だ。』
磐長姫の声が、谷へ静かに広がった。
『それでも。』
『変わらぬまま、覚えていてくれる者がいるなら。』
言葉の終わりに、長い息が零れる。
『それだけで、よいのかもしれぬ。』
瑞稀の懐で、欠けた勾玉が淡く震えた。
けれど、そこから光が溢れたわけではない。
瑞稀自身の胸の奥へ、小さな温もりが生まれる。
それはゆっくりと腕を伝い、両の掌へ集まっていった。
瑞稀は、その光を握り込もうとはしなかった。
ただ、開いた手のまま、磐長姫へ差し出す。
「――御霊よ。」
「畏み、畏み申し上げる。」
「御神の御許へ還り給え。」
光が、静かに空間を裂いた。
――シャン。
神楽鈴の澄んだ音が、谷へ響き渡る。
裂け目の向こうには、変わらぬ稜線が幾重にも連なっていた。
動かず。
揺らがず。
それでも、降り注ぐ朝の光を受け止める山々。
岩の姿が、ゆっくりと人の形へ変わっていく。
そこに立っていたのは、静かな眼差しを持つ一人の女神だった。
華やかな衣ではない。
髪にも、花は咲いていない。
それでも、その佇まいには、岩山のような揺るぎない美しさがあった。
『……礼を言う。』
磐長姫は、瑞稀を見つめた。
『我を、花に変えようとしなかったことに。』
一拍置き、静かに続ける。
『我を、岩のまま見てくれたことに。』
瑞稀は、深く一礼した。
磐長姫は、微かに口元を緩める。
それは笑みと呼ぶには、あまりに硬い。
けれど、確かな笑みだった。
光の裂け目へ足を進めながら、磐長姫は最後に振り返った。
『父に会うならば。』
『伝えてくれ。』
瑞稀は、顔を上げる。
『我は、もう――』
僅かに言葉を置く。
『独りではない、と。』
光が、谷を静かに満たしていく。
磐長姫の姿が、変わらぬ山々の向こうへ溶けていった。
やがて裂け目が閉じる。
その瞬間、谷へ初めて夏の風が吹き抜けた。
止まっていた木々が揺れる。
積もり続けていた枯れ葉が舞い上がり、やがて土へ還っていく。
止まっていた季節が、ゆっくりと動き始めた。
瑞稀は、自分の両手を見つめた。
力で変えたのではない。
正しい言葉を与えたのでもない。
ただ、変わらない痛みを、変えようとせずに見つめた。
その時、初めて閉ざされていた道が開いた。
――槍を失った時、お前には何が残る。
宗像三女神から与えられた問いが、胸の奥へ蘇る。
答えは、まだ分からない。
けれど、その問いへ続く道を、今、一歩だけ進めたような気がした。
第二十四話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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