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第二十三話 「拒む山」

第二十三話 「拒む山」


町の外れにある山で異変が起きたのは、その週の初めだった。


山際の沢を流れる水が、赤く濁った。


血ではない。


けれど、鼻を突く匂いは酒によく似ていた。


赤い水に触れた木々は根元から黒ずみ、次々と葉を落としていく。


山を下りてきた獣たちは町の外れをうろつき、餌を求めて畑を荒らした。


古くから山を祀ってきた小さな祠では、供えられていた酒瓶が、一晩のうちに残らず割れていたという。


「……酒か。」


旭が、僅かに眉を寄せた。


瑞稀は、足元へ散らばった瓶の欠片を見つめる。


とろりとした赤い液体が、土の上へ黒い染みを作っていた。


「荒魂なのでしょうか。」


旭は、静かに山の稜線へ目を向ける。


「分からない。」


僅かに目を細め、続けた。


「だが、山の奥から妙な気配がする。」


瑞稀は、懐に収めた勾玉へそっと手を添えた。


槍は、まだ戻っていない。


神卸も、できないままだった。


それでも、玉祖命(たまのおやのみこと)の砕けた御霊を結び直した時、この手には確かに力が宿った。


槍がなくても、自分の言葉は届いた。


――今度も、きっと。


胸の奥へ浮かんだ思いを、瑞稀は深く確かめようとはしなかった。



その夕方。


瑞稀と旭は、山へ入った。


登るほどに空気は重くなり、木々の間を縫うように、赤黒い光が滲んでいた。


酒に似た匂いも、奥へ進むにつれて濃くなっていく。


祠のあった場所には、すでに祠の形は残っていなかった。


砕けた柱も。


崩れた屋根も。


すべてが、一つの巨大な岩へ呑み込まれている。


岩の表面からは、赤い雫が絶えず滴り落ちていた。


その水が地面を伝うたび、周囲の草が黒く枯れていく。


やがて、岩の中央へ二本の亀裂が走った。


その奥で、濁った双眸がゆっくりと開く。


岩肌には、年老いた男の顔にも見える輪郭が浮かんでいた。


『……また、誰かが来たか。』


低く、地鳴りのような声だった。


言葉の端が重く揺れ、深く酔っているようにも聞こえる。


瑞稀は、一歩前へ出た。


「何が、あなたを苦しめているのですか。」


濁った瞳が、ゆっくりと瑞稀へ向けられた。


『……我を、苦しむ者と思うか。』


「違うのですか。」


『知らぬ。』


岩の奥で、低い音が響く。


『とうに、分からなくなった。』


岩が、僅かに震えた。


表面を伝っていた赤い雫が、一筋、涙のように落ちていく。


『我は、二人の娘を送り出した。』


瑞稀は、息を呑んだ。


『一人には、花のように栄える命を。』


『一人には、岩のように朽ちぬ命を。』


赤い水が、ぽたりと地面へ落ちる。


『どちらも、我が愛しき娘であった。』


岩の奥から、再び低い音が響いた。


それは笑い声にも、押し殺した呻きにも聞こえた。


『だが、あれは花だけを選んだ。』


『咲き誇る美しさだけを手元へ残し。』


『朽ちぬ岩は、醜いと我がもとへ返した。』


赤黒い光が、岩の亀裂から滲み出す。


『返されたあの子が、どのような顔をしていたか。』


『あれは、一度も見ようとはせなんだ。』


声は、途切れ途切れだった。


それでも、その奥にあるものだけは、はっきりと伝わってくる。


怒り。


悲しみ。


そして、傷ついた娘を前に、何もしてやれなかった父の長すぎる悔い。


注がれ続けた酒へ、行き場を失った感情だけが溶け込み、山の奥深くへ重く澱んでいる。


瑞稀は、静かに姿勢を正した。


この神もまた、苦しんでいる。


ならば、玉祖命の時と同じように。


槍がなくても、きっと言葉は届く。


呼吸を整え、両手をかざす。


「祓い給え。」


「清め給え。」


祝詞を紡ぐと、淡い光が瑞稀の指先へ集まった。


玉祖命を包んだ時と同じ、穏やかな光。


瑞稀は、それを岩へ向けて差し出した。


けれど、光が岩肌へ触れた瞬間、鋭い音を立てて弾け飛んだ。


「……っ。」


瑞稀は、思わず一歩後ずさる。


『……ぬるい。』


岩の奥から、低い笑い声が響いた。


『それは、静かに崩れゆく者へ差し伸べる手だ。』


『我は、崩れてなどおらぬ。』


亀裂の奥で、赤黒い光が脈打つ。


『我が怒りは、我自身のためにあるのではない。』


赤い水が、岩肌から噴き出した。


『返されたあの子が。』


『朽ちぬ命を抱えたまま。』


『今も、あの日へ取り残されておる。』


山全体が、大きく震えた。


赤い水が宙へ浮かび、無数の帯となって岩の周囲を巡り始める。


『花が咲き。』


『花が散り。』


『幾度、季節が巡ろうとも。』


岩の声が、山の底から響く。


『あの子だけは、何一つ変わらぬ。』


『変わることすら、許されぬ。』


赤黒い奔流が、一気に膨れ上がった。


「――瑞稀!」


旭が叫び、瑞稀の腕を強く引いた。


直後、岩から放たれた赤い奔流が、二人の立っていた場所を薙ぎ払う。


木々がまとめて折れ、地面が大きく抉れた。


旭は瑞稀を背に庇い、刀を構える。


青白い雷が、刃を伝った。


一閃。


赤い流れが、二つに裂ける。


だが、地面へ落ちた液体はすぐに集まり、再び大きな奔流となって襲いかかってきた。


「……きりがない。」


旭が、刀を振るう。


二閃。


三閃。


青い雷と赤い炎が、暗くなった山中を照らす。


それでも、奔流は形を失わない。


斬られるたび、むしろ量を増しているようにさえ見えた。


瑞稀は、もう一度両手をかざす。


「祓い給え――」


声が、震えた。


指先へ集まった光は、先ほどよりも弱い。


届かない。


はっきりと、そう分かった。


玉祖命には届いた。


だから、今回も届くと思っていた。


辛抱強く問いかければ。


痛みに寄り添えば。


いつかは心を開いてくれる。


そう信じていた。


けれど、目の前の荒魂が求めているものは、救いではなかった。


自分の苦しみを理解してほしいのでもない。


この神の心は、別の誰かへ向けられている。


瑞稀は、そのことに気づかないまま、ただ同じ手を差し伸べようとしていた。


『やめろ。』


岩の声が、低く響く。


瑞稀の指先へ集まっていた光が、鋭い音を立てて弾けた。


濁った双眸が、瑞稀を深く見据える。


その視線が、身体の奥まで探るように、ゆっくりと動いた。


『……その身に、花の娘の気配が残っておる。』


瑞稀は、息を呑んだ。


胸の奥へ、淡い花の香りが蘇る。


月明かりの下で微笑んだ、桜の花を髪に咲かせた女神。


岩が、低く軋んだ。


『そして――』


『あの男の気配も。』


赤黒い光が、一瞬だけ強く脈打つ。


「……木花咲耶姫(このはなさくやひめ)様、瓊瓊杵(ににぎ)様。」


『それらの名を、我の前で口にするか。』


山全体が、怒りに呼応するように震えた。


旭が瑞稀の前へ出る。


けれど、岩の視線は瑞稀から逸れなかった。


『花の娘と、あの男を還したか。』


「……はい。」


『ならば、問おう。』


『お前は、何を見た。』


瑞稀は、すぐには答えられなかった。


木花咲耶姫の悲しみ。


瓊瓊杵尊の後悔。


二柱が、ようやく互いへ差し出した言葉。


「お二人が、長くすれ違っていたことを。」


「木花咲耶姫様が、信じていただけなかった悲しみを。」


「瓊瓊杵様が、ご自身の過ちと向き合えずにいらしたことを。」


岩の奥から、低い笑い声が漏れた。


けれど、そこに愉快さはなかった。


『それだけか。』


瑞稀は、言葉を失う。


『花の悲しみは見た。』


『花を疑った男の悔いも見た。』


『だが――』


赤い水が、地面へ激しく降り注ぐ。


『その陰に置かれた岩を。』


『お前は、一度でも見ようとしたか。』


瑞稀の胸が、鋭く痛んだ。


木花咲耶姫と瓊瓊杵尊を還した、あの夜。


二柱の過去へ触れた。


二柱の言葉を聞いた。


けれど、その物語の外にいた者のことを、瑞稀は考えもしなかった。


「……いいえ。」


ようやく、それだけを答える。


『ならば、見るべきものを見よ。』


岩が、大きく軋んだ。


『花だけを見て、岩を見ぬままでは。』


『その手は、我には届かぬ。』


赤い奔流が、再び膨れ上がった。


「瑞稀、もう無理だ!」


旭の声が飛ぶ。


旭は瑞稀の身体を抱えるように引き寄せると、迫る流れへ刀を振り下ろした。


雷鳴。


一瞬だけ、赤い壁の中へ道が開く。


「走れ!」


旭に手を引かれ、瑞稀は山道を駆け下りた。


足が縺れそうになる。


それでも、振り返ることはできなかった。


背後で、山が唸る。


『……行け。』


瑞稀は、思わず足を緩めた。


岩の声が、山全体へ響き渡る。


『花の娘に触れた、その身で。』


『今度は、花の陰に置かれた岩を見よ。』


赤黒い光が、夜空へ立ち昇る。


『朽ちぬ命を抱えたまま。』


『今も独り、時に取り残されている――』


地鳴りのような声が、深く響いた。


『我が、岩の娘のもとへ。』


次の瞬間、赤い奔流が激しく弾ける。


それ以上の言葉は、轟音にかき消された。



町へ戻った頃には、東の空が白み始めていた。


瑞稀は荒い息を整えながら、道端へ膝をつく。


両手を地面へついて身体を支えると、腕が小さく震えた。


還せなかった。


初めての、はっきりとした失敗だった。


槍がなかったからではない。


力が足りなかったからでもない。


自分の言葉なら、きっと届く。


どこかで、そう思っていた。


けれど、自分は、あの神が見てほしいと願っていたものすら見ていなかった。


その事実ごと、拒まれた。


「……瑞稀。」


旭が、隣へ片膝をつく。


「大丈夫か。」


「はい。」


そう答えたものの、声は掠れていた。


瑞稀は、自分の震える手を見つめる。


「あなたがいなければ。」


一度、息を詰まらせる。


「私は、今頃……。」


その先を、口にすることはできなかった。


旭は、何も言わなかった。


ただ、瑞稀の肩へそっと手を置く。


大きな手の温もりが、震える身体へ静かに伝わってきた。


今の瑞稀には、それだけが頼りだった。


東の空が、少しずつ明るくなっていく。


それでも、山の方角からは、まだ赤黒い光が滲んでいた。


――その身に、花の娘の気配が残っておる。


――そして、あの男の気配も。


岩の姿をした神の言葉が、瑞稀の耳の奥で繰り返される。


木花咲耶姫。


瓊瓊杵尊。


あの二柱を還した時、瑞稀は確かに、二柱の過去へ触れた。


疑われた木花咲耶姫の悲しみ。


向き合うことから逃げていた瓊瓊杵尊の後悔。


けれど、その物語の陰には、もう一柱の女神がいた。


選ばれず。


父のもとへ返され。


妹だけが愛されていくのを、朽ちぬ命のまま見続けた神。


「……磐長姫(いわながひめ)様。」


瑞稀は、震える手を静かに握り締める。


木花咲耶姫を還しただけでは、終わっていなかった。


あの時、自分が見つめたのは、花の神と、その夫の痛みだけだった。


花の陰へ残された岩の痛みを、瑞稀は知ろうとすらしていなかった。


――花だけを見て、岩を見ぬままでは。


――その手は、我には届かぬ。


「だから、私に……。」


荒魂は、自らを救えと言ったのではない。


木花咲耶姫と瓊瓊杵尊の過去へ触れた瑞稀だからこそ、今度は、その陰へ取り残された者を見ろと告げたのだ。


「……磐長姫様のもとへ、行けと。」


二柱の姉妹神を送り出した父の名も、瑞稀は神話の中で知っていた。


木花咲耶姫と磐長姫。


花と岩、二人の娘を持つ山の神。


――大山祇神(おおやまつみのかみ)


目の前で、酒に濁りながらも娘を思い続けていたのは、その神だったのだと、今になって腑に落ちた。


答えるように、山の奥から岩が軋むような低い音が響く。


その音には、怒りとも悲しみとも異なる、傷ついた娘を案じながら何もしてやれずにいる父の、深い呻きが混じっていた。

第二十三話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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