第二十二話 「潮路の教え」
第二十二話 「潮路の教え」
夕餉の席には、以前よりも少しだけ会話が増えていた。
瑞稀が、自分から言葉を口にするようになったからだ。
父は箸を運びながら、時折、その様子を横目で見ていた。
「……何か、良いことでもあったのか。」
瑞稀は、顔を上げる。
「最近、よく話す。」
少し考えてから、静かに答えた。
「……分かりません。」
「ただ、話したいと思うことが増えました。」
父は一瞬だけ目を細めた。
「そうか。」
それだけ言って、静かに頷く。
しばらくして、瑞稀は箸を置いた。
「父様。」
「何だ。」
「先日、境内で不思議な方にお会いしました。」
父の視線が、瑞稀へ向けられる。
「……どのような方だ。」
「古い手水舎の傍で、漁網を繕っていた老爺です。」
「海など近くにはないのに、その方の周りには潮の匂いがしていました。」
瑞稀は、その時の姿を思い浮かべながら続ける。
「塩土の老爺とでも呼べ、と名乗られました。」
父の箸が、ふと止まった。
「……塩土の老爺。」
「ご存じなのですか。」
「ああ。」
「塩土老翁様だろう。」
父は箸を置き、僅かに姿勢を正した。
「道を失った者へ、渡るための術を示す神だ。」
瑞稀は、父の言葉を待つ。
「海幸山幸の神話において、山幸彦を海神の宮へ導いたのも、その方だと伝わっている。」
「では、あの方も、私を導こうとしてくださったのでしょうか。」
「おそらくな。」
父は、湯呑みを両手で包んだ。
「だが、あの方は答えそのものを教える神ではない。」
「山幸彦の時も、舟と進むべき潮路を示し、その先は本人に渡らせた。」
「……厳しい方なのですね。」
「いや。」
父は、静かに首を横へ振る。
「あれも、優しさの一つなのだろう。」
「代わりに漕いでしまえば、辿り着いた場所の意味を、本人が知らないままになる。」
瑞稀は、その言葉を静かに繰り返した。
「辿り着いた場所の意味を、知らないまま。」
父は何も言わなかった。
夕餉の湯気だけが、二人の間をゆっくりと昇っていく。
これまで、荒魂を還したことは父へ伝えてきた。
けれど、神卸の最中に何が起きているのか。
どのような神具を手にし、何を見て、何を聞いたのか。
そこまで詳しく話したことはなかった。
瑞稀は、自分の手のひらを見つめる。
「……荒魂を還したいと強く願った時、槍が現れるのです。」
父の表情が止まった。
「槍。」
「はい。」
「最初に猿田毘古様と契りを結んだ時、賜ったものです。」
「それ以来、神の心へ触れ、私の想いへ応えるように現れます。」
「私は、その槍を手に、荒魂と向き合ってきました。」
父は、静かに箸を置いた。
隠しきれない驚きが、その顔へ浮かんでいる。
「……知らなかった。」
「私が知る神卸は、もっと静かなものだった。」
父は、遠い記憶を確かめるように目を伏せる。
「祭事の中で一時だけ神の力を借り、その言葉を受け取る。戦うことも、神具を得ることもなかった。」
瑞稀は、小さく頷いた。
「今の神卸は、きっと以前とは異なるのだと思います。」
「最初に猿田毘古様と契りを結んだことで、槍という形を得たのかもしれません。」
「もし最初に出会った神が違っていたなら、別の神具が現れていたのでしょうか。」
「……分からない。」
父は、正直に答えた。
その言葉が、瑞稀には少し意外だった。
父はいつも、自分の知らないことまで知っているように見えた。
けれど今は、同じ場所に立ち、ともに答えを探している。
瑞稀は、先ほどの言葉を思い返した。
――代わりに漕いでしまえば、辿り着いた場所の意味を、本人が知らないままになる。
「……槍も、同じなのかもしれません。」
「どういう意味だ。」
瑞稀は、自分の手のひらへ目を落とした。
「私は、槍があったから進めたのだと思っていました。」
「けれど――」
僅かに言葉を探す。
「槍に運ばれていただけなのか。」
「それとも、私自身も進もうとしていたのか。」
「まだ、分かりません。」
父は、しばらく何も言わなかった。
やがて、低い声で呟く。
「……そうか。」
その声には、深い悔いが滲んでいた。
「私は、お前が何を背負っているのかも知らずにいたのだな。」
「父様。」
「神卸の一族として、お前を育てた。」
「役目を果たせるようにと、そればかりを考えていた。」
父は、伏せていた目を上げる。
「だが、お前がその役目の中で何を見て、何を感じていたのか。」
「私は、知ろうとしていなかった。」
瑞稀は、静かに父を見つめた。
責めたいとは思わなかった。
以前なら、その言葉を聞いても、何も感じなかったかもしれない。
けれど今は、父もまた、何も知らないまま歩いてきたのだと分かる。
「私も、話そうとしていませんでした。」
「……そうだな。」
短いやり取りの後、瑞稀は言葉を続けた。
「その槍も、今は手元にありません。」
父が顔を上げる。
「どういうことだ。」
「夢の中で、宗像三女神様にお会いしました。」
「槍を手にする前の私は何者であったのか、槍を失った時に何が残るのかと、問われたのです。」
「その答えを見つけるために、私は自ら槍を三女神様へお預けしました。」
父の目が、大きく見開かれた。
「三女神様が、直接お前の前へ。」
「はい。」
「それ以来、呼びかけても、槍は現れません。」
父は何かを言いかけた。
けれど、すぐには言葉にせず、そっと目を伏せる。
「……そうか。」
短い返事だった。
けれど、その声には心配や咎めとは異なる、僅かな安堵が含まれていた。
神へ続く道そのものを、永遠に失ったわけではない。
父には、そう思えたのかもしれない。
「三女神様がお前へ問いを与えたのなら。」
父は、ゆっくりと言葉を続ける。
「まだ、お前の道は途切れていない。」
瑞稀は、その言葉を胸の中で受け止めた。
「はい。」
今度は迷わず、そう答えた。
少しの沈黙の後、瑞稀は懐へ手を入れた。
取り出したのは、先端の欠けた青緑色の勾玉だった。
「それから、槍を失った後に、この勾玉の欠片を見つけました。」
父は、瑞稀の手の中へ目を向ける。
「欠片を一つずつ集め、禊の作法で穢れを祓いました。」
「すると、玉祖様の御姿が現れたのです。」
「玉祖様が。」
「はい。」
瑞稀は、欠けた勾玉をそっと包み込んだ。
「失われた欠片までは戻らず、高天原へ還る道も失われたままでした。」
「それでも、砕けた御霊を一つへ結び直すことはできました。」
「玉祖様は、この勾玉の中に留まり、私を守ると仰いました。」
父は、しばらく勾玉を見つめていた。
やがて、その視線を瑞稀へ戻す。
「槍を使わずに、か。」
「はい。」
答えると、父は僅かに目を細めた。
「ならば、お前はすでに、自分の手で漕ぎ始めているのかもしれないな。」
瑞稀は、目を見開いた。
けれど、父はそれ以上を語らず、静かに湯呑みへ手を伸ばした。
その言葉の意味を決めるのは、瑞稀自身だと考えているようだった。
◇
その夜、瑞稀は縁側へ座り、懐から欠けた勾玉を取り出した。
月明かりの下で、青緑色の光が淡く滲んでいる。
――代わりに漕いでしまえば、辿り着いた場所の意味を、本人が知らないままになる。
父の言葉が、静かに胸へ残っていた。
槍がなくても、この手で一柱の神の御霊を拾い、結び直すことができた。
けれど、それが何を意味するのか。
瑞稀には、まだ分かっていない。
槍に運ばれていたのか。
それとも、自分自身も漕いでいたのか。
あるいは、槍を失った今、ようやく自分で漕ぎ始めたのか。
答えは、まだ遠い。
風が吹く。
微かに、潮の匂いが漂った。
海など、近くにないはずなのに。
今度は、それを不思議だとは思わなかった。
第二十二話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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