第二十一話 「欠けた勾玉」
第二十一話 「欠けた勾玉」
その週、町では小さな異変が続いていた。
商店街の花屋では、切ったばかりの花が、一晩ですべて萎れた。
小学校の花壇では、綺麗に並んでいた朝顔が、根元から黒く腐り落ちた。
近所の老人は、理由もなく急に衰弱し、一晩で別人のようにやつれて寝込んだ。
一つ一つは、ただの不運に見える。
けれど、異変を耳にするたび、瑞稀の胸には冷たいものが静かに差し込んだ。
荒魂を前にした時のような、鋭い気配ではない。
もっと弱く、薄い。
何かが助けを求める力さえ失い、静かに消えかけているような感覚だった。
「……また、ですか。」
放課後、瑞稀がそう漏らすと、旭も静かに頷いた。
「派手な気配じゃない。」
商店街の先へ目を向け、僅かに眉を寄せる。
「だが、確かに何かが薄く広がっている。」
「荒魂なのでしょうか。」
「分からん。」
旭は、周囲へ鋭く視線を巡らせた。
「だが、放っておけば、町全体へ染み込んでいく気がする。」
◇
手がかりを求めて町を歩くうち、瑞稀はふと、小さな光を見つけた。
側溝の隅。
誰にも気づかれないような場所に、濁った石の欠片が落ちている。
瑞稀は屈み込み、それを拾い上げた。
欠片は緩やかに湾曲し、淡い青緑色をしていた。
けれど表面は灰色に曇り、内側には黒い筋が走っている。
「……何かの、欠片。」
指先へ、ひやりとした冷たさが伝わった。
同時に、遠くで誰かが激しく咳き込む声がする。
瑞稀の手の中で、欠片が僅かに震えた。
「……今のは。」
旭が、周囲を見回す。
「これ一つじゃ、なさそうだな。」
その日から、二人は町の中へ散らばった欠片を探して歩いた。
公園の砂場。
神社の裏手の茂み。
用水路の傍。
枯れた街路樹の根元。
欠片が見つかる場所では、決まって草木が萎れ、人や動物が弱っていた。
まるで砕けた欠片が、消えまいとして、周囲の命へ無意識に縋りついているようだった。
一つ見つけるたび、瑞稀は両手でそっと包み込む。
槍はない。
神へ続く道も、今は閉ざされている。
それでも、拾い集めることならできる。
消えかけたものを、見つけることなら。
今の瑞稀にも、できた。
◇
ある晩。
境内の一角で、瑞稀は集めた欠片を白い布の上へ並べていた。
七つ。
どれも淡い青緑色をしているが、灰色に濁り、冷たい気配を纏っている。
隣では、旭が黙って様子を見守っていた。
瑞稀は欠片の前へ正座し、静かに問いかける。
「……あなたは、どなたですか。」
答えは返らない。
けれど、これまでに出会った荒魂とは、明らかに気配が違っていた。
怒りでもない。
哀しみでもない。
ただ形を失い、自分が何者であったかさえ忘れながら、静かに壊れていくような気配。
このままでは、やがて声さえ届かなくなる。
瑞稀は、静かに目を閉じた。
槍がなくても、できることが一つだけある。
幼い頃から、父に幾度となく教え込まれてきた禊の作法。
姿勢を正し、呼吸を整える。
そして、欠片の上へ両手をかざした。
「祓い給え。」
「清め給え。」
静かに唱える。
けれど、何も起こらない。
欠片は濁ったまま、冷たい沈黙を返すだけだった。
瑞稀の指先が、僅かに震える。
――槍があれば。
胸の奥へ浮かんだ言葉に、息を止めた。
槍がなければ、神を救えない。
神の力がなければ、自分には何もできない。
そう思いかけて、瑞稀は静かに手を握る。
塩土の老爺の声が、胸の奥へ蘇った。
『全部を救おうとせんでもええ。』
『目の前にある一つを、拾って、結ぶ。』
今は、潮が引いているだけ。
それならば、今の自分に残っているものを使えばいい。
この祝詞は、神から与えられたものではない。
父から教わり、何度も繰り返し、自分自身の身体へ刻み込んできたものだった。
瑞稀は、もう一度目を閉じる。
「祓い給え。」
先ほどよりも、ゆっくりと。
「清め給え。」
神を従わせるためではない。
ただ、失われかけたものが、自らの形を思い出せるように。
「どうか、本来の御姿を。」
指先から、透明な気配が静かに流れ出した。
温かな光ではない。
眩しくもない。
朝露のように澄んだ、淡い光だった。
一つ。
また一つ。
濁っていた欠片から、黒い筋が薄れていく。
やがて七つすべてが、本来の青緑色の輝きを取り戻した。
最後の欠片が光を放った瞬間、七つの光がふわりと宙へ浮かび上がる。
ゆっくりと寄り集まり、一つの勾玉の形を結んでいく。
けれど、完全ではなかった。
先端の一部だけが、どうしても埋まらない。
一か所が欠けた、不完全な勾玉。
その姿のまま、淡い光を放っていた。
『……ありがとう。』
掠れた声が、夜風のように耳を撫でる。
瑞稀は、顔を上げた。
『長らく、ばらばらのままだった。』
「……あなたは。」
光の中へ、ぼんやりと人影が浮かび上がる。
細い指。
長い時をかけ、玉を磨き続けてきた者の静かな眼差し。
瑞稀は、その姿を見つめた。
「玉祖様、でしょうか。」
『そうだ。』
その声は、欠片同士が触れ合うように、微かに震えていた。
『我が御魂は砕かれ、長く現世を彷徨っていた。』
『戦うことも。』
『還ることさえも、できなかった。』
光の人影が、苦しげに目を伏せる。
『花も、人も、傷つけるつもりはなかった。』
「分かっています。」
瑞稀は、迷わず答えた。
「あなたが望んだことではありません。」
『だが、失わせたものは戻らぬ。』
「それでも。」
瑞稀は、不完全な勾玉を見つめる。
「これ以上、失われるものを増やさずに済みました。」
「そして、あなたも、もう独りで砕けたままではありません。」
玉祖命は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ほんの僅かに笑う。
『……優しいことを言う。』
淡い人影が、欠けた勾玉へ視線を落とす。
『我は、もう本来の姿には戻れぬ。』
『失われた欠片とともに、力も、還るための道も失ってしまった。』
瑞稀は、静かに首を横へ振った。
「戻れなくても。」
「あなたが今、ここにいらっしゃることには、意味があると思います。」
淡い光が、静かに揺れる。
『ならば、これを受け取れ。』
「……よろしいのですか。」
『我が身の残り。』
『お前が拾い、結び直したものだ。』
『今度は、我がお前を守ろう。』
欠けた勾玉が、すうっと瑞稀の手のひらへ降りてくる。
温かくはない。
けれど、確かな重みがあった。
それでも、その輝きは澄んでいる。
『持っておれ。』
『それだけで、十分だ。』
玉祖命の声が、次第に遠ざかっていく。
「玉祖様。」
瑞稀が呼びかけると、最後にごく小さな声が返った。
『形は、欠けても。』
『結ばれた縁までは、失われぬ。』
その言葉を最後に、玉祖命の気配は、静かに勾玉の中へ溶けていった。
◇
翌朝。
花屋の店先には、新しく仕入れられた花が並んでいた。
小学校の花壇では、黒くなった土の間から、小さな芽が一つ顔を出している。
寝込んでいた近所の老人も、朝には粥を口にできるまで回復したという。
失われたものが、すべて元へ戻ったわけではない。
それでも、止まりかけていた命は、再び動き始めていた。
瑞稀は、誰もいない朝の境内で、そっと自分の右手を見つめる。
槍は、まだ戻らない。
神へ続く道も、閉ざされたまま。
それでも、この手で砕けた御霊を拾い集めた。
この手で、一柱の神を救うことができた。
懐へ忍ばせた、小さな青緑色の勾玉にそっと触れる。
ひんやりとした表面の奥で、何かが微かに脈打った。
借り受けた力ではない。
槍に導かれたのでもない。
自分がこれまで重ねてきたものが、初めて誰かへ届いた。
その事実が、瑞稀の胸の奥へ、小さな灯火となって残っていた。
第二十一話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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