第二十話 「渡し守の老爺」
第二十話 「渡し守の老爺」
朝は、拍子抜けするほど静かだった。
祝詞を終えても、胸の奥は静かなまま。
いつもなら神を迎える前に感じていた、小さな灯火のような気配が、どこにもない。
神へ続く細い道が、一時だけ閉ざされている。
瑞稀の中には、そんな感覚だけが残っていた。
昨夜、宗像三女神へ、自ら槍を差し出した。
奪われたのではない。
自分で選び、預けた。
それでも、何もない右手を見るたびに、胸の奥が落ち着かなかった。
「……何か、大切なものを置いてきたようです。」
思わず零れた言葉に、父が振り返る。
「何かあったのか。」
「……いえ。」
瑞稀は、静かに首を横へ振った。
自分で選んだことだった。
だからこそ、不安だとは言いにくかった。
◇
帰宅後、瑞稀は一人、境内で竹箒を動かしていた。
砂利を掃く音だけが、静かな境内へ響いている。
ふと、その手が止まった。
潮の匂いがする。
海など、近くにはない。
それでも確かに、塩気を含んだ風が瑞稀の頬を撫でていった。
辺りを見回すと、古い手水舎の傍に、見慣れない老爺が座っていた。
継ぎの当たった着物に、日に焼けた顔。
裸足の足元には古びた漁網が広げられ、老爺は切れた網目へ一本ずつ紐を通していた。
「……どなたですか。」
老爺は、顔を上げようともしない。
『よう、嬢ちゃん。』
太く、のんびりとした声だった。
『ちょうどよかった。少し、そっちを持ってくれんか。』
「……私が、ですか。」
『他に誰がおる。』
瑞稀は、思わず周囲を見回した。
境内には、自分と老爺の他に誰もいない。
戸惑いながら竹箒を置き、老爺の前へしゃがみ込む。
「どこを持てばよいのでしょう。」
『端っこでええ。』
言われたとおり、瑞稀が網の端を持つ。
老爺が反対側を引くと、網全体が大きく広がった。
あちこちの網目が破れ、切れた紐が力なく垂れ下がっている。
傷んでいるのは、一か所だけではない。
数え切れないほどの穴が開いていた。
「……随分、傷んでいます。」
『長く使っとるでな。』
老爺は、気にした様子もなく笑った。
『破れるのも、仕事のうちよ。』
「新しいものへ替えた方が、早いのではありませんか。」
『そうかもしれん。』
老爺は、切れた紐を一本摘まむ。
『だが、この網でなけりゃ分からん潮もある。』
瑞稀は、手の中の網を見つめた。
そこには、何度も結び直された跡がある。
新しい紐。
色褪せた紐。
太さも色も違う結び目が、網のあちこちへ残されていた。
『ほれ。』
老爺が、瑞稀へ一本の紐を差し出す。
『お前も、やってみい。』
「……私には、できません。」
『やる前から、決めつけるな。』
半ば押しつけるように、紐を手渡される。
瑞稀は、目の前の破れた網目を見つめた。
どこから手をつければよいのか分からない。
一つの穴へ紐を通したとしても、その隣も、そのまた隣も破れている。
網全体を見れば見るほど、途方もない作業に思えた。
「……これを、すべて直すのですか。」
『今日中には無理じゃな。』
老爺は、あっさりと答えた。
『だから、一つだけ直せ。』
「一つだけ、ですか。」
『そうじゃ。』
老爺は、瑞稀の指先を示す。
『全部を一度に直そうとするから、何もできんように思える。』
『切れたところを見つけて、そこへ紐を通して、結ぶ。』
『まずは、それだけじゃ。』
瑞稀は、手元の破れへ視線を落とした。
切れた二本の糸。
その間へ、新しい紐を通していく。
一度目は、結び目が緩かった。
引いた途端、すぐに解けてしまう。
「……できません。」
『まだ一度じゃろ。』
老爺は笑った。
『もう一遍やれ。』
瑞稀は、もう一度紐を通した。
今度は、先ほどよりも強く結ぶ。
けれど、左右の長さが揃わず、網目が大きく歪んでしまった。
『力を入れりゃええってもんでもない。』
「難しいです。」
『難しいから、手ぇ動かすんじゃ。』
瑞稀は、三度目の紐を通した。
老爺の指の動きを思い返し、片方を押さえる。
引きすぎず、緩めすぎず。
ゆっくりと、紐を結んだ。
小さな結び目ができる。
不格好で、周囲の網目とも少し形が違っていた。
それでも、引いてみても解けなかった。
「……できました。」
思わず、声が漏れる。
老爺は、瑞稀の作った結び目を指先で確かめた。
『上等、上等。』
満足そうに頷いてから、にやりと笑う。
『魚に笑われるくらいには、不格好じゃがな。』
瑞稀は、僅かに眉を寄せた。
『はっはっは。』
老爺は、楽しそうに笑う。
それから、瑞稀が結んだ網目を指先で軽く弾いた。
『これで一つ。』
『網全体から見りゃ、ほんの小さなもんじゃ。』
『だが、さっきまで空いとった穴は、確かに塞がった。』
瑞稀は、自分の作った結び目を見つめた。
槍のように、光を放つことはない。
神気も宿っていない。
ただの、小さな結び目。
けれど、自分の手で直したものだった。
『嬢ちゃん。』
老爺が、不意に声を落とす。
『大事な道具を失くした顔をしとるな。』
瑞稀は顔を上げた。
「……なぜ、それを。」
『なぜも、へちまもないわ。』
老爺は、にやりと笑う。
『潮が引いた時みてぇな顔をしとる。』
「潮が、引いた時……。」
『ああ。』
老爺は網を膝の上へ戻し、再び紐を通し始めた。
『潮が引けば、船は出せん。網を投げても、魚は捕れん。』
一つの結び目を作りながら、静かに続ける。
『だからといって、海が無くなったわけじゃない。』
また一つ、紐が結ばれる。
『満ちるまで、何もせず待つ者もおる。』
『だが、漁師は違う。』
『船を直し、網を繕い、次に潮が満ちた時のために手を動かす。』
瑞稀は、自分の右手へ目を落とした。
槍はない。
神へ続く気配も、今は感じられない。
これまでなら、それだけで何もできないと思っていただろう。
けれど、たった今、その手で網目を一つ結んだ。
「……今の私に残っているものを、使うということですか。」
瑞稀が呟くと、老爺は少しだけ目を細めた。
『さてな。』
『爺は、網の話しかしておらん。』
「ですが――」
『答えを急ぐな。』
老爺が、その言葉を遮る。
『すぐ分かるような問いなら、神もわざわざ隠したりせん。』
『今は、手ぇ動かしとけばええ。』
「何をすればよいのか分からなくても、ですか。」
『分からんから、目の前の破れを探すんじゃ。』
老爺は、瑞稀が結んだ箇所を持ち上げた。
『全部を救おうとせんでもええ。』
『目の前にある一つを、拾って、結ぶ。』
潮の匂いを含んだ風が、境内を吹き抜けた。
瑞稀は、その言葉を胸の内で繰り返す。
拾って。
結ぶ。
その時、遠くで鈴の音が鳴ったような気がした。
瑞稀が鳥居の方へ目を向ける。
ほんの一瞬のことだった。
再び老爺へ視線を戻すと、彼はすでに網を畳み始めていた。
『さて、そろそろ行くかの。』
「お待ちください。」
瑞稀は、慌てて立ち上がった。
「お名前を、教えていただけますか。」
老爺は網を肩へ担ぎ、ゆっくりと歩き始める。
『塩土の老爺とでも呼びな。』
「塩土の老爺様……。」
『渡し賃は、答えを見つけてからでええ。』
老爺は振り返ることなく、ひらひらと片手を振った。
『それまで、その結び方を忘れるなよ。』
その背中が、鳥居の向こうへ消えていく。
瑞稀は、慌てて後を追った。
けれど、鳥居をくぐった先には、もう誰もいなかった。
海へ続く道などない。
網を引きずった跡もない。
ただ、地面には微かな潮の匂いだけが残っていた。
◇
その夜、瑞稀は縁側へ座り、自分の指先を見つめていた。
昼間、紐を結んだ感触が、まだ残っている。
槍を握っていた時とは違う。
小さく、頼りない感触。
それでも、あの破れた網目は、自分の手で確かに結び直した。
――潮が引けば、網を繕う。
――目の前にある一つを、拾って、結ぶ。
その意味を、すべて理解したわけではない。
槍を失った今、自分に何ができるのかも、まだ分からなかった。
瑞稀は、胸元へ手を添える。
そこは、今も静かなまま。
けれど朝とは違い、その静けさを、ただの空白だとは思わなかった。
何もないのではない。
まだ、満ちていないだけ。
そして、潮が戻るまでの間にも、できることはある。
瑞稀は、自分の右手をゆっくりと握った。
槍は現れない。
それでも、その手はもう、何もできない手ではなかった。
第二十話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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