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第二十話 「渡し守の老爺」

第二十話 「渡し守の老爺」


朝は、拍子抜けするほど静かだった。


祝詞を終えても、胸の奥は静かなまま。


いつもなら神を迎える前に感じていた、小さな灯火のような気配が、どこにもない。


神へ続く細い道が、一時だけ閉ざされている。


瑞稀の中には、そんな感覚だけが残っていた。


昨夜、宗像三女神(むなかたさんじょしん)へ、自ら槍を差し出した。


奪われたのではない。


自分で選び、預けた。


それでも、何もない右手を見るたびに、胸の奥が落ち着かなかった。


「……何か、大切なものを置いてきたようです。」


思わず零れた言葉に、父が振り返る。


「何かあったのか。」


「……いえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振った。


自分で選んだことだった。


だからこそ、不安だとは言いにくかった。



帰宅後、瑞稀は一人、境内で竹箒を動かしていた。


砂利を掃く音だけが、静かな境内へ響いている。


ふと、その手が止まった。


潮の匂いがする。


海など、近くにはない。


それでも確かに、塩気を含んだ風が瑞稀の頬を撫でていった。


辺りを見回すと、古い手水舎の傍に、見慣れない老爺が座っていた。


継ぎの当たった着物に、日に焼けた顔。


裸足の足元には古びた漁網が広げられ、老爺は切れた網目へ一本ずつ紐を通していた。


「……どなたですか。」


老爺は、顔を上げようともしない。


『よう、嬢ちゃん。』


太く、のんびりとした声だった。


『ちょうどよかった。少し、そっちを持ってくれんか。』


「……私が、ですか。」


『他に誰がおる。』


瑞稀は、思わず周囲を見回した。


境内には、自分と老爺の他に誰もいない。


戸惑いながら竹箒を置き、老爺の前へしゃがみ込む。


「どこを持てばよいのでしょう。」


『端っこでええ。』


言われたとおり、瑞稀が網の端を持つ。


老爺が反対側を引くと、網全体が大きく広がった。


あちこちの網目が破れ、切れた紐が力なく垂れ下がっている。


傷んでいるのは、一か所だけではない。


数え切れないほどの穴が開いていた。


「……随分、傷んでいます。」


『長く使っとるでな。』


老爺は、気にした様子もなく笑った。


『破れるのも、仕事のうちよ。』


「新しいものへ替えた方が、早いのではありませんか。」


『そうかもしれん。』


老爺は、切れた紐を一本摘まむ。


『だが、この網でなけりゃ分からん潮もある。』


瑞稀は、手の中の網を見つめた。


そこには、何度も結び直された跡がある。


新しい紐。


色褪せた紐。


太さも色も違う結び目が、網のあちこちへ残されていた。


『ほれ。』


老爺が、瑞稀へ一本の紐を差し出す。


『お前も、やってみい。』


「……私には、できません。」


『やる前から、決めつけるな。』


半ば押しつけるように、紐を手渡される。


瑞稀は、目の前の破れた網目を見つめた。


どこから手をつければよいのか分からない。


一つの穴へ紐を通したとしても、その隣も、そのまた隣も破れている。


網全体を見れば見るほど、途方もない作業に思えた。


「……これを、すべて直すのですか。」


『今日中には無理じゃな。』


老爺は、あっさりと答えた。


『だから、一つだけ直せ。』


「一つだけ、ですか。」


『そうじゃ。』


老爺は、瑞稀の指先を示す。


『全部を一度に直そうとするから、何もできんように思える。』


『切れたところを見つけて、そこへ紐を通して、結ぶ。』


『まずは、それだけじゃ。』


瑞稀は、手元の破れへ視線を落とした。


切れた二本の糸。


その間へ、新しい紐を通していく。


一度目は、結び目が緩かった。


引いた途端、すぐに解けてしまう。


「……できません。」


『まだ一度じゃろ。』


老爺は笑った。


『もう一遍やれ。』


瑞稀は、もう一度紐を通した。


今度は、先ほどよりも強く結ぶ。


けれど、左右の長さが揃わず、網目が大きく歪んでしまった。


『力を入れりゃええってもんでもない。』


「難しいです。」


『難しいから、手ぇ動かすんじゃ。』


瑞稀は、三度目の紐を通した。


老爺の指の動きを思い返し、片方を押さえる。


引きすぎず、緩めすぎず。


ゆっくりと、紐を結んだ。


小さな結び目ができる。


不格好で、周囲の網目とも少し形が違っていた。


それでも、引いてみても解けなかった。


「……できました。」


思わず、声が漏れる。


老爺は、瑞稀の作った結び目を指先で確かめた。


『上等、上等。』


満足そうに頷いてから、にやりと笑う。


『魚に笑われるくらいには、不格好じゃがな。』


瑞稀は、僅かに眉を寄せた。


『はっはっは。』


老爺は、楽しそうに笑う。


それから、瑞稀が結んだ網目を指先で軽く弾いた。


『これで一つ。』


『網全体から見りゃ、ほんの小さなもんじゃ。』


『だが、さっきまで空いとった穴は、確かに塞がった。』


瑞稀は、自分の作った結び目を見つめた。


槍のように、光を放つことはない。


神気も宿っていない。


ただの、小さな結び目。


けれど、自分の手で直したものだった。


『嬢ちゃん。』


老爺が、不意に声を落とす。


『大事な道具を失くした顔をしとるな。』


瑞稀は顔を上げた。


「……なぜ、それを。」


『なぜも、へちまもないわ。』


老爺は、にやりと笑う。


『潮が引いた時みてぇな顔をしとる。』


「潮が、引いた時……。」


『ああ。』


老爺は網を膝の上へ戻し、再び紐を通し始めた。


『潮が引けば、船は出せん。網を投げても、魚は捕れん。』


一つの結び目を作りながら、静かに続ける。


『だからといって、海が無くなったわけじゃない。』


また一つ、紐が結ばれる。


『満ちるまで、何もせず待つ者もおる。』


『だが、漁師は違う。』


『船を直し、網を繕い、次に潮が満ちた時のために手を動かす。』


瑞稀は、自分の右手へ目を落とした。


槍はない。


神へ続く気配も、今は感じられない。


これまでなら、それだけで何もできないと思っていただろう。


けれど、たった今、その手で網目を一つ結んだ。


「……今の私に残っているものを、使うということですか。」


瑞稀が呟くと、老爺は少しだけ目を細めた。


『さてな。』


『爺は、網の話しかしておらん。』


「ですが――」


『答えを急ぐな。』


老爺が、その言葉を遮る。


『すぐ分かるような問いなら、神もわざわざ隠したりせん。』


『今は、手ぇ動かしとけばええ。』


「何をすればよいのか分からなくても、ですか。」


『分からんから、目の前の破れを探すんじゃ。』


老爺は、瑞稀が結んだ箇所を持ち上げた。


『全部を救おうとせんでもええ。』


『目の前にある一つを、拾って、結ぶ。』


潮の匂いを含んだ風が、境内を吹き抜けた。


瑞稀は、その言葉を胸の内で繰り返す。


拾って。


結ぶ。


その時、遠くで鈴の音が鳴ったような気がした。


瑞稀が鳥居の方へ目を向ける。


ほんの一瞬のことだった。


再び老爺へ視線を戻すと、彼はすでに網を畳み始めていた。


『さて、そろそろ行くかの。』


「お待ちください。」


瑞稀は、慌てて立ち上がった。


「お名前を、教えていただけますか。」


老爺は網を肩へ担ぎ、ゆっくりと歩き始める。


塩土の老爺(しおつちのじい)とでも呼びな。』


「塩土の老爺様……。」


『渡し賃は、答えを見つけてからでええ。』


老爺は振り返ることなく、ひらひらと片手を振った。


『それまで、その結び方を忘れるなよ。』


その背中が、鳥居の向こうへ消えていく。


瑞稀は、慌てて後を追った。


けれど、鳥居をくぐった先には、もう誰もいなかった。


海へ続く道などない。


網を引きずった跡もない。


ただ、地面には微かな潮の匂いだけが残っていた。



その夜、瑞稀は縁側へ座り、自分の指先を見つめていた。


昼間、紐を結んだ感触が、まだ残っている。


槍を握っていた時とは違う。


小さく、頼りない感触。


それでも、あの破れた網目は、自分の手で確かに結び直した。


――潮が引けば、網を繕う。


――目の前にある一つを、拾って、結ぶ。


その意味を、すべて理解したわけではない。


槍を失った今、自分に何ができるのかも、まだ分からなかった。


瑞稀は、胸元へ手を添える。


そこは、今も静かなまま。


けれど朝とは違い、その静けさを、ただの空白だとは思わなかった。


何もないのではない。


まだ、満ちていないだけ。


そして、潮が戻るまでの間にも、できることはある。


瑞稀は、自分の右手をゆっくりと握った。


槍は現れない。


それでも、その手はもう、何もできない手ではなかった。

第二十話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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