第十九話 「問い」
第十九話 「問い」
その夜、瑞稀は不思議な夢を見た。
――否。
これは、夢ではない。
そう感じた時には、白い波打ち際へ立っていた。
足元では透き通った波が寄せては砕け、静かに引いていく。
空には、月も星もない。
ただ、水平線の彼方まで淡い光だけが満ちていた。
潮の匂いはしない。
それでも、この場所がどこか遠い海へつながっていることだけは、なぜか分かった。
「……ここは。」
高天原とは違う。
そう思った時だった。
『そう。』
静かな声が、三方から重なって響いた。
瑞稀が振り返る。
波打ち際に、三人の女性が立っていた。
一人は、燃える夕日のような赤い衣。
一人は、深い水底を思わせる藍の衣。
一人は、月明かりのような白銀の衣。
姿はそれぞれ異なる。
けれど、纏う気配はどこか似通っていた。
まるで一つの流れが三つへ分かれ、それぞれ異なる道を辿っているように。
赤い衣を纏った女神が、一歩前へ出る。
『我らは、道を守る者。』
藍の衣を纏った女神が、その言葉を継いだ。
『海を渡る道も。』
白銀の衣を纏った女神が、静かに微笑む。
『人と神を結ぶ道も。』
三つの声が、波音へ重なった。
『天照大神と須佐之男命の誓約により、剣から生まれし三柱。』
赤い衣の女神が名乗る。
『多紀理毘売。』
続いて、藍の衣の女神が口を開いた。
『多岐都比売。』
最後に、白銀の衣の女神が微笑む。
『市杵嶋姫。』
瑞稀は、静かに頭を下げた。
「……お初にお目にかかります。」
市杵嶋姫が、僅かに目を細める。
『そう畏まらずともよい。』
『今宵は、お前を裁くために来たのではない。』
瑞稀が顔を上げる。
多紀理毘売は、まっすぐに瑞稀を見つめていた。
『問うために来た。』
その視線が、瑞稀の右手へ向けられる。
そこには、いつの間にか一振りの槍が握られていた。
猿田毘古から託された槍。
幾柱もの神へ道をつなぎ、荒魂を還してきた神具。
穂先には、これまでに結んだ縁の光が、淡く揺れている。
多岐都比売が、槍へ目を向けた。
『その槍は、幾度もお前を導いた。』
『猿田毘古。』
『火之迦具土。』
『木花咲耶姫。』
『奇稲田姫。』
名が紡がれるたび、穂先へ異なる色の光が灯った。
『その身へ、神々の力を結び。』
『閉ざされた道を切り開いた。』
「はい。」
瑞稀は、槍を胸元へ引き寄せた。
多紀理毘売が問う。
『では――』
一度、波の音だけが響く。
『槍を手にする前のお前は、何者であった。』
瑞稀の指先が、僅かに動いた。
答えが浮かばない。
神卸の器。
花里家の娘。
父から教えられたとおりに祝詞を唱え、与えられた役目を果たす者。
それ以外に、自分には何があったのだろう。
「……分かりません。」
瑞稀は、正直に答えた。
多紀理毘売の表情は、変わらない。
今度は、多岐都比売が静かに問いかける。
『では、その槍を失った時。』
『お前には、何が残る。』
胸の奥が、冷えた。
瑞稀は、思わず槍を強く握り締める。
槍がなければ、荒魂へ立ち向かうことはできない。
神へ続く道を開くことも。
御霊を還すことも。
何もできない。
「……私は。」
言葉が止まった。
何もできない。
そう答えかけた時、奇稲田姫の言葉が胸の奥へ蘇った。
――あなたも、自ら選んだ場所へ立てますように。
瑞稀は、槍を握る自分の手を見つめる。
この槍は、誰かから無理に押しつけられたものではない。
最初は、猿田毘古に導かれただけだった。
けれど、その後、荒魂の声を聞くことを選んだのは自分だった。
母を救いたいと願ったのも。
旭の隣へ立とうと思ったのも。
すべてを失ったわけではない。
それでも、槍を手放すことを考えただけで、指は動かなくなった。
市杵嶋姫が、その手元を見つめる。
『怖いか。』
瑞稀は、すぐには答えられなかった。
やがて、小さく頷く。
「……はい。」
その声は、僅かに震えていた。
「槍がなければ、私は何もできないのではないかと。」
瑞稀は、槍をさらに強く握る。
「そう思うと、怖いです。」
三柱は、何も言わなかった。
透き通った波が静かに寄せ、瑞稀の足元を濡らしていく。
多岐都比売が、ゆっくりと口を開いた。
『恐れがあることは、罪ではない。』
『恐れを知らぬ者に、道は選べぬ。』
多紀理毘売が、その言葉を引き継ぐ。
『力を持つことも、誤りではない。』
『だが、その力がなければ進めぬと思い込めば――』
鋭い眼差しが、槍へ向けられた。
『いつしか、力に道を選ばせることになる。』
瑞稀は、手の中の槍を見つめた。
市杵嶋姫が、静かに手を差し出す。
『我らは、その槍を奪わぬ。』
瑞稀が顔を上げる。
『預けるかどうかは、お前が決めよ。』
白い手が、瑞稀の前で止まった。
『槍を持ったまま、答えを探す道もある。』
『一度手放し、自らに残るものを確かめる道もある。』
市杵嶋姫は、瑞稀の瞳をまっすぐに見つめた。
『どちらを選んだとしても、それはお前自身の道だ。』
波音だけが、静かに響く。
瑞稀は、槍へ目を落とした。
手放したくない。
その思いが、はっきりと胸へ浮かんだ。
これまで、この槍があった。
荒魂を前にしても。
神の声が分からなくても。
手に伝わる重みが、自分の役目を教えてくれた。
槍を手放せば、何者でもない自分だけが残る。
それが、怖かった。
けれど――
だからこそ。
瑞稀は、ゆっくりと息を吸った。
「私は。」
槍を握ったまま、市杵嶋姫を見つめる。
「まだ、自分に何が残るのか分かりません。」
「けれど――」
一度、言葉を止める。
強く握り締めていた指を、少しずつ緩めていく。
「分からないまま、槍だけを握り続けるのは、違う気がします。」
瑞稀は、両手で槍を持ち直した。
そして、市杵嶋姫が差し出した手へ、静かに槍を乗せる。
槍が手を離れた瞬間、胸の奥が大きく揺れた。
思わず、もう一度掴みそうになる。
それでも、瑞稀は手を伸ばさなかった。
「……お預けします。」
声は小さい。
けれど、自ら選んだ言葉だった。
「私自身に、何ができるのか。」
何もなくなった両手を、静かに下ろす。
「確かめたいのです。」
三柱の表情が、僅かに和らいだ。
多紀理毘売が頷く。
『確かに、受け取った。』
多岐都比売が、槍へ手を添える。
『これは、力を失うための別れではない。』
市杵嶋姫が、瑞稀を見つめた。
『再び手にする時。』
『お前は以前とは異なる意味で、その槍を握ることになるだろう。』
槍が、淡い光を放つ。
穂先から輪郭がほどけ、無数の光の粒となって三柱の周囲へ漂った。
やがて、その光は白い波の向こうへ溶けていく。
瑞稀は、何もなくなった両手を見つめた。
重みがない。
温もりもない。
胸の奥へ開いた空白が、先ほどよりも大きく感じられた。
それでも、奪われたのではない。
自分で、手放した。
その事実だけが、僅かな支えになっていた。
やがて、三柱の姿が淡い光へ溶け始める。
「……もう一つ、教えてください。」
瑞稀は、思わず声を上げた。
「答えを見つけられなかった時、私はどうすればよいのでしょう。」
多紀理毘売は答えなかった。
多岐都比売は、静かに波を見つめている。
市杵嶋姫だけが、僅かに微笑んだ。
『道とは――』
『答えを持つ者だけが、歩くものではない。』
『迷いながら進んだ跡が、やがて道になる。』
三柱の姿が、白い光へ溶けていく。
『恐れたままでよい。』
『それでも、選び続けよ。』
最後に、三つの声が重なった。
『お前の道は、お前にしか歩めぬ。』
次の瞬間、波打ち際も、淡い空も消えていた。
◇
瑞稀が目を覚ますと、見慣れた天井があった。
外は、まだ夜明け前だった。
布団の中で、右手を持ち上げる。
槍を握り続けたことでできた、小さな硬さが掌へ残っている。
けれど、その手には何もない。
夢だったのだろうか。
そう思い、静かに目を閉じる。
いつもなら胸の奥に感じる、神へ続く細い道。
その気配が、どこにもなかった。
瑞稀は、ゆっくりと身を起こした。
右手を握る。
何も現れない。
もう一度、強く意識する。
それでも、槍は応えなかった。
胸の奥へ、不安が広がっていく。
けれど同時に、波打ち際で自ら槍を差し出した感触も、確かに残っていた。
――槍を手にする前のお前は、何者であった。
――槍を失った時、お前には何が残る。
瑞稀は、空になった手のひらを見つめた。
答えは、まだ分からない。
ただ、これは誰かから与えられた試練ではない。
自分自身で選び取った問いだった。
瑞稀は、何もない右手を、静かに胸元へ引き寄せた。
第十九話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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