第十八話 「見えない糸」
第十八話 「見えない糸」
朝五時。
瑞稀は、いつも通り静かに目を開けた。
布団を畳み、顔を洗い、白い巫女装束へ袖を通す。
鏡の前へ立ち、長い黒髪を整えていた手が、ふと止まった。
鏡の中に映る自分を見つめる。
何かを、忘れている。
不意に、そう感じた。
けれど、何を忘れたのかが分からない。
胸の奥には、細い糸が途中で切れてしまったような、頼りない感覚だけが残っていた。
「……。」
瑞稀は、鏡へ手を伸ばす。
指先が、冷たい鏡面へ触れた。
以前にも、こうして鏡を見つめたことがあった気がする。
誰かが後ろに立ち、髪を梳いてくれたような。
柔らかな声で、何かを語りかけられたような。
けれど、思い出そうとした瞬間、その光景は水へ溶けるように消えていった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
◇
拝殿で祝詞を終える。
父は、瑞稀の声が途切れるまで、じっとその横顔を見つめていた。
「……瑞稀。」
「はい。」
振り返ると、父は何かを言おうとしているようだった。
けれど、やがて口を閉ざす。
「……いや。」
僅かに目を伏せ、静かに告げた。
「行ってきなさい。」
「はい。行ってまいります。」
瑞稀は小さく頭を下げ、拝殿を後にした。
父は、その背中が見えなくなってから、懐へ手を入れる。
取り出したのは、一枚の古い写真だった。
若い頃の朱莉と、幼い瑞稀が並んで写っている。
朱莉は穏やかに笑い、その腕の中では、幼い瑞稀も小さく笑っていた。
「……朱莉。」
父の指が、写真の端をなぞる。
「あの子は、まだお前の顔を覚えている。」
けれど、その先の言葉はすぐには続かなかった。
「だが、お前に髪を結ってもらった朝も。」
「泣いた夜に、抱き締められたことも。」
父は、苦しげに目を伏せる。
「少しずつ、失っている。」
誰もいない拝殿へ、父の声だけが静かに落ちた。
「私は、間違えていないだろうか。」
答える者はいない。
父は写真を懐へ戻す。
再び顔を上げた時には、いつもの表情へ戻っていた。
◇
石段の下では、旭が待っていた。
「はよ。」
「……おはようございます。」
二人は並んで歩き出す。
しばらくして、瑞稀は旭の横顔を見つめた。
「……旭。」
「何だ。」
名前を呼んだのに、その先の言葉が出てこない。
何かを確かめたかった。
けれど、自分が何を聞こうとしたのかさえ分からなかった。
「……いえ。」
瑞稀は、静かに首を横へ振る。
「何でもありません。」
旭は僅かに眉を寄せたが、それ以上は尋ねなかった。
瑞稀も前を向く。
旭の隣を歩いていると、胸の奥が少しだけ落ち着く。
その感覚だけは、確かなものだった。
けれど、なぜこの人の隣で安心するのか、その理由だけが見つからない。
幼い頃から一緒だったから。
これまで、何度も守ってくれたから。
頭では、そう理解している。
それでも、その言葉へつながる光景が浮かばなかった。
転んだ時に、手を差し出してもらったことも。
泣いていた夜に、隣へ座ってくれたことも。
本当にあった出来事なのか。
それとも、誰かから聞かされた話なのか。
瑞稀には、もう分からなかった。
旭の隣は温かい。
それなのに、その温もりへ続く道だけが、途中で途切れていた。
◇
昼休み。
旭は先生に頼まれ、放課後に配る宿題のプリントを職員室へ取りに行っていた。
いつもなら三人で机を囲む時間だったが、今日は瑞稀だけが先に席へ着いている。
「瑞稀ー!」
芽衣が、いつものように声を弾ませながら駆け寄ってきた。
「今日さ、駅前に新しいクレープ屋ができたんだって!」
「今度、三人で行こうよ!」
「……ええ。」
瑞稀が頷くと、芽衣はその顔を覗き込んだ。
「瑞稀?」
「何だか、今日ちょっと変じゃない?」
「そう見えますか。」
「うん。」
芽衣は、瑞稀の目の前で軽く手を振る。
「ぼんやりしてるっていうか。」
「昨日のことで疲れた?」
昨日。
その言葉に、瑞稀の胸が僅かにざわついた。
黄金色の田んぼ。
奇稲田姫。
隣に立つという言葉。
そこまでは思い出せる。
けれど、その後、自分が何を感じ、何を選んだのかが、ひどく曖昧だった。
「……分かりません。」
瑞稀は、正直に答えた。
「昨日、何か大切なことを考えた気がするのです。」
「けれど、それが何だったのか……。」
言葉が、そこで途切れる。
芽衣の表情から、笑みが薄れた。
「思い出せないの?」
「はい。」
芽衣は何かを言いかけた。
けれど、問い詰める代わりに、瑞稀の頭へそっと手を置く。
「そっか。」
そのまま、ゆっくりと髪を撫でた。
「今日は、私が覚えてるから。」
瑞稀が、芽衣を見つめる。
「昨日、瑞稀はちゃんと頑張ってた。」
「奇稲田姫様のお話も聞いたし、旭君の隣にも、自分から並んでた。」
「私、見てたよ。」
瑞稀は、僅かに目を見開いた。
「私が、自ら……。」
「うん。」
芽衣は、明るく笑おうとした。
けれど、その瞳には小さな不安が残っている。
「だから、今すぐ思い出せなくても。」
「昨日の瑞稀が選んだことまで、なくなったわけじゃないよ。」
瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。
何かがあった。
確かに、自分の中から生まれた思いが。
けれど、そこへ触れようとすると、指先からすり抜けるように遠ざかってしまう。
「……ありがとうございます。」
それでも、芽衣の手の温かさだけは、はっきりと感じられた。
◇
放課後。
三人は、いつもの道を並んで歩いていた。
芽衣は少し前を歩き、道端に咲く花を覗き込んでいる。
旭は、瑞稀の隣にいた。
「――瑞稀。」
「はい。」
「あの後のことを、どこまで覚えている。」
瑞稀は、少し考えてから答える。
「奇稲田姫様が、高天原へ還られたことは覚えています。」
「それから、芽衣とお話をしたことも、僅かに。」
「そうか。」
旭は、短く答えた。
少しの沈黙が落ちる。
「お前は、その後――」
旭は、言葉を選ぶように一度止まった。
「自分から、俺の隣へ来た。」
瑞稀は、僅かに目を伏せる。
「……芽衣からも、聞きました。」
「そうか。」
「ですが。」
瑞稀は、旭の横顔を見つめた。
「あなたの口から聞くと、少し違って聞こえます。」
旭は、何も答えなかった。
しばらくしてから、静かに続ける。
「何かを言おうとしていた。」
「だが、結局、何も言わなかった。」
瑞稀は記憶を探るように、そっと目を閉じた。
夕暮れ。
田んぼを渡る風。
旭の背中を追うのではなく、その隣へ立とうとした自分。
形になりかけた光景が、一瞬だけ浮かぶ。
けれど、そこにあったはずの感情は、深い霧の向こうへ隠れていた。
「……思い出せません。」
旭の瞳が、僅かに揺れる。
「そうか。」
それだけ答え、旭は前を向いた。
歩き出そうとして、けれどすぐには動かなかった。
「旭。」
「何だ。」
瑞稀は、彼の横顔を見つめる。
「私は、なぜあなたの隣へ立ったのでしょう。」
旭は、すぐには答えなかった。
答えられないのではない。
それは瑞稀自身が見つけるべきものだと、分かっているようだった。
やがて、静かに口を開く。
「分からないなら、無理に思い出さなくていい。」
「だが――」
旭は、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
「お前が、また隣へ来たいと思った時は。」
「その時は、来ればいい。」
瑞稀は、何も答えなかった。
ただ、歩き出した旭の背中を見つめる。
数歩遅れて、その後を追った。
そして。
昨日の自分がそうしたと聞いたからではなく。
今、自分がそうしたいと思ったから。
旭の隣へ並ぶ。
胸の奥が、僅かに温かくなった。
理由は、まだ分からない。
過去の記憶へ続く糸も、切れたままだった。
それでも、今ここで結び直した細い糸だけは、瑞稀の中へ確かに残っている。
夕暮れの道に、三人分の影が長く伸びていく。
昨日までと同じように見えて、その距離は、ほんの少しだけ変わっていた。
第十八話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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