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第十八話 「見えない糸」

第十八話 「見えない糸」


朝五時。


瑞稀は、いつも通り静かに目を開けた。


布団を畳み、顔を洗い、白い巫女装束へ袖を通す。


鏡の前へ立ち、長い黒髪を整えていた手が、ふと止まった。


鏡の中に映る自分を見つめる。


何かを、忘れている。


不意に、そう感じた。


けれど、何を忘れたのかが分からない。


胸の奥には、細い糸が途中で切れてしまったような、頼りない感覚だけが残っていた。


「……。」


瑞稀は、鏡へ手を伸ばす。


指先が、冷たい鏡面へ触れた。


以前にも、こうして鏡を見つめたことがあった気がする。


誰かが後ろに立ち、髪を梳いてくれたような。


柔らかな声で、何かを語りかけられたような。


けれど、思い出そうとした瞬間、その光景は水へ溶けるように消えていった。


まるで、最初から何もなかったかのように。



拝殿で祝詞を終える。


父は、瑞稀の声が途切れるまで、じっとその横顔を見つめていた。


「……瑞稀。」


「はい。」


振り返ると、父は何かを言おうとしているようだった。


けれど、やがて口を閉ざす。


「……いや。」


僅かに目を伏せ、静かに告げた。


「行ってきなさい。」


「はい。行ってまいります。」


瑞稀は小さく頭を下げ、拝殿を後にした。


父は、その背中が見えなくなってから、懐へ手を入れる。


取り出したのは、一枚の古い写真だった。


若い頃の朱莉(あかり)と、幼い瑞稀が並んで写っている。


朱莉は穏やかに笑い、その腕の中では、幼い瑞稀も小さく笑っていた。


「……朱莉。」


父の指が、写真の端をなぞる。


「あの子は、まだお前の顔を覚えている。」


けれど、その先の言葉はすぐには続かなかった。


「だが、お前に髪を結ってもらった朝も。」


「泣いた夜に、抱き締められたことも。」


父は、苦しげに目を伏せる。


「少しずつ、失っている。」


誰もいない拝殿へ、父の声だけが静かに落ちた。


「私は、間違えていないだろうか。」


答える者はいない。


父は写真を懐へ戻す。


再び顔を上げた時には、いつもの表情へ戻っていた。



石段の下では、旭が待っていた。


「はよ。」


「……おはようございます。」


二人は並んで歩き出す。


しばらくして、瑞稀は旭の横顔を見つめた。


「……旭。」


「何だ。」


名前を呼んだのに、その先の言葉が出てこない。


何かを確かめたかった。


けれど、自分が何を聞こうとしたのかさえ分からなかった。


「……いえ。」


瑞稀は、静かに首を横へ振る。


「何でもありません。」


旭は僅かに眉を寄せたが、それ以上は尋ねなかった。


瑞稀も前を向く。


旭の隣を歩いていると、胸の奥が少しだけ落ち着く。


その感覚だけは、確かなものだった。


けれど、なぜこの人の隣で安心するのか、その理由だけが見つからない。


幼い頃から一緒だったから。


これまで、何度も守ってくれたから。


頭では、そう理解している。


それでも、その言葉へつながる光景が浮かばなかった。


転んだ時に、手を差し出してもらったことも。


泣いていた夜に、隣へ座ってくれたことも。


本当にあった出来事なのか。


それとも、誰かから聞かされた話なのか。


瑞稀には、もう分からなかった。


旭の隣は温かい。


それなのに、その温もりへ続く道だけが、途中で途切れていた。



昼休み。


旭は先生に頼まれ、放課後に配る宿題のプリントを職員室へ取りに行っていた。


いつもなら三人で机を囲む時間だったが、今日は瑞稀だけが先に席へ着いている。


「瑞稀ー!」


芽衣が、いつものように声を弾ませながら駆け寄ってきた。


「今日さ、駅前に新しいクレープ屋ができたんだって!」


「今度、三人で行こうよ!」


「……ええ。」


瑞稀が頷くと、芽衣はその顔を覗き込んだ。


「瑞稀?」


「何だか、今日ちょっと変じゃない?」


「そう見えますか。」


「うん。」


芽衣は、瑞稀の目の前で軽く手を振る。


「ぼんやりしてるっていうか。」


「昨日のことで疲れた?」


昨日。


その言葉に、瑞稀の胸が僅かにざわついた。


黄金色の田んぼ。


奇稲田姫(くしなだひめ)


隣に立つという言葉。


そこまでは思い出せる。


けれど、その後、自分が何を感じ、何を選んだのかが、ひどく曖昧だった。


「……分かりません。」


瑞稀は、正直に答えた。


「昨日、何か大切なことを考えた気がするのです。」


「けれど、それが何だったのか……。」


言葉が、そこで途切れる。


芽衣の表情から、笑みが薄れた。


「思い出せないの?」


「はい。」


芽衣は何かを言いかけた。


けれど、問い詰める代わりに、瑞稀の頭へそっと手を置く。


「そっか。」


そのまま、ゆっくりと髪を撫でた。


「今日は、私が覚えてるから。」


瑞稀が、芽衣を見つめる。


「昨日、瑞稀はちゃんと頑張ってた。」


「奇稲田姫様のお話も聞いたし、旭君の隣にも、自分から並んでた。」


「私、見てたよ。」


瑞稀は、僅かに目を見開いた。


「私が、自ら……。」


「うん。」


芽衣は、明るく笑おうとした。


けれど、その瞳には小さな不安が残っている。


「だから、今すぐ思い出せなくても。」


「昨日の瑞稀が選んだことまで、なくなったわけじゃないよ。」


瑞稀は、自分の胸元へ手を添えた。


何かがあった。


確かに、自分の中から生まれた思いが。


けれど、そこへ触れようとすると、指先からすり抜けるように遠ざかってしまう。


「……ありがとうございます。」


それでも、芽衣の手の温かさだけは、はっきりと感じられた。



放課後。


三人は、いつもの道を並んで歩いていた。


芽衣は少し前を歩き、道端に咲く花を覗き込んでいる。


旭は、瑞稀の隣にいた。


「――瑞稀。」


「はい。」


「あの後のことを、どこまで覚えている。」


瑞稀は、少し考えてから答える。


「奇稲田姫様が、高天原へ還られたことは覚えています。」


「それから、芽衣とお話をしたことも、僅かに。」


「そうか。」


旭は、短く答えた。


少しの沈黙が落ちる。


「お前は、その後――」


旭は、言葉を選ぶように一度止まった。


「自分から、俺の隣へ来た。」


瑞稀は、僅かに目を伏せる。


「……芽衣からも、聞きました。」


「そうか。」


「ですが。」


瑞稀は、旭の横顔を見つめた。


「あなたの口から聞くと、少し違って聞こえます。」


旭は、何も答えなかった。


しばらくしてから、静かに続ける。


「何かを言おうとしていた。」


「だが、結局、何も言わなかった。」


瑞稀は記憶を探るように、そっと目を閉じた。


夕暮れ。


田んぼを渡る風。


旭の背中を追うのではなく、その隣へ立とうとした自分。


形になりかけた光景が、一瞬だけ浮かぶ。


けれど、そこにあったはずの感情は、深い霧の向こうへ隠れていた。


「……思い出せません。」


旭の瞳が、僅かに揺れる。


「そうか。」


それだけ答え、旭は前を向いた。


歩き出そうとして、けれどすぐには動かなかった。


「旭。」


「何だ。」


瑞稀は、彼の横顔を見つめる。


「私は、なぜあなたの隣へ立ったのでしょう。」


旭は、すぐには答えなかった。


答えられないのではない。


それは瑞稀自身が見つけるべきものだと、分かっているようだった。


やがて、静かに口を開く。


「分からないなら、無理に思い出さなくていい。」


「だが――」


旭は、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。


「お前が、また隣へ来たいと思った時は。」


「その時は、来ればいい。」


瑞稀は、何も答えなかった。


ただ、歩き出した旭の背中を見つめる。


数歩遅れて、その後を追った。


そして。


昨日の自分がそうしたと聞いたからではなく。


今、自分がそうしたいと思ったから。


旭の隣へ並ぶ。


胸の奥が、僅かに温かくなった。


理由は、まだ分からない。


過去の記憶へ続く糸も、切れたままだった。


それでも、今ここで結び直した細い糸だけは、瑞稀の中へ確かに残っている。


夕暮れの道に、三人分の影が長く伸びていく。


昨日までと同じように見えて、その距離は、ほんの少しだけ変わっていた。

第十八話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。

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