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第十七話 「隣に立つ者」

第十七話 「隣に立つ者」


黒く染まった稲穂が幾重にも絡まり合い、巨大な腕となって振り下ろされる。


旭は刀を構え、その一撃を真正面から受け止めた。


凄まじい衝撃に畦道が砕け、千切れた稲穂が夕闇へ舞い上がる。


青白い雷と赤い炎が、巨大な腕の表面を激しく駆け抜けた。


「くっ……!」


押し潰すような力に耐えきれず、旭の足が土へ沈んでいく。


荒魂は黄金の櫛を握ったまま、冷たく嗤った。


『また、守るのか。』


「……何が悪い。」


旭は歯を食いしばり、刀を押し返す。


『悪いとは言っていない。』


『ただ、お前は一度でも聞いたのか。』


赤黒く濁った瞳が、旭を鋭く射抜いた。


『守られる者が、それを望んでいるのかを。』


旭の瞳が、僅かに揺れる。


その隙を突くように、巨大な腕がさらに力を増した。


「旭!」


瑞稀が槍を突き出す。


穂先から放たれた光が巨大な腕を貫き、絡み合っていた稲穂が一斉に弾け飛んだ。


旭は後方へ跳び、崩れた畦道へ着地する。


「大丈夫ですか。」


「ああ。」


短く答えながら、旭は畦道の入口へ目を向けた。


薄く揺らめく境界の向こうで、芽衣は言われたとおり、その場に留まっている。


けれど、両手は強く握り締められていた。


今にもこちらへ駆け出そうとする足を、必死に止めているように見える。


荒魂もまた、その姿を見つめていた。


『ほら。』


『あの娘は、ここへ来たがっている。』


「来れば傷つく。」


旭は、即座に答える。


『だから遠ざける。』


『何もさせない。』


『それがお前の守り方か。』


「芽衣には、戦う力が――」


『ないと、誰が決めた。』


旭の言葉が止まった。


荒魂の持つ黄金の櫛が、夕闇の中で鋭く光る。


『力があるかどうかではない。』


『自ら選ぶことさえ許されぬのが、どれほど苦しいのか。』


地面から、無数の稲穂が立ち上がった。


一本、また一本と絡み合い、荒魂の周囲を取り囲む輪を作っていく。


『生贄に選ばれた時も。』


『救われた時も。』


『その後の生き方さえも。』


赤黒い瞳が、激しく揺れた。


『私の意思など、誰も必要としなかった。』


瑞稀は荒魂を見つめ、静かに問いかける。


「助けられたことが、悔しかったのですか。」


黄金の櫛が、瑞稀へ向けられた。


『……違う。』


荒魂の声が、初めて僅かに掠れる。


『あの人が来なければ、私は大蛇に喰われていた。』


『救われたことを、恨んだことなどない。』


周囲に浮かぶ稲穂の刃が、震えるように揺れた。


『けれど、それから先も。』


『危ないから、後ろにいろ。』


『何もせず、守られていろ。』


『私にも力があると伝えても。』


荒魂は、黄金の櫛を握る手へ力を込める。


『あの人は、笑って頭を撫でるだけだった。』


その声に、抑えきれない痛みが滲んだ。


『私は妻になったのではない。』


『守られるための宝物に、されただけだ。』


瑞稀の胸が、鈍く痛む。


この神が嫌だったのは、守られることではない。


対等な者として見てもらえなかったこと。


大切にされるほど、自らの意思が見えなくなっていったことだった。


その時、低く野太い声が田んぼへ響いた。


『……耳が痛いな。』


旭が、素早く刀を構え直す。


「誰だ。」


荒魂は、弾かれたように顔を上げた。


『……あなた。』


止まっていた風が、ふいに吹き抜ける。


黒く染まった稲穂の間を、青白い光が駆け抜けた。


姿は見えない。


けれど、その気配は荒々しく、それでいてどこか懐かしい温かさを帯びていた。


奇稲田(くしなだ)。』


『お前の言うとおりだ。』


奇稲田姫の表情が、強張る。


『俺は、お前を失うのが怖かった。』


『大蛇から取り戻した命を、二度と危険へ近づけたくなかった。』


『だから、守ることばかり考えた。』


声は一度言葉を切り、続ける。


『お前が何を望んでいるのかなど、聞こうともしなかった。』


奇稲田姫の周囲で、稲穂の刃がざわめいた。


『……今更。』


『ああ、今更だ。』


声は、言い訳をしなかった。


『お前に力があることも、戦えることも、知っていた。』


『知っていながら、認めなかった。』


『お前を信じるよりも、自分の目が届く場所へ置いておく方が、俺には楽だった。』


奇稲田姫の赤黒い瞳から、一筋の黒い雫が零れ落ちる。


『守りたかったなどと、綺麗な言葉で誤魔化すつもりはない。』


『俺は、お前から選ぶ権利を奪った。』


長い沈黙が落ちた。


奇稲田姫の持つ黄金の櫛が、僅かに下がる。


『……謝れば、済むと思っているの。』


『思っていない。』


『なら、何をしに来たの。』


声の主は、しばらく答えなかった。


やがて、静かに告げる。


『お前に、選ばせるためだ。』


奇稲田姫の前へ、青白い光が集まっていく。


光は一本の剣となり、宙に浮かんだ。


荒々しい神気を纏う、青白い刃。


『この地を覆う稲穂は、お前の力だ。』


『俺が鎮めることもできる。』


『だが、それでは何も変わらん。』


剣はゆっくりと降り、奇稲田姫の前で静止する。


『終わらせるか。』


『このまま、怒りの中へ留まるか。』


『俺の隣へ戻るか。』


『それとも、二度と俺のもとへ戻らぬか。』


『すべて、お前が決めろ。』


奇稲田姫は、目の前に浮かぶ剣を見つめた。


差し出された手ではない。


帰るよう求める言葉でもない。


自ら選び、自ら振るうために与えられた刃だった。


奇稲田姫は、ゆっくりと黄金の櫛を持ち上げる。


櫛の周囲へ、淡い光が集まっていく。


青白い剣から零れた光が、一筋ずつ櫛の歯へ静かに宿った。


その瞬間、黒く染まった稲穂が激しく波打つ。


まるで、主人の迷いを許さぬかのように。


無数の刃が、瑞稀たちへ向けて放たれた。


「来ます!」


瑞稀が槍を構え、旭も刀へ雷を纏わせる。


けれど――


『ここは、私に任せて。』


奇稲田姫の声が響いた。


それはもう、荒魂の濁った声ではない。


未だ黒い靄を纏いながらも、その声には澄んだ意志が宿っていた。


奇稲田姫は、一歩前へ出る。


『これは、私の力。』


『私が始めたものです。』


黄金の櫛を、両手で構えた。


『ならば、私が終わらせます。』


奇稲田姫が、櫛を横薙ぎに振るう。


青白い光が、田んぼ一面へ走った。


襲いかかっていた稲穂の刃が、空中で静止する。


次の瞬間、黒く染まった部分だけが一斉に切り離された。


黒い穂は灰となって空へ舞い、残された稲は静かに頭を垂れる。


夕闇の田んぼへ、静けさが戻った。


奇稲田姫は、手の中の櫛を見つめる。


その手は、もう震えていない。


『……私にも、できた。』


野太い声が、穏やかに答える。


『ああ。』


『最初から、できた。』


奇稲田姫は、ゆっくりと目を閉じた。


黒い靄が、身体の周囲で静かに揺れている。


けれど、それが再び怒りによって膨れ上がることはなかった。


瑞稀は槍を下ろし、奇稲田姫を見つめる。


「奇稲田姫様。」


奇稲田姫が、瑞稀へ振り返った。


「あなたは、誰かの後ろへ還るのではありません。」


瑞稀は、静かに告げる。


「守られるだけの方でもありません。」


「ご自身で選び、ご自身の力で、ここまで立っていらっしゃいます。」


奇稲田姫の瞳が揺れた。


「帰ることを選ばれるのでしたら、誰かに手を引かれてではなく――」


瑞稀は、まっすぐに彼女を見つめる。


「あなたご自身の足で、隣へお戻りください。」


風が、田んぼを渡った。


奇稲田姫の長い黒髪が、静かになびく。


『……隣へ。』


その言葉を確かめるように、ゆっくりと繰り返す。


野太い声は、何も急かさなかった。


『俺は待つ。』


『お前が選ぶまで。』


奇稲田姫は、しばらく目を閉じていた。


やがて黄金の櫛を胸元へ抱き、一度、深く息を吸う。


『私は、あなたの後ろへ戻るつもりはありません。』


『ああ。』


『守られるだけの妻にも、戻りません。』


『分かっている。』


奇稲田姫は、静かに顔を上げた。


『それでも――』


『もう一度、あなたの隣に立つことを選びます。』


その言葉とともに、身体を覆っていた黒い靄が、光の粒となって剥がれ始める。


瑞稀は槍を掲げた。


「――御霊よ。」


「畏み、畏み申し上げる。」


「御神の御許へ還り給え。」


穂先が、金色の光を放つ。


煤けていた衣は、本来の白と金を取り戻した。


乱れていた黒髪は艶やかに流れ、手にした黄金の櫛も淡く輝いている。


赤黒く濁っていた瞳にも、澄んだ光が戻っていった。


倒れていた稲穂が、一本ずつ起き上がる。


すべてが元へ戻ったわけではない。


黒く枯れた穂も残っている。


けれど、その根元には新しい緑が芽吹き始めていた。


空間が、静かに裂ける。


裂け目から伸びた黄金の道が、遠く高天原へ続いていく。


その入口に、青白い光を纏った一人の男の輪郭が浮かび上がった。


長い髪。


力強い体躯。


その手には、一振りの剣が握られている。


男は、奇稲田姫へ手を差し出さなかった。


ただその場に立ち、彼女が選ぶのを待っている。


奇稲田姫は、自らの足で歩き出した。


一歩、また一歩と進み、やがて男の隣へ並ぶ。


二柱の肩が、僅かに触れた。


『……次は。』


奇稲田姫が、前を向いたまま告げる。


『私が戦うと言った時には、止めないでください。』


男は、僅かに笑った。


『止めん。』


『だが、共に戦う。』


奇稲田姫も、小さく笑う。


『それなら、構いません。』


二柱は並んで、光の道へ歩き始めた。


その姿が消える直前、奇稲田姫が瑞稀へ振り返る。


『ありがとう、巫女よ。』


『あなたも、自ら選んだ場所へ立てますように。』


奇稲田姫は、綺麗に結い上げられた黒髪へ手を伸ばした。


髪を留める黄金の櫛へ指先が触れると、そこに淡い光が灯る。


その光は一筋の輝きとなり、瑞稀の槍へ静かに宿った。


『あなたが選んだ道を、他の誰にも奪われぬように。』


瑞稀は、その言葉を受け、深く頭を下げる。


二柱の姿が、光の向こうへ溶けていった。


裂け目が閉じると同時に、夏の夜風が田んぼを吹き抜ける。


その風に押し流されるように、周囲を隔てていた膜の気配が消えていく。


遠く霞んでいた虫の声が、急に近くなった。


稲と湿った土の匂いも、鮮やかに戻ってくる。


歪んでいた景色が、現世へ重なった。


畦道の入口に立つ芽衣の姿も、もう揺らいではいなかった。



「瑞稀!」


芽衣が、畦道を駆けてくる。


「大丈夫!?」


「はい。」


瑞稀が答えるより早く、芽衣は旭を睨んだ。


「旭君。」


「……何だ。」


「さっき、私に離れてろって言ったでしょ。」


旭は、何も答えない。


芽衣は、少しだけ視線を落とした。


「危ないのは分かってる。」


「私にできることが少ないのも。」


それでも、再び顔を上げる。


「でも、何も言わずに置いていかれるのは嫌。」


旭は、しばらく芽衣を見つめていた。


やがて刀を鞘へ納めながら、小さく息を吐く。


「……悪かった。」


芽衣が、目を丸くした。


「え。」


「次は、勝手に決めない。」


旭は、少し言いにくそうに続ける。


「だが、危険な時は止める。」


「その時は、きちんと理由を話す。」


芽衣は何度か瞬きをし、それから少しだけ笑った。


「うん。それならいい。」


「あとは、私の話も聞いてね。」


「ああ。」


三人の間を、夜風が吹き抜ける。


瑞稀は、二人のやり取りを静かに見つめていた。


――自ら選んだ場所へ立つ。


奇稲田姫の言葉が、胸の奥に残っている。


「隣に立つ、ですか。」


瑞稀は、小さく呟いた。


「何か言ったか。」


旭が振り返る。


瑞稀は、その顔を静かに見つめる。


いつも、自分の前へ立つ人。


幼い頃から、何も言わずに守り続けてくれた人。


それを、嫌だと思ったことはない。


けれど――


「……旭。」


「何だ。」


瑞稀は何かを言おうとして、口を閉じた。


まだ、言葉にはできない。


「いえ。」


静かに首を横へ振ると、旭は訝しげに見つめたが、それ以上は尋ねなかった。


三人は、再び並んで歩き始める。


瑞稀は、旭の背中を追うのではなく、その隣へ並んだ。


ほんの僅かな違いだった。


それでも、その夜。


瑞稀は初めて、自らその場所を選んだ。

第十七話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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