第十六話 「守られる者」
第十六話 「守られる者」
「……嫌な気配がします。」
瑞稀の声が落ちてしばらくして、田んぼの奥で、稲穂が再び大きく揺れた。
今度は一角だけではない。
波紋が広がるように、黄金色の波が田んぼ一面へ伝わっていく。
旭は、すぐに刀の柄へ手をかけた。
先ほどまで吹いていた風は、いつの間にか止まっている。
それにもかかわらず、稲穂は夕暮れの奥へ行くほど激しく波打っていた。
「芽衣、離れていろ。」
「え、でも――」
「頼む。」
短い一言だった。
芽衣は何かを言い返そうとしたが、旭の表情を見て口を閉じる。
「……分かった。」
一歩後ろへ下がり、それでも二人をまっすぐに見つめた。
「すぐ近くにいるから。」
その言葉を確かめるように、旭は一度だけ振り返った。
それから田んぼの畦道へ足を踏み入れ、瑞稀も静かにその後へ続いた。
境界を越えた瞬間、視界が大きく歪む。
水面に映った景色を掻き乱したように、辺りの田園風景がぐにゃりと揺れ、次の瞬間には元の形へ戻った。
けれど、何かが違う。
物音が遠い。
虫の声も、土や草の匂いも、薄い膜の向こうへ隔てられたようだった。
旭が背後を振り返る。
畦道の入口には、芽衣が立っている。
その姿は見える。
けれど、彼女が二人を呼ぶ声は、遠い水の底から響くように掠れていた。
「……ここだけ、現世から切り離されている。」
「完全に閉ざされてはいません。」
瑞稀は、自分たちと芽衣の間で揺らめく景色を見つめた。
「境界は、まだ薄いようです。」
◇
稲穂の波は、奥へ進むほど激しくなっていった。
風はない。
それでも穂は、地の底で巨大な何かが身を捩っているように、ざわざわと揺れている。
黄金色だった穂先が、一つ、また一つと黒く染まっていく。
「……枯れています。」
瑞稀は、足元へ目を落とした。
実りかけていた稲が、触れてもいないのに萎れ、黒い灰となって崩れていく。
倒れた稲は、畦道の奥へ続いていた。
まるで、二人をどこかへ導いているように。
その先では、田んぼの一角だけが、ぽっかりと円形に開けていた。
そこに、一人の女が立っている。
長い黒髪。
白と金の衣には、稲穂の意匠が施されていた。
かつては美しかったのだろう。
けれど今は、あちこちが黒く煤け、無残に裂けている。
赤黒く濁った瞳が、瑞稀たちを見据えていた。
その手に握られているのは、大きな黄金の櫛。
丸く弧を描く飾りの下に、鋭く尖った歯が並んでいる。
櫛というよりも、刃に近かった。
『……また、来たか。』
低く、鋭い声だった。
これまでに出会った荒魂とは違う。
悲しみを押し殺しているのでも、迷っているのでもない。
その身を満たしているのは、剥き出しの怒りだった。
「……あなたは。」
瑞稀が問いかける。
荒魂は、唇の端を歪めた。
『名乗る義理はない。』
『お前たちも、どうせ同じだろう。』
周囲の稲穂が、一斉に動きを止める。
『誰かを守るためなら。』
『一人くらい、犠牲になればよい。』
『そう、当然のように決める。』
瑞稀の指先が、僅かに強張った。
次の瞬間、静止していた稲穂が一斉に穂先を持ち上げる。
鋭く尖った先端が、無数の刃となって二人へ向けられた。
「――来るぞ!」
旭が瑞稀の前へ出る。
稲の穂先が、鋭い針のように殺到した。
甲高い金属音が、畦道へ響き渡る。
旭は刀を振るい、迫る穂先を薙ぎ払った。
一本を斬れば、その後ろから二本。
二本を焼けば、その根元から四本。
黒い稲穂は数を増しながら、二人を包囲していく。
「……厄介だな。」
旭は刀を構え直した。
「稲まで武器にするか。」
荒魂は、乾いた声で嗤う。
『褒められても、嬉しくはない。』
黄金の櫛を、ゆっくりと持ち上げた。
『私はただ――』
赤黒い瞳が、鋭く細められる。
『もう二度と、守られるだけの者には戻らない。』
「守られるだけ……。」
瑞稀がその言葉を繰り返した時、荒魂の視線が二人の背後へ向けられた。
畦道の入口には、約束どおり近くで待つ芽衣の姿がある。
荒魂の瞳が、さらに細められた。
『……お前もか。』
その声は、旭へ向けられていた。
「何だ。」
『危ないから、後ろにいろ。』
旭の眉が、僅かに動く。
『戦う力がないから。』
『傷ついてほしくないから。』
『守るのは自分の役目だから。』
荒魂の足元から、黒い蔦のような根が伸び始める。
『そう言って。』
『本人の言葉など、一度も聞こうとしない。』
「……違う。」
旭は、低く答えた。
「芽衣は戦えない。」
『だから、何も選ばせないのか。』
荒魂の声とともに、田んぼ全体が大きく揺れた。
黒い稲穂が、芽衣のいる方角へ向きを変える。
「芽衣!」
旭が駆け出そうとする。
けれど、荒魂がその前へ立ちはだかった。
黄金の櫛が、勢いよく振り下ろされる。
「――ッ!」
旭は刀で受け止めた。
激しい衝撃に、足元の土が大きく抉れる。
『守るためなら、遠ざけてもよい。』
櫛の歯が、刀身を軋ませた。
『何も知らぬまま、待たせてもよい。』
『本人が、何を望んでいるのかなど。』
荒魂の赤黒い瞳が、旭を射抜く。
『聞く必要もないと。』
「黙れ!」
旭は櫛を押し返した。
刀に青白い雷が走り、荒魂の身体を後方へ弾く。
けれど荒魂はすぐに体勢を立て直した。
その顔に浮かんでいるのは、嘲りではない。
怒り。
そして、その奥へ刻まれた深い傷。
瑞稀は、槍を握ったまま動けずにいた。
――守られるだけの者には戻らない。
自分もまた、父や旭に守られてきた。
何も知らされず。
選ぶ機会すら与えられず。
ただ、言われたことへ従ってきた。
けれど、自分は本当に守られていただけだったのだろうか。
それとも――
「……あなたは。」
瑞稀が、静かに口を開いた。
荒魂が振り返る。
「守られることが、嫌だったのですか。」
『知ったような口を。』
黄金の櫛が、瑞稀へ向けられた。
『お前に、何が分かる。』
『選ぶことも許されず。』
『逃げることも許されず。』
『ただ、差し出される時を待つしかなかった者のことが。』
周囲の稲穂が、鋭く逆立つ。
『そして、救われたあとは――』
一瞬、荒魂の表情に迷いのようなものが過ぎった。
けれど、すぐに怒りがそれを覆い隠す。
『……もうよい。』
地面が、大きく隆起した。
黒く染まった稲穂が幾重にも絡まり合い、巨大な腕の形を作り上げる。
「瑞稀、下がってろ!」
旭が、再び瑞稀の前へ立った。
その言葉を聞いた瞬間、荒魂の周囲から凄まじい神気が噴き上がる。
『――また、それか!』
黄金の櫛が振り抜かれた。
旭の刀と激突し、赤と青の火花が夕闇へ飛び散る。
『危ないから、後ろにいろ。』
『何もするな。』
『ただ、守られていろ。』
荒魂の声が、田んぼ全体へ響き渡った。
『私にも、力はあった!』
そして、その声が初めて僅かに震える。
『それでも、誰も――』
『私がどうしたいのかなど、聞かなかった。』
瑞稀は、槍を握る指へ力を込めた。
この神は、守られることそのものに怒っているのではない。
その奥にあるのは、自らの道を他者に決められた痛みだった。
黄金の櫛が、再び旭へ振り下ろされる。
「――くっ!」
旭は刀で受け止めたが、凄まじい力に押され、その足が土へ深く沈み込んでいく。
荒魂の背後では、黒い稲穂が夕闇の中で不穏に波打っていた。
瑞稀は、荒魂の赤黒い瞳を見つめる。
まだ、言葉は届かない。
それでもようやく、その怒りの向こう側が見え始めていた。
第十六話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけると、今後の執筆の励みになります。




